ばんえい十勝「公社化」騒動・草稿

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 去る1月27日、北海道は帯広の、ばんえい十勝・帯広競馬場で、ばんえい十勝調教師会・騎手会とばんえい競馬馬主協会が、帯広市長に対して「要望書」を手渡しました。

 内容は、「ばんえい競馬の公社化に反対する」というもの。これだけでは何のことかわからないでしょうから、少しご説明しましょう。

「公社化」というのは、昨年暮れ12月15日付けの十勝毎日新聞に突然、地元財界関係者などで構成する「ばん馬と共に地域振興をはかる会」会長で、帯広商工会議所会頭でもある川田章博氏が、ばんえい競馬の運営を現在の帯広市直営から「公社」など別法人にすべきとの持論を展開した、という報道が出されたことで、にわかに表沙汰になった案件。地元紙の片隅の何の変哲もない報道記事でしたが、ここ数年、主催者との間の軋轢が増し、信頼関係に亀裂を深めていた厩舎や馬主など現場の関係者には、あ、これは競馬の運営を別法人化することで一部の連中が競馬をわが物にする囲い込みを画策しているな、と、ピンときたという次第。

 全国の地方競馬はここ数年、どこも右肩上がりに売上げが伸びて収支改善、経営状況が好転しています。いわゆる普通の競馬ではない特殊な形態のばんえい競馬も例外ではなく、昨年令和3年の総売得金が前年比120%増の510億円あまり、1日平均も約3億4千万円と記録的な数字を叩き出し、年末30日の開催では7億円という1日あたりの売上げレコードも達成、「50年ばんえいやってきたけど、こんなの経験ない」(あるベテラン調教師)と言うほどの好況ぶりではあります。

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 思い起こせば16年前の2006年暮れには、その頃相次いでいた地方競馬ドミノ倒しのご多分にもれず、四自治体の市営競馬組合から北見市旭川市と櫛の歯引くように抜けてゆき、岩見沢市まで抜けて帯広市の単独開催に追い込まれたことで廃止確定になったところ、その最後の土壇場で、当時進められていた競馬法改正による「民営化」のテストケース的にソフトバンクと提携、その後は新たな改正法の下、外部委託できる部分をアウトソーシングするなど、厩舎などの現場関係者と主催者とが協力しあって、他の競馬場と異なる立場で懸命に努力してきた結果と言えます、とりあえずは。

 なのに、というか、だから、なのかもしれませんが、ここ数年、主催者と現場の厩舎との間の信頼関係は悪化する一方で、表だって特に報道などされないものの、水面下での不信感や不満はずっとくすぶっていました。

 もともと、公正確保など核心の部分は公的セクターがきちんと担保するたてつけになっている公営競技のこと、経営不振で「民営化」に舵を切ったとは言え、再び儲かり始めれば、以前のお役所丸抱え競馬時代の習い性が顔を出すのは、まあ、いずこの競馬場も似たようなもの。やれ、施設の改善だなんだと、現場が求めてもいない事業に予算を流し、お手盛りの業者などに発注、ずさんな工事でやり直しといった不手際が目立つようになっていたばかりか、日々馬と共に仕事をし、暮らしている厩舎側との信頼関係なくして成り立たないはずの競馬と競馬場の運営にも関わらず、「学歴のないおまえらに何がわかる」と言わんばかりの居丈高な態度すら、主催者側が随所で露骨に見せるようになり、せっかく売上げが伸びて収支改善されたのだから、賞金や手当の増額や今後の生活安定のための基金創設など、厩舎関係者の生活環境改善のための、まず妥当な提案を現場から繰り返し要求されても、渋い顔のまま。加えて、そのような状況の下、一部の馬主や獣医に働きかけて既存のものとは別の団体を作らせ、そちらを優遇、後押しして、現場に対する分断工作を仕掛けてきていた経緯まであったところに、その「公社化」構想が一方的にほのめかされたことで、とうとう現場関係者の不信感が爆発したという経緯でした。

 当日、記者会見席上で、調騎会、馬主会それぞれ主催者と帯広市に対して要望書を手交したのですが、その趣旨はほぼ共通していて、いずれもこの時期の性急な「公社化」に対する懸念が示されています。

・ 市が直営するよりも責任の所在が曖昧になるばかりでなく、独断的な判断を容認することに繋がるなどリスクの多面的評価がしにくくなり、経営判断を見誤る可能性がある。


・ 議会の権限が間接的になり、監視機能が弱体化すると共に、開示すべき情報が容易に得られなくなり、透明性が担保できなくなる。


・ 公社廃止、統合という時代の潮流に逆行し、天下り先の容認・確保や所謂「わたり」の温床となることが懸念され、結果として組織の肥大化による人件費等の高騰や収益を浪費する体質に陥るなど、将来的に経営を圧迫することが予測される。

 かつて放漫経営で存廃の瀬戸際に追い込まれた四市運営組合時代のように、人事異動が停滞し、経理担当者が長年同じ人物になることで、横領行為が長期にわたり継続、被害金額が拡大したような事態が再び起こりかねない――といった具体的な指摘も混じり、厩舎関係者や馬主の間にわだかまっている、現在の主催者に対する不信感の根深さがうかがえます。未曾有の好況であるがゆえに、現場の関係者からの訴えは切実で、共に、帯広市に対して文書での回答を求めていました。

