「まるごと」の可能性――赤松啓介と民俗学の現在――

―― 形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、ひとつずつ他のものと無関係に考察されるべき、固定した、硬直した、一度あたえられたらそれっきり変わらない研究対象である。形而上学者はものごとをもっぱら媒介のない対立のなかでのみ考える。……彼にとっては、あるひとつの物は存在するかしないかのどちらかであり、その物はそれ自身であると同時に別の物であることはできない。

 さして広くもない部屋に上気した色白の顔が揺れていた。まだ型崩れしていないグレーの背広からは防虫剤の匂いでもしそうだった。右の耳から下がる補聴器のコードはかるくアールを描いてきっちりと胸ポケットに連なり、付属品の小さなピンマイクが安っぽい木目模様の机の天板に無造作に置かれていた。

 着なれた背広にくるまれた色の悪い顔がぐるりと取り囲んでいた。パイプ椅子を大きくうしろへ引き、背をそらして天をあおぐ者。上着のふところをのぞき込み、そして何やら探す風にあちこちさわる者。シャープペンシルの先を神経質な眼つきで凝視し、授業に飽きた小学生のようにカチカチとノックを続ける者。そして、困ったような、それでいて興味深げな笑みを浮かべている者……「学校」とそこをターミナルとして広がる世界の中にだけ棲みこまされてしまった身体が見せる「会議」という場での奇嬌な身振りは確かにある種の「民俗」なんだな――そんなことを考えながら、しかしその不自由の場に確かに浮き上がりそうな予感を漂わせているその人のありかたに、僕は焦点を合わせていた。

 蛍光灯のゆるい光に眼鏡がときおり光った。右手のこぶしを握り、上下に動かしながらしゃべっていたその人は、突如立ち上がり両手を万歳するようにあげ、そしてぺろりと舌を出した。

 一瞬のことだった。あやつり人形のようにたよりなげに手と、足を揺れ動かしながら、その人は舌丸出しのおどけた顔のまま踊ってみせた。戦前、新たに留置場に入った者に例外なく課せられたという「カンカン踊り」。何か隠し持っているものはないかと検査するために、丸太棒をまたいでこうやって踊らせたのだという。軍隊のM検や内務班、あるいは現在の応援団や運動部までを貫いて宿る陰微な制裁に、それは確実に通底している。

「いや、あんたらわろてるけど、民俗学やるんやったらいっぺん監獄入らなあきまへんわぁ」 

 爆笑した。少なくとも、僕と僕の横に座っていた二人、都合合わせて三人は、だ。1

 話されたことの内容が問題なのでは、おそらくなかった。それまでの数時間、とめどない断片的な記憶の連鎖と、ただその連なりに身を寄せるばかりの小さなことばの退屈に、場ばかりでなく僕自身もよどんでいたことは否定しない。2 そのよどみ具合をひきずりながら、それでもその人のありかたに焦点を合わせることを放り出さずにいられたのは、おそらく少し違った次元でのある感覚が呼び覚まされていたからなのかも知れない。「学校」的な世界に組み込まれた「会議」という場で提示される痩せきった言葉と身振りに心底うんざりする経験を何度も重ねながら、それでいていつの間にかそのみじめさにもなじんでしまっていた自分を、一足飛びにはじけ飛ばしてくれるある種の鮮烈さ。延々数時間にわたって自分の語りを場に放ち、そのことで徐々にあがるボルテージ。その放射を受け止める場の存在に感応しながら少しずつほぐされてゆく何かがあることを、いい色に上気してゆく肌の色が示していた。

 これまで彼赤松啓介がそのようにそこにいることを続けてきた語り/聞く場の艶っぽさが、ほんのわずかだけそこに立ち上がった、ような気がした――後付けで説明してしまえば、およそこのようなことばでしか語れないものが、しかしもっとナマな、まるごとの衝迫力としてそこにあった。それはきっと、この国の民俗学の脈絡においては「聞き書き」という符号をつけてどこかに「しまわれてしま」3ってきた経験の、かなり重要な髄の部分に関わる何かだったと思う。


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 「書かれたもの」という乾きもののテキストを介在させた文字通りの読者でしかなかったある人間に、何かのはずみで生きてそこにある存在として出会う機会を持つ時、いつもなんとも奇妙な感じに襲われる。「書かれたもの」を介してしかイメージしてこなかったそのものの直接性がいきなり、どん、とそこに現われる。その「まるごと」の感じにまず圧倒される。

 もちろん、あらかじめ「書かれたもの」を読み、その読みの水準に規定される意味の束と、そこから派生するある人間に収斂されるべき印象とをこちら側で作り上げた上で、生きてある存在としてのその人間に対峙するのだから、そのイメージと実体の間に落差が生じるのは改めて言うまでもなく当然のことだ。好きな芸能人の前に出てどぎまぎしてしまうミーハーは、あらかじめこちら側でねっとりと過剰な意味にまみれさせる作業を行なっていたがためにどきまぎするのであって、いきなり何の予備情報も与えられていないままある芸能人に会ったとしても、同じようにどぎまぎすることはまずあり得ない。「初対面」ということばがことば通りの初ものの経験を生むためには、それがそのようなあらかじめあるこちら側の作業の密度との関係の中でしか宿り得ないような種類の経験であるということについて対象化し、知るということから始めねばならないだろう。

 が、しかし、赤松啓介のプレゼンスは、こちら側のそのようなあらかじめの「こわい考え」4に規定された思い込みをも裏切ってゆくような質を持っていた。単に思い込みと実体のズレ、というのではない。そのようなズレならば、誰もが日々ごくごくあたり前に経験し続けていることなのだし、そのようなズレをまた意味という断片で補正してゆく不断の営みこそが、我々の「日常生活」と呼ばれる連続の基幹となっている面もある。そうではなくて、あらかじめのイメージと眼の前の存在から読み取れる印象との間に整然と行なわれる落差の補正作業、とでも言うような全体的な相互性から遠いやりとりではなく、そんな落ち着いた経路を初めからとっぱずしたところにポンと現われる、そんな強引な「ただ在ること」をこちらにむきだしに提示してくるようなプレゼンス、そのように表現しておくしかないものだ。

 それは、赤松啓介というひとりの人間にのみ全ての原因、全ての説明を収斂するのでなく、そのような「ただ在ること」を立ち現わせる場のありかたをダイナミックに意識すること抜きには考えられない筈だ。人間にとって、あらゆる場が常に「まるごと」であることは論理的に認め得るにしても、日々接するさまざまな場においては実際にそのような「まるごと」であることは概ね隠されているということも、また認めねばならない。5 その「まるごと」の場がまさに「まるごと」であることを思い知る瞬間は、例えば、ごくゆるやかな意味での「芸能」や「演劇」の、そのまさに演じられる場の経験にかなり密接に親しいものだ。6 身の大きさにたむろする世界の広がりに、ある一定の条件において宿る艶っぽくふくらんだ空気。「上演」という乾きもののことばでしかひとまず指示できないにせよ、そんな「上演」を可能にする場を紡ぎ出し、そこに流れる気流をいっぱいにはらむことで意識をある水準へとシフトし、そのようにそこに在る自分と、そして自分を含めた場そのものの秘密をもいちどに立ち現わせる動きを十全に含み込んだある連続。

 あの時爆笑した三人は、その日、赤松啓介をある種の演者として凝視していたのだと思う。この場合の演者とは、場の「まるごと」が「まるごと」であることを「語り/聞く」「見る/見られる」場の相互性の中で知らず露わにし、そのような「ただ在ること」をむきだしに提示する方へと自ら律動させてゆくターミナルを抱えたもの、とでも言っておいていいかも知れない。

 語られた内容だけが問題ならば、文字であれテープであれ、そこで何が語られたかについての正確な記録に接することができればそれでいい。「書かれたもの」だけが問題ならば、手書きであれ印刷であれ複写であれ、その書かれた内容が読み取れる程度の明瞭さが保たれたテキストが手もとにあればそれでいい。だが、赤松啓介に関する限り、そのような読みはありていに言って貧しい。

