ナベツネ考(改稿)

――支配階級の隠居は、支配の哲学の監視者である。国家の行く末なんというくだらぬことを考えながら彼が監視するものは、主として“支配の品格”というものである。老人は、近々自分が死ぬのだから、他人の人死になど何とも思ってはおらず、したがって基本的に過激である。

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*1 世に「クソジジイ」と呼ばれる存在がある。

 隠居、などではない。未だ精気もシャバっ気もありありで、全然これっぽっちも枯れたりしていない年寄りである。

 もちろん、意識のありようとしてのトランスジェンダーがうっかりと進行しちまってる昨今のニッポンのこと、これがババアであっても一向に構わないようなものだが、しかし残念ながら、こういうクソババアというのは、“おはなし”という想像力の水準は別にして、未だ現実には存在しにくいものらしい。

 ババアとはその本質としておそらく吝嗇であり、個別具体の方に、ということは言い換えればおのれの日常、身の回り半径五尺程度の関係と空間にどんどん収斂してゆくような欲望のたたみ方をしてゆくものらしい。ぬかみその桶にどっぷり腕を突っ込んでじっとかきまわし続けるような、それ自体が目的化していっても全く気にしないような、生きものとして底知れぬところがある。

 もちろん、そのことの批判力はある。いまどきだからなおのこと。と言って、それをただオンナ目線、フェミニンな態度といった角度から“だけ”称揚するいまどきありがちな考えなしは論外なこと言うまでもないが、その件はまた別の話。この場では措いておく。

 対して、ジジイというのはもっと抽象的である。身のまわりの個別具体をなかったことにして時に破壊的にまで脳天気でさえある。社会的存在としてのオトコ、を永年やってきたことのなれの果てというのは、時に、社会のイメージがそのまま自意識にすりかわってしまうような臨界点を持つものらしい。

 天下国家がそのままおのれになる。まさに世界はおいらのもの。ザ・ワールドイズマイン。もちろんそれは快感であり愉快であり、爽快である。鬱勃たるパトス、と称したようなシロモノもまた、おそらくそのような自意識に宿る気分の高揚感の表明だったのだろう、他は知らず、ひとり当人にとっては。

 とりわけ、選良、エリートと呼ばれ、自身もまたそれを以て任じてきたような経歴をくぐってきた御仁の場合、それがあからさま。社会的な立場というのがすでに仮面のようにおのれの自意識と貼り合わせになっちまってるのが珍しくない。だから、そんな場合は、同じ隠居、であっても、そのような仮面=立場を静かにはずして脇に置くこと、ではなくて、逆に仮面をもっとおのれの身の側に引き寄せてしまう、そうしてどんどん世俗から離れて、結果としてさらに過剰に、いたずらに過激になってゆくこと、だったりもした。

 「クソジジイ」というもの言いは、そのような過剰にしてはた迷惑な老境に対して初めて、〈リアル〉になる。頑固や偏屈、人の言うことなどには初手から耳を貸そうとしない唯我独尊……などなど、世に言われる「クソジジイ」の属性というのは単なる個性、そいつの人格の問題というより、往々にしてそいつがめでたくジジイになる以前、社会的存在としてのオトコ=「オヤジ」、というやつをどのようにくぐり抜けてきたのか、との相関関係で規定されるようなものだった。


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 というわけで、ナベツネ=渡邊恒雄、である。

 発売部数一千万部を誇る、天下の読売新聞の主筆にして社長。俗に“マスコミ界のドン”。もちろんお眼にかかったことなどあるわけもないが、ひとまず、ナベツネ御大、と、この場じゃ謹んで敬意を表させていただくことにする。

 この秋、にわかに政局がらみで一気に注目を浴びた。人呼んで「小沢の変」、あるいは「ナベツネご乱心」とも。先の参院選以降、いわゆる「ねじれ現象」で煮詰まっている政局に、自民党民主党の「大連立」を仕掛けて暗躍、一瞬、事成れり、となりかかったものの、当の小沢一郎民主党代表がなぜか翻意していったんご破算に。

