ハタのなびいた日

 かつて盛んだったハタ競馬のプログラムが手に入った。群馬県に住む、先輩の民俗学者が「おまえが興味あると思って」とわざわざ送ってくれたものだ。
 
 近頃、地域の歴史について書かれた「市町村史」と呼ばれる本がたくさん出版されている。だが、それらの中でこの小さな競馬について書かれたものはほとんどない。大学や博物館の学者たちの眼にはとまらないのだろう、と思っていた。が、彼によると、このような資料としては拾いあげられてはいるらしい。しかし「競馬」という言葉だけでそれが具体的にどのようなものだったのか、あるいは、どんな意味を持っていたものか、そのような調査に携わる学者たちには理解できる前提も興味もないらしい。このチラシも、そのあたりの「市町村史」には収録されないままでいたのを、彼がそっとコピーしたのだという。

 藁半紙に印刷された今で言うところのA4版。「境町共同組(合?)大競馬会一覧表」というから、現在、北関東公営競馬の境町トレーニングセンターのあるあたりだろうか。日付は「大正六年三月二十六日挙行」とあり、「相ノ町伊勢崎印刷所」の印刷。誤植の多いのはご愛敬だが、中央上には軍艦旗と日の丸のぶっちがい、左右上隅には騎手を背に駆ける馬のイラストがあしらわれていたりして、デザインもなかなかハイカラだ。

 番組が相撲の番付のスタイルになっているのが面白い。「大関」から始まって「関脇」「小結」「次三大関」「次三関脇」「次三小結」ときて「前頭」が三一組。ここらは平場戦というところか。それぞれの組は四~五頭立て。馬名の下に赤、白、青、紫、黄と表記されているのは騎手のたすきの色だろうか。

 馬主(あるいは騎手でもあるかも知れない)の名前と出身村とが馬名に併記されるあたりも、相撲の番付と同じだ。ちなみに「大関」は立花、オーシャン、宗谷、東洋の四頭。「関脇」は一天、利根嵐、高千穂、新光。「小結」には雷光、境野、香取、金川。その他、健龍とか、ライヲン、花車、千代鶴、中にはカチマス、四足などという露骨な名前もある。力士か、そうでなければ地酒の名前にしか見えないが、しかし、馬主名には個人に混じって「平田染工場」やら「渋澤穀店」「石原豆腐店」といった名前も見られるあたり、いずれ急成長して小ガネをためた郷土の草莽ブルジョアジーたちのはちきれるような誇りと想いとが込められた馬名なのだろう。

 人並み外れた力、とほうもない力、群を抜いてゆく力、そんな力を宿した存在は、ある特別の名付け方と、その名前を浮き上がらせる綿密な贔屓の棟木によって支えられていた。出走頭数一二六頭。彼らはみな土地に根ざした想いを一身にはらみこんで、晴れの場所に立っていたはずだ。

 口取り写真のあのスタイルも、すでにこの頃出現している。馬の手綱を取り、盛装した馬主が胸を張る図像。写真の普及過程を考えれば、これもある種の記念写真であることは間違いない。にしても、人間でなく生きものを乾板に定着させることはまだ珍しかった頃のこと、白黒の絵に閉じ込められた馬は、それを見つめる人々の心にもきっと違った想いを宿らせていただろう。

 空に向かって突きささる柱。盆踊りの櫓のように誰もが仰ぎ見るその先に高く掲げられた織物のハタ。土ぼこりと藁屑と、そして生きものの汗の匂い。急ごしらえの馬場を蹴立てて、さして速くもない、しかしそこにいる人々にとっては十分に興奮を誘う速度でゆく馬たち。歓声。怒声。くしゃくしゃの笑顔。紅白の蔓幕と上気した頬。抜け目ない馬喰のもみ手に、旦那衆の恍惚。

 ああ、競馬、競馬、いつも競馬! 競馬と聞いただけで身をよじりたくなるほど心騒ぎ乱れる僕には、かつて、この国のどこかで、じっと息を殺しこんな小さな競馬を見つめていたもうひとりの自分の記憶が、何かの間違いで埋め込まれているに違いない。