「私達は、法人化という案の是非以前に、ばんえい十勝の競馬運営の将来に関わる問題を、我々現場の人間も含めて同じテーブルで議論を積み重ねることを求めます。性急で、現場の知識や経験を踏まえた議論の積み重ねもない今回のようなやり方での運営形態の変更をするのでは無く、当面は今まで通り、帯広市による責任ある公正な競馬運営を続けていただけますよう、タックスペイヤーである帯広市民からの信頼を繋いでゆく上でも強く、お願い申し上げます。」

 ちなみに、記者会見には、地元の主だった新聞社や通信社が参加していましたが、紙面に記事として掲載したのは、翌日の十勝毎日新聞だけ。その後、帯広市の反応も含めて、この「公社化」反対表明についての継続的な報道は、2月8日現在、あらわれていません。 

*1:「草稿」であります。決定稿はまた別途。

*2:その後、帯広市長からの回答もありましたので、そのあたりも含めて加筆、手を入れたものが公開されました。……220227 (´・ω・)つ「 www.bengo4.com

「学者」って、なあに?

 学者の世間離れ、というのは何も今に始まったことではありません。

 一般的なイメージとしても、またある程度具体的な実態を伴った見聞、身の丈の経験値としても、いわゆる「学者」というのは「世間」「浮世」のあれこれからかけ離れた、超然とした存在という風に思われてきましたし、また、そう言われても致し方のない存在でもありました。そしてさらに言えば、そういう程度のわかられ方で片づけられてもとりあえず世の常、日々の営みに実害はない、世間一般その他おおぜいにとってはそんな「余計もの」でもあった、ということでありましょう。

 けれども、時は移り時代も変わり、もはやそういう学者の世間離れを、その当の世間の側も看過してくれなくなっているらしい。

 話せば長く、また情けないことこの上ない、いまどきの本邦の学者世間の恥さらしになるので思いっきり端折ります。いまどきありがちなSNSの、それも鍵を掛けて許された内輪同士にしか見えないようにしていた場所で、好き放題の悪口陰口をやっていたら、それを悪口言われとる本人とその界隈にご注進したのがいた。その内輪にいたのか、それともコピーの受け渡しか、とにかく外へ漏れちまった。まあ、学校の教室などでよくあるトラブルですが、その悪口の内容が「女性差別」にあたるということで話が大きくなり、1,000人以上の名前を連ねた回状までまわされ、その結果、言った当人は国立の研究所の職まで事実上失うような事態が出来しました。最後の失職の段はいくらか新聞その他で報道されましたが、ことがそこに至る経緯については、さすがに「学者」の所業としてみっともないのか、表だって取り沙汰されておらず、例によってSNSその他web環境介した情報流通において多方面に物議を醸し続けています。ことの是非以上に、いずれいまどき本邦の「学者」がたがこのように子どもじみた諍いを、それもおおっぴらにやらかしていることに、世の中の冷ややかな視線がそそがれることになっている次第。

 そもそも、「学者」とはなんでしょうか。「学問」をなりわいとする人間でしょうか。それとももっとゆるく、「学」のある人、という程度のものだったのでしょうか。ならばその「学問」なり「学」というのは、さて、具体的にどのようなものを想定されてのもの言いだったのでしょうか。

 あいつは「かしこい」やっちゃ――こういう言い方もありました。でも、この「かしこい」は「学がある」のとは違う。むしろ対極というか、裏表みたいなニュアンスすらあるような。さらに「学がある」になると、「かしこい」とはうまく両立しなくなる。いや、しないわけではないにせよ、それは相当にレアな例であり、また生身の存在としてはその「かしこい」という属性だけで十分なわけで、それはやはり 「かしこい」が「世間」に内在している価値だからでしょう。一方、「学」や「学問」はそうではないらしい。だから、「学がある」というのも一応ほめ言葉ではあっても、日常生活と紐付いた褒め方とは言い難い。とすれば、その「学」や「学問」を殊とする人が「世間」から遠い存在であるのも、何も不思議ではありませんでした、それこそ、その「世間」のあたりまえからは。

 なのに昨今、ことさら「学者の世間離れ」が、それも先に触れたような心萎える事例と共に、改めて論われるようになっているのは、世間や浮世のあれこれとは別の、彼らだけの別天地を形成してそこに安住している、「学者」がそんな存在として世の中から許されなくなっていることがあるように思います。近年、「役に立つ」「実利」につながる学術研究がことさらに言われるようになっていることなども含めて、「学者」も「学問」も共に、少し前までのような「世間離れ」のまま、何を言ってもやらかしても「余計もの」としてお目こぼしされているわけにはいかなくなっている。時の流れ、世の転変ということだけでなく、最大の問題は、当の「学者」の人がたが、そのような潮目の変化について、どうやら驚くほど鈍感なままであることだと思うのですが、さて、これをどのようにそれら中の人がたに気づいてもらえるものか。かつてそういう世間に、かたちだけとは言え身を置いていたひとりとしても、これは相当に悩ましいお題ではあります。

「放送」と「いなか」の耳


 戦前の「盛り場」、それも大正末の関東大震災以降、復興してゆく東京を「尖端」として現出されていったようなあり方は、それ以前の「市」的な、どこか近世以来の歴史・民俗的な色合いに規定された賑わいとは、どこか違う空気をはらむようになっていたようです。それゆえ、その世相風俗的なあらわれの部分でとらえて「モダニズム」と称され、あるいは思想史・精神史的な流れから「リベラリズム」と呼ばれ、またその出自背景から「アメリカニズム」として切り取られることもありました。

