「古本」の記憶


 古本とのつきあいは、それなりにある。致し方ない、それだけ無駄に長い間生きてきちまった、ということだろう、今となっては。とは言え、偉そうに言えるほどのことは何もない。

 初めて古本を買ったのは――ということは古本屋に自覚的に出入りしたということだが、記憶にある限り高校三年生の夏。わけあってにわかに大学受験をしなければならなくなった頃だ。(このへんの事情は略す) 

 とは言え、昭和50年代初め、しかも兵庫県の凡庸な公立高校のこと、予備校だの通信添削だのさえ学校の進路指導にはロクに情報もなかったから、あれはなぜそうなったのか今でも不思議なのだが、まあ、おそらく何かツテがあったのだろう、京都は百万遍の寺の離れを借りて、ラグビー部の仲間のひとり、真面目なプレイぶりで監督の信頼篤かったが、その分、スクラムハーフに必須な狡猾さやあざとさに欠けるところのあった小柄な好漢と共に十日ばかり泊まり込み、京都は駿台予備校の夏期講習なるものにおっかなびっくり参加してみた、その時だった。

 志望校も何も、特に考えてはなかった。けれども、何となく東京に行くものだとは漠然と思っていた。これまた、なぜかわからない。オヤジが東京の大学を出ていたし、また自分自身も生まれは東京の高度成長期は転勤族の息子でもあったから、東京に「帰る」という感覚もあったのだろう。

 ただ、「大学」という場所自体になじみはあった。当時住んでいた家のすぐ裏に、関西ではそれなりの私立大学もあったし、小学校の頃から遊び場にもしていた。小学校二年で神戸からそこに引越してきてから、ざっと半径二㎞程度の範囲に小学校から中学、高校、大学まであるような地域だったので、日々の通学、小中高校と足かけざっと十年間、その大学のキャンパスを家との往き還りに通っていた。

 確かその大学のプレハブ造りの生協に、当時学生向けに出ていた筑摩書房太宰治全集の廉価版を、小遣いためて揃いで注文したのを覚えているし、グランドの脇にあった「トンキン」という学生食堂は、太めの蒸し麺っぽいやきそばが喰い盛りのガキにはいたく感動的な味で、練習帰りなどそれなりに入り浸ってもいた。その程度に日頃からなじんでいたから、そこに行こうと思ってもよかったはずなのだが、なぜか最後まで本気の志望校にはしなかった。まあ、腕試しのつもりで受験はしたのだけれども。

 通っていた高校も県立ではあったものの、特に進学校というほどでもなかったし、普通科の男子のざっと六割くらいは進学していたとは思うが、それも浪人含めてのこと、女子は三割あるなしじゃなかったろうか。もっとも、そんなことも当時はほとんど意識になく、三十年以上たってから同窓会に初めて呼ばれた時に、自分などよりずっと世慣れてごく世間並みのおっさん、おばはんになっているかつての同級生だった連中の顔つきや身のこなし、その卒業以来の来し方の断片などを眼前の事実として見聞きさせられながら、改めて気づいたような迂闊さなのだが。

 で、その京都だ。夏期講習に通った10日ほどの間、寺は泊めてはくれたものの食事は外食だったので、なにせ場所が百万遍京都大学のお膝元ゆえ、メシを喰いに定食屋に出かけたり、喫茶店に入ってみたり、まあ、「大学生」というのはこういう感じの日常も送るものなんだろう、とその頃勝手に思っていた行動様式の一環で、古本屋ものぞいてみたのだと思う。

 どこのどんな古本屋に入ったのか、すでに覚えはない。間口二間ほどのよくある、中の薄暗い店だったな、という程度だ。だが、買った本は覚えている。寺山修司『書を捨てよ、街へ出よう』。角川文庫版の裸本だった。今も発掘すればどこか手もとにあるはずだ。値段は、確か数十円、高くても百円台だったろう。読んで中身に感銘をうけた――というならサマにもなるが、正直そうではなかった。あ、いや、感銘は受けるには受けたけれども、ただ当時はそれ以上に、自分の意志で選んで買った文庫本、ということの方が大きな意味を持っていたらしい。それが証拠にほれ、何かのお守りのようにして、講習に通う間ずっとカバンにしのばせていたはずだ。

 こういうお守り的に本を持ち歩く、という妙な癖は小学生の頃からあったようで、草下英明の『星座の話』とか、自前でビニールのカバーをこさえてかけて、割と肌身離さずといった風に大事にしていた記憶がある。ある種のフェチ、というか単なる「ライナスの毛布」だと思うが、それが活字を印刷した本だった、というあたりの理由については、その後だいぶ甲羅を経るまで、あまり深く考えたことはなかった。

 とは言え、どこかに、「大学生」は文庫本を読むものだ、というイメージもあったのだと思う。岩波文庫星一ついくら、といった、当時すでに実際的な意味のなくなっていた、でもその少し前までの学生作法、戦前昭和初期このかたの「文庫本」に伴っていたささやかな約束ごとなどと共に。

 おそらく、なのだが、母方の実家が敗戦後の一時期、北九州は八幡で書店を開いていたことがあり、また母方の兄弟もみな当時の大学出だったりしたから、そういう「学生」文化の片鱗みたいなものは、何となく耳にしてきていたのだろう。ちなみに、オヤジも大卒だったが、こちらはラグビー馬鹿のなんちゃって組、そういう「学生」文化の家庭内での伝承についてはほとんど寄与してくれなかった。なにしろ、本棚もなく蔵書の類もまるでなかったくらいだ。

 されど、京都の蒸し暑さと会話も聞こえないぐらいのクマゼミの喧噪とに彩られた、もはや遠ざかってしまった記憶の銀幕に、初めてまともに口にしたアイスコーヒーの味や香りと共に、陽に灼けて赤茶けてヨレた裸の角川文庫のたたずまいは、それなりに鮮やかに残っている。おそらくこの先、ボケたとしても、くたばるまでこのやくたいもない脳みそにしみついたまま、共に焼き場の窯で煮えて果てるのだろう。


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……てな、よしなしごとばかりじゃ、さすがに申し訳ないので、少しは古本そのものの話もしておく。一応は縁あって渡世の看板にさせてもらってきた、民俗学と古本の関係、など。

 民俗学というのは「あるく・みる・きく」がモットーなわけで、かつては紙と文字の「文書」資料を使うことすら、民俗学としては外道として忌避されていたくらいだ。そんな馬鹿な、と言うなかれ、それくらい本邦の民俗学の来歴には、「学」としっぽにつけられる看板とは縁遠いあれこれ世間一般その他おおぜい、まさに「常民」通俗インテリ集団ならではの身ぶりや言動、挿話の類が、ちょっと気をつけて振り返るならば、そこここに平然と転がっている。

