〈おんな・こども〉ということ

 〈おんな・こども〉というもの言いがあります。というか、ありました。

 今やうっかり使おうものなら、文脈その他すっ飛ばして、とにかく「使った」ということ自体でえらいことになりかねない、そういう意味ではすでに死語というか、それこそ「ポリコレ」(ポリティカル・コレクトネス)的に「あってはならないもの言い」のひとつとして登録されてしまっているようです。

 この場合「おんな」も「こども」も、少なくとも正規の「おとな」として一人前に扱えない、という意味でのひとくくりになっていて、そこで想定されている「おとな」とはひとまず男の成人でした。つまり、「おとな」というのは男の成人を雛型とした、社会を構成している正規のメンバーである、という約束ごとがまずあって、そこから外れる〈おんな・こども〉はそういう「おとな」に守られるべき、社会にとっては〈それ以外〉の存在である――ざっとこういう理解がかつてはわれら同胞の間に当たり前に共有されていたらしい。

 こういう説明をすると、なにそれ、男でも女でも子どもでもみんな同じ人間、同じ「個」なのに「平等」に見ないなんてひどい、民主的じゃない、といった違和感がいまどきのわれらのココロの裡には即座に湧き上がるようになっています。もちろん、もはやそんな時代ではないし、〈おんな・こども〉もそれぞれに社会的存在として生きてゆくべき、という考え方こそがいまどきの当たり前。かつて一方的に守られる立場とされていたことと引き換えに引き受けざるを得なかった窮屈や拘束、不自由などもまた自らの意志によって脱ぎ捨て克服し得るもの、と素直に思うことのできるような教育が戦後このかた、単に学校のみならずわれわれの社会ぐるみで積み重ねられてきた。そのことの果実もまた、誰もがいま、ひとまず概ね前向きに自覚できることになっているはずです。

 ただ、だからこそ、立ち止まって問い返しておかねばならないこともある。

 かつて、そうやって勝手に守られるべき存在になっていた〈おんな・こども〉は確かに不自由で、いまのわれわれの感覚からすれば気の毒な境遇に生きていただろうし、彼らを守るべきとされていた側の「おとな」もまた、同じような不自由や窮屈を抱きながらその当時の当たり前の間尺に殉じながら生きていたのだろう。それらは共に、いまのわれわれの当たり前からはほとんど見えなくなりつつある、そんな「かつての当たり前」という厚いカーテンの向こう側に頼りなくゆらめいている影のようなものでしかない。

 けれども、いつの時代もその時代ごとの当たり前があり、その当たり前の間尺でしか生きられないのが人の運命なのだとしたら、かつての〈おんな・こども〉にとっての「個」のありようや、そこにまた当然宿っていた「自由」などもまたあり得たかも知れないのだし、同じく当時の「おとな」も、〈おんな・こども〉を守らねばならない、という縛りの内側で抱いていた「個」があったと考えていいはずです。なのに、今のわれわれは、そのような「かつての当たり前」の向こう側にまで想像力を届かせることがどんどんできなくなっているらしい。あらゆる「情報」が大量に、素早く手もとに集められるようになったと感じられるいまどきの情報環境がうっかり実現している、こちらの預かり知らぬ間にどんどん勝手に解像度だけが高くなってゆくような日常のこの奥行きも翳りもなくなってゆくいたたまれなさと引き比べながら、そう感じています。