 とは言え、呼び方名づけられ方はさまざまでも、いわゆる「都市」的な生活文化のある象徴的なあらわれとして理解されるようになっていったことには変わりない。あるいは、それより少し前、明治末から大正期にかけてすでに芽生え始めていた「郊外生活」「田園生活」といった暮らしぶりにその下地は見られたでしょうが、それらはいずれ「消費」を旨とする生活であり、その頃輪郭を整え始めて現前化していたような、新しい都市生活者に典型的に見られるようになった暮らしぶりとして理解されていました。

 当時、「消費」は未だ悪徳であり、少なくとも望ましいものではなかった。「生産」こそが重要であり、社会を支える営みの中核であり、まただからこそ、それら「生産」のために整備されるさまざまな世の中の仕組みから、そこに働き、動く人たちのための倫理や道徳といったものまで、「あるべきまっとうなもの」として、「社会的に望ましいかたち」として認識されていました。なので、「消費」を前景化したそれら都市生活には、「享楽的」や「退廃的」といったネガティヴな評価がつきまとっていた。そして、「盛り場」にそのような「モダニズム」は横溢していました。必然的に「消費」の様相もまた、「享楽」や「頽廃」の彩りと共に。

 このような「モダニズム」と称されるあらわれを、もう一度ゆっくりほどいてみることもまた、「うた」をめぐるわれわれのココロの来歴を〈いま・ここ〉から自らのぞきこんでみようとする際、どうやら避けて通れない作業のようです。

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 そのようなきらびやかな都市の「盛り場」の「モダニズム」は、しかし生身の人間、日々生きるひとりひとりの実存にどのような影響を陰に陽に、与えるようになっていたのか。そのような都市ではない、〈それ以外〉の「いなか」とひとくくりにされる現実に生きていて、だから都市に出てくれば「いなかもの」と異物、別もの扱いで呼ばれ、時に一方的に嗤われる対象とされていたような生身が、さて、現実にどのようなありようを当時、具体的に示していたのか。いずれ大文字の、抽象化された概念による整理整頓、理解だけでなく、その向こう側、それら抽象に必ずはらまれているはずの個別具体の様相と、そこに根ざした〈リアル〉を諸共に「わかる」に引きずり込もうとするなら、そのような視線もまた、欠かせない。

 ならば、こんな素材はどうでしょう。いまから70年ほど前、敗戦後まだ間もない昭和25年4月、宮城県黒川郡という「奥羽山脈の中腹にある山間部落の小学校分校で、学級数二、児童数五十名、教員二人」という状況で記録された、当時の子どもたちの使うことばの違いについて、ひとりの先生が記したささやかな個別具体の様相。

 「彼等は青年乃至成人に達しても、他の地域に出て自由に自己の意志を表現して、相手の了解を得るということに、一方ならぬ困難を抱いていた。父兄たちもわたくしどもと話しながら大方は震えていたし青年たちが村の中心に出て用をたすばあい等は、その容貌に異様な緊張と劣等感の想が現れていた。村全体の運動会や辯論会等に出た青年たちは「会場に入ったとたんから体がこわばつて手も足も動かなくなる」と述懐していた。また、当地から約六十キロの地方中心町に行くと、道を歩いている総ての若者が恐ろしく見えるとも話していた。」(相馬勇・相馬はちえ「学習効果はこのようにあがった――僻地における放送教育の建設記」『放送教育の実践――学校放送を利用していかに学習効果を高めたか』1953年)

 この先生、農閑期の冬を利用して、その分校の地区だけでなく、周辺の部落も含めた地域の青年男女を集めて青年学級も開いていました。以下は、旧正月の新年宴会でのひとコマ。

 「わたくしどもの分校学区内の青年たちが、専ら山唄、田植唄等の素朴な俗曲のみを歌うのに対して、他の学区の青年たちは、専ら流行歌謡曲のみに終始するという、明らかに対照的な事実であった。この相異は、ラジオによって条件付けられた結果に外ならなかつた。当学区の青年たちは、電灯もラジオもないため、知っている歌といえば、いきおい民謡に限られるが、他学区の青年たちの家庭は、点灯地区にあるため、日頃ラジオを聴くことが出来て、流行歌を知る機会に恵まれていたのである。」

 ラジオが入った地区の青年たちは「流行歌謡曲・流行歌」を歌うのに、そうでない地区の者は地元に伝承されているらしい山唄や田植唄など「俗曲・民謡」しか歌わない、というこの違い。情報環境の違いによって「うた」のありかたも別のものになっていることが、くっきりと記されています。これは単に歌うレパートリーの違いというだけではない。そのもうひとつ先、「うた」を「うたう」という行為とそれに伴う「場」のありようからすでに別のものになっている、ということでもあります。

 このような違いは、この分校にラジオを持ち込んで子どもたちに聴かせようとした過程にも、あからさまに反映されていました。とにかく電気も通っていない部落なので、乾電池式の出力の貧弱な直流ラジオを自腹で何とか設置したこの先生、最初の二ヶ月間、とにかくラジオの前に全員集めて、さまざまな方向を聴かせてみた。最初は珍しく放送に聴き入っていた子どもたちが、一週間もすると「やがて理解できるもののみに耳を傾け、他のものには全く耳を貸さなくなってきた。」

 「この選択の結果、彼等に採用されたものは「幼児の時間」と「浪曲の放送」だけであった。しかも幼児の時間を熱心に聴く者は、三、四年生の極く優秀な児童と、五、六年生の児童に限られていた。しかし奇妙なことには、浪曲の放送にだけは、全児童が水を打ったようになつて聞き入った。「幼児の時間」しか理解できない彼等が、浪曲の内容を理解できるはずがない。全く奇妙だ。」