 なので、本業としてであれ趣味であれ、古本の話を民俗学界隈の人がたと親しくした覚えは、実は相当に少ない。というか、考えてみたら民俗学その他ガクモン界隈どころか、いわゆる古本趣味者、そういう人がたの拠る雑誌や媒体も含めて、それら界隈に知己を得たことからして、ほとんどないのだ。マメに展示会に通ったりもしなかったし、目録を取り寄せてはいたが、特に何か目標を決めて蒐集したこともあまりない。初版趣味は全くないし、雑誌を通しで揃えたいという欲望も正直、薄い。何より先立つものの都合、財布のあんばいによって買えるブツも初手から決まってくるのが常だったから、何か仕事の必要が生じてしらべものの一環として、手に合う範囲でぽつぽつ拾ってきたのが大方。そういう意味では古本趣味者としても相当に片輪者のはずで、あまり表だって言えるようなブツも挿話も持ち合わせていない。

 ただ、これまで書き散らかしてきた古証文と化した反故の中から、これをあげておくのは、少しはお役に立てるかもしれない。いまからもう三十年ほど前、まだご存命だった赤松啓介翁と親しくおつきあいさせていただいていた頃の、ささやかな果実。無理を言って東京にお招きして胡乱なイベントをやったり、当時売り出し中だった上野千鶴子との対談本を仕掛けてみたり、と例によってのあれこれ野放図を臆面なくやっていた時期の、それでも古本とのつきあい方、それも制度のたてつけに守られたいわゆる学者や研究者というのでなく、そんなもの全部とっぱらったところでの独立独歩、「ひとり」の独行者としての知性にとっての、本邦古本市場という無駄に時間を経過してきている分、その堆積の重層した茫漠無辺な書庫――昨今の言い方に従うのなら「アーカイヴ」とのつきあい方について、その果実と共に具体的に教えてもらった、自分にとってはその痕跡ということになる。

 初出は、確か『マージナル』09、現代書館、1993年10月、のはず。「はず」というのも情けないが、手もとの原本が昨年来、某大学との係争からみで大学に拉致されたままになっているので、おいそれと参照して確認できない事情ゆえ、どうかご容赦いただきたい。以下、手もとのデータ原稿を、そのままお示ししておく。


解説・赤松啓介『神戸財界開拓者伝』 - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/19930712/p1

 民俗学者赤松啓介の最良の仕事は何か、と問われれば、迷わずこの『神戸財界開拓者伝』を推す。


 初版は一九八〇年七月、神戸市長田区の太陽出版から出されている。箱入り六五九ページの布装。色はなんというのだろう、ひとまずダークブルーと言っていいのだろうが、しかし紺や藍といった系統でなく、むしろもう少しバタ臭い印象の微妙な軽さ明るさのある青だ。背表紙だけは金文字押しだが、それ以外は裏表とも何も書かれていない。社史とか業界史といった書物に通じる地味な造本である。奥付には「頒価三五〇〇円」とあるから、一般書店に卸され市販されたというより、むしろ関係者とそのまわりに限定販売のような形で流通したものらしい。今でも古書展でそれほど高い値段がつけられているわけではないが、部数自体が限られていたのだろう、とにかく見かけることはまれである。


 僕は神戸のある古本屋の棚の隅で見つけ、あれは確か土曜日だったと記憶するけれども、とにかく手持ちの千円札一枚を手付けがわりに怪訝な顔する店のオヤジに押しつけ、銀行のキャッシュディスペンサーが閉まる直前に駆け込んでカネを引き出し、ようやくわがものにした。後日、赤松さん自身に実物を見せたら破顔一笑、「あんた、ようこんなもん手に入れたなぁ」とおほめにあずかった。


 もともとは、神戸商工会議所の機関誌『神戸商工会議所報』に、一九六二年から一〇年あまりにわたって連載されたものであるという。

 「本書の執筆に当たっては、過去の人物であるにしても、その評価は公正であるべきが当然であり、ためにそれなりの資料を蒐集することには努力した。既刊の文献、記録のみでなく、故人関係者や産業伝習者の聞書を採取するのに努力したのも、その例である。しかし人物評価は、昔から棺を覆って後に定まるというが、なかなかどうして百年後を待っても難しいだろう。また蒐集した素材が一面に偏傾することもありうるわけで、要するに執筆者の感想というより他あるまい。」

 その資料の厖大さは、巻末に二〇ページにわたり付された「引用、参考図書及び文献目録」からもうかがえる。「これら神戸産業経済関係の資料は約二万冊ほど蒐集したが、それについては古書店、とくに神戸のあかつき書房、ごらん書店、岸百艸書店、白雲堂書店、加藤書店、勉強堂書店、大阪の松本中央堂書店、高尾書店、東京の岩南堂書店、松城堂書店、熊一書店、慶文堂書店、慶応書房、札幌のえぞ文庫の皆さんにいろいろと協力してもらった。なかにはまだ支払の延滞、未払いで迷惑をかけているのもある」と、自身述べているように、一九六〇年代から七〇年代にかけての時期、赤松さんにとっておそらくもっとも精力を傾けた古書蒐集作業の上に成り立った仕事であることがよくわかる。

 「ただ断わっておきたいのは、開拓者伝は人物の戸籍的調査を一切避けている。各種の人物伝記を読むと、同一人物についての出生地、生年月日すら異なるものがあった。これはその著作者の探査不足というよりも、むしろ本人自身が明確にしなかったのであろうと思われるものもある。しかし興信所的な戸籍調査によって解決できる場合もあろうが、開拓者伝としては、それはさして必要ともみられない。したがって出身地や戸籍、生年月日、その他について異説のあるものは、比較的信頼度の高いものを選ぶか、いくつかの異説を並記するにとどめた。あえて調査の繁を厭うたわけでなく、ただその必要を認めなかったまでである。最近の伝記的作家たちの一つの傾向として、その人物の父祖、誕生、成長の秘事、あるいは出身地の環境のまで剔出し、それが後年の人格形成や事業の経営にまで影響を与えるとみて、仮借なく暴露する風が増えてきた。そうした必要のあることもわかるが、しかし単なる好奇心の挑発、あるいは読者への過剰な媚態というべきものも多い。著書を売りたいための一つの手段に化したとすれば、対象となった人物や遺族の迷惑も大きいであろう。したがって是非とも必要としたい読者は、その限界を心得た上で、自身で調査して欲しい。ときどき私にまで、そうした人物の秘事に渉る照会や調査不足の批判があるからだ。」

 とは言え、「家の神話、伝説的な部分まで、そのまま認めることは拒否している。」やれ、家はもともと清和源氏の出であるとか、どこそこの名家の末裔であるといった類の「伝承」は、こういう調べものをやっていると必ず当事者から真顔で聞かされるものだが、赤松さんはその種の「伝承」については慎重に相対化している。その相対化のための補助線として、「書かれたもの」についての作業がある。