 提示しておきたいことはこうだ。赤松啓介の手によって「書かれたもの」は、「書かれたもの」そのものとして単層的に読み解くことだけでは、その本来的な可能性の大きな部分を見失うことになる。明らかに損だ、とここは露骨に損得勘定で言ってもいい。そして、このような読みの水準の相違は、そのような読みに至る読者それぞれのテキストに対する入射角の相違にまで関わるより大きな問題のありかをも示唆している。

 この国の民俗学の現在に関わる限り、赤松啓介について最も必要とされることは、これまで共有されてきた「民俗学」という枠組みからはみ出すような「資料」を「書かれたもの」としてとどめてきたということにおいて彼を「評価」すること、ではない。

 このような態度は、中山太郎にせよ、桜田勝徳にせよ、宮本常一にせよ、戦後の「民俗学」を作り上げてきた制度の側から遠い位置にいた、とされる研究者の「仕事」を「評価」する時に、これまでも繰り返し繰り返し見せられてきた醜態にまた新たな事例を塗り重ねることに他ならない。7「書かれたもの」を「論文」としての約束ごとの銃眼の内側からしか読むことができず、その他の可能性はすでに死んでしまった人間や、そうでなくても、生の過程として明らかに「老い」のステージに移行してしまっている人間の実存に固有にまつわっていた「技術」や「個性」や「素晴らしさ」にのみ還元して封じ込めてしまう怠惰からは、どのようなテキストも現在の自分自身の足もとと関わらせて読むことなど不可能だろう。8

 ここで論じてみたいのは、赤松啓介とその仕事をめぐるそのような解読の水準の不自由であり、そのような不自由を超えて設定されるべきこの国の民俗学の現在と直角に交わるその本来的可能性のありかについてである。


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 赤松啓介とその仕事について、民俗学の側から誠実な評価はほとんどなされてこなかった。この言い方にまずそれほどの誇張はないだろう。

 このことは基本的に福田アジオも、表現は微妙に異なるにせよ指摘している。

 「最初に述べたように、『民俗学』は、日本における民俗学案内書として柳田國男の『郷土生活の研究法』と並ぶ存在である。当然、民俗学の世界において、それを批判するにせよ、肯定するにせよ、何らかの評価があって当然のことと思われる。ところが、赤松啓介という名前も『民俗学』という書物もいわゆる学界内部ではほとんど取り上げることなく今日に至っているのである。」9

 だが、この表現にはよく見ると奇妙な脈絡のねじれがある。

 ほぼ半世紀前に赤松啓介の書いた『民俗学』10が、果たして「日本における民俗学案内書として柳田國男の『郷土生活の研究法』と並ぶ存在である」かどうか、もう少し焦点を絞ったところで、その評価の方向性を先験的に認めるにせよ、一体どのような基準でそれを「並ぶ」という形容で表現し得るのか、という点についてはひとまず問うまい。

 しかし、それ以前に、『民俗学』を、あるいは『民俗学』に代表される赤松啓介の仕事の何を、どのように「評価」するというのか、自らのその基本的なスタンスについて十分に文脈を考慮した自省的説明は必要だろう。そして、「学問」もひとつ時代の子であり、その歴史としての学史もまたそのようなパラダイムの中でしかあり得ないことを認めるならば、そのようなさまざまな規定要因を超越したところであらゆる「仕事」が「当然のこと」として「評価」されるべきだ、と一律に考えることの方がよほど不自然で傲慢なこととは言えないか。

 別な角度から語りほどけばこういうことだ。赤松の『民俗学』が柳田の『郷土生活の研究法』と肩を並べる存在であるという「評価」それ自体が少なくとも現在生きてある福田の位置からなされたものであるということを認める限りにおいて、そのような福田の位置からの文脈による「評価」が福田以外の者によってそれまで(福田以前に)なされていないからといって、その欠落をまるで鬼の首を取ったかのようにあげつらい、そのことだけを理由に「学界」を非難するのはあまりみっともいいものではないだろう。

 あまりにも自明のことで改めて言うのも気が引けるのだが、福田以前においては、『民俗学』が『郷土生活の研究法』と肩を並べる存在であるという「評価」は決して「当然」ではなかったのだ。にも関わらず、その自らの「評価」を超越的に過去に向かって普遍化し、ご丁寧に「当然」という言葉を二回も重ねて一律に「学界」に責任を負わせるのは、精一杯控え目に言っても、その「学界」にもまた歴史性がまつわっているということについて鈍感すぎる。自らのそのような「評価」がそのまま過去に遡って「学界」の共有されるべき価値基準として共有されるべきだった、という態度は、福田個人の心意気としては一応理解できるにしても、それをこのような個人に抑え込めないゆるんだ表現で叩きつけてしまってはあまりに独善的と批判されても仕方ないだろう。『民俗学』が、そしてそれを著わした赤松啓介自身の「仕事」が、これまで「いわゆる学界内部ではほとんど取り上げることなく今日に至っている」ことが事実であることは認めるにしても、その事実に対して、現在の時点で自分が持っている「評価」の基準を一律に押しつけて裁断してしまうというのは、後から生まれた者の特権をむやみにふりかざすことに他ならない。

 このような立場から、先の記述に即した最低限の添削を施すとすれば、例えばこのようになるだろう。

 「……『民俗学』は、日本における民俗学案内書として柳田國男の『郷土生活の研究法』と並ぶ存在であると私は思う。このような私の立場を前提にすれば、民俗学の世界において、それを批判するにせよ、肯定するにせよ、何らかの評価があって当然のことだったと私には思われる。ところが……」

 このように、脈絡を「私は思う」「私は評価する」という「私」に抑え込んでしまえるような表現を選択する、そしてそのことによって、結果選択されなかった「学界」の「歴史」を現在における新たな可能性として提示できる文脈を明確にする、その程度の気のつかい方は必要だった。

 僕は別に破落戸めいた言いがかりをつけるために、こんな一見重箱の隅をつつくとしか見えないようなことをわざわざやっているわけではない。ここには、現在生きてある自らの価値判断の依って来たるところもまたそのような歴史性の内側にあるのだ、というおそらく最低限の自省すらあやしいことが如実に現われている。そして、この種の病いはこの国の民俗学においては構造的に蔓延している。11ことは福田アジオなら福田アジオという一個の人間に全て還元してしまえるほど単純ではない。

 必要なのは、福田個人がそのように「評価」する基準を誰もが了解し得るような形式と手続きによって明示することであり、そのことによってその「評価」をあらゆる文脈から検討できるだけの前提を準備することであって、赤松啓介にこと寄せ、何も自分ひとりが超越的、超歴史的に歴史に責任を持っているような口吻で居丈高におどしあげる――「そのような意志はなかった」という類の抗弁はこの場合あまり意味をなさない。個人的な誠意や、単なる表現技術上の問題ではない――ことではない筈だ。12 そして、その「評価」が現在の我々にとって肯定し得るものであるのなら、どうして福田以前の「学界」がそのような「評価」を持つことができなかったのか、それを共有の問いとして問いなおすことが必要だろう。我々が依って立つこの「民俗学」の「歴史」を真の意味で共有する地点に到達するためには、このような作業の過程を積み重ねることからしかたどりつくことはない。そして、その過程こそがとりもなおさず「学史」を知ることの筈だ。13


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 少し距離を取り、落ち着いて考えてみよう。「仕事」を「評価」する、という時の「仕事」とは何だろうか。

 例えば、それは「書かれたもの」ないしは「書かれたもの」に準じる相対的に確実な意味の保存が可能な形に変形されたテキストの集積である、と言ってもいいだろう。そのようなテキストの集積がかたち作る文脈の中で、それぞれの「仕事」も読み解かれ、「評価」され、その連なりの中で共有されてくるある認識があるまとまりを持った世界観、先の表現で言えば「学界」を形成する。

 そのためには、その「仕事」と呼ばれるに足るテキストの記述の水準をある幅で決め込み、抑え込んでしまわねばならない。この意味で、「論文」とは、そのような記述の水準を一定に縛っておくことで「仕事」の連鎖の有効性を保証するある約束ごとの上に成り立つ記述のスタイルだと言っていい。だから、逆に言えば、そのような約束ごとの上に成り立っていない記述については、その「評価」の妥当性もまたその約束ごとの成り立っていない程度に応じて低下することになる。

