生きものの「死」の現在

 先日、猫が一匹、亡くなりました。新千歳空港の駐車場で推定生後2ヶ月くらいで拾って以来18年、概ね老化と老衰の結果で、まずは大往生と言っていい逝き方でした。先に昨年9月、これは名寄の保健所でわけありの飼育放棄で保護されていたのを縁あって引き取ってきた推定11歳の黒猫を、共に暮らして2年半で見送っていましたから、これでもう身のまわりに生きて動いているものはとりあえずいなくなったことになります。

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 日々の散歩が日課にならざるを得ない犬と違い、猫の場合は外との出入り自由にしているならまだしも、アパートやマンションの部屋飼いの場合はそれを介しての知り合いや顔見知りが増えることはまずないですし、だから亡くなったことをわざわざ話すこともないのですが、それでもどこかでふと口にしたその死に対して、まわりの人たちが実に丁重に、心を込めたお悔やみを言ってくれることにはちょっと驚いたりしたものです。まるで人間の身内が亡くなったように、いや、むしろ印象としてはそれ以上にこちらの心中を気遣ってくれるその態度に、もしかしたらわれら日本人にとっての「死」とは、いまや人間を介してよりもむしろこれら犬や猫、ペットなどの生きものを介して初めて、最も「同情」のもの言いに等しい何ものか、を実感しているのかもなあ、とさえ感じたものです。

 思えば、猫に限らず犬はもちろんその他各種ペット一般、それら家の中で生きて動く生きものと共に育つ子どもらもあたりまえになっている。なにせ少子化の進んでいるご時世のこと、かつての兄弟姉妹に代わってそれらペットと最も身近な関係を保ちながら大きくなって、できればそれら生きものに携われる仕事をしたい、と獣医やトリマー、動物園の飼育係などを志望する若い世代も増えていると聞きます。子どもたちだけでもない。年寄り高齢者の側もまた、それら犬猫ペットの類と共に生きるようになってきている。介護系も含めた高齢者施設などでも、それら犬や猫、生きものの類を定期的にさわってもらえるような機会を作ったり、身近に共にいられるような環境を整えたりすることで、メンタル面での安定に大きく寄与するようになっているといった話も耳にします。事実、ホースセラピーのように、具体的な医療や治療の局面でそれら生きものが積極的な役割を果たせるような試みも国内で近年、研究が進んで実際の事業も積極的に推し進められるようになっている。生きものと共に生きる世間は確実に拡がりつつあるらしい。

 「死」についても同様で、今回やや立て続けに二匹を見送ったことで、ペット斎場の類の昨今の充実ぶりにも改めて眼をみはりました。人間の「死」の「処理」の作法がどんどん簡素化簡略化され伝統的な儀式儀礼が省かれた「家族葬」的なものへと移行しつつあり、それに伴う「葬式」ビジネスも大きく変貌しつつある昨今、人間ではない、でも共に生きてきたそれら生きものの「死」を悼む作法はある意味人間以上に充実し始めていて、ビジネスとしても確実に拡がりつつあるらしい。たとえば、いわゆる宗教の影はそこにはほぼ薄いか、あっても希望によって読経等が加えられる程度の「オプション」でしかない。昨今の「家族葬」的なものに求められている「死」を「処理」する形が、そのかなり本質的な部分だけ抜き出されて商品として提供されている印象です。墓所も用意はされていますが、聞くと遺骨は、それを使った小さなモニュメントやアクセサリー的なものにすることも含めて、持ち帰って身近に置いておく人が多い由。このあたりも含めて、今後はむしろ人間の「死」の側がそれら生きものの「死」にまつわる作法に影響され、包摂されてゆくような気配すら感じられるものではありました。機会があればこのへん、また改めて。

ランドセルと北海道

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関連のご当地『北海道新聞』新聞記事

NA)ところで、ランドセルって何年生まで使いましたか?


道民への街録ON
★6年生まで使っていない
★何年生で何に変えた?なぜ?変える事への抵抗なかった?
「周りが変えていたから」「ランドセル格好悪いから」「変えるのが当たり前」


NA)道内出身者100人にアンケートを取ってみると、
   およそ?割の人が6年生まで使っていないという結果に。


NA)そこで今度は道外出身者にも同じ質問をしてみると・・・。


道外出身者への街録ON
★6年生まで使っていた
★変えようとは思わなかった?なぜ?周りで変えていた人は?
「6年間使うのが当たり前」「変える必要がない」「学校で決められていた」


NA)ランドセルメーカーが行った調査によると、
   全国の76%の人が、6年間使っていたという結果に。


NA)なぜ北海道ではランドセルを6年間使わない小学生が多いのか?
調査しました。

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 おもしろい事例ですね。どこかで決まった/決められたことでなく、何となくそうなっていった、というあたりがとてもおもしろい。北海道っぽいなぁ、と。

 そりゃ個々の地域でそうなっていった事情はいろいろあるとは思いますし、理由の説明の仕方もあるでしょうが、ただ、やっぱりその下地の部分、ベースには道民気質というか道産子かたぎみたいなところもあるんじゃないですかね。

 ランドセルは別に法律や規則で使わなきゃいけないものでもないですよね。どこからも使えとも使うなとも言われていない。何となくそういうことになっている、という言わば生活の中の慣習、習い性なわけで。だから自分たちで不便と思ったりしたら「変えていい」という感覚。「上」からの規則や命令などには従うけれども、でも〈それ以外〉の日常生活の部分は関係ないよね、という公私の住み分けというか、日々の暮らしと「上の方」とがきれいに別のものになっている。

 これ、内地だったらいくら慣習的なものでも、「やめよう」となったらいろいろしがらみとか利害関係とか出てきてなかなかそうならないと思うんですよ。こういうのは業者さんの利害とか学校側の思惑とかはっきりした規則などで決まっている部分以外のあれこれが絶対出てくる、まあ、世の中ってそういうものなんでしょうが、ただどうも北海道の場合は、あ、それ確かに不便だわ、だったらこうしたらいっしょ、で割とすんなりみんな納得してしまえる度合いが大きいように感じています。同じ「決まりごと」にもふた通りあるというか、「上から」決められた枠組みとしての「決まりごと」と、自分たちの日々の暮らしの中の「決めごと」の違い。現実ってのはその後者の部分、自分たちの「決めごと」が基本なんだという感覚ですね、そうとははっきり言わないし自覚もしてないけど、でもそういうもんだよね、とみんな何となく思ってる。

 「なんもだよ」って、よく言うじゃないですか。あの「なんもだよ」って実は翻訳できないですよね、外国語にも、同じ日本語の中でさえもかっちり定義があるわけでもない実に何でもありな使われ方してますよね、文脈に応じて意味がものすごく変わってくる。でも、「なんもだよ」で日常はすませてゆけるし、すませるからこそ回ってゆくみたいな。それまでやっていたことでも不具合出てきたり不便だったりしたら変えてゆく、あれこれリクツや意見の違いなんかあっても「なんもだよ」でくくって実用性や実利に即したところに適応してゆく。

 良く言えば「おおらか」悪く言えば「いい加減」なんでしょうが、それくらい「生きている」こと「日々のこの現実」第一になっている、そうせざるを得ないくらい環境的にものが大変だったということと共に、内地の「日本」と違って生きているだけで否応なくしがらんでくる歴史とか伝統とかしきたりみたいなものの縛りが薄かった、そんなものいちいち気にしていられなかった、というのもきっとあるんでしょう。

 地元と学校のつながり具合があたりまえに強い。運動会でも朝から場所取りして、家族から親戚みんなして弁当作って持って来て一日中楽しむじゃないですか。学校以前に、神社やお寺だってそうで、そもそも神社やお寺のあり方が内地の「日本」とは違ってます。内地だとそれぞれそこの神社にどんな神様がいて、それは地元や地域とどう関わってきた歴史や来歴があって、てのが絶対あるし意識もされてる、お寺もお寺で宗旨や派閥なんかでしがらみが強いのが当たり前、でも北海道じゃ神社もお寺も割と同じハコに入れられてる感じで、どんな神様がいるのか宗旨が何かとかあまり気にしない。でも、何かある時に地元のみんなの集まる場所という実用性の部分だけはしっかり共有されてて、お祭りでも何でもそこでやることにはなっている。そのくせ、そこにどんな神様が祭られてるのか、とかは年寄りでもよく知らないし気にしてない。実は「歴史」や「伝統」に基本的に興味ないんだろうと思ってます、北海道の人って。生きてく上でそんなの関係ない、〈いま・ここ〉にいて一緒に生きてかなきゃしゃあないんだから、でそのことが何より優先されてきた。だから神社もお寺も同じような意味でしかなく、学校もそれと同じような感じです。そういうゆるい「地元」意識の強さ、ヘンな言い方ですがそれは北海道っぽいのかなあ、と思っています。

 ファイターズだってあれ、勝っても負けてもみんなニコニコしてるじゃないですか。中田なんであそこで一発打たないんだ、だから負けちまっただろう、給料返せボケェ、みたいなのはほんとに薄い。ドームから帰るお客さんたちの顔見てても、今日ファイターズ勝ったのか負けたのかわからないですよ。これ、たとえば甲子園だったら帰りの阪神電車乗ったら一発で、あ、今日タイガース負けたな、ってわかりますよ。そういうのがない。いやぁ、負けちゃったね、でもまあ、明日もあるし中田見れたからいっしょ、で穏やかに帰る。あきらめがいいというか、まさに「なんもだよ」で、こだわりとかそういうのが薄く見えます。悪く言えば「反省」がない。失敗したこと悪かったことを振り返って、よし、次は失敗しないようにしてやろう、的な方向にあまり持続して考えない、「なんもさ」でスルーして、優勝しても日本一になっても「あん時いかったね、いやあ、ほんといかったんだわ」でひとくくりにする。

 北海道的デモクラシーというかナショナリズムというか、別にそんな大層な言い方しない方がいいんですが、とにかく自分たちの日々の暮らし優先、実用本位でつながっている「地元」意識ってのがそれこそゆるく広くあるんだろうと思ってます。それっていわゆる「地域」「地元」意識、おらの村が地元が一番で隣村とはやってけねえ、的な偏屈な自分中心のこだわり方とも少し違う。だって、自分たちの地域以外の地元だってあまりお互いに興味関心ないですもん。道内の他の地域のこと互いによく知らない。でも、「北海道」ってくくりについては「日本一いいところだ」とみんな何となく思ってる。なんかそういうフシギなナショナリズム、地元意識みたいなのがあるみたいですね。