 文献資料とひとくくりに呼ばれる「書かれたもの」の集積、相互引用と、それによって作られるある事実の磁場に、未だ「書かれたもの」になっていない経験、広義の伝承、記憶などを引き寄せ、その磁場の筋目に沿った方向に編み直してゆく。しかしそれは、偏狭な事実主義、杓子定規な科学主義に立つものでなく、現在から過去を組み立ててゆくという作業に本質的に内在する限界についての、もっともゆるやかな自覚、ある達観に基づいている。間違いなく鋭利ではあるけれども、眼細めて遠い風景を眺めているような穏やかさをどこかこの赤松さんの視線に感じるのは、おそらくそういう方法的自覚の部分に関わっているのだろう。柳田國男はよく「同情ある視線」といった言い方をしていた。その「同情」の内実とは実はものすごく多様で、まだまだ考えてみなければならない問いを厖大に含んでいるものだと僕は思っているけれども、しかしこの『神戸財界開拓者伝』での赤松啓介の視線は、その「同情ある視線」に現在の我々がもう少し確かな輪郭を与えようとする時に、ひとつの大きな叩き台になり得るものだ。


 今回『マージナル』誌上に紹介できるのは、残念ながらこの厖大な著作の中のわずか二編だが、読者諸兄姉のご参考までに、目次の全体もざっと紹介しておこう。

石鹸業界の草分け・播磨幸七
花ムシロの王者・赤尾善治郎
日加貿易の始祖・田村新吉
貝釦輸出の開祖・青柳正好
列車食堂の創始者・後藤勝造
麦稈真田輸出の先駆・岡 円吉
鉄道経営の先達・村野山人
燐寸輸出の覇者・直木政之介
宅地造成の先駆・小寺泰次郎
初期財界の世話役・鳴滝幸恭
肥料業界の先達・石川茂兵衛
製紙産業の草分け・ウォルシュ兄弟
石綿興行の創始者・野沢幸次郎
デザイナーの元祖・沢野糸子
貿易商権の確立者・湯浅竹之助
近代理容業の先駆・紺谷安太郎
清涼飲料の先学・和田伊輔
羊毛工業の開発・川西清兵衛
国産ベルトの開発・坂東直三郎
瓦せんべいの元祖・松野庄兵衛
豪州貿易の先駆者・兼松房治郎
元町呉服商の草分け・藤井甚七
洋家具製造の元祖・永田良介
社外船の開発者・山下亀三郎
竹材輸出の先覚・永田大介
ミシン産業の開発・網谷弥助
金融業者の先達・乾 新兵衛
兵庫港経済の再建・神田兵右衛門
海運市場の開発・内田信也
機械貿易の鼻祖・E・H・ハンター
製茶輸出の先駆・山本亀太郎
金融業界の草分け・岸本豊三郎
酒造経営の近代化・嘉納治兵衛
ソウダ工業を創始・北風七兵衛
産業の開発に偉業・金子直吉
商業図案の草分け・小林吉右衛門
近代造船業の創始・川崎正蔵
日比貿易の開拓・太田恭三郎
マッチ工業を確立・滝川弁三
神戸食道楽の開発・松尾清之助
樟脳工業の開発・小林楠弥
港湾運送の近代化・関ノ浦清五郎
新しい製油工業を開発・松村善蔵
電気産業の創始・池田貫兵衛
清涼飲料水の開発・A・C・シーム
缶詰製造の草分け・鈴木 清
日中貿易の巨頭・呉 錦堂
ゴム工業の開発・吉田履一郎
自動車工業の開発・横山利蔵
黎明神戸の先覚・専崎弥五平
清酒輸出の元祖・山邑太左衛門
兵庫運河の開発・池本文太郎
町人学者から実業家・藤田積中
神戸肉の名声を高めた先駆者・山中駒次郎
繊維工業の建設者・武藤山治
生糸貿易の再興・森田金蔵
造船工業の建設・松方幸次郎
農産薬剤の開発・長岡佐介
駅弁立売の草分け・加藤謙二郎
図南殖産の先駆・依岡省三
土着産業の開発・小曽根喜一郎
天王温泉の開発・秋田幸平
米穀商の近代化・高徳藤五郎
神戸築港の建設・沖野忠雄
燐寸輸出の先駆・秦 銀兵衛
都市開発の先覚・加納宗七
都市計画の先覚・関戸由義
電気事業の開発・田中 胖
薬剤業界の開祖・横田孝史
新聞業界の先覚・鹿島秀麿
生糸貿易の中興・小田万蔵
緞通輸出の先覚・松井和吉
洋品雑貨の創始・丹波謙蔵
農工金融の開発・伊藤長次郎
電話取引の創始・村上政之助
都市開発の先覚・山本繁造
石灰工業の創始・樫野恒太郎

ラジオと臨場性、そして「家庭」


 初期のラジオはレコードを使って放送することを避けていたらしい、それはなぜか、という話からもう少し続けてみます。

 ラジオ(当時は「ラヂヲ」という表記だった)という新しいメディア――いや、ここは敢えて「媒体」と漢字にしておきましょう、なんでもかんでも「メディア」ごかしに具体的な相が見えなくなる弊害はここ四半世紀ほど猖獗を極めていて、こういう気の遣い方をしておかないことには昨今、日本語を母語とした環境で何かものを見たり考えたりすることはますます難しくなりつつありますから。

 で、舞台はそのラジオを媒体にした「放送」という、これまた新たな情報伝達のあり方が出現した頃の話、ということになります。

 日常に否応なく入り込んでくる音を、「放送」は見境なくばらまいてしまう。それはとんでもない飛び道具であるから、そこに流す内容については制御しなければならない――どうやら当時、放送を司る人がたはこのように考えていたらしい。

 ラジオから流れる音声は、大きくわけて「ことば」とそれ以外、多くはいわゆる音曲、音楽の類になり、さらにその残余が効果音、後には実況や中継が行われるので各種自然音などにもなるわけですが、「放送」である以上、それらがどのような状況下に流れるのか、ということを、音声を流す側が想定はしても全て制御しきれるものではない。そのような属性からしても「放送」を司る側が神経質になったのは、まあ、当然だったでしょう。

 ラジオが流す音声を受け取る側、つまり聴取者としては「国民」全般を想定していても、その具体的なあり方としては何らかの単位、端末の受信機を中心とした、あるまとまりを考えざるを得ない。この受信機としてのラジオの性能の向上や、それらが安価になり、手に入りやすくなってゆく過程というのもそれはそれでまた興味深いもので、レシーバーを介して個人でしか聴き取れない初期の鉱石ラジオが真空管になり、また電源も電池から家庭用交流電源になり、スピーカーから音が聞こえる範囲で複数が聴取できるようになってゆく。昭和初年、ちょうど映画もサイレントからトーキーに移行してゆく過程とほぼ同時代、今となってはあまり振り返って意識されることもなくなった、しかし間違いなく日常を規定する情報環境の大きな変化だったはずです。

 聴取契約者数で言えば、放送開始当初、大正13年には5,000人程度しかなかったものが、翌年いきなり26万人に。昭和6年には100万人突破で、それを記念して公共聴取を目的とした石灯籠のような「ラジオ塔」が全国の公園や駅などに建てられたりもしています。結局、敗戦までに最大700万人にまで増えていますが、敗戦後、放送関係を担当するGHQ高官に対して「日本国内にラジオの数が一千万台近くある、というと、「君、一ケタちがうんじゃないか」「百万台でも多すぎる」と口々にいった」いう挿話も残っているくらいでから、世界的にも高い普及率だったということでしょう。