 もちろん、焦点となったのは「政変」になりかかったことそのものよりも、それら一連のすったもんだの背後に、「オレが仕掛けてやってるんだ」ということをさして隠そうとするでもなく、いや、それどころかむしろ喜々としてメディアの表舞台に身をさらしてはしゃいでまわっていた、ご本尊の思惑はともかくこちら側からはそう見えてしまうしかないナベツネ御大の一部始終の身振りや言動が、この劇場型政治のご時世に、われら観客の側の気分を何かしらざわめかせるようなものをはらんでいたらしい、そのことだ。

 ああ、やっぱり、と正直、思った。やっぱりこいつが裏でうごめいてやがったんだな、と。

 あたしだけじゃない、世間の多くもそう思ったはずだ。そうかあ、やっぱりナベツネかあ。ポン、と膝を打つ、腑に落ちる、納得する、とにかくそんな感じ。

 メディアの越権行為だ、横暴だ、許せない、いったい何さまのつもりなんだ、といったマジメな感想も、表のメディアからいまどきのこと、ネットの草莽レベルに至るまで、あちこちで澎湃としてわき起こった。当然だ。やってることは筋道としてはどう見てもむちゃくちゃ、ゴリガン、横紙破りのやりたい放題。マスコミもジャーナリズムもへったくれもあったもんじゃない。

 しかし、である。と同時に、なんだ、またそういうことかよ、やってくれるよなあ、しょうがねえなあ、といった、どこか苦笑いしてしまうような部分も、またあったのではないだろうか。いやはや、やっぱりナベツネだ、まいったなあ、と。

 「クソジジイ」という、すでに滅多に使われなくなっているはずのもの言いは、そんな折り、つい口をつく。老害、耄碌、暴走機関車、などと言っても突き詰めたところの気分は似たようなもの。そう、要は「ったく、このクソジジイは」ということなのだ。舌打ちしながら、それでもどこかで、かなわねえよなあ、というトホホなあきらめ感、と共に。

 ……あ、御大御大、ここは怒っちゃいけない、これはひとまず最大限の敬意も込めて言っているつもりなんだから。今様に言えば「リスペクト」。たとえば、古くは佐々木邦描いた「ガラマサどん」や、木下恵介は『破れ太鼓』のバンツマ、もっと時代をくだればあの『寺内貫太郎一家』の主人公、小林亜星の演じた石屋の親方「テラカン」のような。あるいは、そうだな、若き日の御大が大野伴睦河野一郎といった、政治記者として当時接していた「オヤジ」たちに、おそらく感じていたはずのような――こう言えば、どうだろう、怒り心頭に発するのも少しは猶予してもらえるだろうか。

 今回のできごとの舞台裏の真相を「報道」の脈絡で追及してゆくことは必要だし、政治とマスコミ、権力とメディア、といった見取り図の中で筋道立ててマジメに「解釈」してゆくことも大切だろう。すでにそれは百家争鳴、学者や評論家から市井の「名無しさん」に至るまで、むしろすったもんだが一段落した後の現在にこそ、さまざまな方向で尾を曳いている。で、それはそれでいい。どんどんやってくれ、だ。

 ただ、この場で敢えてこだわってみたい角度は、少し違う。政治的な立ち居振る舞いの具体的なあれこれやこれまでの行状についての毀誉褒貶などはひとまず脇に置いたところで、いまどきこの二十一世紀のご時世になお、そういうコテコテの「クソジジイ」ぶりを平然とメディアの舞台でやっていられる、ナベツネ御大のそのキャラクターとしての部分もひっくるめた存在の仕方であり、そこから引き出して見えてくるそのクソジジイぶりの背景、来歴といった部分についてなのだ。


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 功成り名を遂げた御仁であることは、言うまでもない。

 生年大正15年。当年とって81歳。もとは東京市内の銀行マンの子息。早くに父を亡くしている分、苦労はしたようだが、それでも当時としては裕福な、文字通りの「ブルジョアジー」家庭と言っていいだろう。「戦前」教育の最後尾で私立の旧制高校から東大に入学、戦争末期のこととて地方で勤労奉仕、そこからまもなく赤紙で徴集されて軍隊へ。砲兵だった。反戦学生だったので幹部候補生は志願せずに二等兵でぶん殴られた経験を何度も語っているが、せいぜいひと月ほどのはず。それでも原体験としては強烈なものだったらしい。