*1:ご当地地元某テレビ局のコメント取材用草稿。北海道ではランドセルを小学校6年間通じて使わないのはなぜか、というお題で。夕方の帯番組のニュースワイドショウ的な番組内でのコーナーもの、というよくある企画。1週間くらいしか取材期間がなかったそうだけれども、でも担当PDはひとりでよくしらべものしてあった。

*2:聞けば、制作会社からの派遣スタッフの由。40代始めでこの業界入って10年ちょっとだそうだが、企画ネタ出しから取材、撮影、編集その他全部ひとりでやらされている、と。予算その他のリソース不足と若い衆はすぐに辞めてゆくのでシワ寄せが自分あたりのところに集中してます、と疲れた苦笑いをしながら話してくれた。

*3:事前に送ってくれた番組構成案のハコ書き冒頭部分抜粋。もちろん取材中なのだから草稿なのだろうが、こちらに連絡してきて取材交渉の段階でこういう台本を示して企画全体の意図や取材過程含めて示して説明してくれる、というあたりからも、このPD氏がいまどきオワコンありありなテレビ業界、それもご当地のような地方民放の末端の現場で淡々とまともな仕事をしている御仁なことがわかった。

*4:で、もちろん以下もコメントの手控え程度の草稿。この通りしゃべったわけでもないし、何より実際の放映では「つまんで」≒編集して使われるのだろうからせいぜい数十秒、そんなことはこちらも承知しているけれども、でも昨今良く言われるそういうテレビ作法の「編集」にしても、取材担当のPDなどとよくすりあわせをする/できる関係で、こうこうこういう文脈でこっちはこういうことしゃべるけどいいかな? 的なことを伝えておけば、まともなPDならその「つまんだ」個所のつまみ方、抽出編集の仕方もそのこちらの発言の意図の文脈に沿ってやってくれるもの、ではあるんだとまだ信じているところはある。まあ、それすらしない/できない「速度」で日々まわっているトーキョーエリジウムなメディアの現状の荒廃ってのもまた全面化してはいるんだろうけれども。

からあげクン、と、天皇

 元号が変わりました。Webを介した世間では、「退位」か「譲位」かで物議を醸したり、はたまた「上皇」をどう呼べばいいのか、「陛下」になるのかそれとも「上皇さま」でいいのか、などなどあれこれ些末な悶着が例によってメディアの舞台を反響板としながら流れてゆきましたが、現実の世間は概ね「ちょっと変わった大晦日ないしは年越し」といった感じでそれはそれ、「時代が変わる」という気分をそれほど難しく考えることもなく味わっていたような感じでした。

 前回の改元は言うまでもなく30年以上前、昭和天皇の「ご不例」から「自粛」ムードがしばらく続いた後の「崩御」でそれがさらに加速、大喪の礼という国ぐるみの大きな葬式に続いて経済活動にまで影響があるくらいの沈滞した雰囲気の中での「平成」改元だったわけで、今回のようにまずはご存命のままの言わば「引退」という事態は、賢しらぶって新聞その他で202年ぶりなどと教えられずとも、あの時みたいな改元よりははるかに気が楽、何となくめでたいくらいの空気で迎えられたということだったのでしょう。

 そんな中、ちょっと印象に残った挿話というか、世相世情の断片のようなものが例によってweb上をよぎってゆきました。

コンビニ前で男子高校生たちが

天皇さまさ、5月からマジでゆっくりしてほしい」
「俺のじいちゃんは毎日クレープ買いに行ってるから、そんな感じで好きなモン食ってほしい」
天皇さま、何食べんのかな」
からあげクンとか食うのかな」
からあげクンおいしいから食べてほしいよな」

と雑談している。


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 真偽不問、いずれこういうweb介した世相世情の断片描写の挿話では、「マクドナルド」の「女子高校生」というのがすでにある意味定番、その話にリアリティを付与する大事なディテールになっているのですが、ここは意表をついた 「コンビニ前」の「男子高校生たち」がいい味を出しています。そこに「からあげクン」というコンビニのレジまわりのあのケースに入れられたスーパーの惣菜の唐揚げなどよりさらに安っぽい廃鶏のなれの果て、実質夜店の屋台露店の食べ物と選ぶところのないような、それでも「肉+揚げ物」という食い気旺盛絶好調な十代若い衆なら問答無用で「おいしい」と感じる商品があしらわれて、そのどうしようもない日常感、日本全国どの地域どの街角ででもいまどきの普遍として見られるようなありふれた光景の〈リアル〉に、ああ、「天皇さま」が自然に違和感なく降臨している。しかも、「俺のじいちゃん」と地続きにして、その体感実感をテコにできるだけ身近な存在として、手もとに健気に引き寄せようとしながら。

 申し訳ない、うるっときました。

 かつて、日々の「農」の営み、稲作りを中心として成りたってきている作業の繰り返しと同じ雛型を宮中でもお祀りとして執り行っている、その日常感との連続の先に「天皇」や「皇室」があるのだ、といった柳田國男以来の民俗学的な「日本」の説明の文法話法が、誰が教えたわけでもないはずなのに、21世紀の〈いま・ここ〉にも何となく転生している、できているらしい。

 「伝統」とか「民俗」とか、そういう漢字二文字の術語概念で説明してしまうことなどどうでもよくなってしまうほどに、こういう不意にうっかり出会い頭に出喰わしてしまう世相世情の断片描写の挿話というのは、概ねどこかこのような「民話」的な文法話法に下支えされているもののようです。そして、その程度には敗戦後の現行憲法下の「天皇」「皇室」もまた、やはり〈いま・ここ〉の日本の世間にそれなりに息づく存在になっているらしいことを確認できた、令和元年劈頭のできことではありました。

「ムラ」と民俗誌的記述の関係について・ノート

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――この国の民俗学とは社会が未だ「豊かさ」が実現できない段階での学問なのであり、その意味では貧困の文化、手弁当の窮屈の中での学問だった。と同時に、「豊かさ」から疎外された恵まれない条件の下で何か知的な営みに眼を開いてしまった人間にとって、その逆境を裏返しに有無を言わせぬ強みに転化してゆくことのできる魔法として使い得るものだった。その意味で、高度経済成長以降の「豊かさ」は、民俗学の古典的な対象である「民俗」を喪失させていったという以上に、何よりまず民俗学を志すような主体が出現し得る母胎から崩してゆくようなものであったと言える。


民俗学にとっての「ムラ」とは

 日本の民俗学にとって永らく「ムラ」とは所与のものでした。少なくともそういう時期が長く続いてきました。民俗学とは「ムラ」を考えるべき学問であり、そのような自己規定を本質的に疑うことなく推移してきました。それが高度経済成長以降の「豊かさ」がもたらした広汎かつ深刻な社会変動に、民俗学が対応できず事実上枯死した大きな原因になっています。 直接の対象としてであれ、課題を発見する「場」としてであれ、「ムラ」は民俗学と切り離せない形象として寄り添い続けてきました。
 農山漁村に代表される地域のコミュニティ、一次産業に依拠した相対的に「古い」近代以前の生活文化が「残存」している土地の代表として「ムラ」は想定されてきました。これは柳田國男自身が農政学者として、そして農政官僚としてのキャリアを開始する中で必然的に導き出されたものでもありました。それまで近代的な知性とその視線によって「学問」として捕捉されることの乏しかったそれら「ムラ」に対して、官僚としての職務意識が前提にあったとは言え、新たにことばにし認識し、意味づけてゆかねばならない眼前の事実として「発見」されていったわけです。
 この「ムラ」が、単に地理的・空間的な地域という意味だけでなく、ある文化の機能的連関を伴う総体だったり、ひいてはさらに抽象化された概念にまで転化されて、時には「回復されるべきむかし」であったり「早急に記録して保存しておかねばならない文化財」であったりさえするような認識の中に放り込まれることも、ある時期以降は出てきました。 特に、カタカナやひらがなで表記される「ムラ」や「むら」は、自然村的な意味から発するそれに比べて、良くも悪くも抽象度が高く設定された、そのような観念的なものとして意図づけられた場合が多くなってきます。自分自身、1970年代後半ぐらいから、例によって柳田國男経由で民俗学に関心を持ち、大学から大学院にかけて、特に大学院では一応正規と言ってもいいカリキュラムによって民俗学の手ほどきを受けてきた経験から、そのような意味での「ムラ」がどれくらい所与のもので、民俗学の前提として当たり前に存在するものとして教えられてきたことを実感します。


