電話の方へ――それは「伝言ダイヤル」から始まった――

橋川 あのころはお互いのグループ、あるいは個人同士のあいだのコミュニケーションもさまざまな形をとったけれど、電話がものすごく使われたね。そして不思議な情報の広がり方というか速さというか、量的広がりが、ちょっと考えられないくらい大きかったという記憶がある。


日高 私はときどき神田の学士会館で、七〇〇円かの部屋に寝泊まりしていた。電話がタダだったので、一日に、多いときは六、七〇回ぐらい電話をかけた。市内電話は全部タダだったので、泊まり賃の半分は電話料で浮いたようなものだった。交換手の人が、とても気持ちよく手伝って下さった。
――日高六郎橋川文三+高畠通敏 座談会「政治思想の戦後」(1975年)より、六〇年安保闘争時の回想


 かつて、電話は黒かった。

 黒くて、重くて、ピカピカで、そして何よりもけたたましいものだった。あの電気仕掛けのベルの音は、本当に唐突に、広くもない家の中、妙にかわいた大音量で響きわたった。例えば、同じベルでも、目覚まし時計のぜんまいを動力とした響きよりもはるかに力強く、そしてその分だけ強制力のある音。電話のベルはなぜか人をあわてさせる波長を備えていた。
 隣の家から洩れてくるラジオの音を「社会問題ではない」と断じたのは権田保之助だった。だが、ラジオの声が場に拡散してゆく声なのに対し、電話の声はどこまでも「個」にくぐもった声だ。例えば、玄関の来客を告げる呼び出し装置が「呼びりん」という楽しい名前にふさわしい素朴な仕掛けから、ブザーに、そしてピンポーンというチャイムに変わってゆき、この国の人々が暮らしの中、不意に鳴り出す電気仕掛けの音に少しはなじむようになってはいても、しかし、まだ電話は「外」からの度外れた音で不意打ちを食らわせる、家の中ではほとんど唯一の特権的存在だった。

 玄関の隅、背の高いとりすました台の上や、台所の横、あるいは廊下の端、正月用に買ったみかんが箱ごと投げ出されている暗がりなんかに、そいつはいつもしっかりと座りこんでいた。そばの柱や漆喰壁には、電車の時刻表や、そば屋のしながきや、タクシー会社の電話番号や、日めくりや、その他いろいろな紙たちが、広告の裏紙を束ねたメモといっしょにそいつのまわりを少しはにぎやかにしていた。家の中、数字と文字とが赤や黄色の色とりどりでごちゃごちゃになってかたまっている場所に、いつの頃からか、電話はそのようなたたずまいで座りこんでいた。

 ダイヤルにしたところで、子供が簡単に回せるものではなかった。丸い窓に指をひっかけ、右下方四五度にある三日月形の指止めまでしっかりと回す。ジーコロコロという機械音がいかにもコワい。五桁や六桁の数字を回すだけでも十分なプレッシャーだ。掌に汗がにじむ。受話器も片手で持つには重い。同じ樹脂でも、おもちゃの赤い電話のセルロイドの軽さとは違うベークライトの重さ。樹脂で作られた「もの」の持つあのつやと手ざわりにこの国の人々が慣れ始めた頃だったとしても、電話の持つその確かな重さはそれが何か「重要なもの」であることをそれ自体として教えるずっしりした感触だった。

 電話の存在を具体的に意識するようになったきっかけは、小学校の連絡網というやつだったかも知れない。その頃はまだ電話を入れていない家も少なくなかった。そのような家は連絡網の末端の方、それも互いに連絡できる距離に住む同士で固められていた。「電話を持っている家」−「呼び出し電話の家」−「電話のない家」というある種の序列を、連絡網は教えていた。あの樹形図の整然とした表情は、それが必ず、台風で休校するかどうか、とか、遠足や運動会といった行事を決行するかどうか、という子供にとって最大の関心事にまつわるここ一番の瀬戸際に作動されたことと重なって、何かを記憶させるための装置として、今も鮮やかな印象となって残っている。

 117や177のテープサーヴィスが、電話を簡単にかけることを覚えさせた。受話器の向う側に誰かがいて、そしてその人と声だけで対面しなければならない、ということの得体の知れない抑圧は、いつでも気の向いた時に回すことのできる117が取り除いてくれた。ダイヤルは少しだけ軽くなった。

 子供たちに個室を与えることが何か無条件で良いことのように思え、誰もがそれを目指し始めた頃、電話も敷居を越えた。玄関先や、廊下ではなく、障子やふすまのこちら側に電話は侵入してくる。家の内部が個室に分節されてゆく過程と、電話が部屋の内側に入り込んでくる過程は、奇妙に一致している。

 親子電話が普及し始める。電話の接続する単位が最終的に「個」に分解される。家を、あるいは何らかの集団を背負ったフォーマルな語りの作法を飛び越え、「個」の次元の語りで直接電話に向かう経験が野放図に解放されてゆく。ここから、使いこなせないほどの機能を抱えむ高密度の通信機器と化した昨今の多機能電話まではあと一歩だ。


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 若い衆たちの長電話が問題にされ始めたのは、比較的最近のことだ。時に数時間も電話で話し続けることのできる彼らを、しかしたいていの人は価値観や道徳という角度からしか見ようとしない。だが、用件がないと電話がかけにくい、という意識と、用件などなくてもただ漠然と電話をかけられる、という意識との間には、同じ電話という装置の前でのことでありながら、きっと何か大きな、時代のもたらす仕掛けに根ざした違いがある筈だ。それは、自分のまわりの世界とつながり、世界をつむいでゆく技術の体系の、何か見えない部分でのしかし決定的な違い、とでもいうようなものだ。

 「伝言ダイヤル」の問題にぶち当たり、わけのわからないまま人に会い、話を聞き、取材を続けてゆくうちに、僕たちの眼の前に姿を現わし始めたのは、単に電話だけにとどまらない、もっともっと大きな「何か」だった。それをうまく文字で表現し尽くせるかどうか、今はまだ自信はない。けれども、これだけは言える。「伝言ダイヤル」と、そこに集約的に現われているさまざまなレヴェルの現象は、「昨今の若者たちの妙な遊び」や「高感度なティーンの独創的なコミュニケーション」といったレッテルで説明できるものではないし、まして「時代から逃走しようとする子供たちの見えないネットワーク作り」などという安易な提灯持ちでやりすごしていいシロモノでもない。現象をそんな通りいっぺんのことばでかたづけてしまおうとする意識そのものを支えている部分も含めた、もっとはるかに大きな「何か」なのだ。それがいったい何なのか――それを充分にとらえ尽くせる日に向かって、今、僕たちに見えていることだけはひとまずきちんと提示しておきたいと思う。