「場」とは何か。
それは、ここからここまで、というように常に均質な距離や範囲として計測器具で測定可能な具体的な領域のことではない。
また、それぞれ独立した単体の物質として分節された「もの」たちが凝集して形づくられている可視的なまとまりのことでもない。
まして、カードや調査票に囲い込まれた数字や記号が重なりあうと即自的に形作ると信じられているあのおめでたい単位でもない。
それはひとまず、身の大きさで行なわれるある濃密な相互作用が可能なまるごとの全体性であり、それを保証するあらゆる仕掛けが十全に作動しているある状態だと言うことができる。
もっと違う乾燥した言い方をすれば、それはある種の上演の「場」でもある。上演するのは人間であり、上演の舞台となるのはそのような「もの」の複合であり、ことばの連鎖のつくりだす音の場であり、声の密度であり、その他さまざな匂いや、温度、湿度などなど、さまざまな情報のさまざまな次元でのからみあいによって規定されるある全体的なまとまりである。
そこで行なわれ、現前されるあらゆる営みは、そのような舞台の対峙する「現在」との最も切迫した切り羽において立ち現われるし、まただからこそ、それはまるごとの「場」としてそこに特別な瞬間を立ち上がらせる。
人が生き、どのような意味にせよ、そしてどのように貧しいものであったにせよ「暮らし」と名付けられるようなふくらみをはらんだ時間をつむいでゆく時、自覚的に意識するしないに関わらず必ずこのような「場」に抱かれている。敢えて言えば、それなしには生きものとしての人は存在できない。さらに加えれば、まわりの世界を意味の織物に不断に変換してゆく仕掛けを埋め込まれ、自らもその制約から逃れることのできないこの人間という生きものは、そのような交感の振幅の中、初めて意味の織物をつむぎ出す速度とは別の、自らの生に内在的なリズムを生きることができる。
僕は不必要にもってまわったもの言いをしているかも知れない。おそらくそうだろう。だが、ここで考えようとしている「場」ということばで表わされるべき何ものかは、少なくとも、ひとつひとつが確かな形と質量とを持ったコンクリートブロックを積み上げるようなことばの作法だけを振りかざして追いつめようとするには、まずもって厄介な代物らしい。だから、もう少し辛抱してもらいたい。
もちろん、このように限定された文脈においてでなくとも、どのような意味でも「場」そのものが、この国の民俗学にとって重要な問題として意識されたことはほとんどなかった。そのような「場」の全体性を、たとえば「民具」という名の「もの」に分解し、あるいはまた「民俗」という名の、本来そうでなかったにしても今日では全く恣意的なものと化した索引によって骨抜きにし、しかもそれらの作業を作業仮説的にではなくそのものとして目的化する病いの中に、この国の民俗学にとっての「場」は問いとして意識されることなく回収され続けてきた。
たとえば、「職人」という言い方を考えてみよう。
この国の民俗学における「職人」は、水稲耕作を主とした定地農耕民と彼らの形成する世界を中心としたところで絞りだされてくる「民俗社会」のおおむね残余領域として、しかもある種の集団性を実体的に設定した上での先験的カテゴリーとしてとらえられてきた。 これは、たとえば「諸職」といったタームがわれてきた経緯を見れば明らかだろう。「諸職」に属する「職人」たちは、水稲耕作を主とした定地農耕民としての「常民」とは別の世界の住人という世界観のもと、概念の水準にとどまらず社会的な実体としても何か別個の集団を表わすものとして使われてきた。
仮りに「常民」というタームを何らかの次元で定地稲作民を指示するものとして認めるにしても、その「常民」が現実としては「諸職」の扱うべき仕事の内容との相互交渉の中で生きていたこと、そして、時にその「諸職」の仕事を自分のものにし、「常民」の範疇からはみだして行こうとするダイナミズムまで内包していたかも知れないこと、などは同時に問われるべき問いであるはずだ。しかし、それらの問いは「諸職」というもの言いが「常民」との対抗関係において設定されてきたこれまでの経緯においては、たとえ可能性としてさえその視野の外に放り出されてしまってきた。