戦後の変貌の中の「ムラ」と民俗学

 民俗学が「民俗学」という表記と共に、いわゆる「学問」的な自意識を宿すようになっていったのは戦後のことです。その組織的な中心にいた柳田國男自身が「民俗学」という表記を自ら意識的に、積極的に使うようになったこと、そしてその表記が「戦後」の言語空間においてそれまでと違う意味や内実を、組織としての民俗学やそこに宿る自意識に付与してゆくようになったということは指摘しておいていいでしょう。それまでは「民間伝承の会」であり、「学問」という枠組みからは良くも悪くも慎重に身を遠ざけていた民俗学が、自ら「民俗学」を標榜するようになったこと。これはその後の日本の民俗学のありようを規定する、ささやかながら重要な一歩でした。
 しかし、同時にまた、戦前の昭和初期に胚胎した「民間伝承の会」の組織としての初志にあり得た「ムラ」への視線は、そのような「学問」という自意識が前景化してゆくことによって変貌を余儀なくされてゆきました。
 戦後、現実としての「ムラ」は変貌してゆきます。言うまでもなく農地解放、戦後の民主憲法下での民法改正などからの一連の「民主化」の過程で。それら変貌してゆく現実の村落、農山漁村に代表される日本の地元、地域社会に対峙して、当時の民俗学はそれら変貌してゆく中で「消えてゆく」「民俗」にそれまでよりも切迫した面持ちでさらに優先的に焦点を当ててゆくようになります。これらが消え去ってしまう前に早く記録しておかねばならない、という焦燥感は使命感と共に、戦後の立ち上がりの民俗学にとって疑うべくもないものになってゆきました。それにはまた、これは「民主化」のために必要な作業なのだ、という同時代的な後押しも加わっていました。
 「失われゆく民俗」という認識はそのような意味で戦後の、「学問」としての自意識を前景化し始めた民俗学にあらかじめ初期設定されているものでした。農山漁村に依拠した近代以前から「伝承」されてきているとおぼしき文化要素にだけ合理的に焦点を合わせてゆく習い性は、そのような中、民俗学自身が意識する以上にずっと効率的に、半ば自動的に研ぎ澄まされていったようです。同じ頃、「文化財」というもの言いによって眼前の事象をあらかじめ囲い込んで固定してゆく動きもまた、そのような民俗学とその周辺の移ろいとの相関関係で既定のものになってゆきました。
 具体的な眼前の農山漁村=「ムラ」の変貌は戦後、改めて言うまでもない。大きく言えば明治このかた、かつて「地方」と言われてきた頃からそのような有為転変はずっと続いてきたわけで、何より当の柳田國男自身もそのような現実と対峙する中から農政官僚経由で民俗学を志すようになっていった。けれども、敗戦をはさんで新たに広がった「戦後」という現実の前に、その変わり続けるムラの意味はそれまでとひとつ異なる位相を示すようになりました。
 「民主化」してゆくムラ、「戦後」の枠組みの内側でそれまでと違う力学によって変えられてゆく農山漁村、一次産業の現場も含めたまるごとの「地域」のありようというのは、単に「変わってゆく」というフラットな認識にとどまらず、そのような変貌をもたらす力学との関係の中で対抗的に「取り残されてゆく」もの、変わらない/変われないまま当の「地域」に生きる人々の意識からも忘れられてゆくらしいもの、として意味づけられるようになってゆきました。
 「民俗」というもの言いが特権的な装いをまとい始めるのも、この頃からです。民俗学、という看板を自覚的に掲げるようになったことで、その「民俗」自体もまたそれまでと違う脈絡で濃厚な意味を求められるようになってゆく。folkloreの訳語である、といった辞書的な説明はそれまでもあったにせよ、実際にそれが使われる文脈においては、そのような変貌の現在から「取り残されてゆく」もの、変わらない/変われないもの、という意味が下敷きにされた理解が、「民俗」にもまた拭いがたくまつわるようになってゆきました。
 「現在」はこのように民俗学の視線から、あらかじめ排除されるようになってゆきます。少なくとも、ことばの最も可能性の大きな意味での「現在」=〈いま・ここ〉としては。さらに、ジャーナリズムの発達、変貌もまた、そのような「現在」との関係を変えてゆく大きな要素のひとつでした。当時の言葉で言えば「風俗」的な表層を闊達にとらえてゆこうという意志は、民俗学の側からは必然的に希薄になってゆきます。
 たとえば、戦後の「ムラ」を変貌の中にとらえて記述しようとした当時の同時代のジャーナリズム界隈から出てきた新たな仕事について、民俗学の内側から言及されたり参考にすべき対象としてとらえようとした形跡はありません。 戦後の言語空間において「学問」「科学」という新たな椅子にふさわしい自分を夢見ながら、「民俗」をそれら眼前の現実からはっきり切り取って認識し、さらにそれを「文化」という上位の抽象的な概念に包摂して処理しようとしてゆくことで、最も激しく動揺していたはずの「現在」のムラをあらかじめ自身の間尺にあった額縁の中に切り取ってしまうことを民俗学は結果的にやってきたようです。


「民俗誌」という内実の戦後的変貌

 「民俗誌」という言葉もまた、そのような過程で少しずつ特権的な意味をまつわらせてゆきます。
 Ethnographyの訳語としての「民族誌」は、それまでも「殊俗誌」などとも訳され、日本語の語彙にはなっていましたが、一般的に使われる言葉にはなっていませんでした。 同様に「民俗誌」もまた、民俗学の脈絡で特に必要があって内発的に出てきた用語とは言い難いところがあります。それ以前の「地誌」や「郷土誌」などと連続しながら、しかし質的には少し異なるところに、戦後「民俗誌」は民俗学の領分で独特な意味あいを持たされてゆきました。アメリカ的な実証主義の学風が社会学などを窓口に一気に流入してきたことも作用していたでしょう。いわゆる文献史料偏重とされていた歴史学との対抗関係において人文地理学との連携がそれまで想定されていたのに対し、実証的な社会学、特に農村社会学といった領域が戦後、新たに民俗学の自意識に重要な「隣接諸科学」として意識されてゆきました。
 地域に、ムラに一定期間関与し、できれば実際に住み込み、そこに住む人たちの目線や気持ちに即した上でその地域の、ムラの生活を記述する。科学的・統計的なデータに基づいてというよりも、「民俗」という単位に分解された素材を介した現実の断片の集積として、そしてその後にはそれらを前提とした散文的な叙述記述の水準としても、また。「民俗誌」というもの言いにまつわる戦後の民俗学の文脈での意味づけられ方は概ねそのようなものでした。
 同時にまた、読み手の側の意識の変貌もありました。「民俗誌」として提示されたテキストに対して、「民俗」という資料を拾うために読むという態度から、それら記述の全体を読み、その地域なりムラのありようをいきいきと現前化させてくれるかどうか、といった基準がそれまでよりずっと意識的なものとして読み方の裡に介在してきます。この変貌には、読み手の側がそのような散文的な眼前の現実に対する「読み」を〈リアル〉なものとして日常から具備してゆくような環境の伸張が、その背景にあったはずです。 先に少し触れた戦後のジャーナリズム界隈からの仕事、もっと言えば当時一気に開化した「暴露」系ジャーナリズムの百花斉放なども含めて、戦後の情報環境の変貌がそれら読み手の側の「読み」の水準もまた変えていっただろうことは、考慮に入れていいことでしょう。
 このように民俗誌が、資料として素材としての「民俗」を含んだデータベースとしての意味から、良くも悪くも散文の水準に開いてゆかざるを得ない流れが顕在化してゆきます。高度成長期に注目が集められるようになった宮本常一の仕事の読まれ方などもまた、そのような読み手の側の「読み」の水準の変貌に対応して現前化していった面があります。
 そのような「読み」はまた、対象となっている地域やムラの暮らしの手触りや感覚と同時に、それらを読み手の「読み」の裡に現前化させた書き手という存在に対してもまた、否応なく意識させることになります。地域やムラに滞在し、そこに住む人たちと共に暮らし、時間をかけて体験し見聞した書き手のありようが、その地域やムラのリアルと相互に切り離せないものとして読み手の「読み」のうちに立ち上がる。言わば「英雄としてのエスノグラファー」がそれらの「読み」の中に立ち上がってきます。 単に学術的な記述のひとつのスタイルという地点から、民俗誌それ自体が価値であり目標でもある、といったイデオロギーが形成されてゆく環境は、概ねこのように編成されてゆきます。それはひとり民俗学などのことでなく、文化人類学なり社会学なり、あるいはもっと広く「戦後」の言語空間一般に包摂された日本語を母語とする広がりの内側での人文・社会科学一般が関係していたような環境でもありました。
 そのような環境の下、「現場」という言い方を介してもまた、「ムラ」はそれまでと違うものになっていった。客観的対象としての、そこへ向かって接近し対峙するこちら側とはあらかじめ切り離されたリジッドな客体としての存在から、こちら側との境界が必然的にあいまいになってゆかざるを得ないような可変的な存在への移り変わり。そのような意味で、いわゆる「科学」的な記述から離陸せざるを得ないところに「民俗誌」は必然的に位置することにもなってゆきました。


「郷土」と「ムラ」のあいだ

 「ムラ」は民俗学以前においては郷土誌としてとらえられるようにもなっていました。初期の民俗学にとっての民俗誌もまた、それら郷土誌の文脈の上にその改良形として想定されていたところがあります。とは言え、全国のムラを個別に実地に調査してそのような民俗誌が次々と生まれてゆくことを当時の柳田國男が夢想していたとしても、それは戦後にまでうまく持ち越されたとは言い難い。
 たとえば、地理学から入って郷土研究を手がけるようになり、後には郷土教育を主導していった小田内通敏は、「一軒家」を単位とした「郷土」を規定しています。

「村の一つの民家と其の周囲を通しての生活から出発しなければ、其の真の姓名を見出す事が出来ないと思ふ。一つの民家と関係深井其の附近の数多の民家を形造る人達とそれなの立ってゐる土地即ち一群の住民と一定の土地とが、ここに特定の郷土を生み出すのである。彼等の精神生活は神社をつくり寺院を建て、其の経済生活は土地を耕し林を仕立て、ここに郷土観念の基礎が成立つのである。」

 当時の人文地理学に軸足を置いた「ムラ」理解から発する、ある種標準とも言える「郷土」についての認識かも知れない。一方、柳田國男は大正期に郷土研究の脈絡でたくさん出されるようになった郷土誌の類の質を見分ける際の注意事項として、序文の文体やもの言いをとりあげながら要注意物件として以下の三種類をあげています。

① 「序文に「広く我郷の形勢を天下に紹介し」などとある者」
「汽車の時間表を握んで災天を駈けあるく新聞記者などが之を代表し、其場次第の奇妙とか愉快を絶叫し、さうしてやがて忘れてしまふ人が多い。忘れられても又可いとしてあります。土地繁盛が当の目的であることは、広告の多いのでもわかります。宿屋の名や現在の宿賃までも掲げて居るのは、それが實は客商売の徒の回し者である証拠です。」

② 「先輩に由って「愛郷の精神を養ふは即ち愛國心を盛ならしむる所以」などと讃められて居る品」
「軽薄なる世の快楽追求者に媚びず、少くも郷土の佳民を以て讀者として居るだけ、志は遙かに高尚であります。併し之に依つて愛郷精神を養つてもらふ位の讀者では、もともと古い事などはなんにも知らぬのですから、存外説明は容易なもので、虚誕を吐いたらいかんか知らぬが、昔の本を少し位和解して聞かせても、此序文の廉には該當することが出来ます。」
③ 「「予煙霞の癖あり公務の暇云々」などと序して居る郷土誌」
「邪推をすれば此中にも贋物がありましやうが、果して風聴の通でありとすれば、此は郷土の為に郷土を傳へんとするもので、假令一生涯を費やすと云ふ程の熱心は無く、従つて其功程は著しからずとも、能く郷黨を誘って郷土の面目を自覺せしむり労は之を認めねばなりません。(…)唯困つた事には斯云ふ類の風雅人の を曳く場所は、神社佛閣に非ざれば古碑や歌名所の類のみで、幾人寄つても趣味は偏るばかり、やはり驛長の相談でも受けて、停車場の立札に書く位の舊跡智識を以て満足して居るのです。」

 ①はいわゆるよそ者、ムラの外部からの観察者の目線での記録記述、②は①に比べればムラ在住者の目線ではあるけれども、その読み手に想定されているのがムラ在住者であっても意識の高くない、ムラについて知ろうという意識の薄い層であるような記録記述、③は②と同じくムラ在住者の目線でも、書き手が②よりもインテリ層である分、読み手として想定されているのもムラ在住者より遠くに住まいし生活するインテリ層であるような記録記述、とまとめられます。つまり、記述そのものの質や水準だけでなく、読み手との関係においてどのように読まれることを想定しているかに合焦しているのであり、それらも含めた「読み」のありよう、間主観的とも言えるありかたがこれら民俗誌的記述の本質であるという考え方です。つまり、彼が理想として想定としていたムラについての民俗誌的記述というのは、ムラの内側から記述しムラの者が読み手として想定されるような記録記述、ということになります。