 戦後のNHKのラジオ放送、それも子ども向けの教育番組に対して、中学年以上のそれなりに耳の社会化された者がようやく対応できる程度の「耳のリテラシー」しか備わっていなかった彼ら子どもたちが、しかし浪曲にだけは全学年「水を打ったようになって聞き入った。」「いなかもの」にとっては、ことばもまた「うた」でしかなかったことの、おそらくは期せずしてのこの貴重な証言。「全く奇妙」でも何でもない、「うた」とはかつてそういうものだった、ただそれだけのことなのですが。

 これに対してこの先生、「ときおりやってくる田舎廻りの浪曲師」によって部落の老若男女全てが「浪曲のメロディーにだけは理解できるように準備されていた」からだろう、と推測して納得しています。是非もない。しかし、それだけでは、浪曲が彼ら子どもたちの「耳のリテラシー」にとってどうしてそのようになじめるものだったのか、という問いに対する十分な答えにはならない。

 彼らにとって浪曲は、山唄や田植唄と同じような、彼らとって自明に身についた切実な「うた」の範疇として聴かれていたのではないか、という補助線をひとつ引いてみましょう。そしてその先、そのような「うた」は、ラジオにすでになじんだ部落の若い衆らの「流行歌・歌謡曲」とどう違っていたのか、その間の「うた」の理解にどのような不連続が当時、見えないところですでに走っていたのか、ということにまで考えを及ばせてみましょう。でないと、このような「うた」の内実は、豊かに開かれてこない。

 浪曲は語りものであり、それに「フシ」がついている芸能、と一般的に理解されています。ことばによって語られる「文句」の流れに「フシ」が伴うことで初めて、彼らにとっては「うた」として、山唄や田植唄と同じように耳に届き、だから「理解」できるものになっていたらしい――この部分、このようにほどかれるべきでしょう。

 「フシ」と「文句」という区別によって、「うた」というもの言いの裡に生身と共に融合されていたはずのものが音楽・楽曲的な要素と「ことば」とに分解されてゆき、生身に宿っていた「うた」のまるごとから乖離していった。そのことによって、言わば「こころ」や「情」といったもの言いで指し示されるような領域が改めて前景化して意識されるようになり、それまでと異なる輪郭で生身の側に再度、投げ返されてもいった――「歌詞」と「曲」とに分業されて制作されるようになってゆく「流行歌・歌謡曲」、つまり商品音楽の近代とは、言わばそのようなものでもありました。そして、「作詞」が「作詩」と理解もされ、そのように過剰に前景化されて再認識されるようになった「こころ」や「情」を表現することこそが「流行歌・歌謡曲」的商品音楽の最も重要な役割とされるようになってゆくことで、のちの「演歌的なるもの」の定型化へ連なってゆく下地にもなっていったのですが、しかし、それ以前の「うた」はというと、それら「文句」も「フシ」も共に渾然一体、上演の「場」に生身を介して現前し、臨場するまるごととして立ち現れるもの、というのが言うまでもなく、その本来のありかたでした。何らかの感情が動かされる、心のある部分が揺らがされること、それが何らかの表現を求めて外側に出てゆく――「うた」とはそのようなものでしたし、「こころ」や「情」もまた、それらまるごとの裡に抱かれて初めて「身にしみる」ものになっていました。

 何も浪曲だけでもない、それこそあの坊主の概ねわけのわからない読経にしても、あの「文句」を言葉として理解し、文字のように意味を受けとる聴き方を多くの人びとがしていたとは思えない。文字の読み書きのリテラシーのない、あるいは薄い人がたにとって、楽曲的な商品音楽の「文句」である「歌詞」はどのように聞こえていたのか。それとて、文字の歌詞を読むように意味を受けとっていたはずはないでしょう。だとしたら、そこで彼らの耳を介して響いていた話し言葉としての「文句」は、その音楽のその他の要素、たとえば楽器の音色や節、調子などと同じ水準、同じ文脈で彼らの耳に届き、彼らの「耳のリテラシ-」を介して響いていたのではないか。

 浪曲の本質は「フシ」であり「声」であり、だからこそ「文句」は何でもいい、あの「何が何して何とやら」という文句を延々と繰り返しながら「ノド」だけを鍛えて「フシ」を整えてゆくのが稽古の基本だったという、挿話としてよく語られているような浪曲の入門当初の修業の定型も、その「フシ」に「乗る」ことばも同時に「音声」として、生身を介して上演されることを自明の前提にしていたからこそ、成り立っていた修業のプロセスだったはずです。

 そのように「うた」があり得た「いなか」の情報環境に、ひとつラジオが入り、「放送」の間尺に沿って整形された「流行歌・歌謡曲」が流れ込むことで、そこに生きていた者たちの生活文化の裡にあった「うた」のありようが変わる。ことばもフシも、共にまるごととして生身の上演でしかあり得なかった、だからことばも「音声」として理解する「耳のリテラシー」が実用性と共に実装されていたものが、みるみるうちに「流行歌・歌謡曲」の「歌詞」になじんで、それらをあらかじめ定められたメロディをなぞって歌うようになる。でも、それはそれまでの「うた」のありようとは、すでに別のものでした。