このような見かたは、いわゆる文化史の角度から見た「職人」観として、民俗学を文化史の側に引き寄せて落ち着かせようとする際、かなり有効な見取図を提示してきた。だが、結果として、そこではその職人たちが具体的に生きる場も、そしてそこで行使される筈のさまざまな感覚、技術、技芸の総体も、ほとんど考慮の外に置かれてきた。
明確に定着された「書かれたもの」だけを資料として「歴史」に関して何かを言おうとするこれまでの歴史学のスタンスから言えば、そのような「書かれたもの」の向う側は一義的な問題にはならないということで一件落着するのかも知れない。その限りで、このような「歴史」への視角もまた、歴史学-民俗学の連続性を強調することで学問市場の拡大、維持を図ってきた戦後「教育大体制」の側になだらかな整合性を準備することに加担する。そして、その枠組みを疑わない限りにおいて、これまでとらえられなかった新たな「書かれたもの」――つまり、カード化され、整理された「民俗」や、「採集」された「民具」などを歴史学の眼の届く場所にまで引っ張ってくるための便利な仕掛けとしてのみ、民俗学はおためごかしに頭をなでられ、まさに「歴史学の補助学」として位置づけられ、囲い込まれてゆく。
しかし、民俗学の側から言えば、それはわざわざ「現地調査」という厄介で非合理的な手続きを介して、干し上げられた「技術」や「知識」という名の標本をいくつも集め、分類することを過度に目的化した結果、立ち現われてきた無惨である。
それらの作業の結果、確かに「職人」にまつわるさまざまな「標本」はそれなりに膨大に準備されはした、だが、果たして生きた彼らひとりひとりがどのような感覚で、どのような身振りで、どのような速度で、それら「標本」と化したさまざまな道具や、ことばや、彼らをとりまく制度を使いこなし、まとめあげ、一括して立ち動めかしていたか、ということについてのいきいきとした想像力は、どこかで枯渇させられてしまった。
もちろん、急いで言い添えなくてはならないのだが、いかなる意味にせよ「標本」を作成してゆくことそれ自体は無限定に否定されるべき作業ではない。茫漠とした世界を分節し、意味づけ、操作可能な形に変形させてゆく手続きとして、そのような作業はあらゆる知の営みにとって不可欠でもある。
問題なのは、その作業が何らかの意図の上に設定された一連の手続きの上のある過程としてでなく、そのものを過度に目的とした意識のもとに行なわれる、そのことである。言わば綱領なき分節、目的なき分類、方法なき微分とでもいった病いの前に、活きた「場」のみずみずしさは瞬時にしてひからびてゆく。この国の民俗学が「歴史」という最も前向きに関わるべき問いに腰を引き続け、歴史学に過剰に負い目を感じながら学問世界での自意識を屈折させねじまげていった経緯というのも、このような活きた「場」についての自覚を回復してゆく契機が、いくつかの例外的な仕事を別にして、おおむね持てないままだったことに起因している。
●●
一方でそれは、この国の民俗学にとってまさにその活きた「場」をくぐる作法としてあった筈の「現地調査」が、あらかじめあらゆる可能性をがんじがらめにされ、「場」には臨んでも、主体がその「場」のダイナミズムに同調し得るような回路を設定できなくなってしまったことに深く関わっている。その不自由こそが、今さまざまな形で現われている「現地調査」と記述の間に横たわる病理を最も根の部分で支えている。
「場」に臨み、そのダイナミズムにまるごと関わる、という民俗学にとっての初発の意志が宿っている「書かれたもの」としては、たとえば、旅行記や紀行文があった。それらは、連鎖してゆく「現在」の中で、そのような「場」を身体ごと経めぐってゆく「あるく・みる・きく」という方法によって引き寄せられてきた膨大かつ多様で、なおまるごとの全体性の中に経験化されている情報をなるだけその「場」の肌目に親しいところで記述しようとしたテキストだと言える。
「標本」という明快な形式に分節され、変形される以前の、未だ「標本」となる以前のなにものかが埋め込まれているのべたらの、しかし確かに「書かれたもの」であるテキスト。そこからどのような「標本」を取り出してくるか、というのは、まさに主体のそのテキストに対する「読み」の水準に関わってくる。