 もちろん当時のこと、まだ「民放」ではない。いまのNHK、いや、当初は東京、大阪、名古屋のそれぞれ独立した法人だったものが、大正末に社団法人日本放送協会になるのですが、いずれにせよ民間の商業放送は戦前存在しなかった。ということは、「広告」は「放送」に乗っていなかったということになります。ラジオから「放送」される音声に「広告」はなかった、いわゆる宣伝そのものとしても、またそのような属性を伴う情報としても。このあたり、この場をお借りしてあれこれ千鳥足で考えてきた「うた」の来歴というお題の上でも、無視できない部分のように思っています。

 広報宣伝の情報、いわゆる「広告」が日常空間に、「家庭」「お茶の間」にまで四六時中遠慮会釈無く入り込んでくるようになったのは、戦後の民放ラジオの放送開始から、そして言うまでもなくテレビのそれが引き続きの契機になります。

 それまでの広告、不特定多数のその他おおぜいに大量に効率的に伝達されるような形態においては主に紙媒体、特に新聞主体であり、それらが「家庭」に入り込んでくることは起こってはいました。概ね明治の半ば頃から発現し、その後大正期にかけて新聞の販売部数の伸びと共に露わになっていった現象でしたが、とは言え、当時はまだ新聞を「読む」ことのできる層は限られていて、それは経済的な理由などだけでなく、何よりそれら文字を紙媒体で「読む」ための能力、いわゆるリテラシーの普及が追いつかないことには、社会的な規模での影響というのはまだそれほど大きなものにはならなかった。それがラジオという電波媒体、話し言葉で「耳」から「聞く」ことが可能なメディアが普及してゆくことで、「読む」能力よりもずっと広汎に、それら不特定多数のその他おおぜいへ向けて「放送」される何らかの情報を受けとる能力が問われるようになってゆく。そのような国民的リテラシーの変貌が起こっていった果てに、「広告」的なるものの受容にもまた「歴史」が介在してくるのですが、それはまだ先のこと。今はまだラジオが登場した頃の話です。


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 媒体としてのラジオと「放送」の関係以上に、それまで存在しなかった目新しい器具、機械としてはもとより、それが何より家の中、日常座臥の間尺に平然と入り込んでくるようになったことも、日々の暮らしの中のラジオという文脈での大きな効果でありました。と同時に、その日常というのが当時、「家庭」というくくりで理解されるようになり始めていたこととも併せて、また。

「従来の家庭なるものは、往々にして単に寝る処か単に食事する場所なるかの如く考えられているのであります。かかるが故に慰安娯楽の途は、之を家庭の外に求むるのが常でありました。今や家庭の放送に依りて家庭を無上の楽園となし、ラジオの機械を囲んで所謂一家団欒家庭生活の真趣味を味わうことが出来るではありませんか。」(大正14年3月22日、東京放送局仮放送開始時の後藤新平の演説より)

 大風呂敷で鳴らした後藤新平を敢えて東京放送局初代総裁という神輿に据えたのは当時の理事たち、主に朝日新聞出身の石井光次郎と報知新聞から来た煙山二郎だったようですが、この演説で後藤はこのような「家庭」の意義を強調し、ラジオがその形成に寄与することを期待しています。その他、「文化の機会均等」「教育の社会化」「経済機能の敏活」なども放送の今後の役割として述べているあたり、さすがなかなかの見識です。

 放送を聞く多くの場合は、家庭に於て打寛いで家族一同と平和な気持で聴く事が多いのであるから、放送者も亦其気分に合はせる必要があるかと思ふ。(永田秀治郎「放送懺悔」昭和12年 實業之日本社)

 放送を司る側がこのように考えていたことによって、何でもない日常に対して「家庭」という新たな枠組みが与えられるようになってゆきます。もちろん、その枠組みは放送によってだけ編制されていたものではなく、それ以外のさまざまな要因がからみあって成り立っていたものであることは言うまでもないですが、ただそれでもなお、ここで合焦しておきたいのは、そのような「家庭」という意識が日常そのものの裡から勝手に自生し、宿るようになったのではなく、それら「家庭」という枠組みを「発見」し、それを前提に放送という新たな仕組みを司ることになった動きの側から、そこにある眼前の日常が新たに「家庭」として意識されるようになっていったらしい、そのことです。放送が「家庭」を作った、というのが雑な言い方だとすれば、放送が「家庭」という枠組みを「そういうもの」として、あたりまえのものにしていった、少なくともそのような動きを駆動してゆく大きなエンジンになっていた、と言い換えてもいいでしょう。

 そのような「家庭」に配信する音声として、レコードから再生したものはふさわしくない、と判断されていた。それは逆に言えば、ナマ放送であること、つまりその日その時その場所で音声として発されたものをそのまま電波に乗って「放送」するというのが、ラジオ本来のあるべき姿であり、また制御もしやすいものである、という認識が当時あたりまえだったということになります。実際、現場の回想としてもこう言われている。

「放送をカン詰めにする――手法としてでなく、同時性・迅速性といったラジオの機能をすてる――ことなど考えてもみませんでした。」(春日由三『体験的放送論』1967年)

 同時性や速報性、つまり〈いま・ここ〉であることを武器にして「放送」する、という認識。これがラジオドラマや実況放送など、広義の臨場性を売りにしてゆく媒体としての方向づけをしてゆくことになります、少なくとも本邦のラジオと「放送」の関係においては。ことばも、またそれ以外の音声も、そのように〈いま・ここ〉の臨場性をまつわらせながら、ラジオという小さな機械を介して、不特定多数の世間に向けて「放送」されてゆく。

 ならば、「うた」もまたそのような〈いま・ここ〉、臨場性と切っても切れない生身の身体表現である以上、ラジオ放送において優遇されていたのかというと、そうではない。そこには先の「家庭」という枠組みが、防波堤として介在していました。さらに言えば、ラジオがそのように臨場性を売りにする媒体である限り、「うた」に限らず、ことばもそれ以外の音声も、ラジオを介して流される音声一般が「家庭」という枠組みをフィルターにして、放送を司る仕組みの内であらかじめ濾過されるのは必然でした。まして、何らかの感情が動かされ、心が揺らがされ、それが何らかの表現を求めて外側に出てゆく生身の表現が「うた」である限りはなおのこと。「家庭」に持ち込んでよい臨場性、制御された〈いま・ここ〉に収まる限りの「うた」でないと許されない、というのがある時期までの「放送」の習い性になっていたようです。それは本邦におけるラジオが、本質的に相反するふたつの属性、〈いま・ここ〉の臨場性と「家庭」という枠組みの双方の間で引き裂かれながら、商業的な民間事業として市場と素直に対峙することのできない縛りの中で生まれ育ってゆかねばならない時期を過ごさざるを得なかった宿命でもありました。