「村の教員乃至は心有る青年」「分別辯口のある村の観察家」「大體から言ふと村に生れて暫く他國に居た人などが、他所から入込んで久しく住んで居る人ならば、右に言ふ如き缺點はありますが、其人たちが果して村の生活を根本から調べて見なければ、國家社會を説き政治経済を論じ人類未来の福利の為に劃策することが出来ぬと確信し得るであらうかどうか。是亦大問題であります。」

 ムラの小学校教員を自らの主要読者と明確に想定して著書をつくっていたという柳田の「戦略」は、この頃すでにその輪郭が固まっていたようです。ムラに生まれた身で、その後ある程度の教育を受け、その過程に宿った自意識と知性とを携えて、「学校」という装置を介して再びムラ≒郷土に戻って当事者的目線を共有できるポジションにある者――それが柳田の想定した組織としての民俗学の中核を構成する理念型でした。寺社の僧侶や神主、という近世以来のムラの有識層よりも、明治期以降の新たな教育環境で育ってきた知性や自意識により重心を掛けて期待していた。この時期に時折激しくもらされるような「趣味」への軽侮、蔑視の感覚もこのような期待と共に前面化していったのでしょう。
 このような柳田の構想からすれば、戦後の言語空間でジャーナリズムの情報環境が拡大変貌してゆく中で出現してきた、新たな書き手の存在は「郷土誌」的記録や記述の主体としてひとまず歓迎すべきものだったはずです。けれども、戦後の民俗学はそのような評価の視線をすでに持ち合わせていませんでした。郷土教育を戦後の社会科教育に転生させたいと願い、柳田個人はさらに国語教育にもまた晩年の情熱を傾けたりもしましたが、情報環境と自分たちの学問の初志との関係についてそのように自省する余裕は持ち得なかったようです。
 実際、柳田にとっての「科学」とそれに基づく使命感は、どこかで彼の内務官僚としての地図と重なっているところがあるらしい。まんべんなく全国を歩き、見聞を重ね、でもどこかひとつの特定の地域やムラについて、それこそ後の「民俗誌」の語に見合うような濃密な記述を残したわけでもない。あの「喜談書屋」と称した砧の自宅の書斎の壁面を埋め尽くしていたカードのように、資料としての事実断片を「資料」として蓄積してゆく過程は間違いなく彼自身のものだったとしても、それら「資料」を統合し、編成してゆく主体性は決して「民俗誌」の側に委ねたりはしない、という覚悟すら感じられます。
 読み手として想定もされていたそれら小学校の教員に代表されるような知性の脳裏に〈リアル〉として立ち上がるような「ムラ」。後にはそれは「日本」「日本人」にまで敷衍されてゆきますが、いずれにせよそのような関係性の中で有効な記述の水準を彼は選択していました。ですから、彼の最晩年から没後にかけて一気に花開くことになったような「民俗誌」に準じるような散文の記述のありようからは、書き手の彼自身むしろ疎外されていた、と見る方がいいように思われます。
 柳田国男自身が「民俗誌」に比すことのできるような記述をものしたのは、自覚的な仕事としては戦後に出された「北小浦民俗誌」だとされています。けれども、これはすでに指摘されてきているように、倉田一郎のフィールド・ノートをもとに構成したもので、柳田自身が現地に実際に滞在して記録した素材をもとにしているわけではありません。しかし、いやだからこそ、このような記述を彼が「民俗誌」と名付けてみせたことの意味は、決して小さくない。
 彼にとっての「民俗誌」、戦後の過程で彼の弟子たちの手によってそれなりに連続して提出されていったようなそれは、しかしどこか突き詰めれば「よそごと」であるような記述の水準だったのだと思います。書き手としての自分自身が積極的にコミットしようとは思わない、そんな記述のありよう。それはおそらく、彼が想定していた望ましい常民の具体像とも切り離せないようなものだったはずです。寡黙で、自己表現にはそれほど習熟せず、文字を介さない「伝承」には誠実かつ忠実であるような、集団としてのそれも含めた生身の記憶志向な「野の知性」。彼好みの常民はそんな「日本人」でもあるようなものでした。しかし、改めて言うまでもなくそれは圧倒的に「消え去りゆくもの」でもありました。
 「現場」に赴き、書き手が同時に経験者であり主体であるような記述。それを柳田は必ずしも要件にしていなかった。有名なあの「遠野物語」自体、佐々木喜善からの聞き取りを素材に構成したものです。「書く」ということ、あるまとまりを持ったテキストに、「作品」に整えてゆく作業というのは、「現場」を実際に経験し滞在した主体のその現場体験の連なりとはまた別の過程だ、という認識の明快さは改めて指摘しておきたいと思います。書かれたものは記録であり、しかしそれは時空を超えた生命を宿す可能性を与えられる。「書く」立場の責任ということも含めて、柳田はそのような「書く主体」としての矜持をずっと持ち続けていました。けれどもそれは、どのような主体にとってもフラットに訪れ得るものでもない、という意識もまたはっきりと抱いていたはずです。
 このように、民俗誌を「書く」ということがどこかで英雄のような、スーパーマンのような主体を想定してしまうようになってゆく過程で、しかしそのような「書く主体」としての自省はどこかで偏頗なものになっていった側面もあるように思います。記録文学でありルポルタージュであり、ノンフィクションであり、ドキュメンタリーでもあるような、いずれそのような「現場」のリアルをひとつのテキストを介して読み手の側に立ち上がらせるような領域。「民俗誌」はしかし、そのような領域が同時代の情報環境で広汎に同時多発的に出現してゆく動きに対して、無自覚なまま推移してゆきました。
 未だ読まれざる民俗誌、そのように意識されていない未発の〈リアル〉は日本語環境においてまだたくさん残されています。農山漁村の「民俗」を「記録」することに特化していた民俗学がすでに使命を終え、自ら疎外してきた「現在」を回復しようとする試みもまた、不十分な自省のうちに葬られてきた果ての現在、眼前の現在に向かい合うための主体を輪郭確かなものにしてゆく作業のひとつとして、そのような「読み」の水準で未発の民俗誌を「発見」してゆくことも、主体再編成のエチュードとして重要だと信じます。

*1:これもまたとりあえずの草稿として。註その他はまた別途……190217

*2:2008年度より本学で開講、担当してきている「現代民俗学」という講義のための手控えとして書き留めておいた私的なメモ類から、散乱気味になってきていた内容を一定の焦点と文脈で整え、ある程度問題意識を整理し明確化するためのノートとしてみた。実際の講義に際して、質疑応答からレポートや試験答案などを介して応答し、ただでさえ逼塞しがちなご当地の研究環境において折に触れ刺戟や補助線を与えてくれた社会人学生も含めた学生諸君に感謝する。

「馬鹿」と「純情」――山田洋次『馬鹿まるだし』と戦後の民衆的想像力における「無法松」像の変貌

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――小説を映画化するということは、その小説からエッセンスだけを抽出して、そのエッセンスをもう一度、映画として豊かに再展開して行くことですから、言ってしまえば、エッセンスが濃厚でありさえすれば、原作の小説がくだらなくたってつまらなくたって失敗していたって未完成だって、一向に構わないんです。

――吾々は勿論民衆を支配したり指導したりする役目を持つてはゐない。民衆を自分の手段とする者ではない。吾々はつまり吾々自身の問題として、娯樂といふものを省察せざるを得ないのである。

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はじめに――再び「無法松の戦後的変貌」から

 巷間「無法松の一生」という呼び方で、ある時期までほぼ国民的な通俗教養の一部と言ってもいいくらいに広く知られていた物語とは、もともと戦前、1939年(昭和一四年)に九州は小倉に住んでいた作家岩下俊作によって書かれた「富島松五郎伝」という小説に端を発した、その後さまざまに語り直され、時代や社会状況に応じて解釈し直されていった、ある意味で民話的な「おはなし」の過程でした。
 以前、自分はこの「無法松の一生」として知られるようになっていた物語が、原作である小説から始まり、その後映画や演劇、各種小説やマンガその他、さまざまなメディアを介して民衆的表現として通俗的に語り直されることで、どのようにわれわれ日本人の想像力の銀幕の上にある一定の輪郭を持つ「おはなし」になっていったのか、そしてそれがもとの小説からどれだけ異なるものに闊達に、融通無碍に、その時代の情報環境と人々の想像力とが織りなす「場」に共有されていったのかについて、できる限り民俗学の視点と手法からその跡をたどってみる作業をしていました。
 この作業の過程で、「無法松の一生」が戦後の言語空間においてどのような改編を加えられていったか、当時の時間的制約や書籍としての紙幅の制限などによって充分に展開しきれないまま、最終章に半ば示唆的に書き記しておくにとどまった懸案の課題について、その後の時間の経過の中で蓄積し醸成してきた問題意識に従って、改めて〈その先〉を展開してみようと思います。
 まずは、戦後の過程で「無法松の一生」という「おはなし」を形成していった際の代表的なヴァージョンとして、山田洋次の初期の『馬鹿まるだし』という映画を足場として、敗戦後から高度成長期にかけての時期に、われわれ日本人の民俗的レベルも含めた想像力の地平にどのような「おはなし」として「無法松の一生」がそのかたちを新たに整えられていったのか、その背後に働いていた民衆的想像力の文脈において、若干の考察を試みることにします。