 では、赤松啓介の、あるいは赤松啓介でなくてもいいのだが、そのような約束ごとががっちりと共有されたある枠組み――「学界」であり、ことばの正しい意味において「アカデミー」であり、「講壇」であると言ってもいいだろうが――の内側で蓄積されてきたような「仕事」では必ずしもない「仕事」を「評価」する、というのは、それではどのような角度で可能なのだろう。

 「書かれたもの」を読む、という作業は、そのような「書かれたもの」という相対的に確実な意味の保存器から相対的に確実な意味だけをきっちりと抜き取ってくる、という作業だけを指すものではない。むしろ、そのよう意味での「読み」はある一定の条件下においてかなり実験室的に可能であるに過ぎないのであり、「主体でありつづけることと、読むという実践がたぶん同じ場に属している」14という「まるごと」の場のダイナミズムを含み込んだ「読み」への射程は、「学問」という哺育器に守られた約束ごとの中での用心深い、しかし変に静粛で乾いた「読み」とは違った広がりを見せてくれる。

 そして、それは意味の生成/解読の過程が複雑にからみあったところで成り立っている我々の現実をそのものとして解読してゆこうとする意志ともいつかなじんでくる。敢えてネガティヴな言い方をすれば、「学問」の内側での損失の少ない流通を前提に設定された記述の水準に対応するような、ある幅で決め込み、抑え込んでしまわれた「読み」の水準は、それ自体、我々が日々不断に行なっている意味の生成/解読の運動の内側の、ある限られた振幅に同調しているにすぎない。だが、そのことを自省的にとらえる視線に遮眼革がつけられると、「学問」を成り立たせている約束ごとが約束ごととしてとらえられなくなり、世界と「学問」とが即自的に重なるという、意味の生成/解読に関する深刻な動脈硬化がおこる。先に指摘した福田の言説に見られるような「私」の位置を決める当事者性の喪失、主体の欠落も、おそらくこのような意識の症状の上にある。

 この国の民俗学において、「学問」という哺育器がたとえほとんど実体と見合うことのない虚構としてでも保証されるようになったのは戦後のことである。ということは、「論文」という、少なくともテキストの記述の水準にまず直接まつわってくる形式の次元で、「学問」という哺育器の中で営まれるべき「読み」の振幅を整序しなければならない必然性も、それまでは積極的に存在してはいなかったと言える。

 「学問」という哺育器、と僕は言った。旧東京教育大学歴史学研究室を中心として徐々に形成された「教育大体制」がその哺育器を民俗学に準備した。15 「仕事」が、そのままで「論文」という形式の下に整えられたテキストであることを要求されるようになるのも、まさにその「教育大体制」の生んだ効果に他ならない。それは、戦後の歴史学という、少なくとも民俗学からすれば巨大な「学問」の磁場からもたらされる有形無形の圧力との相乗効果でもあった。16

 そして一方で、「民俗学」という名の下に蓄積されてきた「書かれたもの」のその集積度が、そのような「論文」という形式を整えるに必要な相互引用が可能な程度に高まってきた、という事情もあった。本来「報告」という形式によって記述されてきたテキストも含め、「民俗学」の範囲で蓄積されてきた「書かれたもの」を、「論文」相互を引用する時の作法そのままに引用し合うという慣例は、僕の見るところおおむね昭和二〇年代後半から三〇年代前半にかけて形成されている。17 だが、それは「論」を組み立てるための相互引用の体系ではなく、断片的な資料を文脈からかなりかけ離れたところで恣意的に並べる作業のための相互引用だった。そして、言い添えるならば、これまで民俗学が口角泡を飛ばしてきた「比較」というのも、実はこのような意味での資料の恣意的な、脱文脈的な並列である場合がほとんどだった。18 何を問題にし、何を明らかにしようとするのか、という最も根本的な疑問すら自覚できず、そのために「比較」なら「比較」の基準となる脈絡も準備できず、ただ蓄積してきた資料を並べ替えていたずらに「こわい考え」をつむいでゆく。それは、あたかも仮面ライダーカードやビックリマンシールを相互引用が可能な程度にまで集積した子供が、今度はそのカードを自在に並べ替えては新たな「物語」を作ってゆく作業に似ていた。19

 このような「学問」という哺育器が制度的に保証されたところで、かなり後付け的にそれに見合った「論文」という記述の形式が泥縄的に民俗学に密輸入されていった。そして、そのような過程と並行して生産されてきた「学史」のほとんどが、硬直したたたずまいを持っていたのも不思議ではない。20 いわゆる柳田國男研究の領域と、このような民俗学にはめこまれた「学問」という哺育器の内側に結露した「学史」とが、積極的、かつ生産的にあいわたることに乏しかったのも、このような本質的な交通不能性をもたらすような、民俗学の記述の水準の屈折、捻転と深く関わっている。21

 例えば、柳田が積極的に組織した昭和一〇年代の「民間伝承の会」に限定してみても、むしろそれは「報告」という形式によって規定されてくる記述の水準が一方で「書かれたもの」の流通を保証していたのであって、その限りにおいて「読み」もまたそのような保証の下に組織されていたと言い得るかも知れない。だが、それはせいぜい「葉書一枚分の報告」22であり、「論文」という、テキストを貫通するある過程を重視するような形式のものではなかった。

 他ならぬ柳田自身がそうだ。彼の文体についてはこれまでもさまざまな評価が試みられてきた。

 例えば、鶴見俊輔は「一日一日をくらしながらその一日一日について書いているというような、学者の文体とちがう一種の文体をもっている」と言った。梅竿忠夫はそれが「連ねる論理」23に依拠しており、西欧近代科学を支える「貫く論理」と本質的に異質なものであることを指摘した。24 最近では、中沢新一が同様の構想からそれを「江戸本草学の文体である」と言っている。25 また、より根本的なところでは、佐藤健二が『読書空間の近代』において、とりわけ「「読書童子」の宇宙――書物倉のトポロジー――」で展開した柳田の読書経験と記述の水準の関係についての解析が、このような「読み」の豊かな可能性を示している。26 いずれもが、その記述の形式と彼の構想との関わりとを見出そうとする点において、基本的な方向性は一致している。これら柳田の文体に関する議論をことばの真の意味での「方法」と交錯した足場においてさらに検討することは、ここでの目的から外れるのでまた他日を期したいが、民俗学にとって決して無視できない重要な問題を提起する筈だ。

 しかし、では、そのような「学問」を前提にした形式に縛られない記述の水準を持つ「仕事」は、どのような「読み」になじんでゆくのだろう。

 冒頭部分で「テキストに対する入射角の相違にまで関わるより大きな問題」と言ったのは、実は、このような記述の水準を決定するような、テキストの形式にひきずられる「読み」の作法の問題である。そして、「論文」という形式の約束ごとを前提としない「仕事」に対してなおそのような硬直した読みしか準備できない不自由は、どのような意味にせよ、民俗学を「現在」に解き放つことを最も根のところで妨げる。「書かれたもの」そのものを、しかしその「書かれたもの」がつむぎ出された「まるごと」の場との相互性の中で解読してゆくこと。「書かれたもの」をそのものとして「評価」するのでなく、むしろ、どうしてこのように書いたのか、書かざるを得なかったのか、ということを主体の生の「まるごと」の場のふくらみに戻すこと。27 赤松啓介の「仕事」に関する「評価」の位相は、このようなこの国の民俗学の現在をめぐる錯綜した文脈を前提として、より方法的に、戦略的に読み解かれねばならない。

 そしてつけ加えれば、この国の民俗学に関する限り、あらゆる「書かれたもの」はこのような方法的、戦略的な読みを介するより他に、「現在」に関わる可能性を立ち現わすこ

となどできない。「まるごと」の場のふくらみを十全に折り込んだ上演的な、ノリの良い読み。それは、ただひとつの「正解」や「真実」を前提に言われる「誤読」につながるのでなく、「書かれたもの」を常に足もとの文脈に差し戻した場所で読んでゆくという作業の連鎖を保証し、その中に宿るであろう相互性とその相互性を前提としてつむぎ出される「歴史」を信頼する方策である。そして、あとで述べるように、それは「書かれたもの」に対する「読み」の身振りだけでなく、「まるごと」のテキストに対峙する「調査」の身振りにも通底してゆく。