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 実際、そのように想定された「家庭」というのは、それ自体が理想でありイデオロギーでもあるようなものでした。だから、それを尊重しようとすればするほど、ラジオを媒体とする放送から距離を置かねばならぬようにもなってくる。たとえば、このように。

「私が欧洲の精神病院をみて歩いた頃は、日本のラジオの創始間もない頃で、家庭に据ゑつけるのも問題になつていた。機械が高價であるとか、不完全であるとかいふことも理由の一つであつたらうが、家庭の静かな空氣を亂すことを恐れる気持もあつた。だから病院殊に精神病院などでは、ラジオを患者にきかせようなどとは誰も考へなかつた。」(式場隆三郎「音楽と神経」『こころの聲』所収、昭和刊行会、1943年)

 「静かな空気」があたりまえにあるからこその「家庭」、という前提。それは、大正リベラリズムが下支えした「田園生活」的な志向にもつながり、「郊外」の沿線文化の発展を支えたものでもありますが、そのようなそれまで少しずつ育まれてきていた既存の「家庭」のイメージにさえも、ラジオという新しい媒体は出現当初、そぐわないものとして受け取られていたところがあるようです。こころの平安とそれを阻害する外の喧噪という対比は、まさに「都市生活」の特徴に規定された図式なわけですが、ラジオという「放送」媒体はその図式でいう「都市生活」的な喧噪を「家庭」に持ち込むもの、と考えられてもいた。当然、それら「都市生活」的喧噪とは卑俗であり、猥雑なものでもあるから「家庭」からは遮断されるべきであって、ナマの臨場性を売りにするラジオもまた、「家庭」に入り込む以上は、卑俗で猥雑な「都市生活」的喧噪を最低限制御できていなければならない。臨場性を保ちつつ、しかしナマの〈いま・ここ〉ではない、という背反する条件に、敗戦までのラジオは縛られて過ごすのが定めでした。

 けれども、とは言うものの世間に「うた」は流れている。従来のような生身の声と耳とを介した「はやり唄」の回路を介してだけでなく、すでにレコードと蓄音器の組み合わせによる新たな「流行」のあり方においても容赦なく。そのような情報環境の変貌が当時の〈いま・ここ〉なのだとしたら、臨場性を売りにするナマ放送が身上だというラジオはさて、どのように眼前の「うた」とつきあわねばならなくなっていったのか。

 というわけで、このへんの話はおそらくもう少し続きます。

街に流れるうた、の転変

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 「世相」というのはいつも眼前を通り過ぎてゆくものであり、だからよほど意識しておかないことにはそれと気がつかないし、だから書き留められ「記録」になることもない――〈いま・ここ〉というのは常にそんなもの、です。

 だからこそ、日々の暮しは必ずそれら「世相」としての〈いま・ここ〉に包摂されている。それは具体的な空間、われとわが身が確かに存在している場所だけでもなく、たとえば昨今ならばSNSの上を流れてゆくちょっとした断片やつぶやきもまた、それら「世相」そのものではないにせよ、その裡に生きている生身の〈リアル〉を察知させてくれる素材になる。たとえば、こんな具合に。

「最近聞いたブラック職場で上司を糾弾する女子のことばで印象に残ったのは「あの人の心の中には、いったいどんな音楽が流れているの!!」

 「うた」でもなく「音楽」。「頭の中」ではなく「心の中」。人のココロと「うた」との関係の現在をうっかり露わにしてしまうような、こういうつぶやきの断片は、案外大事な足場になり得ます。

 「音楽」ということはあらかじめ用意されている楽曲、いまどきのこととてきれいに整えられた商品音楽ということでしょう。それも「うた」ではないあたり、歌詞や文句に重点を置いた理解というよりも、それらもフラットにただ楽曲の一要素としての「音楽」という感じのはず。そして、それが「頭」ではなく「心」の中に「流れている」という認識。その音楽を実際に聴いている、それが聞こえている状態を想定しているというよりも、それが自分の「心」に響いて何か大事な体験として「個」の裡に沈殿している、その状態に表現が合焦しています。そして、そのような体験が個人の人格、人となりを規定しているという認識がすでに一般的になっているらしい、ということも。

 かつての短歌のように、何かのきっかけで感情がたかぶり、それを表現する行為が「うた」となって身の裡から流れ出す、のではない。それまで耳にしてきた商品音楽がその折々に内面を刺戟し、わが身に刻み込んでいった体験がある種の記憶となり、今の自分自身のありようを規定しているという感覚が他ならぬこの自分にあるからこそ、理不尽な上司という同じ人の裡に「どんな音楽が流れているの!」という言い方での糾弾も可能になる。より砕けた言い方にするなら、それこそ「どんな血が流れているの!」といったものでしょう。人の内面を規定している「音楽」、それも外から与えられる商品音楽に触れてきた体験が、個人の人となりに抜き難く関係しているというこの認識は、敢えてこのように腑分けしてみようとしないことには、おそらく日々立ち止まって考えてみることのない〈いま・ここ〉の、すでにはらまれている「分断」も含めた、ある見えにくい局面です。

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 このように、「うた」が人のココロやキモチと結んできた関係を解きほぐすそうとすると、さまざまな厄介が眼の前に立ちはだかります。それは「うた」が本質的に〈いま・ここ〉の事象であることと関係している。

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 以前、ちょっとしたテレビ番組、取材構成をもとにした企画のレポーターめいたことをやっていた時、それはビートルズ来日30周年にからめた企画だったのですが、1966年の彼らの来日当時、ホテルの部屋にまでつきあって彼らの写真を撮っていた浅井慎平さんに話を聞きに行ったことがあります。番組として必要と思われることはあらかた尋ねたインタヴューの最後、世間話の合間にほんの何気なく、ビートルズの曲はどういう時に聴くのが一番しっくりきますか、といった質問を投げかけた時、打てば響くで返ってきた答えがこれ。

 「いや、あれは不意に耳にするからいいんです。街に流れているのがたまたま耳に聞こえる、そういう聞き方が一番いい」

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 ああ、商業音楽の、つまり商品として流通している「はやりうた」のある本質を的確にわしづかみにした言い方だなぁ、と舌を巻いた。と同時に、ならばその「街に流れるうた」というのがあたりまえだったのはさて、いつ頃までだっただろう、というその後それなりに引きずることになった問いも、また。

 思えば、ただぶらっと街なかを歩いているだけでも、何となく音楽が聞こえてきていた環境、というのは確かにありました。少し前、ある時期までは間違いなく。

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 最近だとサウンドスケープとか何とか、もっともらしい術語も引っ張り出されてそれら音が形成する情報環境について考察されるようにもなっているらしいですが、そんなことをせずとも、喫茶店やパチンコ屋、呑み屋や居酒屋、スナックの類からそこらの小売店の店頭、商店街の割れた音出す錆びたトランペット・スピーカーに至るまで、何となく「うた」を、レコードやラジオ、有線放送などを介して流しているのが、少し前までの本邦の日常ある部分でのサウンドスケープでもあったはず。そんな中、「街頭で出会い頭に」出会う楽曲が人々の記憶の裡にあるくっきりとした痕跡をそれぞれ残してゆく、確かにそれが「はやりうた」「歌謡曲」の世間一般その他おおぜいにとっての〈リアル〉であり、現実的なあり方でした。