山田洋次と映画『馬鹿まるだし』

 小説「富島松五郎伝」の主人公である「無法松」と呼ばれる天涯孤独な身の上で無頼の人力車夫富島松五郎は、職業軍人の妻、後に未亡人となる吉岡夫人と知り合うことで「恋愛」感情にめざめてゆくが、しかし、それは身分違いの恋に自ら歯止めをかけてしまう彼自身の「純情」によって制御され、残された遺児の敏雄への父性の発露として表現されるしかなく、結局、「恋愛」としては全うされることのない一方的な片想いに終わった――端折って言えば、そのような「男らしさ」を貫くことで「忍ぶ恋」を通すことになってしまった「悲恋」の物語、というのが世間的に「無法松」を広める端緒となった映画版「無法松の一生」以来、一般的な理解として受け継がれてきています。
 けれども、元の小説を現在の時点から読んでゆく限り、無法松が吉岡夫人に抱いた感情を「恋愛」と直結的に解釈できるような要素は、作者岩下俊作が書いたテキストの表面上には現われていません。 それを「恋愛」と解釈して定着させていったのは、主に映画化に際してシナリオを担当した伊丹万作であり、伊丹に代表される当時の都市型知識人的な「読み」だったのではないか――この「読み」の地点から、敗戦後の過程で「名作」との評価が拡散、定着してゆき、小説から始まり映画から舞台、その他さまざまな媒体に移し変えられてゆく「無法松」の戦後的変貌と転変が本格的に始まります。
 『馬鹿まるだし』は1964年(昭和三九年)公開の映画作品ですが、当時すでに戦後以来の過程で通俗教養と化していただろう「おはなし」としての「無法松の一生」が作中で重要な役割を果たしていること、そして何よりも主人公の松本安五郎のキャラクター自体がそれら戦後的「無法松」のあり方を象徴していることなどから、これらの変貌を考えてゆく上での格好の足場になります。
 安五郎自身、着古した兵隊服をまとって村へ流れてきた無精髭だらけの風来坊であり、元が土工なのか職人なのか、はたまた香具師か何かやっていたのか、そのへんの素姓のよくわからない人間で、粗野で礼儀なども知らない様子で、もちろん教養などは明らかに持ち合わせていない、そういう意味では舞台となっている地域の村社会にとっては「異人」であることは間違いない。けれども、持ち前の人の好さなどが幸いしためぐりあわせで「そらちょっと頭の足りんようなとこはあるけど」 悪い人ではないらしい、とまわりに評されるようになってゆく、そういうキャラクターであり、その限りで無法松とも地続きの人としての善性、天然の人の好さという属性をまず持たされています。
 この『馬鹿まるだし』の制作に至る経緯については、山田自身、こう語っています。

「一九六三年、まだ監督になりたてで海の山のものともつかない頼りなげな私に、面白い小説だが脚本にするのが難しくて誰もやり手がない、お前研究してみろ、とプロデューサーから手渡されたのが藤原審爾の小説「庭にひともと白木蓮」である。すでにあるシナリオライターが脚色したものがあったのだが、起承転結のある物語にするための作為が働きすぎていて原作にはかなり遠いものになっていた。原作は小さなエピソードの積み重ねだったから、私は脚本もそのとおりに構成し、ナレーションで綴る方法をとってみた。ストーリーに頼らずエピソードの積み重ねで主人公のキヤラクターと心の動きを語る、という方法はそれ以後私の映画作りの基本的な形となり、寅さんシリーズに踏襲されて今日に至っている。

 「起承転結のある物語」ではなく「小さなエピソードの積み重ね」を「ナレーションで綴る」ことで「主人公のキャラクターと心の動きを語る」という手法。これは言い換えれば、近代的なリニアーな「筋」のある、そしてそれが主体であるかのような「物語」ではなく、挿話とそこに含まれるディテールとを語り手の話しことばを介して語ってゆくことを主体とした、民話などと同じ口承的な「おはなし」であろうとすることを選択したということになります。
 とは言え、彼自身はこの映画が「喜劇」として見られることを当初、うまく理解できなかったようです。

主役はハナ肇、その他登場人物にはコメディアンを多く登用したことから(渥美清も女房を寝取られた酔っ払いの大工の役で出演している)会社は喜劇として売るべく『馬鹿まるだし』という些か品のない題名に変えてしまった。まだ若かった私は、精魂をこめて作りあげた作品を自分で観ながら、これが笑える作品であるとはとうてい思えなかった。それはそれでいい、藤原さんの美しい作品を真面目に映画化したのだからおかしいものになるわけがない、と私は諦めたような気持でいたのだが、封切られてみると映画館の観客は予想に反して実によく笑ったものだった。」

 しかし、これは文字通りには受け取れません。
 たとえば、作品として決定的なシークェンスである最後の裏山での騒動の場面、村の衆「みんな」に煽てられて心ならずも決死隊的な殴り込みに向かわんとする安五郎が、あこがれのご新造さん夏子に「馬鹿ね」と、低くつぶやくように言われたその瞬間、カットバックされる安五郎の平手打ちを喰った子どものような表情のとびきりのアップに対して、まさにその脳内に炸裂したかのようにも聞こえるあっけらかんとしたドカーンという爆発音を効果音的に重ねていることひとつとっても、この瞬間に想定されていたはずの「笑い」について、その意味も含めて彼が確実にあてこんで演出していただろうことは間違いない。
 自分が世話になったと認識している村の衆、その「みんな」のためにここは一番、身体を張って役に立とう、これでまたその「みんな」の中のひとりであるはずのご新造さんにもほめられるに違いない、という勝手な思い込みは一瞬にして裏切られ、ただの「馬鹿」としてしか見られない自分の立場に初めて気づいてみるみる変わってゆく表情の変化と、それでももう後には退けない引っ込みのつかなさからしゃにむに斬込むしかないという安五郎の内面の一転、裏返った破裂のしかたを、ハナ肇はここでかなり見事に演じてみせています。いや、これはそういういわゆる演技の善し悪し、技術の上手下手といった水準の「演じる」とは違う、敢えて言えばそれら以前の素朴な生身の意識ごとの投身、当時のハナ肇というひとりの生身を伴った個人自身に確かに宿っていたらしいその「馬鹿」の主体がうっかり表現させてしまったもの、という印象である分、演技としての小手先の企みや仕掛けなどを越えたところで、それらを観る同じこちら側の主体に差し迫ってくる何ものか、を切実に感じさせます。
 何よりも、この作品において彼は「無法松の一生」を足場にしながら、そこの距離で主人公安五郎のキャラクターを造型しようとしていること。そしてそれはすでに輪郭の定まりつつあった無法松というキャラクターに対するある種パロディ的な属性を本質的に持たされていたこと。これらによって、松竹側の営業戦略なども含めて一括して「喜劇」という枠組みに押し込んでしまうのが妥当だったかどうかはともかく、少なくとも観客側にそれらパロディ的な「笑い」を喚起させることを想定していたと考えるのが自然でしょう。その程度に「無法松の一生」は戦後的価値観、少なくとも山田洋次と彼に代表されるような敗戦後約20年を経過した昭和39年時点での知識人的な意識から想定されたそれは、何らかの距離感と共にとらえ得るようなものにすでになっていたらしい。そしてそれは、ざっくりと「古い」と意味づけられてしまうような、そして「古い」とするからには同時にそう決めつける根拠としての「新しさ」も同時に留保されているような、そんな意識のからくりの中にある種の「笑い」を伴った距離感と共に、新たな居場所を勝手に確保されてしまうものだったようです。



『馬鹿まるだし』における「無法松の一生

 山田洋次が「無法松の一生」に陰に陽に影響を受けていた、というのは少し性急、かつ断定的に過ぎるかも知れません。しかし、何らかの意識をずっとしてきていた形跡があることは否めない。初期の「馬鹿シリーズ」を通してハナ肇の身体を介して造型されている主人公像は、戦後の空間における「無法松」のありようを彼なりのフィルターを介して改めて具体的なキャラクターとしてまとめられていったものに他ならないし、それはもちろんその後のあの車寅次郎、「男はつらいよ」シリーズの「寅さん」にまで昇華、結晶していったものである――こういう解釈の理路もまた、すでに一定の定説のようになっています。それはそれで間違いではない。けれども、その間に横たわっていたはずの変貌や変質の過程について、人々はまだそれほどうまくことばにして気づくことができていないままです。それは、山田洋次という創作者に対する「評価」についても、不幸で不自由な定型化を行なってしまうことにもつながっています。
 『馬鹿まるだし』には、実際の「無法松の一生」が舞台で上演される芝居としても登場します。これは原作とクレジットされている藤原審爾の「庭にひともと白木蓮」にはない、映画化に際して新たに付け加えられた場面であり、全体からしても重要な挿話になっているのですが、その意味で、山田洋次の作意が直接反映された個所でもあるはずです。
 村に「異人」として入り込み、浄念寺に忍び込んだ泥棒をつかまえたことをきっかけに村に棲みつくようになって、にわか俠客ぶりを発揮するようになった頃、地元にまわってきた旅回りの一座の興行の勧進元になる安五郎。その一座の演し物が「無法松の一生」だったのですが、映画の中で上演される劇中劇とも言うべきその舞台の終幕、病床についている老いた無法松が吉岡夫人に抱かれながら、苦しい息の下からこんなせりふを口にする。

 「ご新造さん、あっしゃ汚れた男です」

 このせりふの場面はまた、先の『馬鹿まるだし』の慷慨を語る際にも言及されています。

姉さん(安五郎のあこがれだった若く美しい未亡人、「無法松の一生」における吉岡夫人にあたる)の再婚が決まり、いよいよ明日お嫁入りという日の夜、すっかり落魄した上につまらない喧嘩で両眼を失明していた安さんは、お別れの挨拶に来る。そして彼が大好きだった「無法松の一生」という芝居の中のセリフを口にするのである。