 「その後は、専ら浪曲と幼児の時間のみを聴取させた。学習の時間割もそのように編成した。こうして二か月程経た頃、優秀な児童たちの間に、ラジオに対するより高次の適応性が培われて来た。それは、休憩時間中に放送されるニュース等のところどころを、理解していたという二、三の例によって認められた。そのことを発見したわたくしどもは、浪曲などは一切なくして、専ら「幼児の時間」「低学年の時間」及び「中学年の時間」を聴取させることにした。」

 かくて一年半、このようなラジオを使った教育を施した結果、分校の子どもたちの作文や朗読が「極めて巧みで豊かなもの」になった、と、この先生は誇らしげに成果を報告しています。一年から六年まで、全学年がそれぞれの学年に対応した教育番組に対して、「傾聴から的確な理解をする」ようになった。「彼等は、ラジオを通して多くの社会を知り、多くの技術を身につけた。歌謡曲も覚えた。今年の芸能会からは、やくざ演劇から脱皮して、かなり良くこなせた歌舞伎等を演じた。胸を張って歩くようになった。話すことや眼色まで変つた。」

 「文句」は「フシ」であり、「フシ」が「文句」でもあるような「うた」、そしてそれを支えた「いなかもの」の「耳のリテラシー」は、ラジオひとつ持ち込まれることで「放送」が介入してきた情報環境の変貌によって、わずか一年半で上書きされるようなはかないものでした。「放送」もまた「文字」と同じく、言わば「音声化された文字」とでも言うような強制力と規範性を伴いながら、それでもなお「うた」の習い性に最適化されていた「耳のリテラシー」を上書きしながら、「学校」を介しての情報環境の変貌を、彼ら「いなか」と「いなかもの」の上にあまねく施していったらしい。

 「モダニズム」の実相は、このようなめんどくさい経緯を伴いながら、われら同胞の生身の「うた」の習い性をも、知らぬ間に書き換えてゆきました。

さまざまな「いなか」が――石原苑子『祖母から聞いた不思議な話』

twitter.com

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 主人公というか主な語り手、主な素材供給元であるおばあちゃんは、昭和7年の生まれ。主な舞台は、岡山県北西部とおぼしき土地、おそらくは今の新見市編入されたムラでしょうが、そういう具体的な地名もまた、まず意味がない。というか、関係ないんですね、こういう「おはなし」には。だって、「おはなし」だもの。

 おばあちゃんがこれまで見聞きしてきたことや体験したことを孫が聞いて、それをもとに描いた漫画――それがこのような「おはなし」という形になって、そしてwebを介して多くの人たちがそれを眼にして、興味深く読み、耳傾けるようになっている、そのこと自体、いまどきの情報環境における、これまでとは少し違った「民間伝承」のありかたを示しているように見えます。

 「不思議な話」や「こわい話」といったくくり方で、この「おはなし」は仕上げられています。描き手の作者がそのような話に関心があったのはもちろんでしょうが、でも、当のおばあちゃん自身は、もしかしたらそのような意識はあまりないかもしれません。これまでの見聞や体験の裡に、そのような「不思議」はあたりまえに含まれている、自分のこれまでを話し、語ること自体が、ごく自然に「不思議」と地続きになっている、そんな印象すらある。そしてそれは、何も彼女だけのことでもなく、どうやら世間一般、普通に人生を送ってきた人たちの〈リアル〉にあたりまえに含まれている特質だったようなのです。

 おばあちゃんの生い立ちの場所はいわゆるムラ、「いなか」です。ただ、その同じ「いなか」であっても、西南日本の山間部、それも環瀬戸内海文化圏とでも呼びたいような、ある独特の雰囲気が、実によく伝わってきます。縁あって墓が岡山にある自分には、中のもの言いの調子や響きまでもが耳もとで再現されるかのように感じる。それは単なるムラ、そういう「いなか」というだけでなく、わかりやすく言うなら、マチとの関係で早くから暮らしが成り立っていた、そういう「いなか」であるということでしょう。人もモノも、さまざまな意味や価値と共にあたりまえに日々、行き交うようになっていた、そういう歴史が背後にしっかりすでにある土地柄と風土。だから、いろんな「不思議な話」や「こわい話」も多彩に、多様に宿っていた、つまりそういうことなのです。

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 けれども、そんな「いなか」の裡にも、また、さまざまな現実がはらまれてもいた。

 たとえば、昭和20年代半ば、まさにおばあちゃんが井戸掘り職人のおじいちゃんと出会って、そろそろ大阪に出てこようとしていた頃、宮城県の山奥の、まだ電気も通じていなかった、とあるムラの分教場に赴任した小学校の先生は、言葉の発音が不正確で、語彙も少なく表現も拙く、何より自ら進んで何か発言したり、表現するという意欲自体乏しい、感情表現の見えにくいそのムラの子どもたちの姿に驚いています。

「この部落の青年たちは、男も女も余興に田植唄や山唄しか歌わないのに、他の部落の連中は流行歌をうたい浪曲をうなる。(…)考えてみれば歌に限らず、宴会の前の学習の時でも話題の選び方、話の筋だて、表現能力、どれをとりあげてもラジオのある部落の青年たちの方がずっとまさっていた。」*2

 すでに電気が通じてラジオもあり、蓄音器も入っていたようなムラは、同じ「いなか」でも人々の意識や感覚がはっきり違っていて、人づきあいの技術も社会性も、マチの衆と地続きのものが備わり始めていたらしい。そのようなマチとの距離感のグラデーションが、同じ時代のマチの側から「いなか」とひとくくりにされてしまうムラの裡に、そのような「違い」もまたあった。まして、今のわれわれの眼からはなおのこと。それは何も戦後に限ったことでもなく、少なくとも維新このかた、近代化の過程でこの国のどこにでも、いつもあり得た現実だったのでしょう。

