ランボーのいない資本主義

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 白状する。映画はまともに見ていない。

 せいぜいテレビで放映されるフィルムか、ごくまれにレンタルショップのビデオ程度。もちろん、人並みに映画館をのぞくことくらいあるにはあるが、それもまぁ何かのはずみでというくらいのこと。情報誌をめくり、話題の映画に鼻を利かせ、前売りチケットを買い込んでその日を待つ、なんて健気な真似はとうの昔に忘れた。まして、「現代思想」の香り高い映画論なんぞ、これっぽっちも縁がない。

 知ったこっちゃねェ、いずれ映画は資本主義の華、身体にゃ悪いがこってりうまい駄菓子だ――眼つり上げて映画に傾くヤツらの前ではそうきめつけることにしている。

 思い起こせば、これも世代なのか馬鹿なのか、かつて、同年代のちょっとそのケのあるヤツが集まれば、「映画を撮りたい」とうつろな眼をしてまくしたてる手合いがひとりやふたり、必ずまぎれこんでいた。ゴダールだ、エイゼンシュタインだ、いやフェリーニだ、とホワイトの水道水割りあおって口角泡を飛ばし、未だ見もせぬ自作のフィルムのワンシーンを微に入り細にわたって語り続ける。身ひとつ、向こう意気ひとつでまだなんとかなっていた頃の芝居に首を突っ込んでいたこっちからすりゃ、そんな能書き並べる間に役者でもかき集めたらいいのに、と思うのだが、ヤツらは鷹揚なもの。何があっても初日に幕を開けなきゃならない、という絶対的な制限がある芝居モンに比べ、自前の映画に傾く連中にはみなどこかで論客の風があったような気がする。どだい、ゼニのケタがひとつふたつ違っていた。どこからどう工面してくるのか、いずれ怪しげな手ヅルでつかんできたのだろうが、それでもなんとかまとまったゼニを作り、資金のある間は撮影し、なくなるとまたゼニ集め、という繰り返し。その情熱と精力には確かに驚き、敬服もしたが、できあがった「作品」の貧しさには、なまじその裏側で消耗されるエネルギーのデカさを知っているだけに、対応に困るしかなかった。自分のフィルムを撮ることを夢み、それでいて、肝心かなめの資本とつきあうスタンスはねじまがった左翼神話といじけた浪漫主義にしばりあげられたまんま、という、そんな「自主映画」の不自由は、多くの場合、いずれお定まりの誠実主義におぼれていった。

 映画にせよ芝居にせよ、あるいは音楽や、マンガや、ひょっとしたら詩も小説も、「わたしにも写せます」を統一スローガンとしてつけ上がった七〇年代サブカルチュアは、みな大なり小なり同じような末路をたどった筈だ。ザマぁないったらない。引き出しておくべき課題は、そのあとにやってきた「パンと見世物」の八〇年代がそのような末路を転げ落ちる間にすでに準備されていたのかも知れないこと、そして、そのことについて内側からの掘り起こし作業が未だ手つかずのまま放り出されていること、この二点だ。

 まぁ、こんな始末だから、映画との因縁も情けないもので、『兵隊やくざ』にシビれ、『馬鹿が戦車でやってくる』にイカれ、盆暮れの『寅さん』にワクワクし、『未亡人下宿』に手もなくコーフンした、賭け値なしにその程度だ。毛唐の映画? そりゃやっぱ西部劇に尽きる。インディアンいつも悪者、白人いつもエラい、ジョン・ウェインが仁王立ちすりゃ、どんな極悪非道の悪役もコロコロ死んでゆく。時代の意識に埋め込まれた骨太の物語をものの見事にすくいあげ、ケレン抜きで真っ向正面、バンと映像に叩き込む、いずれそのあざとさと厚かましさは確かにある種のカンドーものだった。そして、そのカンドーはいつも、そんなあやしげなキンキラキンをはらんだサブカルチュアはイデオロギーの次元とはまた別の解読の水準も準備しているということを思い知らせてくれた。この経験は、のちに破れかぶれの「民俗学者」になってゆく上で、いくらかは起動力になったような気がする。

 が、それでも、映画についてトーシロであることは、今も昔もやはり変わりはしない。


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 時代は、その器に見合った夢しか見ることはできない。

 時代の想像力がフィルムを選ぶ。作るのは監督ではない。脚本家でもない。資本の運動と志とが何かのはずみで、とある現場にたっぷりガソリンを注ぎ込み、そこにはらまれたフィルムはなまめかしく光り始める。実際シャクにさわるが、個人の誠意や向こう意気ひとつじゃどうにもならないこのテのサブカルチュアの抗い難い魅力は、時代の意識をまるごとすくあげる、そんな大当たりの瞬間にブチ当たる可能性を抱えているところにある。

 だが、絶頂期アメリカ資本の精気に青光りしていた全盛時のハリウッド映画のような、資本主義の毒気ムンムン、どんな筋金入りの反体制もアッという間に転びます、という国産フィルムに、不幸にしてこのトーシロはお眼にかかっていない。これだけ徹底的につけあがり、あらゆる歴史感覚が前後不覚に陥るまでふくれあがったこの国の資本主義が全身全霊を込めてはらませたとびっきりの「夢」が、未だかけらも見当らないのは一体どういうことなんだ。

 例えば、「無責任」シリーズの植木等が高度経済成長期を支えた意識の夢の依代である、という言い方がある。確かに、ある部分では間違っていない。しかし、それでもなお、植木等程度しかいなかった、ということの貧しさをもっともっとかみしめる必要はないか。

