大風呂敷の幸せ――梅原猛逝去に寄せて

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「教養」系大風呂敷(おそらく)最後の大物
 大風呂敷を拡げる人、というのがいます。拡げるだけ拡げて畳むことをしない、いや、そもそもそんな畳むなんてことを考えないから拡げられるというのもあるらしい。

 凡庸通俗普通の人たちは小心翼々、そうそう自分の生きている世間の間尺をうっかり越えるようなことをしないように気をつけているし、ものの言い方にしても半径身の丈にちょっとした背伸びくらいでとどめおくのが習い性、それが「常識」の基礎になり、また「無難」な世渡りの骨組みにもなっているのですが、そんなもの知ったことか、とばかりに「常識」や「無難」を軽々とすっ飛ばしたことを言い、またやってのけたりする人もたまにいる。どんな世間にも、いる。というか、いました、少し前までは必ず。

 先日逝去した梅原猛なんて御仁はその代表格、その仕事を振り返ってみてもまさしく極めつきの大風呂敷を拡げ続け、そしてそれが時代の風、時の勢いなどをいっぱいにはらんで中空高く舞い上がっていった、そういう人生をたまたま生きることのできた、ある意味幸せな人だったんだな、と思います。

 とにかく「哲学者」であります。「京都大学」であります。もうそれだけで戦前は旧制高校以来の「教養」主義の正しい後継、文句のつけようのない毛並みの良さなわけですが、それら殿上人のものだった「教養」が戦後の高度経済成長の「豊かさ」任せにわれら下々にまで身近にやさしくわかりやすく解きほどいてもらえるようになっていった過程で、それまでやっていた仕事が、これは「日本」という自意識を解説してくれているんだ、と下々含めて広く理解されるようになった、その巡り合わせの上にその後の人生、天下御免の大風呂敷をずっと拡げ続けていったようなもので、日本語環境での人文系の「教養」が戦後に達成した「豊かさ」の上にどういう最終的なかたちを獲得したのか、についてのある例証なのだと思っています、良くも悪くも。

 「日本」と「こころ」の交錯したところに、それら毛並みの良い「教養」の後光を従えた託宣を「歴史」を介してわかりやすく示してくれるのですから、この人の書いたものは「宗教」方面にも少なからぬ影響を与えている。坊さんでも何でもそれら「宗教」を稼業生業とされている凡庸通俗普通の人たちにとって、「日本」と「歴史」についてちょっと何か考えてみる糸口、振り返ってみる足がかりとして、梅原猛の書いたものはそれこそ司馬遼太郎などと同じくらいに便利に、ありがたいハンドブック的なものになっていたはずです。いわゆる専門家たちがいくら矛盾を指摘し、その「大風呂敷」ぶりを批判しようが、そのハンドブックとしての実利、つまり「おもしろさ」は凡庸通俗普通の人たち的には揺るぎはしなかった。その程度に「豊かさ」はありがたく、またその果実を広く享受できるようになっていたということなのでしょう。

 ただ、その一方で、そんな所業を「風呂敷」を拡げてみせる身振りにたとえてみせた感覚というのも、それを畳むことなど考えない一本道、自分の仕事もそれをなした自分自身も凡人のように省みることのない潔さのようなものこそがその「風呂敷」の本質なんだという理解を示している意味で、それはそれでなかなか興味深い。 そういう「風呂敷」の、それも大きなやつでないことには、「日本」だの「こころ」だの「歴史」だのをひとくくりに包んじまうことなどできっこない。それはわれら凡人には手にあまる仕事だし、何よりそんなことしてる暇もない。だから、平然と大風呂敷広げて見せてくれる人がたの仕事ぶりを、その立ち居振る舞いなど含めて素朴に「おもしろい」と思う、そんな素直な驚きを「教養」に対して凡人が持てることのできた時代もまた幸せだったのでしょうが、しかし、それもももう過ぎ去りつつあるらしい。そういう大風呂敷を野放図に拡げることができなくなった、それを「おもしろい」と素朴に思う心持ちをわれら凡人も失ってしまった、そんな時代の、新たな「日本」や「こころ」「歴史」はどのようなものになるのか、それもまたこれから先のなにげに大きな宿題になり始めています。

*1:『宗教問題』連載原稿

ホワイトイルミネーションを見ると別れる?