 でも、そんなことはいちいち記録されることはありませんし、またわざわざ記録しようとするものでもない。ただ、「そういうもの」として人々の記憶の裡にいい加減に残って、そして知らぬ間に忘れられ、「なかったこと」として消えてゆくばかりです。

 ただ、それが「おはなし」というたてつけの中には、ひょい、と宿ってうっかり顔を出す。そういう意味で、お気づきになったでしょうか。おばあちゃん本人もさることながら、その見聞や体験の中に要所要所で登場する人たちが、実にいい味なのを。

 まず「カナヤのおっさん」、大阪に出てきてからの「ヤタイのおっさん」「山伏の大森さん」……住む場所はムラやマチ、異なっていても、何か「不思議」との縁が深いような人という意味で、これらの人たちはどこか共通していないでしょうか。これらのまわりの人たち自体が「この世のものではない」側、時には「人間でも動物でもないあかんもん」も混じる、そんな世間に半分くらい身を置いているようなたたずまい。それもまた、先に触れたような西南日本の、マチとの関係で早くから暮らしが成り立っていた「いなか」に生きることの根を持っていた人たちのしるし、のように思えます。

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 そういう「この世のものではない」存在、が平然と日常にあらわれる。顔を出す。そっとこちらをうかがっている。それをこういう人たちが、教えてくれる。

 その「この世のものではない」と判断するのはこちら側、この世に生きているわれわれであり、「おはなし」もそのような話者の一人称でつむがれるわけですが、その「この世のものではない」ものが見えたりあらわれたりする感覚というのが、その人ひとりに宿っている特別な「能力」「才能」としてみるのが、まあ、いまどきの普通の考え方でしょう。

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 でも、ほんとのことを言うと、実は案外、そうでもない。それはたまたまその人を媒介にしてあらわれる、そして具体的な「おはなし」として形になっているだけのこと。ひとりの個人はたまたまの媒体、メディアでしかなく、その「この世のものではない」世界、異なる世間は、誰のうしろにもいつも平然とある――そんな感覚がどうも、われわれの親や祖父母や、それ以前を生きてきた人がたの間には、割とあたりまえにあったらしい。そして、いまでもこういうタチの人というのは間違いなくいて、それこそ「実はまだ、そこにいるのです」のはずなのですが、悲しいかな、今の多くのわれわれの日常感覚では、なかなかそう気づけるものでもなくなっている。

 けれども、こういう「不思議なはなし」を「おはなし」として接した時に、「ああ、あるある、あり得るかも」とつい思ってしまう、そういうココロの習い性は、そんなわれらの裡にもどうやらまだあるらしい。あって、だからこそ初めて、その「見える」人もわれわれの中にうっかり出現してくれるものらしい。このおばあちゃんも、そういう経緯でこの21世紀、令和の御代に、web上に姿を現わしてくれたんだ、と。

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 時代が変わり、人々の日々暮らす環境もそれまでとはまるで別ものになってきています。けれども、でもだからこそ、そのような「この世のものではない」ものは、その時代、それぞれの情報環境に即したかたちでうっかりとあらわれる。「こわい話」「不思議な話」などと呼ばれて、それらを足場に〈そういうもの〉としての自分たちの生きる現実の成り立ちを改めて確認するよすがとして。ああ、もう立派に「民俗学」の仕事ですね、これは。

 たまたま Twitter のTLに流れてきたご縁で見知るようなったのですが、単によく整えられた「おはなし」としてだけでなく、そういう意味も含めて「現代民俗学」のひとつの良いテキストとしても、自分は楽しませてもらっています。ありがとう。

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*1:Twitter介して知った『祖母から聞いた不思議な話』というマンガの、紙媒体の「分冊版・少女編①」に縁あって書かせてもらったもの。解説というか書評というか、そんな感じのつもりだったのだが、組まれた版では「特別寄稿」などと大層な扱いをしていただいているようで、いたく恐縮した次第。

*2:この事案というか素材、こちらに少し詳しく言及しております……|ω・`) つ king-biscuit.hatenablog.com

「宣伝・広告」と「放送」媒体の必然

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 ラジオが「ナマ放送」であることの「臨場感」を大事にしていたこと。そしてそのような初期のラジオの媒体としての自覚が、すでに巷に出回っていたレコードを放送に乗せることをどうやら忌避していたらしいこと。

 その一方で、ラジオは「家庭」というたてつけの輪郭をくっきりと示してゆく役割も果していたこと。それは同時に、「家庭」の外側にすでに拡がってきていた、当時の新しい「街頭」「路上」の「喧噪」をそのまま「家庭」の日常に持ち込むことを忌避する意識につながり、勢いそれら「街頭」「路上」的な「喧噪」をよくあらわし、敏感に反映する「うた」への距離感、特にその「ナマ」の上演の〈リアル〉とそのあやうさについて警戒する性質を持っていたこと。つまり、「臨場感」という武器の自覚が、同時に否応なく向わざるを得ない〈いま・ここ〉の〈リアル〉に対して、制御すべき対象としての認識を同時に持たせるようになっていたらしいこと。

