生きものの「死」の現在

 先日、猫が一匹、亡くなりました。新千歳空港の駐車場で推定生後2ヶ月くらいで拾って以来18年、概ね老化と老衰の結果で、まずは大往生と言っていい逝き方でした。先に昨年9月、これは名寄の保健所でわけありの飼育放棄で保護されていたのを縁あって引き取ってきた推定11歳の黒猫を、共に暮らして2年半で見送っていましたから、これでもう身のまわりに生きて動いているものはとりあえずいなくなったことになります。

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 日々の散歩が日課にならざるを得ない犬と違い、猫の場合は外との出入り自由にしているならまだしも、アパートやマンションの部屋飼いの場合はそれを介しての知り合いや顔見知りが増えることはまずないですし、だから亡くなったことをわざわざ話すこともないのですが、それでもどこかでふと口にしたその死に対して、まわりの人たちが実に丁重に、心を込めたお悔やみを言ってくれることにはちょっと驚いたりしたものです。まるで人間の身内が亡くなったように、いや、むしろ印象としてはそれ以上にこちらの心中を気遣ってくれるその態度に、もしかしたらわれら日本人にとっての「死」とは、いまや人間を介してよりもむしろこれら犬や猫、ペットなどの生きものを介して初めて、最も「同情」のもの言いに等しい何ものか、を実感しているのかもなあ、とさえ感じたものです。

 思えば、猫に限らず犬はもちろんその他各種ペット一般、それら家の中で生きて動く生きものと共に育つ子どもらもあたりまえになっている。なにせ少子化の進んでいるご時世のこと、かつての兄弟姉妹に代わってそれらペットと最も身近な関係を保ちながら大きくなって、できればそれら生きものに携われる仕事をしたい、と獣医やトリマー、動物園の飼育係などを志望する若い世代も増えていると聞きます。子どもたちだけでもない。年寄り高齢者の側もまた、それら犬猫ペットの類と共に生きるようになってきている。介護系も含めた高齢者施設などでも、それら犬や猫、生きものの類を定期的にさわってもらえるような機会を作ったり、身近に共にいられるような環境を整えたりすることで、メンタル面での安定に大きく寄与するようになっているといった話も耳にします。事実、ホースセラピーのように、具体的な医療や治療の局面でそれら生きものが積極的な役割を果たせるような試みも国内で近年、研究が進んで実際の事業も積極的に推し進められるようになっている。生きものと共に生きる世間は確実に拡がりつつあるらしい。

 「死」についても同様で、今回やや立て続けに二匹を見送ったことで、ペット斎場の類の昨今の充実ぶりにも改めて眼をみはりました。人間の「死」の「処理」の作法がどんどん簡素化簡略化され伝統的な儀式儀礼が省かれた「家族葬」的なものへと移行しつつあり、それに伴う「葬式」ビジネスも大きく変貌しつつある昨今、人間ではない、でも共に生きてきたそれら生きものの「死」を悼む作法はある意味人間以上に充実し始めていて、ビジネスとしても確実に拡がりつつあるらしい。たとえば、いわゆる宗教の影はそこにはほぼ薄いか、あっても希望によって読経等が加えられる程度の「オプション」でしかない。昨今の「家族葬」的なものに求められている「死」を「処理」する形が、そのかなり本質的な部分だけ抜き出されて商品として提供されている印象です。墓所も用意はされていますが、聞くと遺骨は、それを使った小さなモニュメントやアクセサリー的なものにすることも含めて、持ち帰って身近に置いておく人が多い由。このあたりも含めて、今後はむしろ人間の「死」の側がそれら生きものの「死」にまつわる作法に影響され、包摂されてゆくような気配すら感じられるものではありました。機会があればこのへん、また改めて。