 けれどもこのせりふ、「無法松の一生」の原作「富島松五郎伝」にはなく、初めて舞台化された昭和十七年の文学座の上演にも見あたらず、映画化された伊丹万作のシナリオに至って初めて出てくるものです。とは言え、映画版では検閲によってカットされたシーンに含まれていたので、実際には戦前には映像としては公表されていない、その意味では幻のセリフということになる。 このあたりの事情が一般に明らかになってゆくのも戦後のことなのですが、それがどうやら山田洋次の記憶には刻みつけられていたらしい。
 原作ではある夏の夜、松五郎が吉岡宅へやってきて、吉岡夫人に「俺は、さみしゅうてつらい」とついこぼしてしまう場面にあたる。文学座の上演では、吉岡夫人が写経をしているところにやってきた松五郎が想いあふれてつい手を取ってしまう、という演出になっていて、その際、自分のやったことに気づいた彼が手を放して思わずもらすせりふ、という形になっていた。観客側の最大公約数的な理解で言えば、それまで言うに言われぬ忍ぶ恋を貫いてきた松五郎が昂まった気持ちを抑えられずにうっかりその心中が表に出てしまう、といった意味づけがされてゆくところで、まさにその心中を表現するためのせりふということになるのでしょうが、しかし、このせりふが戦後になって初めておおっぴらに「無法松の一生」の上演に付け加えられるようになったことの意味は、おそらく小さいものではない。
 「おれの心は汚い」「汚れた男です」というこの「汚れた」の意味は、伊丹万作自身が言っているように「あの作を読むものは、だれしも松五郎の純粋な気持ちを恋愛というありふれた言葉でヨゴしたくない感じを持つに違いない。そのために我々は無意識のうちに、この作を恋愛小説と考えないような傾向におかれる。」 という、松五郎が自覚のないままに抱いていたとされる「恋愛」に対する評言になるようです。性的な存在としての意味も含めた情愛の表現としての「恋愛」は「汚い」という感覚が当たり前で、しかし実はそんなものではない、というのが伊丹の、そして伊丹に代表されるような当時の知識人的なある種の共通理解であり主張だったらしい。だから、ここでの無法松もまた、伊丹らと地続きの「恋愛」観を持った存在として解釈、想定されることになり、またそれゆえにこの部分がことさらに強調されてゆくようにもなったのでしょう。
 さらに、この劇中劇としての「無法松」では、幕切れの場面での最期のひとこと的に使われていて、またその芝居の場面を観ていた安五郎が痛く感動してしまう、という設定になっていますから、このせりふひとつが安五郎のその後の「回心」の引き金になったという、物語の上での大事な役割も背負わされることになる。これは旅回りの劇団の芝居という劇中劇の設定の上に、すでに定型として通俗化されている「無法松」という脈絡で出てきたせりふですから、山田洋次の想像力においては「戦後間もない当時、すでに通俗的に世間に理解されていただろう「無法松」」においては当然あるべきせりふ、ということになるのでしょう。つまり、彼にとっての通俗、想定されるその他おおぜいとしての世間というのは、戦後間もない頃において、戦前昭和一〇年代の都市型知識人と地続きの「恋愛」観をすでに当たり前に持っている、という理解の下にあったことになります。
 『馬鹿まるだし』の時代設定は昭和二四年頃、それを語り手の清十郎が「もう十四、五年も前のこと」という物語上の現在で語っている形になっていますから、映画がつくられて公開された昭和三九年とほぼ重なっている。つまり、すでに高度経済成長期にさしかかり、敗戦の傷跡が身のまわりから概ね見えなくなっていた映画公開当時の〈いま・ここ〉から、敗戦後まだ間もない時期の時代や世相、その中に生きていた頃の自分たちの気持ちや感覚を改めて振り返りながら、その距離感を前提にして解釈された「無法松の一生」ということでもある。それは当時すでに「古い」のものであり、だからこそそれに当たり前に感動するような感覚も、それに対する距離感と共にすでに〈いま・ここ〉に生きる自分たちのものではなくなっている。少なくとも、そのような感覚を当たり前のものとした上で描かれ、成り立っている世界です。そして、さらにそれは、作り手の側の山田洋次の視線であると共に、映画の受け手である当時の観客の感覚をも共に当て込んで設定された視線、でもあるでしょう。山田洋次の視線の先に合焦していた「大衆」というのは当時そのようなものだったようです。
 先に触れた、この映画を観た観客たちの「笑い」のその前提にも、このようなすでに「古い」ものになっていた、だからその分、「忍ぶ恋」として懸命に何かを守ろうとしていた無法松の「純情」も、すでに「馬鹿」という属性に包摂されると「笑い」と共に解釈してしまえるようなものになっていた。舞台の無法松と自分を重ねて懸命にそれをなぞろうとした、そうすることで自分の中のモヤモヤを、もしかしたら「恋愛」と名づけられることもあるのかも知れないそれを、芝居の「無法松の一生」という定型の助けを借りて表現しようとした安五郎の切実さなどもまた、すでにまっすぐに受けとってもらえるものでなく時代遅れの「古い」ありよう、まさに「馬鹿」とくくられても致し方のないようなものになっている。
 これはその後、高度成長期の後半から人気を博するようになる、いわゆる東映ヤクザ映画における主人公の心理のありようとよく似ています。

人が恋しい、でもこんな自分が人を好きになっちゃいけない――それが東映ヤクザ映画の主人公の根本精神です。(…)ヤクザがまともな人を好きになってはいけない、必ず迷惑をかけるなんです。そして、それと同時にもう一つ、女と関わりを持ったら必ず、女を幸福にしてやらなければいけない――ということは、その為に所帯を持つ、あの汚いことを平気で許す「世の中」と黙って折り合いをつけて行かなければならない。「そんなのイヤだ」というプライドだってあるからなんです。

 原作の無法松にとって「恋愛」は想定されていなかった。だからこそ彼は「老い」の孤独に苛まれて、自分自身の「さびしさ」のありようと本当に対峙し、それを理解しようとすることもできぬまま死んで行くしかなかった。そんな彼の内面、心のありように対して吉岡夫人がどう思っていたか、というのは見事なまでに「わからない」。この鈍感にしか見えない吉岡夫人と、それに対して「純情」とうっかり見えてしまうような自分の「さびしさ」の現われ方を表沙汰にしてしまう無法松の関係は、なるほどかなりの程度、その後の緋牡丹お竜と花井政次郎の関係にも連なってゆくものになっています。その意味で、戦前の「無法松の一生」を当時の都市型知識人の意識で解釈した最も素直でまっすぐな地続きの末裔は、東映ヤクザ映画に熱狂し没頭した観客たちだったのかも知れません。しかし、そのような「無法松の一生」を「笑い」を介して「喜劇」として解釈する、できるようにもなっていた戦後の世間、通俗としてあるその他おおぜい感覚からは、すでにそう簡単にはゆかない。
 作中、旅回りの劇団の座長から演し物が「無法松の一生」だと聞かされた時、安五郎は「ああ、それそれ、あんまり、聞いたことねえ芝居だね」と応えています。

「なるほど、まア言うに言えない胸の中だな、人情もんにゃよくある話だ」
「あっしゃ、やっぱりまたたびもんの方がいいね、赤城の山も今宵限り……ジーンと来ちゃうねえ、こっちの方が、ま、単純なんだな生れつき」

 安五郎は「無法松の一生」を「知らなかった」ということ。あらすじの説明を受けて「人情もん」という彼の持っていた語彙での理解をしようとしていること。それは彼にとっては興味の持てないものであり、それと対置されるのが「股旅もん」であること。なるほど、このあたりの描写はある意味正確かも知れません。というのも、戦前「無法松の一生」は映画化されたものの、戦後の過程で後付け的に「名作」とされていったのに反して、公開された当初は、興行成績の数字はともかく、実際にはそう広く一般的に受け入れられる物語ではなかったらしく、たとえば動員工員らが集まる場では酷評すらされていたことは、舞台化した「無法松」を持って地方をまわっていた徳川夢声の日記などにも記されています。
 つまり、戦前、昭和初期に胚胎していった都市部の知識人の感覚、当時の都市モダニズムを支えた新中間層の目線で原作「富島松五郎伝」を翻案したのが映画『無法松の一生』であり、その下敷きになっていたのが文学座で上演された「富島松五郎伝」だった。これは森本薫の「脚色」というクレジットで上演されましたが、その後の戦後的無法松の上演の雛型になったところは良くも悪くも否めない。ただ、その戦後の過程でまたいろいろなヴァリエーションが生まれているのは、民間伝承としての融通無碍さと、その上に成り立つ〈リアル〉を本質とする「おはなし」という意味でも重要になります。
 たとえば、手元に1960年(昭和三五年)の『無法松』という題の毎日放送のラジオドラマの台本があります。「岩下俊作原作「無法松の一生」による音楽作品」と銘打たれたラジオドラマの台本で、作者は八木柊一郎。文学座出身の彼の経歴などから考えて、文学座系統の「無法松」像の痕跡が見られると考えてもいいでしょうが、しかし、この中にはこの「あっしゃ汚れた男です」にあたるセリフは見当らない。また、戦後的な改変が加えられていった「無法松」譚によく見られるようになる、松五郎の理解者としてのもうひとりの女性――芸者だったりするのですが、そういう存在を明確に置いた上で、マドンナとしての吉岡未亡人を際立たせ、その双方のキャラクターの併せ技で「ひとりの人格としての女性」像を観客側の意識に合焦させてゆく構造とも、ここは別のものになっています。
 戦前、無法松が表現していたはずの「忍ぶ恋」の「純情」は、すでにそのような意味では「馬鹿」としか見られなくなっている。当時、浪花節もまた、戦後の空間においては「無法松」と同じような意味で「古い」ものとしてひとくくりに「笑い」を引き出すものになっていました。すでに「古い」という属性にひとくくりにされてしまい、だから当然「笑い」を介した距離感で受け取られてしまう、「馬鹿」というのもそういう意味での否定的にだけとらえられる意味にならざるを得ません。そこに同時にはらまれてもいたはずの「純情」や人としての善性なども、すでにそれら否定的にだけとらえられるようになった「馬鹿」の向こう側に押し隠されてしまうばかりになってゆきます。
 映画の中、旅回りの一座が型通りの解釈で上演してみせる「無法松の一生」に、安五郎はうっかり感動してしまう。しかし、それは「無法松」を「古い」ものとして「笑う」立場にすでに立つこともできていた戦後の世間の側が、その「古い」ものに遭遇して出会い頭にうっかり感動してしまった、のではありません。戦後の世間の側、つまり当時の観客の側にとっては、それら「古い」に対してうっかり感動してしまうことも同じくまた「古い」の側にあるしかない、そんな救いのなさも含めた安五郎というキャラクター造型を可能にしたのが他でもない、この山田洋次の視線になります。しかし、この視線はそう単純なものでもない。
 安五郎は「無法松の一生」を「おんなこどもが喜ぶような人情もの」として否定しました。その対極に彼が見ていたのは「股旅もの」であり、彼が当て振りっぽくさわりをやってみせていた国定忠治であるようなもの、つまり戦後的意識にとっての「浪花節的なるもの」に他なりません。しかし、「股旅もの」に与する安五郎も「人情もの」とされる「無法松」も、共にここでは「古い」ものとして同じ立場にある。「股旅もの」も「人情もの」も共に「古い」。にも関わらず、その同じ「古い」ものであるはずの「股旅もの」と「人情もの」が、この場では互いに相容れないものとして設定されている。立ち止まって考えてみると、これはちょっと不思議です。
 山田洋次自身は、どちらも共に「古い」ものとして見ていた。これはまず間違いないでしょう。戦後的意識の側に目線を置くならばそういう解釈にならざるを得ない。当然、彼が想定していた映画の観客、当時の戦後の「みんな」の意識も同じくそうだと彼は考えていたはずです。なのに、それら「古い」ものの中にもまた別の「違い」が平然とはらまれていたことを、彼は同時に見分けてもいたようです。同じ「古い」ものでも、安さんの好きな「股旅もの」的浪花節的なものと、「無法松の一生」の芝居に象徴される〈おんな・こども〉の好きな「人情もの」との「違い」を。
 このあたりの山田洋次の視線は、戦後的意識の側に立ちながら、しかし「おはなし」を組み立てる挿話と細部については、さすがに誠実で、かつ正確であると言わざるを得ません。「股旅もの」に「人情」はない、だから浪花節的な国定忠治を〈おんな・こども〉は好まないし、「人情」ものと見ていた「無法松の一生」に対して安さんは否定的だ。なのに、そんな安さんがうっかり「人情」に足をとられて感動してしまう。これらを全てひっくるめて「古い」の側に押し込めて客体化して自分の「おはなし」の中に収納してしまう、それがここでの山田洋次の視線の、「おはなし」を制御する立場の上での正確さでしょう。
 「無法松の一生」は「人情もの」という理解のされ方をしていた、少なくとも安さんに代表されるような男たちにとっては。なぜなら、その「人情」というくくり方の中には「恋愛」に連なるココロの動きが当然入り込んでくるから。じゃあ彼らの好んだ「股旅もの」には「人情」はなかったのか。もちろんあった。ただし、それは渡世人であったり無宿者であったりするそれらの主人公、安さんが自己投影できるような男の生きる世間においてのココロのありようであって、そこには性的存在を介したココロのありようは排除されていた。「股旅もの」が戦前のある種のおとな、つまり通俗的最大公約数な常民成人男性にとっての世界観や価値観を体現していたのだとしたら、彼らにとっての「人情」とはあくまでも彼らが生きてゆく上での渡世という世間、彼らの社会という「公」が求めるココロのありようであり、それには性的存在であることも含めた日常、つまり「おとこ」「おんな」という類としてのくくり方でなく、あくまでも個人としての、「私」の関係において初めてのっぴきならないものとして立ち上がるようなココロのありようは含まれていなかった。安さんの言う「人情もの」というのは、そういう「私」の関係、性的存在も含めた個人という意味あいも視野に入れた登場人物が織りなす「おはなし」の世界ということで、それらは彼の好きな「股旅もの」という「おはなし」には想定されていない――ここでの山田洋次の「正確さ」を敢えてほどいてみるなら、ざっとこういうことになります。
 でも、安さんは「無法松の一生」を観てうっかりとココロを動かしてしまった。「人情もの」の表現する個人としての「私」の心情、性的存在であることも視野に入れたココロのありようが自分の裡にあってしまうらしいことにうっかり気づいてしまった。なるほど、それは確かに「恋愛」と理解しても構わないようなものだったかも知れない、少なくとも山田洋次の依拠していた戦後的意識にとっては。そして戦前、あの「富島松五郎伝」を「ちょっと変わった恋愛譚」として読んだ都市部知識人的な解釈枠組みにとっては。
 戦後的意識からはすでに距離を置かれ、「股旅もの」と同じように敗戦の現実のそれから先を生きてゆくにはもう役に立たない「古い」ものと思われる価値観・世界観に依拠していたはずの「無法松の一生」が、しかし、実は戦後的意識とも通俗という一点においてうっかり通底する抜け道をはらんでもいたものだったことに、どうやら山田洋次は気づいていたようです。