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 今日、赤松啓介は柳田民俗学の等閑視してきた性の問題、差別の問題、階級の問題を積極的に扱い、そのことによって柳田流の民俗学を徹底的に批判してきた、という「評価」が一般的に与えられている。またその場合、それらの作業をマルクス主義の立場から行ってきた、ということもほぼ必ずつけ加えられている。28 先にあげた『民俗学』に付された福田アジオの解説も、基本的にそのような立場に依拠していた。

 しかし、赤松啓介の仕事がどのような角度で柳田國男民俗学に対峙しているのか、そのことについての同情ある検証は未だなされていない。もっと言えば、赤松啓介の仕事が本当に柳田民俗学――柳田の構想の下に展開されてきた、といった程度の意味での――批判として機能し得るのか、ということについて検証することも含めて、今後必要になってくるだろう。仮りに機能するのだとしても、それが半世紀前、昭和初年の段階の柳田民俗学そのものに対してなのか、それとも柳田に対する現在の我々の読みの水準に対してなのか、あるいはまた、そうだとしてもそれはどのような読みの水準に対してなのか、などなど、踏み固めておかねばならない足場はまだいくつも荒地に放り出されたままだ。

 福田の言説に戻ってみよう。福田は、赤松の仕事の性格をまず「柳田国男民俗学に対する強烈な批判」と規定し、その「研究体制への批判」と「「地域研究」の主張」の二点において「評価」する。彼は言う。

 「中央の柳田國男が唯一の研究者で、地方の民俗学研究者は単なる資料提供者にすぎないという、その後も再三繰り返し指摘される研究体制の構造が、その小ブル的特質との関連で批判の俎上に乗せられている。」29

 だが、他ならぬ赤松がどのような構想の下に柳田の「研究体制」を問題にしていたのか、どのような文脈で「地域」という言葉を使っているのか、その点について福田が誠実な配慮をしているようには思えない。ひとことで言って、読みのノリが悪いのだ。かつて福田が「常民」という言葉にまつわる意味をいじくり回した時に見られた「どうも結論が先にあったのではないかと思われる、その論理の飛躍と内閉」30は、ここでもまた文脈に足をつけきれない不自由な読みを招来している。

 まず、赤松が「研究体制」に着目する文脈を見てみよう。

 一九三四年、『民俗学』に先駆けて出されたパンフレット『民俗学の基礎的諸問題に就いて』31では、このような柳田の「研究体制」を問題にするための脈絡が準備されている。 ここで赤松は、まず民俗学に向かう意識がどのような歴史性に規定されているかについて検討を加えたのち、「ブルジョアジーは、一切のブルジョア科学が自己に所属することを明言することが不可能」32だと断じ、「マルクスを先頭とする弁証法唯物論者たち」の立場からでないとその規定要因を自ら明らかにすることができないということを主張する。そして、だから「あらゆる科学が階級性を、従って政治性をもつ」のであり、「あらゆる科学が政治性をもつているということは、だからその研究者層の構成を重視せしめる」とつないでゆく。33

 ちなみに、この時点で赤松の考える民俗学のあるべき方向性とは、「まずブルジョア民俗学としての確立」34であり、その限りにおいて講座派直系の「二段階発展論」である。

 「日本型民俗学の徹底的批判による克服と、組織的大衆化によるヘゲモニーの奪還を通じたブルジョア民俗学確立の基礎においてのみ、プロレタリア民俗学――即ち、我々の目標とする科学的に規定された民俗学を確立することができる。」35

 さて、このような流れの中で、赤松は日本の民俗学、言い換えれば柳田の組織した民俗学のありかたを「日本型」民俗学として特殊なものと考える。

 彼は「科学としての民俗学の基礎が築造されたのは、やはり徳川中期以後の商業資本主義的発展の基礎においてである」36と述べ、そのような「経済的欲求は、他国の風土、習慣等々に対する興味を喚起した」37と言う。この意味で民俗学的思考は人類学的思考と基本的に同じ根を持つことも、彼は指摘している。だが、「徳川時代の地誌並びに随筆的編纂物」はその編纂者の階級性において「中世の旅行記乃至は随筆など」とは決定的に異なっていると指摘する。

 といって、それら地誌類の出版による普及の過程に関して「町人がヘゲモニーを持っていたと考えることはできない」。38 むしろそれは「封建的階級にあった」と見るべきである。その理由は、「日本における封建社会の崩壊がブルジョアジーの熟成によるものでなく、封建的地主貴族である大名の懐内に育成された官僚的産業資本の指導下に行なわれたことに照応する」39からだ、と彼は続ける。

 「西欧のブルジョアも植民地から資料を持ちかえっている。日本の町人も同様だったが、唯甚だ劣弱であったことに問題がある。」40

 このような脈絡で、彼はその後の民俗学を見てゆこうとする。「明治維新ブルジョア革命であったが、しかし甚だ不徹底なものであった。それは封建的生産関係を農村に残存せしめ、それを土台として資本主義的再編成をとげんとするものであった」41という規定から、「封建的領主・富農によって育成された研究者の進歩的分子――産業ブルジョア的欲求に沿った――」が「国内資本主義の発展とともに次第にブルジョア的アカデミック的確立」へと移行する動きと、「地方に残存せしめられた封建的分子」が「地方の地主封建的支配階級の利益を代表」するようになる動きとの対立を導き出す。42 そして、歴史学に比して「その資料を、正に地方の封建的、半封建的研究者たちに期待せねばならなかった」43人類学、考古学といった領域、ここでの論旨に沿って言い換えれば「書かれたもの」以外の「資料」を想定する学問領域の特殊性を指摘するに至る。

 この特殊性のゆえに、次にこのような領域が「資料の増大によってブルジョア的編成を確立する」に従い、それまでの「地方の半封建的研究者達」にかわる「新しき支持者、研究者層」として「中間層――プチブル階級、特にその中のインテリゲンチャ」を必要としてくる。44このような脈絡での「地方」の変質が、「中央の研究者にとって通信員的意義より他にもつことのできないもの」45としての「地方の研究者」を産み出す。

 これら人類学、考古学に関して出されてきた歴史的枠組みを民俗学にあてはめると、「研究者の構成層を小ブル階級にもちながら、前述の如き資料を広く地方に求めねばならないこと、地方農村に半封建的生産関係が残存していること、地方の小ブル研究者が富農史湯っしん乃至その影響下にあること、それは帝国主義的反動強化の情勢に於いて一層強烈であることから、著しく半封建的色彩に影響されブルジョア的確立さえ抑圧されんとしている」46という「日本型」民俗学、「柳田式民俗学」の特殊性が抽出されてくる。

 このような「日本型」民俗学の欠点として赤松は、


  ?「趣味的文学化」しており、「科学的記録として承認され」る「客観的分析」が行なわれていないこと。(「趣味的文学化への偏向」)

  ?「ブルジョア理論の個別的 的紛争は、一個の統一的指導理論の確立の障害となって」おり、「批判を回避せしめる原因となっている」こと。(「指導及び批判の欠   乏」)

  ?研究体制の「小ブル的構成の故に、現実逃避的であり、従って社会の実践的欲求から遊離している」こと。(「社会の実践的欲求からの逃避」)

  ?「しかし、資本主義社会が帝国主義的段階に入るとともに、その欲求は統合されて反動化する」こと。(「もし欲求に結合化するなら反動化すること」)


の四点をあげる。47

 さらに、このような「研究体制」の性格が「資料」の具体的な「採取方法、および技術」にまで次のような影響を与えていると続けて指摘する。


  ?「個人的」であり、「組織があっても、それは個人を強力に統制するもので   はなくて、全く好意的友人的集団にすぎない」こと。

  ?「放浪的」であり、「計画的組織的にある一地方、またはある事物について   強力な指導下に共同調査をやるのではなく、全く個人的恣意的調査である」   こと、しかもそれが「自己の居住地方を調査する場合にも同一」であること。  ?「主観的」であり、「自分の見たまま聞いたままが正しいと信じ」、「その   自分がどんな考えをもってるか、相手がどんな考えをもっているか、その考   えが果たして正しいかどうかということを考慮に入れようともしない」こと。  ?「組織化すれば、反動的」であり、「交遊録的研究者の、派閥的分散的組織」   に過ぎず、「地方の組織的共同調査」を目的とした「科学的組織化ではない」   こと。48