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 カップルが別れるジンクス、のある名所なり観光スポットなりはすでに全国いくつもありますね。ディズニーランドや観覧車、水族館などに並んで、ホワイトイルミネーションのようなライトアップイベントもそういうスポットの割と定番みたいです。

 カップルが別れるジンクス、というのは、結ばれるジンクス、とある意味裏表というか、同じような意味づけのところがあります。まず、そのような「おはなし」が附随してくるスポットというのは、不特定多数の群れの中にあって「ふたり」が強調される空間なりセッティング、というのがとりあえず共通しています。まわりから「見られる」意識も同時に増幅されて、「ふたり」がなおさら際立つような意識になる。それは望ましいことであると同時に、不安なことでもあるというアンビバレンツな感情が基本あります、カップルには。一対一、個体と個体の「つきあい」が「恋愛」の基本ですが、そうなるためには「まわり」からの「承認」が必要なのは昔も今も変わっていません。承認のない「ふたり」は不安定なままです。そう考えてくると、観覧車のゴンドラ、夜のイルミネーションイベント、薄暗がりの水族館などが意味づけられるのも理由があると思います。ディズニーランドなども同じで、別れる(た)理由について長蛇の列や暑い寒いなどの環境的な説明もつけられていますが、群れの中で「ふたり」が際立つのは同じですね。と同時に、その群れもまた他の「ふたり」の集合だったりするのが、このような昨今のデートスポット的場所の特徴でもありますから、

 都市伝説の定番からすると、たとえばラバーズレーン*2などに通じる「若いカップルの不安」が前提にあるように思います。「ふたり」になる空間があれはクルマだったわけですが、クルマで「ふたり」になることの意識のされ方が日本ではそれほど際立たなくなってるのかも知れません。それはクルマがデートの空間というよりリビング的な意味あいが強くなってきていることや、何よりオンナのコも運転するようになってきていることなども関係があるかも知れません。

 また、そういう場所では、自分たち以外のその他おおぜいの見知らぬ「ふたり」と同じ存在であるということを意識せざるを得ないこともストレスというか不安のタネになるという面もありそうです。定番のデートスポットに臆面もなくノコノコやってきている、ということへのちょっとした後ろめたさというか、流行の場所にのっちゃってるよね(笑)的なある種自嘲の気分もあるでしょう。そういう意味では、一時期言われた「成田離婚」的なカップル別離譚などとも通じているところはありそうです。逆に、一方で神社や寺、橋などがそれらカップルの縁が「切れる」場所として未だに語られているのは、というのはある意味古典的な民俗意識が反映していて、デートスポットをめぐる都市伝説の背景とはもう別ものかも知れません。*3

*1:ご当地某道新の♀記者(声の感じその他からおそらくまだ20代か)から勤め先に電話がかかってきて表題のような件でご意見を、てな伝言だったのでかけ直してこんな感じのことをしゃべってやったのだが、その後何の音沙汰もなく、そもそも記事になったのかならないのかすら連絡なしでほったらかし。そういうとこやで、という事案、いまさらながらに

*2:いわゆるカーセックスorペッティングでいちゃつくクルマが集まる路地や裏通りなどの呼び方。もちろんそこでいろいろ事件が起こるのはホラー映画なども含めてのお約束なわけだが。

*3:お題がお題なんでお約束のこれ、も貼っておく。「都市伝説」って日本語/訳語をうっかり作ってしもたひとりとして。

消えるヒッチハイカー―都市の想像力のアメリカ (ブルンヴァンの「都市伝説」コレクション)