端的に言って、「場」に同調する作法を「現地調査」の局面で発動することのヘタな人間は、このような旅行記を「標本」のソースとして読むことすらヘタな筈だ。まして、それをひとつの「作品」として読んでゆく作業は、そのような「標本」を取り出してやろうとあらかじめ身構えている読みのスタンスよりもなお、全体的な、はずむような意志の瞬間を自分のものにする秘法を何らかの手立てで思い知ってゆくことを要求する。たとえ「書かれたもの」に変形された後のテキストにおいてすら、このような身体のありかたは、見るべきもの、聞くべきもの、感じるべきもの、そして知るべきものと密接に関わったところにある。
そして、「現地調査」とは、さらにこのもう一歩手前、未だ「書かれたもの」に変形されていない段階の、なおのべたらのテキストの読みに関わる身振りそのものに他ならない。分節され、意味が明確に確定され、定着されていないままの、しかもナマの現実は、視覚だけではない、ありとあらゆる器官と感覚と、そしてそれらを介して取り込まれた情報を解釈してゆくべきコードの束としての経験とをすべてフルに、しかも同時に発動することを要求する。
「現地調査」が、ともすれば「職人芸」という言い方で囲い込まれてきた貧しい歴史を思い起こそう。それは、「現地調査」があるひとりの人間に特権的にまつわった「能力」や「才能」に関わる身振りである、ということを表現するために選ばれてきたもの言いだと言える。その限りでは、それは、決して共有不可能の、言わば秘儀の位置に「現地調査」を押し込めてきた神話作用の中心に位置するタームであるかも知れない。だが、そのようなことば使いが、民俗学や、あるいはそのような「現地調査」という身振りを介して何らかの「資料」を手もとに引き寄せることを身の内に内蔵したその他の知の領域が経験してきたある種の疎外感を、半ば無意識裡に表現した部分がいくらかでもあるとしたら、どうだろう。「現地調査」や「フィールドワーク」や、それに類するさまざまな言い方で表わされてきた、まるごとの「場」に同調し関わってゆくあの作法の内に宿る経験は、そのような悪しき神話化の機構がすくいあげていった文脈とはまた別に、本来の可能性としてはらまれていたものもあったはずなのだ。
繰り返す。「現地調査」の歴史のうちにはらまれていた可能性は、決して何もかもその本来の可能性の幅いっぱいにたっぷりと解き放たれてはこなかった。
なるほど、それは正しく不幸というに値する。最も幸せな場合ですら、「研究余滴」や「回顧談」といった、ある研究者がほぼ「場」に同調する身振りを持ちにくくなってしまった老いのライフステージにおいて特権的に生産される言説の枠組みの中で語られるだけ、というこれら「現地調査」の経験の多くの部分は、個々の「論文」や「報告」の段階では常に削り落され、抑圧されるしかなかった。
もちろん、そのような十全な経験があって、その上で「論文」や「報告」の無味乾燥な――と、これまた先験的に言われてしまうのだが――記述も形成されているのであり、経験と記述の間のこのような相互性を考慮に入れないまま、「論文」や「報告」という形式のみを独立させて批判することは論理的ではない、という見解もあり得る。そして、僕もその見解に基本的に同調する。
しかし、だとしても、少なくともこの国の民俗学の脈絡に限って言えば、このような疎外と抑圧を現前させる仕掛けがほぼ構造的なものにまでなっているという意味で、このいささか論理的ならざる批判でさえ一定の有効性を持つことを同時にまた信じるものである。
たとえば、七〇年代以降、市町村史の「調査」を繰り返し、かなりの地域をくまなく「歩いた」経験を持つある世代の民俗学者たちが、彼らの書いたものの無惨とは全く別に、彼ら自身が生きたテキストとして相当に豊かであることが少なくない、ということを僕は発見している。いかに書いたものは陳腐であっても、興味深い事実を生きた彼ら彼女らはその身に宿しているのだ。歩き、見、聞いてはいても、それを解き放つことばを持たないがゆえの不幸。僭越なもの言いで恐縮だけれども、それがこれまでそれぞれの作業をそれぞれの律儀さで蓄積してきたことだけは間違いないある種の民俗学者たちを、深く苛んでいるとは言えないか。
●●●
敢えて理想主義的に言おう。民族(俗)誌というのは、テキストの表面的な形式がどのようになめらかに整序され、密会的に約束された「学問」や「科学」の空手形に身をすり寄せるたたずまいを見せていたとしても、そのとりすました表情の奥のどこかで、テキストに関わるあらゆる「読者」の側に向かってそのような「場」を立ち上がらせることのできる根源的な力を具備していることが求められる、ある記述の水準に他ならない。