「歌謡曲の現実的なあり方は、むしろその断片的な記憶として残っていることのほうにあると思われる。(…)たまたま流れてくる歌がこちらをとらえ、ああいいなと反応するのだが、それはあくまでも部分であり歌の断片だからだ。しかもたいていは、そのままわれわれは通り過ぎてしまう。通り過ぎたあとにしこりのようなものが残るとすれば、それが一節なり二節なりの記憶としてあるのだ。好きな歌手の歌なら何でもレコードを買うというような年齢を過ぎた生活者は、おそらくそのようにして歌と出会い、擦過して、肉体のうちに断片化した歌の記憶を蓄積していくのだ。」(上野昂史「肉体の時代」1989年)

 この場合の「歌謡曲」は、歌詞や文句が前景化した意味での「うた」でしょう。その一節が耳に残り、あるいは歌詞の意味とあいまって心に刻まれ、どれ、ひとつレコードも買ってみよう、になる。手もとのレコードを介して繰り返し聴くことで同じ楽曲の作品世界の全体像が俯瞰的に見えるようになり、その過程で最初に耳に残った一節もまた新たな文脈で発酵、培養され確かなイメージを伴って記憶に刷り込まれてゆき、個人的な生活史の記憶のひとコマと共に再編成されてゆく。あの「歌は世につれ、世は歌につれ」という、すでに陳腐化したもの言いにしても、そのような楽曲と体験、個人的記憶との間の相互作用を重ねることによって、ある確かさを宿せていたのでしょう。

 ただ、そのような「うた」の体験と共に、音楽に含まれていることばが背景に退いてゆくような耳の習い性が育ってゆく過程もまた、同時代にはらまれていたらしい。「BGM」や「イージーリスニング」といった言い方で、日常の空間に「ただ流しておく」音楽、歌詞を抜いた形での楽曲もまた、歌謡曲や洋楽などの商品音楽と並行して普及してゆきました。ほら、スーパーとかでエンドレスに流れているようなああいうやつ。レコードとして買われることはなくても、日常に流れている音の一部にそのようなBGM的な消費をされる音楽も含まれてゆく過程は、思い返せば確かにあった。

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 あるいは、「映画音楽」というくくりで、主に洋画の主題歌や挿入曲を流通させる市場もありました。あれは家具調のステレオセットが家庭に入り込んでいった時期でしょう、わけもわからず月賦で買い込んだそれらを鳴らすレコードが、そこらの街頭で流れているような歌謡曲や流行歌しかないのでは最新型のステレオセットが泣く、と言って戦前から蓄音器趣味の王道、「教養」としてのクラシック音楽をいまさら嗜むようなガラでもない――そんな高度成長期の本邦その他おおぜいにとって、それら「映画音楽」は絶好の「豊かで幸せな家庭生活」を飾るアクセサリーでした。実際、頒布会形式で毎月送られてくるそれらのシリーズは、百科事典などと並んで当時、結構な商売になっていたといいます。たとえ歌詞があって歌われていても外国語だからそれらもまた単なる音でしかない分、ただ流しておいても耳の邪魔にならないし、何より、いちいち心にひっかかることもなく聞き流せる。それはまた、音楽における「ことば」がその楽曲の記憶をこちらの内面に刻みつける手がかりとしての地位を失っていった過程でもあったようです。
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 レコードという商品をわれらがあたりまえに手にするようになるまで、巷に流れているのは「流行歌」でした。それ以前なら、まさに生身の口と耳とを介してはやり病のように「はやってゆく」のが「うた」だったものが、レコードという新たな媒体が出現して商業化して以降、その「はやってゆく」過程がそれまでと違うものになってゆく。ラジオという「放送」媒体が登場するのはその後だったわけで、このあたりの前後関係が、ラジオに付随していた「臨場感」という仮想的な〈いま・ここ〉への執着にも関わってきていたようです。

 たとえば、ラジオ放送が本格的に始まる前、当時のこととて逓信省がその運用についての通達を出していて、そこにこんな一節がある由。

「直接ノ音声ニ依ルヲ原則トシ可成「レコード」ニ依ルヲ避ケシムルコト」

 つまり、ラジオの電波に乗せて放送していいのはナマ音源だけ、レコードという録音音源を使うことはできる限り避けよ、というお達しです。

 これまでの研究書などでは、ラジオで放送するとそのレコードが売れなくなってしまうからレコード会社の商売に配慮した通達だった、ということになっていて、これは同じく初期のラジオに新聞社がニュース原稿を提供することに制限をかけたのと同じ理屈です。確かにそういう傾向はあったらしく「レコード会社としては、はじめから放送が力を持ちはじめてきたら、レコードは売れなくなるんじゃないかと、放送することには、だいぶ反対の動きがあったように記憶しております」(古関裕而の発言、『放送夜話』1968年)といった証言もある。もっとも、この通達自体、じきに削除されたそうですが、それでもレコードを音源として放送に乗せることはその後しばらくの間、ラジオの現場では何となく忌避されていたようです。

 同時にまた、こんな証言も。主は丸山真男の兄だった丸山鐵雄。

「レコードのヒットをそのままとり上げるのは、放送局のプライドが許さなかったし、歌そのものも、家庭の茶の間にとび込んでさしつかえのないものが、すくなかった。」(丸山鐵雄の発言、『放送夜話』1968年)

 この「放送局」というのは当然、その頃唯一のラジオ放送局だった日本放送協会、つまり今のNHKのこと。新興のマス・メディアだった「放送」なれど、まただからこそ、でもあったのでしょう、「プライド」という言い方が当然のように付随して出てきます。その内実は、民間の商業資本であるレコード会社に対する優越意識と共に、続いて出てくる「家庭の茶の間にとび込んでさしつかえないもの」というあたりに重心がかけられたものになっています。その「家庭」という新たなまとまりを構築してゆく上で、ラジオのその「臨場感」というのは、どうも想像以上に重要な役割を果していたようです。そしてそれは、流行歌など当時すでに「街頭」に流れるようになっていた音たちとは一線を画すように、当初は設計されていました。

自民党総裁選タウンミーティング雑感

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 自民党の総裁選挙が決着しました。地方の一般党員票も含めた1回目の投票で決着がつかず、国会議員(と地方県連)による決選投票の結果、岸田文雄政調会長が新たに自民党総裁に選出された、というのはご案内の通りです。

 総裁選が単に一政党のものだけではない、という意味なのでしょう、政策課題別にオープンタウンミーティングというのも複数回やっていて、これはZOOMを介したリモート環境でのものでしたが、事前に質問内容を示して申し込んだ人から各回100人を選出、顔と名前を明らかにしてZOOM環境にリアルタイムで接続してもらい、司会者の指名によってその事前の質問内容にそった質問をするのに対して、4人の候補者がそれぞれ答えてゆく、という形式。かくいう自分も申し込んでみたところ当選して、質問をする機会に恵まれました。