消えるヒッチハイカー―都市の想像力のアメリカ (ブルンヴァンの「都市伝説」コレクション)

ハロウィーン、当世風

 クリスマスだのバレンタインデーだのに続いて、今度はハロウィーン。海外由来の、それも商売がらみで普及していったそういうお祭りの類、昨今のもの言いだと「イベント」になるのでしょうが、まあ、これまでもあったことだし、新手のそういう類の流行りものなんだろう、と横目に眺めていたら、今年はそのハロウィーンをダシに渋谷の街頭に集った若い衆たちの傍若無人で無軌道なノリが路上の軽自動車を横転させる暴れっぷり。いまどきのことで現場の様子を撮った動画や画像などもweb上にばらまかれたこともあり、一部のメディアでは「暴動」と見出しをつけられるまでの事件になってしまったようです。

 渋谷の街頭は、近年、何かきっかけがあると若い衆を中心に何かと人が集ってしまう、お約束の場所になってはいます。たとえば、サッカーの日本代表が海外の試合で勝った時など、誰が言い出すわけでもなく集って盛り上がる、どうやらこれは2002年の日韓合同開催となったワールドカップの頃から始まった現象のようですが、当初は自然発生的なものだったようで、当時を振り返る記事にもその様子がこのように描かれています。

大騒ぎや、混乱という雰囲気ではない。みんな信号を守り、青信号になると四方から交差点に入り、向こうから渡ってきたサポーターと合流すると、ハイタッチをして通り過ぎた。基本は青信号のうちに向かい側に着こうとしている。信号が変わったあとにたどり着くことも多いが、それは、ふだんのスクランブル交差点の様子と同じである。(…)そのうち青信号で通りすがるときに、缶ビールを振り回して、ビールかけをする連中も出始めた。そういう時代だった。私も繰り返し交差点を行ったり来たりしていたのだが、ビールがかかっても喜んでいた。ふつうの心理状態ではないから、べつだん気にしていない。」(堀井憲一郎「2002年と2018年、W杯日本勝利後に2つの渋谷で私が見たもの」)

 「ハイタッチ」という身振りが若い衆世代を中心に、特にスポーツの場を介して広まり始めていたこと。贔屓のチームが素晴らしい結果を出したことを「共に」喜ぶこういう身振りは、以前ならばあの手放しのバンザイだったはずですが、それがいつの間にかこのハイタッチに取って代わられるようになっていた。それは今回はたまたまノリやはずみにせよ「暴動」まがいの逸脱まで見せるようになっていた、昨今の自然発生的に「集まる」若い衆たちのココロとカラダの関係にはらまれ始めていた微妙な変化の、ひとつの指標かも知れませんが、それはまた別の話。

 今回、渋谷の騒動だけが注目されましたが、これらハロウィーンをダシにした「イベント」の類は全国的に広く行なわれていたらしい。それはハロウィーンがコスプレ(仮装)と結びついて理解されていることとあいまって、規模の大小や質の違いはあれど、首都圏や京阪神だけでなく県庁所在地やそれなりの都市ではどこもハロウィーンをダシにしたイベントが、広告宣伝や商売がらみのお仕着せのものだけでなく自発的な呼びかけと共に行なわれるようになっていたようです。殊に、ハロウィーン本来の趣旨に沿った「子ども」のためのイベントという意味での受容が、単発的にでなくある程度の習い性として生活に根ざし始めている気配がありましたし、それらも含めて、おおっぴらに「コスプレ」をして楽しんで構わないイベントとしての理解は根づき始めている。そういう意味ではある種の現代的な「民俗」としての萌芽的ありようと見ていいのかも知れません。