 そして、本来そこに「補助的科学」として包摂されるべき「史学のブルジョア化」によって、「アマチュア的に育成された」民俗学的思考は「「郷土研究」という頭部のない――指導理論の統一されない地域研究的なものに、そして理論的水準の低劣な故にこそ、所謂史談会的方法に誘導されねばなら」49なかった。そのような「郷土研究の地盤の上に、輸入されたのが民俗学であ」って、「自ら科学を確立」することはないまま今日に至っている――おおむねこれが、昭和初年の段階で、赤松啓介が持っていた民俗学に対する認識であった。


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 このように、赤松が「研究体制」――福田の言葉を借りれば「研究体制の構造」――を問題にするのは、「学問」をひとつの情報生産の体系であると認識しているからに他ならない。そして、そのような情報生産の体系を支える人的資源や、物的基礎のありかたを透視することで、その「学問」が規定されている歴史的条件をみつめてゆく、という態度を、民俗学を考えてゆく時にもまっすぐ適用していったに過ぎない。このような認識論的な脈絡において、彼は「マルクスを先頭とする弁証法唯物論者たち」の立場に立っていたと言い得るのであって、何も治安維持法に触れて投獄されていたからでも、書いたものにそれらしい左翼用語が散見されるからでも、まして、近年オメコやチンポの話を精力的に記述しているからでもない。50あくまでも世界との関わるその関わり方において、それは論じられねばならない。だが、赤松の「仕事」に対する福田の「評価」には、そのような視線は認められない。自分のこれまでの立場に都合の良い部分だけを文脈からひきちぎってきては、それを一見論理的な装いの中に塗り込めているだけのことだ。

 かつて福田の提唱していた「地域民俗学」の枠組みを支えていた柱のひとつに、「中央」に抑圧されて単なる情報提供者にとどまっていた「地方」の研究者を解放する、という半ば無意識の錦の御旗があった。51この意識の構造それ自体がこの国の民俗学のありかたと深く関わる病いであることは、以前別の場所で指摘したことがあるが、52ここでもそのような病理は軽快することなくよどんだままだ。

 もしも赤松が、「地方」の研究者が単なる情報提供者にとどまっているからかわいそう、といった俗流ヒューマニズムあふれる理由だけでそのような研究体制を問題にしたのであるならば、どうしてここまで「科学」という言葉にこだわるだろう。『民俗学』の時期の赤松にとって、問題は「科学」だったのであり、まずその「科学性」を保証するためにそのような「組織」が必要だった、ということだ。そして、その「科学」という言葉を可能にするような世界との関わり方が彼の「理想」であり、志だった。53そこから自らの足もとにまで「理想」をおろしてくるための設計図として、当時の赤松の「理論的」著作が存在する。

 例えば、誰もが「主体的な思考をして独自な論理を持つ研究者」54になることを夢想するのも、「理想」としては美しいと言い得る感性もあるかも知れない。だが、このような「理想」は、誰もが、それが農民であれ労働者であれ、まるで芸術家のように絵画や音楽を語り、詩や小説を「創作」できるようになることを「来たるべき社会」として夢想したかつての左翼の革命幻想に近い。それらの幻想が知識人特有の「大衆」「民衆」コンプレックスに規定されていたように、福田の「マルクス主義」とは、最も表層的な意味での「おかわいそう」意識の別名であり、もっと露骨に言えば、知識人の「大衆」「民衆」コンプレックスのやせた表現に過ぎない。55

 そこここに「自立」し、「自由」に研究を行なう「地方」の人々、というイメージだけを何ら「実践」への志もないままにふりまくのは、そのような「自立」も「自由」も保証する筈の下部構造の問題をほとんど無視した太平楽である。そして、福田の言説に向かうのと等量の情熱で言っておかねばならないのだが、この程度のずさんな「中央/地方」論に足もとから理を尽くして反論する「地方」の研究者のいなかったこと自体、この国の民俗学がいかに時代のイデオロギーと癒着してきたか、さらに言えば、そのようなイデオロギーと手軽に癒着してしまえる程度の知性しか組織できてこなかったかを如実に表わしている。56

 赤松にとって「地方」とは「ぼくたち」である。その立場は明快であり、そしてまたそれだけの説得力を持つ。これは別に、彼が在野の民俗学者だから、とか、地理的な意味での地方に住んでいるから、といった理由によるものではない。共に世界を変えてゆく可能性を共有できる同時代、とでも言うような、ある頼もしさのもとに設定された意識である。赤松のテキストが、その内容的な反目とは別に、柳田の構想した運動の広がりと奇妙に通底するある雰囲気を感じさせるのも、ひとつにはこのような同時代の広がりの中で「ぼく」を設定するそのスタンスによっている。

 「ぼくは新興教育同盟、プロレタリア科学研究所、日本先頭的無心論者同盟の運動を通じて、民俗学の理論と資料採取の実践、その組織的大衆化の問題と取組んだ。ぼくにとって民俗学とは学問的対象でなく、自分自身を解放する手段だったのである。ぼくたち「常民」にとって、自分自身の歴史や精神生活の多様性をいろいろに解釈することが問題なのでなく、まさに自分自身の生活と運命とをいかに、またいかにして変革するかが問題であった。」57

 赤松が「研究体制」に執着したのは、先にあげた認識の次元での規定要因と共に、もうひとつ、このようにあるひとつの方向に向かって世界を変えてゆく、その力の方向に賭けるという態度が前提としてあってのことだった、ということを見逃してはならない。それは、必然的に「実践」の問題をはらむ。もう少し丁寧に言えば、「実践」という名に包摂されるような、ある方向性を持った力を組織する具体的な営みの連続を自分のものにしてゆくことを要求されるということだ。そのような広義の「運動」を見据えたところで彼は「研究体制」を問題にしたということ、それもまた福田には見えていない。

 同じ『民俗学の基礎的諸問題に就いて』の中、「組織の重要なのは何故か」と題した一章で、赤松はこう言っている。

 「もし地方研究者が中央の民俗学研究などは遠雷の如きものであるなどと考えているなら、その言や壮だが未だ達せざるも甚しい。かかる中央研究調査指導機関の確立なくして健全な、統制ある発展ができるものではない。」58

 また、別の個所では、より素朴にこのような言いかたもしている。

 「我々の目的は、自分だけが一人前進することでなくて、大勢の人達と共に行くことにある。だが我々は大勢の人達の中に、まきこまれてしまってはならない。常にそれらの人達を目標に到達せしめるために、先頭に立って指導しなければならない。時には少しはなれて「ここまでおいで」といわねばならないだろうし、また、やや進んだ人達より、まだ送れている人達のために、自分はやや進んだ人よりも遅れなければならないこともあるだろう。」59

 これらが、今や時期はずれの鏡餅のように黴まみれで、干割れてしまった「前衛」の論理の正射影であることを指摘するのはたやすい。また、「あとがき」で自ら述懐しているように「今日、再読してみて三二年テーゼの強い影響と、その未熟な適応とが目立つ」60ことも容易に認められる。それらを根拠にして、この時期の赤松の「理論的」論考の左翼的硬直をあげつらい、「自らの民俗学の方法については十分な展開が見られない」61と勝手に残念がるのもいいだろう。ただ、それらの構想に沿った実践が実際にどのような広がりを生み出し、どのような「書かれたもの」を残し得たか、という次元とは別に、まさにその構想そのものとして、それがいずれにしても「実践」を前提にしたダイナミックなものであり、民俗学をそのような運動の相のうちにとらえようとする限りにおいて、時代の文脈の内で柳田と共通するものがあったということは指摘しておいていい。具体的な作業量において柳田を「超える」ことと違ったところで、その「学問」の構想の次元からまず拮抗しようと志した、その志において「評価」する論理も「書かれたもの」を読むという実践には常に含まれている筈だからだ。