 だから、初期のラジオは「ナマ放送」の「臨場感」へ自ら忠誠を誓えば誓うほど、「街頭」「路上」の「喧噪」の〈リアル〉を当時すでに規定するようになり始めていたレコードを、とりわけそれを誘い出す「うた」を忌避するようにもなっていたらしいこと。初期のラジオ放送に許されていた「うた」とは、その歌詞や音楽としてのあり方にフィルターがかけられていて、と同時に、それが制御された「ナマ放送」の装いを持つことも要求されていたこと。そんなこんなで、レコードにあらかじめ録音された音声、殊に「うた」の上演のあやしさを濃厚に伴うような音楽・楽曲は、初期のラジオ「放送」からは慎重に排除されるものになっていたらしいこと。

 ……とまあ、このようにラジオと「臨場感」、〈いま・ここ〉の関係について、この場であれこれ考えてきたことをざっとおさらいしてみた上で、先に進みましょう。

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 ラジオが日本放送協会に統合され、本格的に全国区のマス・メディアになった頃、放送の三大使命として、以下の三つが意識されていたようです。

一、 慰安機関としての使命……娯楽に関する放送
二、 報道機関としての使命……ニュース、経済市況、天気予報等に関する放送
三、 教養機関としての使命……教育、修養等に関する放送
(中山竜次「ラジオを語る」昭和8年。)

 本邦のラジオ番組には当時、この三つに加えてもうひとつ、「子どもの時間」という柱が立てられていました。これはその後、戦後になって「婦人・家庭向け」の番組がよりはっきり自覚的に作られるようになっていった流れにつながってゆきますが、ラジオがまさに〈おんな・こども〉を意識して「家庭」に合焦していた媒体であったことが改めてよくわかります。

 と同時に、これはそれと矛盾するようですが、「放送」事業の相手方、聴取者として想定されていたのは、当時改めて前景化されてきていた形象である、あのとりとめない「大衆」でもありました。それは「国民」という色合いも加味されながら、新聞などの既存の「大衆」媒体と異なる同時性、臨場性といった特性を介した飛び道具としてのラジオが相手どるべき主な対象として、確かに意識されていたようです。

 「大衆とはすなわち、隣近所に住む、特定の見知り越しの人たちよりも、同じ大新聞を読んでいる、顔を合わせたこともない不特定多数の人たちに連帯感を抱くような人間の心の部分の集合のことである。」(堀切直人「教科書と新聞が大衆を生産する」『読書の死と再生』所収、青弓社、1999年)

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 生身の主体としては半径身の丈の、まさに日常生活の場に依拠しながら、しかし意識や感覚はそれら〈いま・ここ〉から乖離した水準にうっかりと誘い出されるようになっている、そのような新たな「大衆」を相手に想定しながら、しかし同時に「家庭」という具体的な聴取の場も意識している――このあたり、ラジオより先にマス・メディアとして君臨するようになっていた新聞と比べてみると、「放送」媒体の特性は明らかです。新聞の場合はそこに活字を介した書き言葉の均質化が伴い、それがそれまで歴史・文化的な連続性の裡に存在してきた話し言葉の共同性を、半ば暴力的に上書きしてゆくような効果をもたらしてきていたのに対して、ラジオの場合は話し言葉の均質化を推進していったわけですが、しかし、ここでもまた、新聞と異なる音声媒体ゆえの自由闊達を留保することにならざるを得なかった。なぜなら、ラジオが伝え、流してゆく音声とは、ことばだけではなかったからです。先の堀切直人の卓抜な言い方に倣えば、「同じ放送を聞いている、顔を合わせたこともない不特定多数の人たちに連帯感を抱く」ことが、必ずしもことばを介した部分だけでなく、それこそ音楽やさまざまな「実況」音声なども含めた〈それ以外〉の音声のありかたにも規定されざるを得ない、そういう「放送」媒体としての特性が、良くも悪くも新聞など活字媒体と違う影響力をうっかり持つようになっていった理由のひとつだと思います。

 ラジオという新しい媒体が、具体的な「もの」として日常生活に入り込んでゆき、そこから聞き慣れぬ音声が流れ出すようになる。ごく初期のラジオはレシーバー、今でいうヘッドフォンを介して聴くものだったのが、じきにスピーカーがついたものになりましたが、そのような仕組みの機械はすでに蓄音器が登場してはいましたから、人により、また家庭によってはそのような音声体験にある程度慣れていたかもしれません。とは言え、それもまだ一部のこと。それまで日常生活に流れていたような音声、人間であれ生きものであれ、あるいは自然音であれ、いずれそのような〈いま・ここ〉に確かにある「ナマ」の音声でなく、ラジオという眼前の機械を介して流れてくる、しかもあらかじめ機械によって変形された新しい種類の音声。その流す音声をスタジオで話す側にしても、あたかも不特定多数に向って演説する気分で、大きな声でしゃべることが課せられていたのは、初期のマイクロフォンの性能が芳しくなかったせいもあるにせよ、それ以上に話す側の気分として、多くの聴衆に向って話すという気分の前提が強かったから、とも言えます。

 ラジオの前の「個」に対して個別に話しかけ、ささやくような話し方が出現するのは戦後、深夜ラジオのDJあたりから。その頃には、電話の普及とそれに伴う体験の一般化なども背景にはあったかもしれません。いずれにせよ、「放送」というたてつけで流される話し言葉の音声そのものからして、慎重に制御しないことには「家庭」の平穏を乱すと考えられていたのに、まして音楽などはもってのほか。レコードによる音楽を放送で流すことを、当時のラジオ自ら禁じていた気分には、そのような要素もあったはずです。