 植木等のスチャラカサラリーマンを貫いているのは、フロンティアの思想である。フロンティアとは何か。たいした努力もなしにもののはずみで一発当てることのできる濡れ手で粟の糸口が、そこここに口を開けている状態である。おのれの才覚ひとつで世間を泳ぎ渡り、あらゆるしがらみを調子よく口八丁手八丁でこなしてゆく彼の身振りは、どう見てもサギ師スレスレ。その意味で、あの「無責任」は、濡れ手で粟、もってけドロボウ状態の未開拓市場が眼の前に開けた時、ニッポン人に必ず憑依するあの「村岡伊平次的いてまえ主義」のヴァリエーションだ。これがちょっとばかり度を越すと、人ん家の庭に土足であがり込んで勢いだけでン万人ブチ殺し、わずか半世紀で全世界に売りつけてまだ余る量のクルマを作り倒し、安いとなったら地の果てまでもおし寄せて観光しまくって、それでてめェに都合の悪いことは全てきれいさっぱり忘れる、というなんとも迷惑なことになる。この地球のガン細胞みたいなニッポンの、意識の最大公約数を植木等は確かに体現していた。

 けれども、植木の「平 等」が真実、ニッポン資本主義の「守護神」ならば、天安門広場に緊張が走った日、彼は立たねばならなかった。眠りから醒めた彼はひそかに海を超え、天安門広場に降り立つ。民主化を要求する学生を支援するため、ではない。中国共産党を助けるため、でもない。国交回復以来、ニッポン企業がせっせと作り上げた大陸の市場を守るため――大義名分なんざそれだけだ。だから、彼は人民解放軍をぶっとばし、返す刀で学生もぶちのめす。武器は、ない。なぁに、ヤク漬けの百姓揃いの人民解放軍くらい口先三寸でちょろまかしてしまうくらいじゃないと、海峡はさんだ火事場泥棒に端を発したあの上を下へのドタバタを、図にのるあまり国ぐるみで踊り続けた栄光の高度経済成長が泣くってもんだ。あきれかえる人民を前に、彼は、適度のアカは健康にいい、ご近所困らせない程度にみんなでブワーッとアカやりましょォ、と大見栄を切り、高笑いしながら東シナ海に消えてゆく。と、すでに北京郊外には、そろいの背広の商社マンの日本晴れの笑顔の大群が、五星紅旗と日の丸の小旗を打ち振り、谷村新司河内音頭で『東天紅』を歌いながら雲霞の如く殺到している――ああ、なんてステキで情けない夢だ、コン畜生!


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 だが、未だ艶も翳りもあるモノホンの想像力を宿せるかも知れない最後の培養基が、この国にもある。言おうか。「被差別」と「在日」だ。

 大文字の「差別はいけません」「暴力はやめましょう」との距離がとれないままだと、『潤の街』のような、よくできてはいてもどこかかしこまった青春映画しかできなくなる。もちろん、今や「被差別」も「在日」も共にふくれあがった情報系の内側で増殖・流通・漂白され続けているのだし、その限りでは、「在日」三世のリアリティは青春映画の道具立てでしか投影されない、という言い方も理解できる。だが、ちょっと待ってくれ。そのような増殖・流通・漂白のとほうもない「力」に対し、その速度を滑りながら、しかも鋭角に身構えることのできる仕掛けとして敢えて「差別」をテコにする、そういう選択はあり得ないか。相当きわどいことを言ってるのは承知だ。だが、この問いは安手の当事者主義で「糾弾」して欲しくない。同時代を生きる者のひとりとして、そして共有すべき足場をめぐる問いとして、極力誠実に言っているつもりだ。

 なにせ、「差別」という、この最強のヒーローを生む基盤を漂白してゆくことでデカくなったわが家の資本主義は、その版図を守る英雄幻想も生み出せないような、想像力の慢性貧血症なのだ。部隊の中核たるホワイトカラー精鋭が仰ぎ見るのは、偏差値的世界観の延長にある「成功」物語か、そうでなきゃ『プレジデント』ばりの戦国武将譚ばかり。営々と築き上げた消費の帝国をフルスロットルで謳歌して若い衆をズブズブにすべきところに、『わたしをスキーに連れてって』しか出てこないビンボ臭さ。まして、あの程度の「夢」で骨抜きになり、丸井とアニメと『ねるとん紅鯨団』と伝言ダイヤルにうつつを抜かす「若者」に至っては、もう言葉もない。

 この際だ。トーシロとしてはっきり言う。最も集約的にそのキンキラキンの想像力を結集できる筈の映画という麻薬に関して、この国の資本主義はとことんサボッている。もっと気合いの入った自前の英雄作らんと、そのうち革命おこすぞ!

 『ロッキー』はイタ公のビンボー人がなり上がってゆく物語だった。『ランボー』も田舎町のプアーホワイトのアイデンティティ回復の物語だった。これに対し、戦後ニッポンの資本主義は、ひとりのランボーも生めなかった――今、この国の映画はこのことに対する深い絶望が必要だ。その後は、「差別」を 商品 として取り込めるかどうかが、今後この国の資本主義の賭けになる。さぁ、どこが真っ先にこの禁断の果実に食指を伸ばすか。当たりゃデカいこと、請け合いだぞ。

*1:別冊宝島』最初の仕事、だったかも知れない。声がけしてきたのは、まだウブだった町山智浩