西部邁、逝く

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  西部邁さんが、亡くなりました。

 遺書めいた書きものも残して厳冬の多摩川に自ら飛び込むという、自殺に等しい最期だったということですが、そのへんの詳細はとりあえず措いておきます。

 「思想家」というもの言いも「文学者」「哲学者」などと同じようにずいぶんと安っぽく、かつ陳腐な響きを伴うものになってすでに久しく、いまどき自らそう名乗る人がたはよほどの鈍感か厚顔無恥、ないしはそれら思惑がひとめぐりした果てのいらぬ戦略や当て込みを先廻りして計算して見せるような猪口才漢と相場は決まってますが、西部さんの場合、この訃報が新聞など報道記事の中にこの「思想家」の肩書きが附されているものがあったところを見ると、通りいっぺんの「評論家」などとは別に、まだ「思想家」というもの言いの内実と釣り合うギリギリのパブリックイメージが彼自身の生身に共有されていた、ということかも知れません。

 巷間、「保守」思想を代表する論客(このもの言いも同じく陳腐化してますが)ということになってました。すでにご長寿番組の範疇に入るようになったあの『朝まで生テレビ』などで、一見穏やかな顔つきでやりとりしながら、ことばやもの言いの端々に鋭くからみつくような調子を取り混ぜて、いずれいまどきのメディア芸人揃い、その場その刹那の「ウケ」や「ノリ」任せのうつろなおしゃべり繰り出し合うばかりになっている情けない「場」でも、観ているこちらには時に確実に響く生身を伴ったことばを届けていました。そういう意味では、「有名人」で「文化人」であっても生身のありようと共にイメージされている、「昭和」の情報環境出自なインテリの最後のひとり、だったような気もします。


 個人的には、かつて歴史教科書をめぐって物議を醸した「あたらしい歴史教科書をつくる会」がらみで、公民の教科書をぜひとも西部さんに、ということを強く主張して、つくる会との間を僭越ながら取り持つような役回りになっていた時期、割と親しくおつきあいさせてもらったこともあり、いわゆる「西部スクール」と呼ばれる、大学で教えていた頃からの言葉本来の意味での愛弟子の人がたも含めて、西部さんとそのまわりの人がたの雰囲気などはある程度肌身で感じることができたのはありがたいものでした。

  反面、「思想家」稼業でのつきあい、文芸評論家やその界隈の新聞記者や編集者などとの局面はあまり知らないままだった。折に触れ、その著書や講演その他で彼が繰り返し言及していた「酒場でのつきあい」なども、その現場に居合わせたことは正直、そう何回もありません。むしろ、印象に残っているのはご家族との手放しの親密さの表現、殊に娘さんに対する相好の崩し方などは、申し訳ないですがこちらなどがちと引いてしまうくらいの素朴さ、純朴さが横溢していて、ああ、このへんはやっぱり故山口昌男さんなんかと同じ「北の人」、ご当地北海道出身の知性ならではの公私の切り分け方というか、最も等身大の生身の「私」のところで拭いきれない何ものか、が感じ取られたものでした。

 「保守」という看板をある時期以降積極的に引き受け、また自らそれを良くも悪くも独自の文脈で使い回すようにも晩年、なっていったように思いますが、その思想的な内実については、実はそういう巷間思われているような「保守」の輪郭とはあちこちズレるような、時に矛盾と見えるところがあったかも知れない。おそらく自身、そのへんも織り込み済みだったのでしょうが、むしろそういう「保守」看板での思想沙汰から入って理解しようとすると、先に触れたような生身の「私」のありようが見えにくくなるような気がしないでもない。ことばやもの言い、表現全般にそれら生身が反映されていた「思想家」だったはずなのに、このへんの生身の「私」の重層性のような部分は、いまどきの情報環境を介しての「思想」表明にまつわる本質的難儀として、残された問いのひとつになるように思っています。

 今でも覚えているのは、離婚したということを伝えた時、「キミはまた、とてつもないことをするもんだなぁ……」と、さもさも呆れたような嘆息と共に言われたこと。彼の説く「常識」の根ざすところを、未だ何ものにも邂逅していなかった若僧に教え諭してくれるような、親戚よりもさらにずっと近しく、また厳しい口調でした。

*1:晩年、何やらブルース・ウィリスみたいになっとったが、自分の知る西部邁はギリギリこの頃のこういう相貌だった。