ふたつの「安五郎」――山田洋次藤原審爾の「おはなし」作法

 一方、原作とされた小説「庭にひともと白木蓮」の作者である藤原審爾はどうだったでしょう。
 山田洋次が「おはなし」の文法で「語り」に寄せた作劇・創作作法の人なのと同じように、藤原審爾もまたある意味、「おはなし」的な定型を繰り返し自ら語り直してゆくような作風を持っていたようです。 中でもこの「安五郎」というキャラクターは、作家としての彼のその引き出しの中に入っていた素材のようで、「安五郎出世」を始めとした複数の作品で、異なる名前も含めていくつかキャラクター的にも重なるところのある登場人物像として使われています。
 「安五郎出世」は「庭にひともと白木蓮」より前、1952年(昭和二七年)に単行本として出された作品。舞台の設定も瀬戸内沿岸の小さな村、主人公の「四千七百余人の村民から「昭和の次郎長親分」とうたわれた」安五郎親分という名前も、そのキャラクターも「庭にひともと白木蓮」のあの安さん、松本安五郎に通じる「異人」です。

安さんは、恰幅もよし、眼光に力があつて達磨みてえで、ぼつこういける顔じやけえど喃、その眉毛の八字が、ほんまに、玉に瑕じやあ。」
「八の字に先太に下つた安五郎親分の眉毛は、充分に人間の限界と宿命を感じさせるに足る、いたま<<しい欠点であつたらしい。凄んでみても、その八の字の眉のため、てんで睨みが利かなかつた。凄むほど、ちよろ甘い三下奴のような、頼りない顔になつたそうだ。

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 瀬戸内沿いの僻村の西浜という部落の水道工事の人夫として村にやってきた安五郎は、同じ工事請負いの職人仲間からも単純作業専門の人夫と軽んじられ、その顔のつくりや表情、ふだんの物腰などから「馬鹿」扱いされ、ものの数として扱ってもらえない。そんな彼の隠れた真価を早くから見抜いていたのが、彼らが宿舎にしていた寺(浄念寺という名前も「庭にひともと白木蓮」と同じ)の寺男の唖太という、これもまた文字通りの唖で知恵遅れで小柄な男ながら怪力の持ち主という「異人」的存在。水道工事の請負にまつわるちょっとした労働争議的な騒動が起こった中、安五郎が唖太と共にスト破りのような独断専行で、工事で作ったため池の決壊を防ぐのがクライマックスで、このあたりの結構はもちろん「庭にひともと白木蓮」にもよく似たものになっています。 この「安五郎出世」は森繁久弥主演で映画化されていますが、大して話題にもならなかったのか、未だにビデオ化その他はされていません。なので実際の映像は未見なのですが、残されている資料で推測する限り、元の小説からはかなりかけ離れた物語になっていたようです。
 「庭にひともと白木蓮」という小説作品については、山田洋次が次のように言っています。

「安さんに初めて逢った日のことはよく憶えている――という書き出しで始まるその小説は、瀬戸内海沿岸の小さな町(藤原さんの故郷、岡山県備前片上がモデルなのだが)に育ち、今は東京で会社勤めをする男の少年時代の思い出話として語られる、優しく、そして哀しい作品だった。

 しかし、実際の「庭にひともと白木蓮」の書き出しはこうです。

ぼくの故郷は瀬戸内海の入海ぞいの小さな町だ。むかしは山陽道の宿場だったのだが、汽車が出来てから事情がかわった。山陽線はぼくの故郷を通る予定だったのに、ぼくの町の年寄たちが、牛があばれるといって反対したんだ。山陽線はぼくの村から裏山を越えた二里ばかり離れた町を通るようになり、それでぼくの故郷はとりのこされた町になってしまった。

 一瞥して、違います。ちょっとした勘違い、記憶の上での間違いにすぎないようなものですが、しかし、「映画監督だけでなく、ものを創る人間であればだれにでも、この人にこそほめられたい、という人がいるはずである。私にとって、藤原審爾氏はそのような人である」 と言うその人の手による、「たてつづけに恥をかくような思いで、数だけは沢山の映画を作ってきたが、そのなかでもっとも印象に残っている作品は、と問われれば、私は即座に『馬鹿まるだし』(ハナ肇主演、昭和39年)をあげるだろう」 とまで公言するフィルムの「原作」としてクレジットされている小説について、たとえ勘違いであれ、このような間違いをやっていること自体、彼の中でのこの物語がどのように記憶されてきているのかを推測する糸口になります。そしてそれは同時に、この山田洋次という「おはなし」の作り手の資質、特質を見定めてゆこうとする時に見逃せないものをもうひとつ、期せずして浮かび上がらせてくれます。
 この書き出しとしてあげられている「安さんに初めて逢った日のことはよく憶えている」というセリフは、映画の冒頭、安五郎と子どもたちが初めて出会う短いシーンの直後、語り手である清十郎のことばとして語られるナレーションの部分です。 物語の慷慨を語る際に原作の小説ではなく自分の撮った映画『馬鹿まるだし』を下敷きにしてしまっていることは、挿話を語りでつないでゆく口承的「民話」的手法を選択したという彼の言葉の通り、活字表現としての小説作品の物語よりも、映画化された「おはなし」を駆動してゆくダイナモとしての「語り」こそが彼、山田洋次の記憶の裡に強い印象として残っているらしいことを示してくれています。
 藤原審爾のこの安五郎――ある意味で彼にとっての「無法松」でもあるような主人公のキャラクター造型で興味深いのは、まず安五郎自体が明確に性的な存在としても描かれていることです。これは山田洋次の安五郎とは決定的に違う点で、流れ者の土工であることは同じでも、藤原審爾の描く安五郎には、それを取り巻く女たちが複数、それも間違いなく理解者としての立場を担う役割をそれぞれ分担させた形で登場させられていますし、どうやら恋を仕掛けられたりすらしています。 けれども、彼はあこがれの対象を抱いていない。少なくとも、山田洋次の安さんのように「個」に収斂してゆくような方向では。
 『馬鹿まるだし』と「庭にひともと白木蓮」の決定的な違い、ある意味山田洋次藤原審爾の資質の違いは、ラストの裏山での騒動のシーンに最もくっきりと現われます。「庭にひともと白木蓮」では、村の衆の無理やりな期待を背にひとり、立て籠もる暴漢たちに立ち向かってさらわれたお静ちゃん(村の有力者である辰巳屋の娘、静子)を助けに行こうとする安五郎の背中を後押しするのは、寺の大黒である「ぼく」の母親でした。

安さん、わたしからもお願いするわ、ね、なんとかお静ちゃんを助けてあげて!」とこともなげに頼んだのだった。瞬間、安さんの馬のような目がぱっと哀しみをあおくみなぎらせた。