 「軍隊」が心底嫌い、というのは、そのように「個人」を、その内面の「自由」を抑圧してくる組織に対する嫌悪感であり、その意味で、戦前の高等教育で醸成されるような人文系「エリート」の自意識のきれいな結晶体。なにせ詩人を志していたくらいだ。その後哲学に宗旨替え。大正デモクラシー以来の旧制高校的な「教養」の雛型そのままに、「自由」を経由してマルクス主義へ。その結果、文学と哲学と政治とが等価に配列されて、ひとりの「人格」において統合すらしてしまう内面があっぱれ完成。そんなのが戦争最末期、おそらくは予備役も何も一緒くた、内務班の荒み具合も極まっていた内地の軍隊に放り込まれたら、そりゃあ、反発しまくるだろう。しかも「天皇」の名においてその抑圧がなされるのだから、反天皇制というだけで戦後すぐに共産党に走った、というのも、まあ、わからないではない。だが、「個人」の「自由」に対する抑圧は当時の共産党のこと、軍隊と全く同じだったから、「内面」の苦悩の果てに理詰めで「転向」、脱党する。そうやって行き着いたのが新聞記者であり、しかも政治記者だったということだ。

 そして、「戦後」の枠組みが形を整えてゆくそのはじまりの時期、未だ「新聞」が正しく社会の木鐸、文字で活字でもの申し、世の中の蒙を啓いて行くことを本気で信じることがまだできていた状況で、それを仕事して世渡りしてゆくキャリアを御大、幸せにも積んでゆくことになる。

 若い頃は、大野伴睦の影の番頭、などと言われていた。自民党と言ってもすでに大昔、ましてや今の、小泉以降、個々の派閥や議員の政治的な思想・信条はともかく、依拠する支持基盤からすれば今やほぼ完全に都市型政党に姿を変えちまった自民党とはまるで違う。「戦後」の枠組みが形成されてゆく中での、それこそ保守大合同前夜からのゴリゴリ「保守」、しかも党人派と官僚派がきれいに分かれてた時代の、そのまさに党人派の代表格だったところにがっちり食い込んでいたというから、その「政治」の原体験自体がすでに民俗資料のようなもの。その意味で、政策研究大学院大学肝煎りの「オーラルヒストリー」プロジェクトの一環として、あのナベツネ回顧録が企てられたのはよくわかる。

 「それで僕は一貫して党人派になるわけだ。官僚派は悪である。官僚派を叩かなきゃいかんと。だから、岸、池田、佐藤を叩く。逆に大野、河野、三木、ああいう連中は善であると。単純だな。(笑)」

 そう、単純である。あきれるほどに。この頃からすでに明快であり、逡巡するところなし。この終始一貫した明快さこそがナベツネ御大の本領。そして、この党人派へのシンパシーも、どこかクラシックな浪漫主義、かつて梶原一騎が奇しくも「ナニワブシヒューマニズム」と表現して見せたような「近代」由来のニッポンの自意識にしつこくからみついているセンチメントにも、もちろん依拠している。

 と言って、傲岸不遜で世事に通じていない、のではない。逆だ。人心を掌握する術は百も心得ている。

 「百人で一万人を動かせること」を政治的実践として認識した、戦後間もない頃の学生運動の原体験はここでも活きている。ただし、敵と味方、役に立つか立たないか、という判断をはっきりした上で「動かす」。その限りにおいて、世間もまた存在する。

 だから、これまで書かれたものの中にも、世情や巷についての目配りは随所に表明され、自慢すらしている。いるが、しかしそれはたとえば、身をやつしての潜行取材やそぞろ歩きの探訪なのであり、その過程で自分の内面が揺らぐことと引換えに何かをつかもうとする、といった「戦後」的な脈絡での「取材」にまつわってくる、言わば私小説的な傾きはほとんどない。それをやらかす自分自身についての自省は、「戦後」的な意味ではほとんどないらしいのだ。