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 だが、これほど「組織的調査」と「組織的研究」を直接に標榜していた赤松が、敗戦をはさんで戦後継続してきた仕事をくぐった後に、微妙に異なった立場を表明するに至っている。

 「民俗調査の原点は、あくまで一対一の決闘である。調査者と被調査者とが、一人と一人で対向して実施するのを原則とする。親子、兄妹の間でもしゃべりたくないこと、知ってほしくないことがある。それが赤の他人にベラベラなんでもしゃべってもらえると思う方がおかしい。とくに部落の内部のこと、住人の個々の事情など、複数の調査ではタテマエは出るが、ホンネはまず出ないと思ってよい。地名、人名など具体的なことは出さないという約束で、しゃべってもらえることも多い。それは一対一だからいえることで、調査者、被調査者のどちらかでも複数なら、極めて難しくなる。」62

 「調査」という行為の最も等身大の部分、言い換えれば「まるごと」の場での相互性に、ここでは焦点が合わされている。もちろん、即座に言い添えなくてはならないのだが、これは「組織的調査」と正面から対抗的なスタンスというわけではない。むしろ、どのような「組織的調査」にしても結局はこのような「まるごと」の場での相互性に依拠していること、そして、そのような「まるごと」の場、言い換えれば現実から「資料」を引き出し、変形させてゆく過程の最も先端の熱い部分に対する方法的戦略の重要性を提起している、と読み取るべきだろう。

 そして、赤松はまず「一対一の調査に習熟すること」を主張し、「相手の反応がすぐピンとくるようにな」るためのエチュードを示唆する。

 「親から、親の生活史、思想、感情など、いろいろと聞く、ということから初め、更に親類、知人と拡大してゆくと、いろいろと聞き方、答え方もわかってくる。ある程度は生活や考え方がわかっているし、そんなに他所行きのハッタリやウソをいう必要もなし、まず信頼できる聞き取り(資料採取)ができる。」63

 この国の民俗学における「調査」論の多くが、例えば、どのような「調査項目」が設定されるべきか、といったあらかじめある枠組みの中での固定した問い、「書かれたもの」としての問いの位置関係を説く、言わば設計図的配置図的世界観から出られないのに対し、赤松はそのような「何を」ではなく、むしろ「どのように」という実践的上演的世界観に立った一点突破を仕掛けてきている。64「図」でなく、といって「地」でもなく、ひたすら「場」から、という意志。これは、司令部の机に広げられた地図の上から世界をイメージする幹部候補生出身将校の世界観と、目前に生きてある存在に対してどう関わるのか、そのために自分をどのように変えてゆけるのかという問いに執着し、そのためのエチュードをどれだけ重層化するか、という武術家ないしは演出家の世界観の違いだ。65さらに浮わついた言い方をすれば、「調査」に対峙した時の「学校」的官僚的世界観と陰謀家的ゲリラ的世界観の違い、というようなくくり方も可能だろう。

 柳田の世界観は「小盆地宇宙」66と呼ばれるような景観に収斂してゆくような質をどこかで持ったものであり、映像としてはかなりの程度具体的なその景観の四季おりおり、地方地方のヴァリエーションが彼の「旅」の経験との往還に組み換えられ、さまざまに肩寄せあう果てに、彼の頭の中には常に「NHKの天気予報のような日本地図」67が広げられていた。68それに対し赤松の世界観は、そのようなあらかじめ紙の上に描かれたものではなく、主体の移動とそれに連れて連続してゆく野戦の局面のそれぞれに、不断に生成/解読されてゆくメンタルマップに近い。

 紙の地図を手にする時も、彼はそのような言わば「身の地図」との照応を確認するためよりも、むしろ「身の地図」の書き換えのための補助線として使っていたフシがある。69それは、山を歩くのに「NHKの天気予報のような日本地図」が役に立たないのと同じだ。赤松にそのような日本地図は似合わない。紙の地図の縮尺を小さくし、世界の広さを広げてゆくことはあっても、「身の地図」に織り込まれた「まるごと」の感覚を手離さなくてはならなくなる地点以上に彼が踏み出すことはない。

 身の大きさを超える世界の広がりをカバーする緊密に構築されたゆるぎないある構造体として「組織」を想定し、そこへ向かう実践を設計する、その一点に関してならば、このような「身の地図」に焦点を合わせる戦術は明らかに迂遠なものに見える。その意味では、半世紀前の赤松の言説の方が間違いなく明快であり、その限りでの明快さに奮い起つ感性のあることもまた事実である。

 だが、紆余曲折の半世紀の後に、それぞれの場でそれぞれの「身の地図」を各自が編み上げること、そのための作法を上演台本のような視野の内に共有しておくことに赤松が焦点を合わせるようになったことの意味は、絶対に無視できない凄味を持っている。70それは、どのような「調査項目」が設定され、どのような課題がその「調査」という営みに埋め込まれているかに関わらず、最終的にそれら全てを「まるごと」の場に解き放たねばならない位置にいる「調査者」の問題に他ならない、という認識に支えられている。「調査」とは、突き詰めれば「調査者」自身の問題である――これが赤松の到達した場所だった。71


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 見てきたように、この「調査」する主体への強靱な問いは、少なくとも「書かれたもの」に関する限り、赤松が戦前に提示していたような「組織的調査」や「組織的研究」への信頼をあらわに全面に押し立てる言説を後退させている。

 だがその一方で、「組織」という名のもとに身の大きさを超える世界の広がりをカバーする緊密に構築された(「中央/地方」の!)ゆるぎないある構造体、というイメージが

それ自体、ある時代の文脈の内側にあった意識に宿るひとつの夢だったかも知れない、という解読を我々はどこかで妨げないようにしておきたい。72それは、見渡すかぎりを埋めつくした圧倒的な人々の群れや、その群れが群れとして発散する「力」73に、あるいはひとつ異なった次元にシフトすれば、そのような「力」に対する意識がすでに自らの内側にくぐもってしまっていることを前提としてしか立ち現われようのないさまざまな上演的表現74に、いずれ感応してしまったような瞬間を、方法的に「現在」のものとして同時代に繰り込んでゆけない不幸を回避するための唯一ではないにせよ不可欠の手立てである。75そのような細心の注意を払った上で、なお、どのような経緯で赤松が「調査」する主体への問いを結晶させ、「組織」をそのものとして目標に設定する言説から身を遠ざけていったのかについて、静かに考えてみる必要がある。

 仮説として考えられることは、このような、ある意味で先験的な「組織」のイメージを抱いたままあちこちを歩き、見、聞いてまわる経験のうちに、赤松はあるひとつの足場を発見していったのではないだろうか、ということだ。76それは、「書かれたもの」としてはまず「科学性」という言葉で「資料」の「客観性」を保証してゆこうという方向に向かう過程においてなされている。

 「私たちが資料の同時採取を基本条件としたのは、この「同時性」を確実にすることで、比較の科学性が成立すると考えたからだ。」77

 そのような「同時性」は、「現在」に「まるごと」関わる身振りとしての「聞き書き」を自省することにつながる。「聞き書き」という方法が自然科学的な意味での「実験」「観測」というテキスト生成/解読の系とは異なった振幅を持った、その限りでは「主観的」であることから逃れられないことを赤松は考えようとする。

 「そうした主観的性質の資料を、客観的性格の強い資料に転換できるか、その方法があるか、どうかである。同種の資料を、同時に比較的大量に採取し、蓄積すれば、個々の資料に誤膠があろうとも、その危険性を分散させ、誤膠を検出させる機能を期待できるだろう。そうすると一定の資料蓄積の条件として、その社会的経済的環境の類似性、均質性の高いことが望まれる。換言すれば採取条件の「地域性」であり、ある地域で、一定の資料を同時に採取する、すなわち「同時性」と「地域性」との統合の上に、とくに誤膠の起こりやすい聞き取り方法の欠陥を埋め、科学的測定としては「誤差」の範囲にとどめうる可能性があると思う。」78

