「セクハラ」雑考

 「セクハラ」が、日々あちこちで喧伝されております。

 テレビや新聞、週刊誌といった既成のマス・メディアは言うに及ばず、いまどきのweb環境での各種情報発信、既成メディアにぶら下がる、あるいはそうでないものも含めて公的私的入り乱れての複合環境で、とにかくもう各種「セクハラ」が同時多発に語られるようになっている。こういう情報環境のさかりのついた犬猫並みの発情っぷりは、メディア・スクラムなどと小賢しく言うまでもなく、そうやって報じられているのがいかに大事なできごとであろうとも、受けとる側にしてみたらみるみるうちに辟易させられるのがお約束。報道されることとされないことの間にこういう鈍麻感、食傷感覚が広く横たわるようになっている経験も、思えばもう日常化して久しい。

 つらつら眺めていて感じるのは、あれこれ取り沙汰されている各界御仁、政治家や官僚、芸能人その他の個々のやらかし具合はさておき、それらをとにかく「セクハラ」というもの言いに反射的に紐付けるようになってしまっている、メディアも含めたその発情ぶりの方です。字義通りの「セクシャル・ハラスメント」という以上に、何か別の意味あいが、騒いでいる人がた自身も意識せざるところも含めて、込められているとしか思えない。言ってしまえば、生身のニンゲンというやつは存在しているだけで平然と性的である、というあたりの〈リアル〉について、われら同胞たちが昨今どれくらい混乱せざるを得なくなっているのか、さらにていねいに言うなら、そういう種類の〈リアル〉を意味づけて安定させ制御させてゆくためのことばともの言いの作法それ自体が、すでに〈いま・ここ〉と乖離したまんま役に立たなくなっているということの反映のように見えます。

 たとえば、政治家にせよ財界人にせよ、いずれそういう「エラい人」なら妾のひとりも持って何も不思議はなかった。「蓄財」と同じように「蓄妾」というもの言いもあったし、そのようにして生きてゆく人生もまた当たり前にあり得た。それらが現在のものさしからして不適切なものであったとしても、かつてそういう〈リアル〉もあり、それでまわっていた現実は確かにあったということは、まず認めねばならない。その上で、オトコとオンナが別の現実、異なる世間をそれぞれ生きていて、それもまた言わずもがなの当たり前として共有されていて、だからこそわざわざつぶさにことばにしなくてもよかった状況からすでに遠く、それら棲み分けられてきたそれぞれの〈リアル〉を「翻訳」してゆくためのことばやもの言いが切実に求められているという現在を認識することから、共に始めねばならないはずです。

 なのに、未だそんなことばは見つかっていない。性的存在としてのニンゲンということを、いまの時代のこのような情報環境で生きている感覚にできるだけ即したところでことばにしてゆくことができないまま、それらに由来する不快感や違和感、不信感などいずれネガティヴな感覚だけが、正当に意味づけられないモヤモヤとして〈いま・ここ〉に鈍く充満している。「セクハラ」というもの言いだけがこうまでお手軽に氾濫するようになった背景というのも、ある水準ではそのような「穏当なことばやもの言いの不在」がどうやら横たわっている。

 かつて戦争に負けた後、「封建的」というもの言いが流行したらしい。あ、それって封建的だよね、というひとことで何かわかった気になれた、〈いま・ここ〉の感覚にそぐわない不愉快な感じを当座ひとまず「そういうことだよね」と意味づけて流してゆくことができた、そんなものだったようです。「セクハラ」もまた、その「封建的」とよく似た当座しのぎ、急場を間に合わせる絆創膏(これももう説明しないとわからないかも)的なもの言いとしてだけ、web含めた最先端の情報環境に蔓延している。その程度にわれら同胞、母語であるはずの日本語環境の「改革」には未だこれといった成果をあげられていないまま、21世紀の〈いま・ここ〉を不機嫌な顔で生きているようです。