 だから、懲りない。あっけらかん、だ。気分は水戸黄門のおしのびのようなもの。その視線の向こう側に結ばれる「世間」とは、その決して揺らぐことのない「自分」と正確に釣り合う程度に常にのっぺりとしたものでしかなかったりするはずなのだが、しかしだからこそ、御大と共通する自意識をはらんでいたある時期までの「エリート」で「インテリ」な「活字」系自意識の身内、当時のマスコミや「政治」の世間に向かっては、これまた一定の説得力を持っていただろう。

 かくて、おのれは「庶民」そのものでは決してないが、心意気としては常に「庶民」の側に立つ唯我独尊な自分、という自意識は、しぶとくも揺るがない。それは「戦後」的な文脈での左翼/リベラル思想からではなく、戦前の旧制高校的な「教養」文脈から「哲学」経由でマルクス主義に接近、離脱した経緯を介してのもの、であることで、思われているよりずっと大きな距離、落差をはらんだものだったりもする。

 だが、この違いは、しかし今となっては実は、かなり見えにくい。ましてや、「戦後」すらすでにゆっくり終わりつつあるこの二十一世紀のニッポンの〈いま・ここ〉、からは。


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 要するに、ナベツネ御大が未だかくも立派な「クソジジイ」であること、の理由の大きな部分は、戦前の旧制高校的な価値観、世界観を幸せにも保持しているらしい、その点にある。

言い換えれば、かつてなら当たり前に多数派だったような「活字」由来の自意識の、あるウルトラなかたち。大正デモクラシー由来な「教養」主義の王道そのまんま。しかも、それを徹底的に「活字」「文字」で「読む」ことによって摂取する、という信心が強固だった世代。

だからこそ、世界はおいらのもの、と思えてしまう。その昂揚感も、また。「インテリ」「知識人」と敢えて呼ばずとも、別に構わない。そういう「活字」の世間、「読む」ことで「自分」を編み上げてしまった自意識の半径で“だけ“、世界はひとまず完結できていたのだから。

 新聞記者も大学教授も作家も、代議士も検事も弁護士も、商社の重役もあやしげなフィクサーも、世渡りの立場はさまざまでも、もとを糺せばみんな仲間。あの旧制高校の世界観、「栄華の巷低く見て」閉じた別天地で思春期の意識形成をとげた濃密な仲間意識こそが一人称の、そしてそことほぼ零距離で重なることすら可能な二人称の、根拠だった。そして、そこがまた、いっちょ世界をシメてやるか、というやんちゃな欲望=「勘違い」の足場にもなる。

 「君は新聞をおさえろ。僕は金融をとる」といった、まるで一時期の少年マンガのような会話が、シャレでなく本気で熱く交わされ得たような世界。まさに「オヤジ」であり「昭和」な気分横溢。石橋湛山がタバコの値段を知らなかったことを引き合いに出し、官僚出身は世情を知らない、と批判(この批判の文法自体、すでに「政治」報道の場でのフォークロアと化していることも興味深いが)し、そんな自分自身は「ジャーナリスト」であると断固、胸を張って全面肯定。同じ読売でも社会部のエースだった本田靖春黒田清など、現場叩き上げの「戦後」的「ジャーナリズム」観からすれば、「あれは政界の人」の一言で片づけられるようなシロモノなのだが、彼らが社内で煮え湯を飲まされた側ということを差し引いても、むしろそれはナベツネ御大がアカデミズムとジャーナリズムとが明確に別の世界だった戦前の「教養」的世界観のまんま、ずっと戦後を生き続けていた、その栄光でもある。

 何より、「政治記者」ということからして、意味が違う。取材対象に「食い込み」「手入れ」するのは当たり前。、政治をそのように現場で関わりながら動かそうとするのだ。ただし、当事者としてではなく、あくまでも現場に同伴する「新聞記者」として。何も御大だけじゃない。そういう存在がかつて、「大記者」と呼ばれ、称揚すらされていたのだから。

 「“ネタをとること”という本来の職務に基づく政治家・行政官とのつきあいの中で、いつしか自らも政治・行政の重要な構成部分と化していく。かくて政治・行政の客体から主体へと転じたとき、政治記者が“書く”行為それ自体が、“手入れ”と同じ意味内容を持つことになる。そしていつのまにやら書くことは後景に退き、“手入れ”に専念するといった事態になってしまう。」(御厨貴「解説」より『渡邊恒雄回顧録』)