 その一方で、そのような「聞き書き」に依拠することからくる限界も冷静に見つめる。

 「どのように熟練した資料採取技術者であっても、聞き取り作業から誤膠を拒否できるものではない。」79

 だが、「科学」と「科学」を支える「主観/客観」の認識論を一義的にとらえようとしたまま「聞き書き」という方法を考えてゆく限り、必ずどこかである投企を強いられる分岐点に立ち至る。ここに至って赤松の態度はゆれ動く。確実に「客観的資料」が得られないのは「聞き書き」という「作業方法に問題があるのでなく、被採取者に限界があるからだ」と「調査者」の立場に依拠しながら、別の場所では、「私は人間が、人間を調査する場合に、絶対に間違いなくできるなどと信じない。どのようにやってもいろいろと間違いは起る。調査側でも、被調査側にも、いろいろと違い、意識したウソもあれば、タテマエのこともある」80とつぶやく。

 だが、いきなり飛び道具の大文字のことばに依るのでなく、具体的な「聞き書き」の場に生起するさまざまな彩を自らの経験から引き出しながら、彼は「聞き書き」と「客観的資料」の間をつないでゆくことばを探し求める。そして最終的に「私たちがほぼ事実と認めることを積み重ねるほかはない」81という地点に到達した赤松は、そのために「階層に

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よる民俗の差、その範囲などを考えるほかあるまい」82と身をひるがえし、再び「地域」へと向かい合い続けることに投企する。

 「科学」を別のものにしてしまうことを、その「科学」ということばが最も効率よく流通する水準の実践において投企することをあきらめるかわり、ひらり身をひるがえして

 まるごと

「地域」の波立ちに飛び込むこの魚のようなかろやかさに、今は精一杯の敬意を表しておきたい。生きてある赤松と「科学」について話をする機会がこれから先あるにせよないにせよ、とめどない世界の広がりをあるひとつの確かな層において見通してしまうことをあきらめたまま足もとに前向きになる、そのためのひとつの態度を学んだことは、少なくとも民俗学に足をつけることを選んだ者にとって、「科学」そのものを変形させることに向かってぎっしりと編み上げられたテキストを全力疾走で読破するよりも、なお直接的な治癒の効果があった。

 その意味で、「事実」を表現するためにここで選択されているのが、無媒介の「事実」という言い方ではなく、「私たち」という主体が「ほぼ事実と認めること」、というメタのレヴェルに身を寄せた表現であることには注意しておきたい。「事実」は同時代を生きるこの「まるごと」の場の「私たち」の共有する常識によって決定されるしかない、という認識は、例えば、現象学的社会学者の視線にも通じるものだ。83 かつて、意識の交錯と関わらない外部にどのような状況でもゆらぐことのない確かな「事実」を「科学」によって希求した筈の赤松のこの認識の変化を、過小評価してはならない。

 このような認識論的転換に至る契機までその背後に抱えこんだ「仕事」を、「いわば大地を這い廻る調査結果」84としか「評価」できない知性の届かなさは言うまでもないだろう。「聞き書き」という過程から逃れられない民俗学にとって、そのような「聞き書き」を内包した「調査」という作法によって明らかになる現実には、究明すべき水準があらかじめ絶対的に存在するというわけではない。なぜならそれは、まず「聞き書き」という方法そのものが語り/聞くという「まるごと」の相互的な過程を考慮せずには実践の場に返せない性格を持っているからであり、もう少し皮相な次元では、そのような相互性をある一定の記述の水準に抑え込んでしまう手立てを、理論的にも実践的にも我々は未だ手にしていないからだ。さらに、逆にもっと本質的なところから言えば、ことばというメディアが我々の意味生成/解読の不断の過程にどのように関わり、どのように我々の世界を編み上げているか、そして、その世界を我々はどのように経験し、記憶し、また引用可能な索引をつけてゆくのか、といった、言語から経験、記憶に至るまでの広範な射程を持つことが要求される。これらの議論を目的化したところで試みる実践がすでに「民俗学」という領域を超えていることは言うまでもないし、また何よりも、そのような議論をするそのことが「調査」の「まるごと」の過程にどれだけ利するかというのも、再び別の次元のことだ。85


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 赤松啓介がたどりついた「私たちがほぼ事実と認めることを積み重ねるほかはない」という決意にまず身を重ねてみよう。そして、そこから見通せる「地域」に全ての感覚を、しかしゆっくりと同調させよう。そのような営みの連続によってつむがれてくる経験こそが、かつて民俗学を支えた初発の志である「旅」という方法に深く関わってくる。それは、そのような経験によって主体が変容してゆく、その効果において本質的に社会教育であり、また、だからこそある方向において「革命」的にもなり得た。今や手垢にまみれきった「調査」も、しかしその効果においてそのような「旅」だと言い切れねばならない。もしそうでない「調査」があるとすれば、それは「まるごと」の場に同調する身振りを何かに阻害されていることに他ならない。86

 「まるごと」を知ること。「まるごと」があり、そしてそこから放り出され続けるしかない自分を思い知ること。そのためにのみ、「調査」はいきいきした営みとして自省の回路に放流される。自転車を駆り、走り回った赤松啓介の身体を民俗学の初志として読み換えることの第一歩は、まずこのような世界への認識、世界との関わり方を言葉本来の意味

    ラディカル                        まるごと

において根源的に考える態度を「知る」ことから始まる。赤松が「地域」を選択し、「調査」の先端の場に宿る上演を凝視するに至る過程には、「書かれたもの」とは別に、そのような「まるごと」の場に十全に身を同調し続けてきた経験が深く作用していた。「地域」を単なる地理的なある区画ととらえたり、あるいは、ある一定の社会関係の具体的な広がりととらえたりするのではなく、生身の自分を世界の中心に置いたところから見通せるある意味の広がりを持った風景として見る。世界がそのような関係の網の目として成り立っていること。文字の向う側にありとあらゆる意味の喧騒がわきたっていること。そのような風景として世界を認識し、その連続の中を歩き、見、聞くことによって「身の地図」が次第に像を結び、それがまた歩き、見、聞く作法にフィードバックされてゆく。

 このような脈絡で「地域」に依拠する赤松が繰り返し説くのが、「調査」という身振りによって「資料」が生産されてゆく現場における権力のあらわれであり、その力によって隠蔽されてゆくことばのありかたであるのも、ある意味で当然の帰結だろう。近年彼のよく使うタームである「境界」とは、そのような意味での極めて認識論的な傾きを持った術語に他ならない。そしてそれは、常に捕捉不可能な限界の向う側にほの見るしかない領域として現われる「まるごと」からの距離を計測するための浮標として設定されている。

 「ウラの世界には、ウラのオキテがある。仲間になって生涯を埋めるのならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これから奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない。」87

 このような最近の赤松のエキセントリックな言説を一義的に読み、「ウラ」や「闇」といった言葉で指示される何か具体的な存在がある、といきなり考えてしまうのは賢明ではない。また、赤松だけが知っている「真実」がある、といきなりおびえたり、あるいはその故に軽視したり、逆に盲信したりするのはさらに情けない。88このような表現でしか伝えられない「境界」とは、まず、どこまでも当事者であることから疎外された「調査者」の抱える「まるごと」に踏み込める果てが存在する、そのことの比喩に他ならない。89

 かつて、「調査」という身振りを必然として抱えこむ学問領域に足を突っ込んだ者たちの間には、「村人が夜這いと密造酒の話をしてくれるようになったら心を開いてくれた証拠だ」などということがまことしやかにささやかれていた。90このような語りの背景にある種の達成目標として「性」が設定されているのは象徴的だ。このような態度からは、対話の相互性や、その中で形成されてくる共同主観性についてのセンシティビティはうかがいにくい。夜這いと密造酒についてあからさまに語ることが抑圧されていたこと、そして、その抑圧がいずれも近代の制度的な網の目とその網の目に宿る力に規定されていたことを考えるならば、「調査」を唯一の手灯りにそれらの語りに遭遇したことが一律に「真実」との遭遇として意味づけられてしまうような意識は、ほとんどおめでたいとしか言いようがない。敢えて皮肉を込めて言うのだが、夜這いや密造酒についての語りが「本当のこと」を語ってくれたという「客観的」保証は一体どこにあるのだろう。