それは、旅行記や紀行文を読む時の読者の入射角が、断片的な「資料」「標本」を拾いあげるために読むのか、それとも、そのテキストそのものを「作品」として読むのか、という違いにも関わってくるある種の二重性である。
今、つま先立って注意を喚起しなければいけないのは、このような「記述」をめぐる問いが、ともすれば「記述」の表層的な技術のみに収斂されて云々されがちなことだ。それは「文体」の問題であり、「レトリック」の問題であり、ひいては「科学」を保証してきたことばを乗り越えることでもある、という方向で、このような議論は往々にして一見近代批判にのっとった「正義」へと傾いてゆく。その主張の口あたりの良さに、大文字の自然科学出自の「科学」や「学問」にどこかしら脅迫観念を抱き続けてきた人文科学、社会科学の住人たちの微笑ましくも屈折したプライドがドライヴァーとなって、この種の「記述」論は「現地調査」という作法を家法として守っている知の領域にとってはアイデンティティ維持のマジノ線となり始めている。
確かに、西欧近代型の「科学」の客観性についての疑念は、今世紀半ば以降の学問を貫く大きなモティーフだったかも知れない。
その限りにおいて、このような「記述」をめぐる問いは必然なのだし、とりわけ人間と社会にまつわる学問の領域においては、どのような現場にいたにせよ、充分に議論が尽くされねばならない問題であることも間違いない。
だが、それらを前提とした上でなお、そのような「記述」論が今、この国の言語空間においては、ともすればそのもともと持っていた可能性を漂白されてしまいかねない回路に持ってゆかれることについても、同時に最大限のケアをしておかねばならないだろう。
敢えて短絡的に言えば、そのようなレトリック至上主義者、「詩的言語」原理主義者たちの言説が、どこかで浪漫主義的な非歴史性と反理性の装いを身にまとい始めることについて彼ら自身がどこまで配慮しているか、ということだ。そして、そのことについて明確に論じられたものを、僕は不幸にして未だ知らない。
落ち着いて考えてみよう。まるごとの「場」を文字の側に引き寄せること、それは確かに、いわゆる「論文」とは異なるレヴェルの言語活動に投企することをどこかで要求する可能性を持つ。このことについて、基本的に異論はない。
だが、どの地点でそこへ向かって踏み切るか、どこでふわり手を離すか、という問題は、そのような投企への意志の確かさとは別に、常についてまわる。
未だ助走もできぬまま、あるいは、未だロゴスの何たるかをその「文字」の側からでき得る限り突き詰めようという意志まで放り出したまま、そのような離陸への投企の快楽に早上がりするかのような戦略はあまり感心できたものではない。ましてそれが、時にレトリックだけが全てを解決するかのような言説にまで一気に空ぶかしされるのは本末転倒であり、浪漫主義的頽廃へと転げ落ちる第一歩である。まるごとの「場」からあらかじめ疎外された存在としての自分を謙虚に認め、そして同時にでき得る限りのところまで「場」に肉薄する緊張が最大限必要な筈だ。その緊張にさらされた過程があって初めて、「場」のふくらみに同調することばも獲得できる。
これは、断じて詭弁ではない。あらゆることばが呪文にしかならない現在の言語空間を考慮すれば、そのような「記述」に関する言説すら商品と化し、その回路の中で摩耗させられながら流通してゆくことの効果まで見通したある程度の戦略が、たとえ完璧なものでないにせよ必要だろう。
ここは喧嘩腰で言っておこう。自分自身がその程度に「現在」に組み込まれているということについてさえうまく対象化できない知性に、民族(俗)誌について云々する資格はない。
そのような手合いがうっとりとした表情とうわずった声とでさえずってきた何もかも「文体」に、「レトリック」に収斂される、というこのニヒリズムにどこまで加担するか、それはすでにこの国の民俗学ひとりの問題ではないとも言える。しかし、かつての日本浪漫派が一九三〇年代、当時としてはすでに充分にそのような商品と化した「日本」や「伝統」といったもの言いの集積の上に浮上したことは、最低限、この国の民俗学と、民俗学を支える何らかの意識を反省する上で、そしてそれらと「現在」との関わりを見つめる上で、改めて考え直してみる価値はある筈だ。