 当事者として政治や行政の責任をとれるわけでは、もちろんない。俗に「黒幕」「フィクサー」などと呼ばれる存在にも等しい。しかし、それが新聞社の名刺を持って「記者」として白昼、堂々と立ち回っていることはまた格別。ましてや、つきあっていたのが党人派中心。明治生まれのコテコテの「オヤジ」がオトコ盛りの元気いっぱい、そのまんま昂然、跋扈していたのが、当時の「政治」の場だったのだからして。そんな界隈で「活字」の自意識の身幅めいっぱいに風をはらみ、幸せいっぱいにふくらんでいったのが、かのナベツネ御大の自意識だった。


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 新聞は滅びない、と、いまどきまだ、本気で言える数少ない御仁でもある。

 かつて、テレビが新聞を駆逐する、と言われたけれども、そうはならなかったじゃないか、逆に新聞の部数は増えている、「テレビがどんなに盛んになっても、民度が上がりましたから、新聞の購読者が増えるんです。」テレビをインターネットに置き換えてもこれは成り立つ――彼はそう言うだろうし、実際ほぼそのような意味のことを平然と言い放って恥じるところもない。

 そのゆるぎなさにまた、素直に敬服する。しながら、やはり苦笑いも。「活字」主体でつくりあげられてきた自意識のその強靱さ、まるで甲冑をまとったシーラカンスのようなしぶとさを目の当たりにして、改めて「クソジジイ」とつぶやくしかない距離感。だが、二十世紀も末、90年代に至ってようやく御大が現実に読売新聞を支配する立場になり、1000万部をわが手に収めた、と思うようになった瞬間から、そんな距離感はひとり「インテリ」「知識人」界隈のみならず、広く世間に共有されてゆくものになっていった。

 そう思えば、「大連立」構想自体三十年前からの持論。今回も、夏頃からちらほらメディアで発言、安倍内閣に対しても働きかけていたのが、安倍の辞任、福田内閣成立で一気に加速、福田首相に対しては森元首相を介して、小沢一郎に対しては自ら何度か会って工作していたというもの。いかにやんちゃで独断専行でも、一介の政治記者だった頃ならともかく、功成り名を遂げた今となっては隠密行動などできるわけもなし。楽屋から舞台裏まであらかじめメディアの領分と化したいまどきの情報環境では、「黒幕」や「フィクサー」もまた、このように衆人環視の中に置かれ、身振りもの言いひっくるめて「キャラ」として消費されるしかない。そういう時代、そういう現在、なのだ。

 だが、そんな現在を理解してゆく上で重要な補助線である「情報環境」という枠組みは、御大にはおそらく見えていない。それが「活字」の幸せな世間をどのように浸食しつつあるのか、についても同様。「活字」を「文字」を、御大とその同時代が必要としてきたようには、もはや世間は大勢として必要としなくなってきていること。「読む」ことの意味そのものから根こそぎ変りつつあること。そして、「政治」もまた、そのような情報環境の変貌の中でその存立基盤から静かに煮崩れ始めていること。御大自身、プロ野球ジャイアンツがらみで、スポーツ紙やワイドショー主導で「ナベツネ」と呼び捨てにされ、平然と“いじられる”ようになっていったことの意味とは、そういうことでもあったはずだ。

 実は、ナベツネ御大というのは、小沢一郎などよりずっと「壊し屋」である。少なくとも、90年代このかた、「戦後」の枠組みが煮崩れてゆく過程で、功成り名を遂げた彼が関わり、仕掛けてきたことの多くは、結局はぶち壊しとしか言いようのない結果をもたらしてきている。

 まず、誰もがうなずくプロ野球は巨人軍の凋落ぶりはもちろん、相撲じゃ横綱審議会に首を突っ込んだ頃、外国人力士などの問題ですったもんだの種をまき、Jリーグ創設時のプロサッカーもまた、川渕チェアマン以下リーグ中枢の構想と正面衝突して半ば離脱……とまあ、本業(と彼が自負する)新聞経営と、本来の生態系の「政治」以外の分野じゃ見事なまでな「壊し屋」ぶり。まさにナチュラルボーンターミネーター、だったのだ。