 「調査者」はどこまでも当事者たり得ないということが、ここからは見えなくなっている。あわてて言っておかなくてはならないのだが、「当事者」であることが無条件にプラスであるわけではない。認識論的な意味で、「調査者」は共に密造酒を作ることはできないし、共に夜這いをかけることもできない。仮りに何らかの条件の下にそのような経験を持つことがあったとしても、「まるごと」の当事者としての経験をそのまま共有できるということとはまた別だ。共有できた、と勝手に思うことはいくらも可能だし、そのような経験を準備してくれたおそらくは善意の「被調査者」たちそれぞれとさえ、そのように、共有できた、という理解を同時に持つこともできないことではない。それはきっと至福の瞬間なのだろうし、ある文脈ではそれが「私たちがほぼ事実と認めること」であったかも知れないとしても、しかし、「調査者」はそれさえも自省の回路に放り込み、瞬時に括弧にくくることをしなければならない。なぜなら、そこを放棄してしまえれば、「まるごと」を方法として選択することはできなくなるからだ。

 夜這いと密造酒について語ってくれる、あるいは差別のことを語ってくれる、そのことだけをただひとつの指標にして当事者になり得たと思い込むのは、「実践」という神話への盲従であり、まずもって知的怠惰である。このことは、「ただの百姓」を自ら標榜し続けた宮本常一の「実践」が、最後にはどのように「観光」の側にすんなりと身を寄せていったかを考えてみればいい。91「実践」という言い方に深く仕込まれている判断停止、早上がりへの誘惑になだれ込むだらしない快楽からはるか遠く、「まるごと」の場に臨み続ける志のはらむ可能性は、「まるごと」から疎外され、またその分だけたやすく「実践」へ発情しやすくなっている現在だからこそ、検討するに値するものに思える。92

 赤松が「性」と「差別」と「階級」の視点の欠落という点から柳田を批判するのも、このような「地域」の眼の高さで現実と関わろうとしてきた自らの経験に依拠している。ただし、これまた即座に言っておかねばならないのだが、そのような経験を持っている、ということを自明の前提としてふりかざし、そこからいきなり「地域」を聖域化することを、彼は積極的にはしていない。この点はいくら強調してもしすぎることはない。なぜなら、そのようにしか歩けなかった自身の経験を、経験というだけで唯一のアイデンティティにする意識は、ただちに「地域」であり「地方」であるだけで即自的に優越性を持つ、というあの「中央/地方」の図式の病いに落ちこんでゆくからだ。93 彼が「地域」の眼の高さに依拠するのは、生の当事者性が宿る根拠地としてそのような眼の高さから見通せる現実を積極的に選択する、そのような投企をくぐっているからに他ならない。そして、それこそが彼が半世紀前、世界を変えてゆくための主体を形成するよすがとして民俗学を選んだことに連なっている。

 それは、誰が具体的にパルタイに関わっていたかいないか、パルタイの影響下にあるような場に出入りしていたかいないか、読書経験にマルクス主義の書物が刻まれているかいないか、といったような、公安警察めいた嗅ぎまわり方で明らかになってくるような質のものではない。パルタイに関わっていようがいまいが、書棚にマルクス主義の書物が並んでいようがいまいが、世界に対する認識のしかた、言い換えれば身の大きさの世界への視線の高さにおいてのみ、根源的か否かが決定される。さらに、世界との関わりの中でその

ような「地域」を選択する意志は、何も全てが「マルクス主義」という一枚看板に収斂されるような過程をあらかじめ踏んでのみこの世に宿るわけではない。もっと丁寧に言えば、具体的にそのような「マルクス主義」との関わりを特定できるような、警察や学校といった制度の側からはっきりと認知されるような「書かれたもの」的な足のつき方をしていなくても、人が世界に対してよほど根源的、かつ前向きになることは十分にあり得る。94

 ここはひとつ耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、恥も外聞もかなぐり捨てたとびっきりの素朴さで黴の生えたことを言わねばならない。バスティーユを襲った人々は全て「革命」を知っていただろうか。米騒動に加わり路上を駆けた人々は全て「資本主義の矛盾」を学習していただろうか。仁王立ちの大杉栄に熱狂した人々は全て「社会主義」に心酔していただろうか。あらかじめそのようなことばをことばとして知っていたら、そしてそのようなことばによってくくられる意味の相に身を浸していたら、彼らはみな同じようにそのような「まるごと」に身を踊らせ、「いてまえ状態」95になることができただろうか。96

 瞬間は常に「まるごと」として訪れる。それより他、人間が人間であること、意味にがんじがらめに縛られた生きものであることの終わりと始まりが共にざわめくその瞬間にさらされる切羽はない。「階級」に目覚めた、といい、「社会の矛盾」への怒りを爆発させた、と後づけで指示されるようなある状態は、しかし一面で、そのような足をとめた乾きものの表象による意味を与えられることでその瞬間をある一方向にねっとりとからめとることを強要する、言わば意味というやすりとの野蛮な摩擦の果てにしか現われない。もちろん、それが不幸である否かは一概には言いがたい。その程度には干乾びた歴史からも学んでおく必要がある。にしても、そのような「まるごと」の場に臨み続ける作法が身に宿るその降臨は、おそらくもっと大きな、とほうもない広がりを持つ何かに規定されているのであって、「マルクス主義」という破れ看板に全て面倒を見させることのできるような質のものではない。97

 おそらく、福田アジオ、および福田アジオの言説にひきずられるように癒しを感じてきた筈の声なき読者の意識においては、「マルクス主義」という言葉だけが呪文のように、あたかもこわれた蓄音器のように繰り返し繰り返し鳴り響いているのだろう。だが、その旋律に導かれた彼らのやったことはと言えば、無前提に「価値あるもの」と化した「マルクス主義」と、たまたま自らのアイデンティティの砦であった「民俗学」とを野合させ、「マルクス主義民俗学」という自分ひとりが棲むためのいびつな掘っ立て小屋をようよう作ったに過ぎない。98そのみすぼらしい掘っ立て小屋に、都合よく「発見」される機会を得た赤松啓介の「仕事」を押し込めることはできても、その可能性まで押し込めてしまうことはできないし、何よりもそれは許されるものではない。

 「マルクス主義」というわかりやすい看板にばかり眼をとられ、赤松啓介の仕事の可能性までないものにするのは貧しい。赤松啓介が「性」や「階級」という表現で指示し、くくり得るような「資料」を「収集」することができたのは、彼が「マルクス主義者」だったから、というわけではない。「マルクス主義者」というレッテルが適当か否かとは別に、彼はそのように身の大きさの現実と関わっていたのであり、そのように「まるごと」の場に関わる作法を身につけていた。今、確かに言えるのはおそらくそこまでだ。それを「マルクス主義」という看板にいきなり直結させることは、かなり乱暴で強引に過ぎる。

 ひとまずの結論として言っておこう。赤松啓介の仕事をあげつらい「マルクス主義民俗学」という言い方に是が非でもくくり込もうとするのは、最も控え目に言っても、この国の民俗学の現在にとって犯罪的である。読み取らねばならないのは、そのように歩き、見、聞いたというその作法なのであって、それが「マルクス主義」と必然的にむすびつくものかどうかについて、未だ十分な検証されているとは言えないし、それはまたひとり民俗学の問題ではない。ひとつ間違えば路上の芸人か詐欺師になっていたかも知れないような、そんなあやしい身体のノリを持っていたからこそ「まるごと」に関われた。まずはそのことをより方法的に読んでゆかねばならない。99

 だから、性や、差別や、階級そのものが、これから新たに論じられるべき問題なのではない。それらを問題にする前に、あるいは同等の傾きで、どうして赤松啓介がそれらを問題にできて、その他の誰でもなかったのか、今、この国の民俗学に正面から向い合うことを選ぶ知性にはそのことを問う姿勢が必要である。学ぶべきは、そのような「まるごと」に同調してゆけるノリであり、そのようなノリを獲得した知性が時に世界に向けて持つあの図抜けた貫通力への素朴な感動である。繰り返す。赤松啓介とその仕事を「マルクス主義」の破れ看板の下に始めからあらかじめ閉じ込めてしまうような窮屈な読みと不自由な姿勢は、ようやく悪夢の如き知的怠惰の日々が終わりを告げ始めたかに思える今、我々が抱えこまざるを得ない民俗学の現在にとってほとんど何も益するところはない。100