●●●
先へ進もう。「場」を編み上げてゆく仕掛けのダイナミズム。それは、最も本質的なところで考えればコミュニケーションの問題であり、もう少し違う言い方をすれば、交通・交感の問題であると言える。
しかし、一方で、それをそのものとしてとらえ、足をとめ、定着し、囲い込むことにより乾いた意味の舞台で操作可能にしてゆく、あの対象化の運動のこちら側にいきなり引き寄せることは、おそらく永遠に不可能である。
なぜなら、文字であれなんであれ、そのような媒体によってその「場」のダイナミズムをとらえ続けようとする作業は、常に「現在」から疎外され続けている渇いた営みであることを強いられているからだ。「現在」の不可能性。であるからこそ、その一歩手前で、捕捉可能な位置でのさまざまな指標を設定することで、それらの総体としての「場」を捉えることができる、という方法しかわれわれは選べない。
たとえば、この国の民俗学において「地域」とか「ムラ」といったタームで表現されようとしてきたなにものかがある。それらは、常にある均質な距離や範囲として計測器具で測定可能な領域のことではないという意味で、ここで論じようとしているような身の大きさの交通、交感の「場」とは本質的に異なったものである。
だが、この国の民俗学者たちがこれまで異様と思えるまでに、それら「地域」とか「ムラ」といったタームに拠りかかってきたことを考えようとする時、単に戦後の社会科学の潮流や、民俗学自体の学史的問題などに還元できる部分だけでなく、もう少し他の要因、たとえば、律儀に「現地調査」を繰り返すことで編みあげられていった自分の経験をどこかに十全に解き放とうと志す時に、何かプロセニアムアーチや台紙のようなものを求めていったのかも知れない、といった仮説を媒介にすることは無謀ではないだろう。それらプロセニアムアーチや台紙のような役割を担わされていた「地域」や「ムラ」というもの言い。とすれば、「地域」や「ムラ」も、まるごとの「場」から疎外され続ける意識が幻視した約束の地であるかも知れないという意味で、主題化される以前の「場」という問いから発した頽廃現象としてとらえられるものになってきはしないだろうか。
極力好意的に解釈するならば、「地域」や「ムラ」といったタームで、彼ら民俗学者たちは彼らのうちにくぐもった何かを癒そうとしていたのかも知れない。
決して「国家」や「地方自治体」でなく、また「共同体」とも少しずれた、微妙なあるまとまりを表現しようとしたことば。だが、それは「伝承母体」や「社会構造」といったより四角いことばによって、より硬くまとめられたものの側に奪い去られ、しかも、その結果の不自由だけがその後のこの国の民俗学の手かせ足かせとなってきた不幸を、われわれは直視すべきだろう。そのようなわけで、「場」という問いは未だ主題化されていない主題としてこの国の民俗学の前に横たわっている。
そして、その未発の問いは、この国の民俗学の領域においては概ね次にあげるような態度によって主題化されようとしてきた痕跡を持つ。
1.「場」を「もの」の体系としてとらえる態度。
これは、たとえば「民具」というようなことばによって囲い込まれてきた「資料」を現前化するための、一連の作業の系統を保証する。
しかし、同時にそれは、それらの「もの」をそれぞれ独立したひとつの物質として分節してゆくことへの反省の契機が希薄になってゆく点は否めない。「もの」そのものの向こうに、「もの」に刻まれた身体のありかたを読んでゆく戦略。ある「もの」がどのような「場」に置かれ、どのように生きた身体によって関わられていたのか、その「場」そのものに返して考えることに向かって開かれた想像力は、未だ十全には知りつくされない。
2.「場」を、ひとまずそれを構成している個々人に仮説的に収斂させ、個々人の生活史に分解してとらえる態度。
「場」を構成しているそれぞれの人間の裡に編み込まれている歴史性を、たとえばディープ・インタヴューという手法で自然言語に依拠したところで記述しようとすること。
