世界を拡げる道具=メディアとして  


 馬は、いったいどれくらいの「力」をもっているものか。
 例えば、府中の芝コース、良馬場の2,000mを2分フラットで走るサラブレッドがいる。年齢や条件、ハンデなどの問題を抜きにしても、まず彼、あるいは彼女は、競走馬としてかなりの能力を持っていると判断することができるだろう。単純計算でひとハロンを12秒。もちろん、実際のレースは緩急があるからこんなわけにはいかないが、平均時速にしておよそ60?。ごく素直に考えて、都内の幹線道路を走る車の流れと同じくらい。さて、これを聞いたあなた、速いなぁと思うか、それとも、なんだそんなものなのと思うか、どちらですか。
 買物に使うような原付スクーターだって、いっぱいにふかせば時速80?くらいは出てしまう。僕たちが日常生活の中で手に入れることのできる速度がとんでもなく速いものになっている今、多くの人にとって、時速60?という数値はそれほど速いという感じを与えないかも知れない。しかも、これは走るためだけに鍛えられた競走馬が全力疾走した時の数値だ。そこらで畑を耕したり、荷車を引いていた馬たちならば、もっともっとスピードは落ちる。
 だが、速度もまた時代の文脈に意味づけられている。新幹線ができた時、時速200?という数値に誰もがとほうもなさを感じた筈だ。なのに、ちょっとした国産車でもそれくらいのスピードは出せるようになると、その数値の呼びさます感覚は違ったものになる。速度に刻まれる歴史。とすれば、ふだんのくらしの中で馬というメディアの持っていた「力」の意味も、今の僕たちの「常識」の範囲では解読できない。馬が一緒に生きていた頃のくらしそれ自身の大きさ、世界の広がりを見極めることをしないままでは、僕たちは眼の前の馬たちから、ただ、大きなおとなしい動物、という手垢のついた意味しか引き出すことができないままだ。
 手もとに『馬喰一代記』という本がある。著者は本所俊一さんという人。神奈川県の恩田(現在、横浜市緑区田奈)に生まれ、三多摩地方で戦前から戦後にかけて実際に馬喰をしてきた経験を綴った、言わば自伝だ。自費出版のような形で出されたものなので、残念ながら普通の書店には並んでいない。
 この中に、恩田から池上本門寺の御会式に馬車を頼んで柿を売りに行ったという記述が出てくる。本所さんが子供の頃、明治四三年のことだ。それによれば、往きは一日で行けたのに、帰りは歩いて帰ったので六日もかかったという。この経験から「馬の力につくづく感心した」本所さんは、ぜひとも馬を欲しいと思い、そして一六になった年に手に入れる。馬が三七円、馬車は九円。米一升三二銭で「暴騰」と言われた時代だ。
 馬を持ったことで、農家だった本所さんの家の経営規模は急に大きくなってゆく。下肥あげの仕事が「大八で二本しか引けなかったものが、馬車では一二本も引けた」し、「馬車のひと走りで一反ずつのかけ肥ができた」。馬の「力」に魅せられた本所さんは運送屋を始める。鉄道の駅と街道とが馬によって結ばれてゆき、肥料、農作物、材木、砂利、さまざまな「もの」のネットワークが広がってゆく。横浜の乞食の元締のような親分と知りあって、そのような「もの」をさばいてゆくルートとも接触する。そして少しずつ馬を増やし、本所さんは馬を売買する馬喰の世界に足を踏み入れてゆく。
 競馬にも力を入れた。若い時には神宮外苑の競馬に馬を連れていっているし、のちに日野の競馬場の建設にも力を貸している。今はなくなってしまった競馬場の多くは、このような草競馬のために作られたものだったし、戦前の競馬自体、大部分はこんなお祭り競馬、馬喰競馬だった。この日野競馬場は河川敷に作られ、一周八百メートルの馬場を持っていたという。「八百メートルでは農馬は走り切れないので五百メートルとした」などという記述もあったりで、なかなか楽しい。でも、草刈カゴやザルを景品に、旗と吹き流しを立てた吹きっさらしの競馬場で開かれるこんな「競馬」は、華やかさの向こうで忘れられてゆくばかりなのかも知れない。
 本所さんは、この本ができる前に亡くなったという。馬が世界を広げてゆくための大きな「力」を持った道具だった時代、その馬のいざなう世界の広がりに身体を同調させていった生も、もうこの世にない。ゆっくりと、馬の歩く速さで道を歩いてゆくことで見えてくる世界。なにかが確実に流れ始めてゆき、馬がそんな広がりをつないでいった日々。本所さんが見、そして馬たちも共にその丸い眼に映していた筈の風景を想うたび、競馬場の厩舎につながれている馬たちひとりひとりにも、この国の近代という時間の中で、彼らが何を見、何を聞いてきたのか、たずねてみたいと思う。