 ただ、それがどのようなものであれ「地域」に、「地元」に根ざしたものとして運営されてゆくのかどうか。今回の渋谷のようにうっかり暴発することのないよう制御してゆく意味でも川崎その他、すでにある程度の自主的な管理を前提にしたイベントとして運営する試みも始まっているようですが、都市部の、それもある程度の人口や情報環境などとの関わり方などに規定されているような場所に限ってしか現状、イベント化しない/できないらしいことは、それこそかの「地方創生」のかけ声の空回りなどにもつながる、昨今の「地域」や「地元」「地方」といったもの言いの内実をどう立て直してゆくのか、といった大きな問いを考えてゆく際にも、良くも悪くもひとつの糸口を与えてくれているようです。

〈おんな・こども〉ということ

 〈おんな・こども〉というもの言いがあります。というか、ありました。

 今やうっかり使おうものなら、文脈その他すっ飛ばして、とにかく「使った」ということ自体でえらいことになりかねない、そういう意味ではすでに死語というか、それこそ「ポリコレ」(ポリティカル・コレクトネス)的に「あってはならないもの言い」のひとつとして登録されてしまっているようです。

 この場合「おんな」も「こども」も、少なくとも正規の「おとな」として一人前に扱えない、という意味でのひとくくりになっていて、そこで想定されている「おとな」とはひとまず男の成人でした。つまり、「おとな」というのは男の成人を雛型とした、社会を構成している正規のメンバーである、という約束ごとがまずあって、そこから外れる〈おんな・こども〉はそういう「おとな」に守られるべき、社会にとっては〈それ以外〉の存在である――ざっとこういう理解がかつてはわれら同胞の間に当たり前に共有されていたらしい。

 こういう説明をすると、なにそれ、男でも女でも子どもでもみんな同じ人間、同じ「個」なのに「平等」に見ないなんてひどい、民主的じゃない、といった違和感がいまどきのわれらのココロの裡には即座に湧き上がるようになっています。もちろん、もはやそんな時代ではないし、〈おんな・こども〉もそれぞれに社会的存在として生きてゆくべき、という考え方こそがいまどきの当たり前。かつて一方的に守られる立場とされていたことと引き換えに引き受けざるを得なかった窮屈や拘束、不自由などもまた自らの意志によって脱ぎ捨て克服し得るもの、と素直に思うことのできるような教育が戦後このかた、単に学校のみならずわれわれの社会ぐるみで積み重ねられてきた。そのことの果実もまた、誰もがいま、ひとまず概ね前向きに自覚できることになっているはずです。

 ただ、だからこそ、立ち止まって問い返しておかねばならないこともある。

 かつて、そうやって勝手に守られるべき存在になっていた〈おんな・こども〉は確かに不自由で、いまのわれわれの感覚からすれば気の毒な境遇に生きていただろうし、彼らを守るべきとされていた側の「おとな」もまた、同じような不自由や窮屈を抱きながらその当時の当たり前の間尺に殉じながら生きていたのだろう。それらは共に、いまのわれわれの当たり前からはほとんど見えなくなりつつある、そんな「かつての当たり前」という厚いカーテンの向こう側に頼りなくゆらめいている影のようなものでしかない。

 けれども、いつの時代もその時代ごとの当たり前があり、その当たり前の間尺でしか生きられないのが人の運命なのだとしたら、かつての〈おんな・こども〉にとっての「個」のありようや、そこにまた当然宿っていた「自由」などもまたあり得たかも知れないのだし、同じく当時の「おとな」も、〈おんな・こども〉を守らねばならない、という縛りの内側で抱いていた「個」があったと考えていいはずです。なのに、今のわれわれは、そのような「かつての当たり前」の向こう側にまで想像力を届かせることがどんどんできなくなっているらしい。あらゆる「情報」が大量に、素早く手もとに集められるようになったと感じられるいまどきの情報環境がうっかり実現している、こちらの預かり知らぬ間にどんどん勝手に解像度だけが高くなってゆくような日常のこの奥行きも翳りもなくなってゆくいたたまれなさと引き比べながら、そう感じています。