これは、ある意味で「社会」とか「集団」ということばを、それぞれの構成要素としての個々の人間の集合体というところにつなぎとめる、という前提によって可能になる態度ではある。だが、それは、そのようなさまざまな出自、背景を持った人間たちが集まっているという多様性の確認以上に及ぶかどうか。たとえば、戯曲における登場人物の指定がどれだけ精密になされていても、それだけではそこで動き始める劇の質についてまで規定できはしない。問題はそれらの出自、背景を持った人間たちが、どのようにからみあい、どのように互いに影響をし合ってゆくか、そのダイナミズムについて記述することであり、そのためのあらゆる手立てである筈だ。
3.「場」を、ひとまずそこで流通していることばのある部分にのみ収斂させ、それらのことばをインデックスとして分解してとらえる態度。
ことばが社会を統合するメディアとして均質に保持されているもの、という前提を疑わない限りにおいて、この方法は一見「科学的」に見える。柳田の「語彙主義」も、このようなことばの性格に依拠して選択された方法である、ということは、もっと考えてみていいことではあるだろう。
しかし、ことばが人間にとって普遍的なメディアであることは事実としても、その中での微妙な差異を必要とする感覚、さらに言えば、ことばを呼び寄せる身体の感覚については、やはりほとんど手つかずでいることを要請されてしまう。
順序は、もとより問題ではない。「場」という問いを主題化しようとしてゆく作業が、いくらかでも行なわれてきた形跡のある脈絡に沿って、これまでのこの国の民俗学のもたらしてきた「方法」の戦略について述べれば、おそらくほぼこれらの枠組みの内側に整理され尽くしてしまう筈だ。
何を今さら、という顔をするのはよそう。「場」にまつわるこのようなある種認識論的な議論は、その帰結が必ずしも「実践的」でないにしても、しかし決して無益ではない。なぜなら、固定的なものとしてしか「場」をとらえられないその視線は、「場」を干からびた「標本」による構成体としてしかとらえられないその視線とどこかで重なってくるからだ。そして、そのことに自ら気付くことは、とりもなおさず「場」という未発の主題をそれぞれの足もとでそれぞれの脈絡、それぞれの文体によっ主題化することにつながってゆく。
それは確かに非常な困難を伴う過程に違いない。だが、その先に、「現地調査」という記号によってあらかじめ奪われてきた未だ主題化されないこの国の民俗学の可能性――と、敢えて言う――を、遅まきながら発見してゆけることについて、僕はどこかで楽観的になっている。
どこまで「場」を鮮明に発見し、その鮮明さに賭ける投企の志を持てるか。それがこのあやふやなこの国の人間と社会にまつわる学問の領域で、それぞれの足場を踏み固め、これから先を確かに快活に歩んでゆくためのひとつの重要な条件になると信じるからだ。
*1:『法政人類学』初出。「法政大学人類学研究会」名義で出されていた、最も素朴な意味での「同人誌」的な味わいのあるB5版青い表紙の薄い冊子だった。世話人をずっとやられていた御仁がいて、その淡々としぶとい亭主ぶりもまた、70年代由来の「読書会」「研究会」の雰囲気を醸し出していた。
*2:初出時の後記……「本稿の基調となっている問題意識の一部は、1989年7月22日、国立歴史民俗博物館の共同研究「民俗誌の記述に関する基礎的研究」(研究代表者/橋本裕之)における報告「病草紙――日本民俗学における病理の現在――」の中に折り込まれ、上演された。当日、山折哲雄、関一敏、佐藤健二、橋本裕之、鵜飼正樹の諸氏から貴重なコメントをいただいた。また、その他の場でも、いちいち名前をあげることはしないが、さまざまな人々との対話、雑談、場当たりの議論などによって刺激を受け、ヒントを得ている。そのような過程をくぐってきた問いが、現在は未だ「ノート」という形でしか書きとめられない点、少なからず歯痒い思いが残るが、そのような「場」を介して初めてこの「ノート」も可能だったことを記して、ひとまず感謝しておきたい。」
*3:加筆時の後記……「初出誌である『法政人類学』に掲載されたものに、本書収録に際して最低限の加筆を行った。もともと舌足らずなノートであったけれども、八九年という時点での発表の意義はあったと思っている。ゆえに、加筆も文脈をよりはっきりさせるのに役立つ限りものにとどめた。」……1996年6月10日の日付での加筆時の後記だが、『顔あげて現場へ往け』(青弓社 1996年) に収録する際の加筆だったと思われる。