 9月23日から4日間の日程の3日目、「防災・減災、国土強靱化、観光振興、農林水産」というお題の日でした。時間は夜6時から7時半までの90分を予定。800人ほど応募があった中から選んだ100人をZOOMでつないだわけですが、司会が指名する15人ほどが質問できるという仕組み。質問が1分以内という制限でしたから、それに対して4人の候補が1分ずつ答えて都合5分で90分という計算なのでしょう。


www.youtube.com

 「日本国籍をお持ちの方であれば、お子様も含めどなたでも応募できます」となっていたので、6歳の男の子や小学生も冒頭から質問者に指名されて、「ボクたちが大きくなったら虫を食べなくてはならないのですか」や「エビフライのシッポは食べてもいいのですか」と、まんま『夏休み子ども電話相談室』状態で始まったのには驚きましたが、その後の質問者の方々のたたずまいには、それ以上にいろいろ感じ入るところがありました。

 自民党の総裁選、事実上次期総理を選ぶに等しいということで注目されるのは当然として、新聞やテレビ以下のいわゆるマスメディアが事前にあれこれ取り沙汰し、報道してきた予想とかなり裏腹な結果が数字として現われていましたが、その候補者に自民党員ではない一般の国民の立場から尋ねてみたいこと、というたてつけで発されるその質問が、ものの見事に「どこかで聞いたようなお題と言葉のパッチワーク」になっている。いや、そもそも「質問」ではなく「自分の意見や感想の表明」であり、それに対して「あの政治家がこの自分に真摯に対応してくれている」という体験をすることだけが目的化しているようなたたずまいの人がたが、申し訳ないけれどもほとんどでした。それなりに老若男女とりまぜられてもいたし、外地におられるという方も複数いらっしゃいましたが、にも関わらずそのへんほぼ横並び。

 まあ、これが普通の選挙であってもおそらく同じこと、いや、同じ型通りの応対でもそこに地域や支援団体その他の個別具体的な利害や思惑、欲もカネもこってりからんで数十倍は難儀なのでしょうが、どの候補者もさすが代議士、そのような本邦いまどき世間のある種の「無難」で「善良」な最大公約数のあらわれを「そういうもの」として淡々とさばいておられたのには、なるほど政治家というのは大変な稼業だなぁ、といまさらながらに痛感しました。

 ちなみに、わざわざ手をあげて応募してきた人数この日800人に対して、各種動画サイトなども含めてこのタウンミーティングを視聴していた人数は数万人だった由。この「わざわざ手をあげて何かものを直接言いたい」人がたと、どんな形であれ興味関心持って観てみたいという野次馬的観客との間を、単に数字の差だけでなく、どう考えるか。本邦「公共」のいまどきを考える上で、おそらく大事なポイントのひとつではあるのでしょうな。

ラジオドラマのモダニズム&アメリカニズム

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 改めて言うまでもない、「うた」が生身に宿る、それは人間にとって自然な感情表現のひとつのかたちでした。おそらくそれは、時代の違いや文化、民族の差などを超えた人間本来、天然の本質といったところがあったはずです。

 ただ、それが人の耳と口を介して広まってゆく間には、その「うた」とそれに伴う気分や感覚などと共に、どこかで市場が包摂してゆく過程も介在してくる。特に近代このかた、それまでになかった飛び道具のような複製技術が現われるようになると、その過程もそれまでと違う様相を呈してきます。例によっておおざっぱ極まりない話ではありますが、この場でずっとこだわってきているお題のひとつに、そういう近代の飛び道具の介在するようになった市場に包摂されてゆく過程で「うた」がどのように変わってきたのか、ということがあります。

 たとえば、それで生身の声、生きてそこにある身によって「うたわれる」ものだったのが、文字を介して「詩」になり「短歌」「俳句」になり、さらに紙媒体に印刷されて商品として市場に流通してゆくようになる。あるいはまた、音声として記録する技術が開発されるとレコードという商品にもなれば、それを再生する機器である蓄音器の普及に伴って、それらもまた新たな市場の広がりを獲得してゆく。さらに、ラジオのような電波を介した放送媒体が出現すれば、音声そのものがリアルタイムに、それまでと異なる内実を伴う「うた」として流れてもゆき得るようにもなる。

 「うた」を商品として流通させてゆくことになるレコード産業が、20世紀の新しいメディアと技術に支えられていた限りにおいて、本質的にモダニズムに規定されていたのと同じように、ラジオもまた、新世紀の新たなマス媒体として同じ構造の裡にありました。共に「音声」と「耳」のメディアであること、そしてそれは同じく20世紀の新しいメディアとしての映画が「視角」と「眼」の媒体であったことと併せて、われわれの五感の拡張がそれまでと違う規模、異なる間尺でうっかりなされてゆく過程を、世界的な規模で同時代体験として準備してゆくことになりました。

 とは言え、このあたりのことは、単に「うた」が商品となって市場に出回るようになる、というひとことで片づけてしまっては取り落とす部分があまりに大きいでしょう。言葉本来の意味での情報環境と市場的拡がりとの関係、さらにそこに含み込まれる媒体(メディア)とそれを社会的な物量として現実化する技術的背景から、それらを享受する個々の生身の読み手や聴き手、「うた」を受容する関係や場の問題に至るまで、まさにその時代の〈いま・ここ〉まるごとのありようとその転変の来歴に関わってくる、ゆるやかで焦点深度の大きい、しかしある程度まで繊細な解像度も共に求められる知的視野が必要になってきます。

 「うた」は身の丈の身体を離れて、生身の人と人とがつむぎあう「関係」と、それらが重層し複合する「場」の裡に自在に流れ出てゆく。そこで共有されてゆく眼に見えない何ものかはしかし、その流れ出てゆくことで獲得される拡がりのどこかで、「市場」と邂逅する。それは単に「うた」が何らかのかたちでモノになり、商品になってゆくということだけでもなく、流れ出る「うた」そのもののあり方をまたひとつ別の位相、等身大の間尺の限界を越えた異なる次元の「場」になじむように変えてゆくこと、でもあるはずです。


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 話の続きは、そう、ラジオドラマのことでした。

「(「新しき劇」とは)耳ばかりを対象とする劇である。左様なものは世界中探しても四、五年前までは皆無でありました。そしてこの新しい劇は、構成・表現――補助としての音楽・擬音も含めて――既成のアートを拝借したのでは全然効果がないといってよろしい。すべて新しい頭脳から生まれてこなければならないものであります。聞く人の頭にハッキリと印象の残る工夫をいたさねばなりません。」(『無線と実験』大正15年10月)

 NHK――当時はまだ東京放送局JOAKだった仮放送中の黎明期、伊東胡蝶園の宣伝部長から縁あって初代放送部長に起用されたという服部愿夫の談。この御仁、またの名を服部普白という明治から大正期の劇評界隈の大物でもあったようですが、それはまた別の話。ラジオという新しいメディアを実際に運用するにあたり、音声の飛び道具であることから、音声そのものだけを抽出して考えるのではなく、それら音声を介して〈いま・ここ〉の「場」を想定させる「劇」というたてつけをまず構想したということに、ここは注意しておきましょう。