 その「壊し屋」ぶりが、ついにその本丸「政治」の場にまで波及してきた、それが今回の「大連立」騒動、の、ある本質でもあった。


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 やはり、今回の「大連立」騒動は、工作としては未遂に終わったけれども、ある意味「政変」だった、と思う。メディアの側がそのような工作を意図的に「仕掛ける」ということが、これまで考えられなかったくらいあからさまに白日の下にさらされてしまった、そういう情報環境の現在を期せずしてあらわにしてしまったという、その意味においてだ。

 黒幕であれフィクサーであれ、どだいその工作が一部始終、こうまでバレていては話にならない。おそらく、当人はバレるつもりはないのだろう。昔と同じように立ち回り、仕掛けてまわっている気かも知れない。なのに、現実には尻尾出しまくりの足跡つけまくり。フリチンで往来を闊歩するようなものだ。

 それを耄碌と呼ぶのはたやすい。だが、おそらくそれではことの半分で、そんな彼、ナベツネ御大の眼に映じている「政治」こそが、今回の「大連立」騒動を貫く“謎”の本質である。

 これまでまとまって資料化されている彼についての記述、言説の多くが、小泉内閣成立までの時期のものである以上、それ以降、ニッポンの「戦後」「政治」が見せていった変貌の過程を彼がどう見ているのか、そしてその果ての現在に御大、どう関わってやろうと目論んでいたのか。そこに焦点を合わせられなければ、延々三十年越し、「戦後」パラダイム健在なりし頃から「大合同」「保革連立」を夢見てきたことのなれの果てさ、しょせん、「単なる耄碌ジジイ」「時代遅れの妄執」といった、通りいっぺんの陳腐な解釈しか出てこないままだ。

 繰り返す。彼、渡邊恒雄の眼に見える現在が、その「政治」の風景とはどのようなものなのか。同じ時代を生きていながら見ているものがまるで違っているのならば、その「違い」が果たしてどういう背景、文脈によるものなのか。それこそが、解明すべき問いである。そしてそれは、今のニッポンの現在、〈いま・ここ〉に否応なしにはらまれてしまっている「歴史」の層を、「オヤジ」「クソジジイ」といったもの言いを媒介に「発掘」してゆくことでもある。

 そのことは、おそらく当の現役の政治家連、小沢一郎小泉純一郎は言わずもがな、福田康夫や森善朗ですら、皮膚感覚として感じ取っていることのはずだ。〈いま・ここ〉の永田町の〈リアル〉と御大との距離。けれども、未だそんな距離など「そんなの関係ねえ」とばかりに一気に乗り越えてしまうくらいの“力”をはらんだ主体であることも御大、また確かだったらしい。どうしてそんなに自信満々、決め打ちしてこれるんだ、とあきれながらも、まずはシャッポを脱がざるを得ない「クソジジイ」。だからこそ、あの小沢も御大の提示した「大連立」に一度は乗りかかったのだろうし、福田もまた、賭けてみようとしたのだろう。御大の側から見た「政治」の現在は、おそらく「大連立」を仕掛けて何か変えねばならないように見えたのだろう。そして、その意図についても、確かにある自信があったのだろう。少なくとも、御大自身にとっては。

 まさに、マイダスタッチ。手に触れるもの、関わるもの全てを「オヤジ」に、「昭和」の「戦後」の枠組みの内側にあるように変貌させてしまうかのごとき、底知れぬ“力”の持ち主。その“力”が、プロ野球だの相撲だのといった世の中を支える要から遠い領域、言わばサブカルチュアの領域から始まって、ついに「政治」の場にまで及ぶようになってきた。改めて、今回の「政変」の示している時代の比喩とは、その程度に「戦後」の枠組みがほんとうに終焉を迎えつつある、ということだったのだと思う。

*1:「クソジジイ」をめぐってちと紛糾したので改稿。主な改編箇所はイタリックで