われらが的場文男・頌

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 「尊い」――そうとしか言いようがない。

 今に始まったこっちゃない、ずいぶん前からそうだった。赤地に星散らしのあの勝負服は、われら地方競馬巡礼衆にとっては、ただひたすら「尊い」のだ。

 的場文男、言わずと知れた大井のカミサマ。南関東の、そして地方競馬の至宝とほめたたえることはすでに簡単だけれども、でもやっぱり、的場(文)は「大井の」ジョッキー、守護神なのだ、と言っておきたくなる。

 もうじき彼がその記録を破るだろうと誰もが信じている、あの生涯7151勝の佐々木竹見の現役時代、所属は川崎であってもどこか地方競馬を代表する丹精な「顔」になっていた竹見さんに比べて、同じ時期、大井を代表する名手で遜色ない成績を誇っていた高橋三郎はどこか「大井の」サブちゃん、だった。それと同じような意味で、的場(文)もまた「大井の」的ちゃん、なのだと思う。たとえ成績も名声もとっくに全国区、昨今ではすでにニッポン競馬の生きた伝説になっているのだとしても。

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 とにかく饒舌である。昔からそうだったし、今もそれは変わらないはずだ。ノリヤクというもの、殊に地方のそれは概ね寡黙で用心深くて、そうでなくても口下手で能書きの少ないのが割と普通なのだが、的場(文)は違う。口数が多く、よくしゃべる。

 と言って、ありがちなセールストークなどともちょっと違う。相手が誰であっても基本、同じ調子で変わらないし、何より腰も頭もぐっと低い。若い頃の武豊が大井に初めて乗りに来た時、ユタカさんユタカさん、と率先して声を掛けていたのを今でも覚えている。引退して調教師になってゆく同輩や後輩の、たとえ現役時代は彼よりずっと冴えない成績だった元騎手に対しても、センセイセンセイ、ときちんと立てた応対をする。それが嫌味でも何でもなく、自然体なのだ。

 同じ頃、現役で乗っていたある騎手の的場(文)評。

「どうしてあんなに道中ジタバタすんのかなぁ、っていつも思ってたよ、そんなにジタバタしなくたってラクに勝てるくらいの馬にいつも乗ってるだろうに。あれがなかったら(東京)ダービーもとっくに取ってたんじゃないかなぁ」。

 やり過ぎちゃうんだよなぁ、とも言われる。今でも朝の暗いうちからしっかり調教に出てくる、的ちゃんいいよもう、そんなにやんなくとも、と言ってもしっかり乗る、やり過ぎるくらい乗る、的ちゃん乗せたら(馬が)動くのはわかってるんだけど、でもその後出枯らしみたいになっちゃったりするんだよなぁ、だから、勝負もだけど調教にも的ちゃんうっかり乗せられないんだよ――そんな苦笑いと共に、その普段の仕事っぷりは語られたりもしている。

 地方競馬にはどこでもひとりくらい、マジメで穏やかで人格者で、それこそ騎手会の会長に推されるような騎手がいる。主催者のウケもよく、馬主たちともソツなくつきあい、必要ならば仲間たちの立場を代弁もできるし、またそういう信頼も受けている。もちろん成績も常に上位でなければならない。そうでなければ勝負の世界、発言力が半減する。その一方、なりふり構わずひたすら自分の成績だけを追いかけるタイプもいる。馬主にも自分で営業をかけ、時に牧場までつきあって自分の乗り馬を確保しようとしたり、そういう積極性もまた、騎手という稼業の営業のひとつではある。

 けれども、的場(文)にはそういう面は見えない。以前、それこそアンカツ内田博幸などが中央に移籍するようになった頃、中央へ移ることは考えないのか、と尋ねたことがある。