 逆に、「ばかね、あんた、よしなさいよ!」と「泣いているような声で」引き止めたのは小万さんです。つまり、安五郎の決死行を後押ししたのは共同体の側の「母親」であり、その行ないを「馬鹿」と決めつけ泣き声で引き止めるのはそれら共同体からは「異物」の側で、だからこそ安五郎の「理解」することのできる小万だった、という構造になっています。
 対して、山田洋次の『馬鹿まるだし』では、安さんを止めるのはあこがれの対象である寺の未亡人の「ご新造さん」夏子です。もちろん、その場で後ろから義母のきぬが「安さん、あんた助けに行くのかい。こういう時はやっぱりあんたでなけりゃいけないよ、頑張っておくれよ」と後押しをして、それを機に安さんは足を踏み出してゆくのですが、あくまでもその場の前景として合焦されているのは彼のあこがれの対象、夏子であり、その夏子が「馬鹿ね」とはっきり正面から投げかける。彼の内面、気持ちや心情を「理解」してくれる可能性のある存在は、同じ共同体の「異物」の側、子分の八郎を除いて誰もこの場に出てきません。 共同体が背中を押して必死の戦いに赴かされるのは同じでも、それを引き止めるのが地続きの「異物」である理解者の側の小万か、それともどこまでも理解されないままの、だからこそあこがれの対象でい続けられる夏子の側か、というこの違いは、共同体を守るために心ならずも向かわされることになった特攻隊に等しい決死行に対して共に投げかけられる「馬鹿」という言葉の解釈を、それぞれ別の方向に委ねてしまう分岐点になっています。
 山田洋次の安五郎は、性的な存在として描かれない。俠客ぶるようになって女たちにちやほやされるようになっても、それはあくまでも「類」としての異性でしかない。だからこそ、「個」としてのあこがれの存在が、そのまま彼を理解してくれる存在としても重なってもゆけるものらしい。「個」としてあこがれているからこそいつか理解もされるはずだし、されねばならない、というこの山田洋次の「おはなし」の話法における恋愛についての見方は、「戦後」的感覚としては常識的であるでしょうし、その限りで正当でもあります。ありますが、しかし、性的な存在としての部分を前面に出せば、そのあこがれの存在との「理解」は不完全な、不純なものになる。少なくとも山田洋次的な「おはなし」の作法ではそうならざるを得ません。だから、彼にとっての「馬鹿」は性的ではないし、あってはならない。なぜなら、性的でないことがそのままその「馬鹿」の「純情」という属性を際立たせることになるからです。
 これに対して、藤原審爾の安五郎は穏当に生身らしさを伴っている。同じ「馬鹿」でも性的ベクトルをおのが生身のたたずまいに引きつけて手放しませんでした。だからその分、その「馬鹿」という属性が山田洋次の安五郎のようにはエッジの効いた「純情」属性として立ち上がってこないし、いきおいあからさまな喜劇としての「笑い」もまつわりにくくなっている。そのあたりは小説という文字による創作と、映画という表現との違いと共に、創り手の資質としても〈リアル〉に対する解釈や見解の違いなどが変数として横たわっていそうです。
 この「馬鹿」であることの内実は、欲得づくでないことや素朴で純真、嘘偽りのない存在であること、と言っていいでしょう。無学で粗野だけれども卑しくはない、しかし、世間の共同性の内側にとりこまれた「馬鹿」はその「純情」を情け容赦なく引き出され、「みんな」の視線の前にその内実までもさらけ出すことを強いられます。「馬鹿」は当然のように「純情」である、という自明に思われるようになったこの組み合わせにしても、それが近代以前の情報環境における民話における「馬鹿」のように「おはなし」の地平に幸福に幽閉されたままでなく、生身のたたずまいとして性的存在でもあることを否応なくまつわらせざるを得なくなりました。性的になってしまった「馬鹿」にとっては「純情」もまた、生身の側に必然的に引き寄せられた性的なベクトルに紐付けられざるを得なくなる。「恋愛」的な関係と視線の交錯において「純情」も解釈されるようになり、それは性的なベクトルを介したあこがれの存在に、つまり「無法松」の吉岡未亡人的な異性に対しても情け容赦なく適用されてゆくようになります。けれども、「馬鹿」の側に生身のありようが約束されていない以上、そのあこがれの存在もまた生身としての性的なベクトルを受け止められるはずもない。なので、共に性的なベクトルから疎外されたまま、「馬鹿」は「恋愛」に縛られた「純情」に生きながら葬られることになりました。
 その結果、「馬鹿」は、戦後的な価値とそれを正義として流布し共有してゆくことを使命とした情報環境の中で、それまでのように孤独であることを許されなくなってゆきました。さらに言えばそれは、彼が身体を張って献身しようとした共同体の側から決して受け入れられることのない「異物」であったことと、そのように「異物」であったがゆえに共同体への献身が「おはなし」として実効性を持ち、そのまま伝承の回路へと確実に流されてゆくものだった状況からひとつ遠く、戦後にいきなりものわかりよさげな表情を見せるようになったあの「みんな」の側へとあらかじめ回収されてしまうことで、本来の「異物」としての矜持も、その本来の「孤独」と共に奪われることになってゆきました。
 思えば、もともと、「馬鹿」とは「男らしさ」の表象でもありました。その「男らしさ」とは「頼りになる、信頼できる人」が身にまとう徳性、ある種の聖なる属性のようなものでもあったらしい。少なくとも、富島松五郎の譚を書き留めようとした岩下俊作にとってはそうでしたし、戦後の過程で一時期簇生した、地方のムラや地域を舞台にした「馬鹿」の英雄譚の一連の書き手たちが遠く合焦していたのもそのような系譜の上にある、ある確かな人間としての形象でした。
 見失われていた肉体、生身のたたずまいがもう一度回復される契機というのが必要になってきます。なるほど、肉体の復権というのも敗戦後、人々の想像力の地平で大きく前景化した主題でした。
 それは安五郎にとっては、寺の裏山に立て籠もった悪漢たちに対してただひとり、お静ちゃんを救うために「男らしさ」を敢えて演じて立ち向かってゆく、その場において乾坤一擲なされることのはずでしたが、しかし、それは無法松がぼんぼんに垣間見せた肉体性・身体性の怖さ、生身の衝迫力などからすでに遠く、憧れていた夏子から「バカね」 と指摘されることでそれまで抱えていた彼の「おはなし」自体がガラガラと音を立てて崩れてゆくしかない、そんな顛末にしかならなかった。もちろんそれは山田洋次からすると、そのような「バカ」なヒロイズムで自らの「個」を大事にしない、自分の命を大切に考えない「男」という存在を、敗戦という結果を導いた日本のそれまでの男たちとそのまま重ねて見せることまでも意図していたはずですが、しかし、戦後における無法松の転生にはまた、もう少し別の可能性もあったようです。



むすびとして――さらに通俗の方へ

 山田洋次にとっての「無法松の一生」は、すでに終わってしまった戦前、過ぎ去った否定すべき時代において成立していた、そしてそのまま翻案されてうっかり戦後の空間に活け直されてきているけれどもすでに「笑い」を引き出すような距離感と違和感と共に認識される、そういう作品になっていたようです。
 とは言え、通俗は通俗、もっとあっけらかんとわかりやすい方向での「おはなし」も紡いでゆく。戦後的な無法松には、もっとすっきりとわかりやすい形も平然とあったりします。
 たとえば、渥美清が『でっかいでっかい野郎』(1969年、松竹)という作品で演じている南田松次郎。監督は野村芳太郎山田洋次の松竹での師匠とも言われる人で、この時は脚本も彼が主として手がけたようで、山田洋次の解釈とはある意味全く別の、しかしその分、もとの「無法松」譚にきわめて忠実な翻案になっていながら、通俗に開かれた娯楽作品にまとめられているあたりがまた別の意味で興味深いものです。
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 舞台は北九州の、小倉ではなく若松。あの火野葦平「花と龍」の舞台となった筑豊炭鉱と共に栄えた港町。主人公も松五郎ならぬ松次郎。親子二代の流れ者の炭坑夫で、亡くなった親父の遺骨を抱えて親父の墓のある若松にふらりとやってきた、という設定から始まります。ヒロインは、ひょんなことから世話になることになる町の医院の医者の妻。ここでも「無法松の一生」は劇中劇ではないにせよ、主人公松次郎が「現代の無法松」として地元紙に紹介され、医者お抱えの人力車夫になったり、また地元小倉の小倉祇園太鼓のコンクールに参加させられたりと、実に風通しの良いわかりやすい下敷きとして物語にあてこまれています。「馬鹿」と「純情」、というセットでの無法松理解の通俗的な定型はこの時点でほぼ盤石なものになっている。
 先に触れた文学座系統の「無法松」理解、彼の「純情」に対応するべきセクシュアリティ、性的存在としての属性の安定を図るための戦後的な構図もきれいに見られます。無法松に対する理解者としての女性である芸者の存在は、彼と同じ階層に属する者で、彼に対する理解も彼女がおそらく最も穏当にしている。観客の意識からすれば、あこがれのマドンナ的存在に対しての感情は感情として、定型的な「恋愛」を前提とした場合に最も現実的でふさわしい異性関係として、共に視野に入れながらもやきもきして眺める、というあたりが最大公約数だったはずです。この役柄を当時まだ若い頃の香川京子が、芸者でなく戦後のモダンなパンパン「若松ローズ」として小気味良く演じています。 これに対する吉岡夫人にあたる病院長夫人は岩下志麻。 とは言え、こちらもあこがれの対象一辺倒というわけではなく、むしろローズとの対抗関係の方が前面に出ていて、事実、物語としても中盤以降はそのような無法松の「忍ぶ恋」というモティーフは、彼女たちふたりの関係の周辺にでなく、冒頭から脇役的に登場していた当時としては最も現代風なキャラクターであるはずの若い娘――病院の事務で働いていて、松次郎の喧嘩仲間から同志的存在になる若松港のはしけのベテラン船頭(伴淳三郎が好演)の娘という設定――の方に焦点が移ってゆき、結局は彼女の駆け落ちを後押しするという結末に向かってゆくあたり、吉岡夫人と芸者、あこがれの対象と真の理解者、という無法松を取り巻く女性キャラクターの戦後的な安定の構図さえもがすでに崩れ始めていることもうかがえます。
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 このように主人公である「無法松」松次郎のセクシュアリティの解釈がさらに分裂的にぼやけてゆくあたり、彼にまつわらされていた「純情」の意味あいも、それまでのようなあこがれの存在を軸にした一点透視的な執着や収斂の仕方でなく、複数の選択肢として具体的な女性が並列的に登場してきてももはや構わない、その程度に「恋愛」の描かれ方がある意味現実的に、別な角度から言えば「おはなし」としてのそれまでの内圧を維持できないようになってきているのが注目すべきところです。このあたりの経緯から、あの車寅次郎、映画『男はつらいよ』の「寅さん」の「恋愛」遍歴の属性――寅にもそろそろお嫁さんを、というとらや以下、葛飾柴又に定住している「地域」「地元」のまわりの「みんな」の期待と懸念と共にシリーズを通した輪郭を定めていったあのキャラクターもまた、「無法松」的な「馬鹿」と「純情」を戦前以来の一点透視的な執着や収斂からさらに複線的に解き放ってゆくことで成り立ち得たという解釈は可能でしょう。それはまた、戦前の都市型知識人的「恋愛」解釈のフィルターが戦後の情報環境の変貌とそこに宿っていった世間一般その他おおぜいの通俗的意識の水準との関係で、複線的に分裂してゆく過程として理解することができるはずです。

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*1:ひとまず草稿として……成稿はのちほど手を加えつつ。註もおいおいと。190214