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 ならばその一方、「家庭」から遠ざけられるよう求められた、当時の「街頭」「路上」の「喧噪」とはどのようなものだったのか。

 ひとくちに言うならそれは、「盛り場」的賑わいであり、当時新たな様相を呈し始めていた「都市」的な「モダン」のありようでした。ラジオが「臨場感」を素直に売りにするならば、そのような賑わいもそのまま電波に乗せても構わなかったはずですが、しかし、それは「家庭」にそのまま流し込んでいいものではない、という縛りが同時にかかっていた。マイクその他の機器の条件が許すようになって始まることになるスタジオ外に「ナマ」の音源を求める「実況」放送も、そして同じようにラジオ独自の新たな表現形態として試みられていった「ラジオドラマ」や「座談会」といった形式も、そのようなダブルバインドを意識しながら、許容される「街頭」「路上」の「喧噪」を、ラジオという媒体による「放送」の枠内で拡張してゆく試みだったと言えます。

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 同時にまた、その頃の「盛り場」的賑わいには、もうひとつ別の要素もすでに浸透し始めていた。いわゆる「宣伝・広告」です。音声であれ視覚的情報であれ、それら「宣伝・広告」を目的とした新たな情報のありかたが、それまでの盛り場と異なる様相を現前化させる原動力になり始めていました。それは当時のもの言いで言えば「尖端」であり、まさに「モダン」相の〈いま・ここ〉でしたが、もちろんラジオの想定した「臨場性」は、それをそのまま電波に乗せて「家庭」にまで届けることにも当然、慎重に敷居を立てていました。

 「今や資本主義が末期に近づいて、高速度をもって没落への過程を急ぎつつあると同時に、資本主義の愛児である近代的都市が爛熟し、その中から生れた近代的都市文学が糜爛して、ヂャッズ的レヴュウ的形態に向って突進しつつあるのだ。」(大宅壮一近代文学の都会性」1929年)

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 もちろん、そのような当時の「街頭」「路上」の「喧噪」の〈リアル〉を編制していた要素のひとつとして、まごうかたなくラジオもまた、その「臨場性」と共にありました。しかし皮肉なことに、ラジオという媒体の現場において、そのような特性はとりあえず前面に押し出されることなく抑制されていました。商業放送が本邦には未だ存在しなかった時代のこと、そしてそれ以上に、「市場」の〈リアル〉という「路上」の「喧噪」を成り立たせている大きな要素に直結するゆえに「家庭」から隔離されるべきという制御の意識によって、「大衆」を相手どる飛び道具の媒体に必然的に伴ってくるはずの「宣伝・広告」という属性もまた、表だって自覚されない領域にくぐもらされてしまったところがあるようです。

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 レコード産業が商品音楽を「流行」させてゆき、そして同じく新しい時代の娯楽の王者になりつつあった映画産業と手に手を取って、共に新たな「大衆」の嗜好に投じた「市場」を席巻してゆき始めた当時の情報環境において、ひとりラジオだけがそれらから身を遠ざけておけるはずもない。いかに媒体としての自覚においてそうあるべきと思い、また実際そのような縛りの中で稼動、運営せざるを得なかった時代状況があったとは言え、まさに情報環境の変貌がもたらしていった時代のありようの必然として、ラジオは「宣伝・広告」という要素に浸透されてゆかざるを得ない運命にありました。

 「常に到る所で我々の身辺を、我々の生活を囲繞する処のもの、政治も、文化も、経済も、それなしには成長と、発展を、否その存在をすら脅かされる所のもの、謂って見れば社会の紐帯とも称せらるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう。角度をかえていうなら、極めて複雑な社会的要素と、重要性を包含し、高度な文化によって、構成されているばかりでなく、それ自体、最も尖鋭的文化の一ジャンルたるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう。」(吉田秀雄「第一回広告電通賞年紀」の一部、1948年)

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 この宣言自体は戦後に書かれたものですが、ここで高い調子で表明されている「宣伝・広告」についての認識は、すでに昭和初年、当時の「都市」的「盛り場」的「賑わい」のある部分をすでに規定するようになっていた「モダン」相を調律する基調音に他なりません。そして、それは同時にまた、現実の経済や政治とは距離を置いたところで無責任に自分たちの技術だけを行使することのできる「自由」をさまざまに謳歌するための、ある種身勝手な免罪符にもなるものでした。敢えて言えばそれは、同じ「モダン」相であっても、新聞や出版、雑誌ジャーナリズムといった領域を第一義と考えるそれまでの活字由来のリテラシーの側から描き出されるものとはまた少し違う、もうひとつの別の「モダン」相を規定するものとして、共に同時代の〈いま・ここ〉の裡に織り込まれ始めていたもののようです。

 「なぜ広告技術者は、この時代にこの仕事にしか、しがみつけないのか。広告制作は一見、絵画や文学と似た要素があるため同質のものだと誤解する。しかしまったく違うものなのだ。絵画や小説はつねに「生」の裏にある「死」をもかかえこむ。広告企画は「死」を排除するところからはじまる。思考回路がまったく違うのだ。広告仲間のだれも、この仕事を見捨て、絵筆を握り、ペンをとらないのはそのせいだ。とらないのではなく、とれないのだ。」(馬場マコト『戦争と広告』白水社、2010年。)

 そう、「広告・宣伝」はステルスでした。眼に見えない属性として、当時の「モダン」相、「尖端」の〈いま・ここ〉に根を張り始めていたらしいのです。