 答えは即答「ない」。

 毎日10頭くらい調教つけて、騎乗依頼は南関東だからほぼ毎日何鞍もある、オレが全く馬にまたがらない日って1年に一週間もないよ、自分のカラダだって毎日手入れしなきゃならないし、もう今の仕事だけで余計な時間なんかないよ、ここじゃオレがトップなんだから、トップにふさわしい仕事してないと恥ずかしいじゃないですか――ざっとそういうことをいつもの饒舌でたたみかけるように語ってくれた。後日、内田(博)にその話をしたら「そういう人なんですよ、的場さんは」と、ほら、ね、わかったでしょ、といった風に、心底からのリスペクト感あふれるいい顔をしてくれた。

 つまり、ある種の言わば「人徳」、騎手仲間に嫌われない、疎まれたり仲間外れにされない、そういうところがあるようなのだ。トシ喰ってベテランになったから大事にされるんだろう、とか言うなかれ、勝負の世界のこと、単に馬齢を重ねただけのベテランなど居場所がなくなる例だっていくらでもある。単に成績とかだけでない、馬乗りのプロとして、競馬を稼業とする職人としての姿勢や心掛けなども含めて、まさにうまやもんの世間で認められ尊敬されている存在なのだ。


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 的場(文)と石崎(隆)、このふたりが南関東の競馬を引っ張っていた時代、90年代からゼロ年代にかけの競馬をこの眼で見ることができたのは幸せだった。僕が大井と南関東に一番寄り添っていたのもちょうどその頃、それこそブルーファミリーだのコンサートボーイだの、彼もまた脂の乗りきっていた頃だ。その後、各地の地方競馬が軒並み存廃騒動に巻き込まれるようになって東奔西走、近年は北海道に居を移したこともあって以前のように気軽に大井に立ち寄れなくなり、モニタ越しでしか的場(文)を見れなくなっていたのだが、少し前、出張帰りにたまたま時間があいてふらりと寄った大井の最終レースの何でもないC級特別、乗り替わった馬を御して、かたや休みながらも地力の違いで6連勝中の圧倒的な一本人気の馬、そのハナを叩いて勇躍先行、道中もずっと例によって鞍上からの絶え間ない叱咤激励、最後はいつものあの派手な的場ダンスでそのまま持たせて見事に負かす場面に遭遇した。

 いやあ、これぞ仕事師、的ちゃん健在。ええもん見せてもらいました。

 まだナイター開催になる前だったので人もまばらな薄暗いスタンドからあがった、ちょっと似合わないくらいの大きな喚声と拍手は、きっと彼を信じて馬券を買っていたろくでなしたちだったのだろう、明らかに「大井の的ちゃん」に対するめいっぱいの敬意が込められていた。それは、先の東京ダービー、同じく乗り替わりで人気薄のクリスタルシルバーで乾坤一擲、直線いったんは先頭に立っての叩き合い、ゴール前では実況アナまで「的場来たかっ!」と絶叫し、スタンドもまた異様な盛り上がりを見せたのと全く同じ手ざわり、われらが「地元」の英雄としての的場文男に対する名もないろくでなしたち全力のリスペクトだったのだと思う。

 この原稿に手をつけて間もなく、15日の川崎の新馬戦四角手前で彼は落馬負傷、後続馬にも引っかけられたような落ち方でいたく心配されたのだが、そこはさすが的場文男、かなりひどい外傷を負っていたのに騎手仲間に平然と傷を見せていろいろ語っていた由。7月11日のJDDまでには復帰したい、というコメントも聞こえてきている。竹見さんの記録を抜くその日も、そう遠くないに違いない。

*1:掲載稿はこちら「ろくでなし以外も知ってほしい「大井のカミサマ」的場文男の凄さ」 オピニオンサイトiRONNA https://ironna.jp/article/10374 #iRONNA 写真その他ていねいに貼り付けてくれたのは、気心知れたつきあいの長い担当記者の丹精のタマモノ、ありがたし