 音声だけが飛び道具として伝わるようになる、それによって聴き手は「あたかもその場にいるように」感じるようになる、つまり「臨場感」というものがラジオという新しいメディアにはあたりまえに附随していたらしいこと。そしてそれはおそらくレコードと蓄音器という当時の同時代の新たなメディアにとっても同じだっただろうこと。音は、音声は、ただ物理的な音波としてでなく、それを耳にして受けとる聴き手にとっては、「臨場感」が具体的な場所や時間に規定されることなく、言わば仮想的な〈いま・ここ〉としてうっかり体感されてしまう仕掛けになっていった面がどうやらあるらしい。

 いまのわれわれの感覚からは、映画やビデオといった映像メディア、昨今のもの言いからすると「ビジュアル」媒体がそのような「臨場感」を仮想的に体感させる装置になったと考えがちですし、もちろんそれは間違いでもないのでしょうが、ただ、少し立ち止まって考えてみると、初期の映画はサイレントで音声は伴っていなかったわけで、当時の人たちの感覚にとっての純粋に動く映像としての衝撃というのは、いまのわれわれの感覚からはすでに異なる体験、それこそ「逝きし世の面影」に繰り込まれつつある部分は否めないように思えます。

 「眼」を介した純粋映像は、しかし生身の感覚器官としては必ず「耳」も伴ってくる以上、音声と併せ技で体感されざるを得ないのですから、それら音声抜きのサイレント映像に、よりその「臨場感」の衝撃を衝撃として増幅しようとすれば音声を同時に加えようとするのもまた、人としての天然の欲望でしょう。サイレント映画に「伴奏」や「効果音」、さらには弁士による「説明」までも伴ってゆく過程で、それら「臨場感」の衝撃がどのように新たな再編制されてゆくようになっていったのか。昨今はもう「声優」という呼び方があたりまえになっていて、若い衆世代にとってはあこがれの職業の上位のひとつであり、また世間からの認知も少し前までとは比べものにならないくらいあがっているあの「音声を介して演じる」仕事にしても、そのような新たな飛び道具としてのメディアの出現によって否応なく現出されるようになった情報環境の変貌の中で、われわれの「臨場感」というやつがどのようにうかうかと再編制されるようになったのか、についての問いを補助線にしながら初めて「歴史」の過程として浮び上がってくる。


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 そして、「歴史」にはまた別の、予期せぬ衝撃も加わってきます。ラジオが「劇」の「臨場感」とあたりまえのように結びつけられ、ラジオドラマという創作形態が出現していった過程は、新たな飛び道具としての近代メディアの技術的普遍性によって、これまたあたりまえのように国境を越えた現象でもあったようです。

 昭和20年8月下旬、トラック島守備隊にいたある陸軍中尉が、敗戦後の武装解除に関する米軍との間の連絡将校の任を受けた。大学の法学部を出ていて多少英語ができそうだという程度の理由だったようですが、ここでひとりの米兵と出会う。名前はボブ・イーガン、アメリ海兵隊第三師団司令部付の伍長。彼がたまたま尻ポケットに突っ込んでいたソフトカバーの本、おそらくはペーパーバックだったのでしょうが、『戦時版ノーマンカウエン――ラジオドラマ集』という一冊に目がとまり、活字に飢えていた時のこと、何気なく借り受けることを申し出てみたら、このイーガン伍長が気軽に応じたことからこの中尉殿、それまでの本邦ラジオ放送で模索されてきたものとはまるで違うラジオドラマのあり方に、まずは紙と文字を介して眼を開かれることになります。

「その頃、日本放送協会が取り上げて名作としていたラジオドラマはといえば、スローテンポの間遠の、ムーディー心理芝居、情緒劇で、描かれた対立といっても、春の朧、でなければ秋の時雨、あわあわ、しっとりがもてはやされていた。だから、ラジオドラマというものはそういうものなのだ、その手のものは、やはり、久保田万太郎とか岡本綺堂とかの名匠の手を経ないと様をなさぬものなのだ、と私なんぞも決め込んでいた。が、それは時に、至極退屈でひねくれてさえいて、まるで難解な俳句をつきつけられでもしたような気分になる――そういうものでもあった。ところが、これはどうだ!このカウエン・ドラマは――どれを採ってみても文句なく解り易い。それに上品で知的でさえある。」

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 ノーマンカウエン、とは何者か。インターネット環境とはありがたいもので、この御仁の素姓や来歴もいまや少し手間暇かければアウトラインくらいはわかってくる次第。これはこの陸軍中尉殿の表記のカウエンならぬコーウィン(Norman Corwin)、ユダヤ系の放送作家であり脚本家であり劇作家でありプロデューサーであり、いずれそういう界隈で一世を風靡する仕事を成した御仁だったようです。スタッズ・ターケルレイ・ブラッドベリロビン・ウィリアムズなども大きな影響を受けたといった挿話もあれこれ散見されたりしますし、本邦のそれよりは信頼度も格式も維持されているらしい英語版wikipediaにもほれ、この通り。

Norman Lewis Corwin (May 3, 1910 – October 18, 2011) was an American writer, screenwriter, producer, essayist and teacher of journalism and writing. His earliest and biggest successes were in the writing and directing of radio drama during the 1930s and 1940s.

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www.nytimes.com

 読み物としてのこのラジオドラマに接したこの中尉殿、英文とは言え、いやだからこそだったのかも知れませんが、とにかくいたく感じ入ったようです。

「こうした質の良いフィクション――文芸ドラマを戦陣の読み物として官給し、またそれを受けて生死の境にポケットしているGI。これは凄いことなのだ。大学出の幹部候補生が戦車の中に飯田蛇笏句集を蔵しているのとは根底から別世界のことなのだ。(…)米海兵第三師団貸与の黒色天幕の中で、つくづくと納得した。敗けた原因は、これだ。」(西澤実『ラジオドラマの黄金時代』 2002年)

 たまたま出征前からラジオ放送の現場に首を突っ込んでいたこともあり、この西澤中尉殿、復員後も勇躍ラジオドラマに人生を賭け、戦後の高度成長期にかけての本邦ラジオドラマの黄金時代を縦横無尽、いわゆる放送作家のさきがけとして駆け抜けることになります。

 「戦争に敗けた原因」として「物量≒工業技術」をあげるようになった戦後の通俗的理解と共に、「文化」もまたもうひとつの敗戦の理由として伏流水のようにわれら日本人の意識の底に流れるようになっていった。その場合、戦前に上海で接収されたという映画『風と共に去りぬ』をたまたま観た、という衝撃が例証としてあげられるなど、アメリカ由来の新たな大衆文化的表現に圧倒的な「違い」を思い知らされた、という「おはなし」になっているわけですが、その流れの中にラジオドラマもまた、大衆文化的表現を介した「違い」の衝撃を表現する足場になっていたようです。
www.news.ucsb.edu