―― わたしと同じフィーリングっていうか、“乗り”を持っている人が多いっていうのは、うれしい。わたしと同じような環境に育った女性に共通の感性というものがあるんでしょうね。たとえば、私立の女子高から私立大学に進んだというような……わたしはそれを“中産階級のセンス”っていうんだけど、商業高校の女の子とか暴走族の女の子には、ちょっとわかりにくいせつなさだと思うんです。
―― お金がなくなるときって、もう私が死ぬときよ。死ぬしかありませんよ、ほんとに。私から自分のしたいことの経済力とったら、なんにも残らないよ。
●
松任谷由実に食いついてみてくれ、という注文を受けた時、ゾクッ、とした。とりあえず忘れていたい下着の下のタムシにでもいきなり触れられたような、ジクジクした実にいやな感じだ。
なにも僕がやらなくても、彼女についての能書きならば毎週、あるいは毎月、どこかの雑誌で垂れ流されている。すでに猿のセンズリと化した情報資本主義体制下の再生産サイクルに同調してしまったそんな「商品」について、一体どんな角度からの語りがこれ以上可能なのか、そのあたりの見通しを立てて食いつく自信がまずなかった。松任谷由実でなくても、例えばサザンオールスターズについて、浅野温子について、浅田彰についてそれぞれ食いついてみてくれ、と言われたとしても、その事情はたいして変わらなかったろう。
こういう時は、まず八幡山に行って考えるのが作法になっている。大谷壮一文庫だ。日々アナーキーに垂れ流される新聞・雑誌メディアの「情報」を、不完全とは言えひとまずそれなりに見渡せるのは、ここくらいのものだ。だが、大谷文庫へ行くことそれ自体が「ギョーカイ」の作法となってしまった今では、ただそこに収められた「情報」だけをデータベースとしてアクセスし、ちょいと切り貼りして一丁あがり、という「記事」が雑誌メディアに還流し、あふれかえるようになっている。自前の情報などは夢のまた夢。八〇年代を通じふくれあがり続けた雑誌メディアを動かしている資本の速度は、企画が立つと同時に大谷文庫に使い走りのアンちゃん、ネェちゃんを走らせ、必要な事項についてのコピーをかきあつめてならべ変えるのが精一杯、という「ライター」や「エディター」を生んだ。どれだけ膨大に「情報」が流通し、それを律儀に集めたとしても、それらはすでにある限られた量の一次情報のヴァリエーションにすぎないという難儀を深く考えないですむ速度。それは日々を生きる生身の意識にとって、モルヒネにも似た麻酔効果を生んでいる。だから、平日の昼下がり、大谷文庫の閲覧室の空気ははなはだ身体に悪い。
萎える心意気をかきたてながら、「松任谷由実」という項目に分類され、整理されたカードを検索する。カードボックスのほぼ一段分、一七二件。ノートに書き抜き、手当たり次第に読んでみる。その情報量の多さに改めて驚く。だが、それらの記事が発表されたメディアや発行時期と、アルバムなりツアーなりとの相関関係が見えてくると、どんな鈍いヤツでもそれが計算された戦略に基づいたものであることを思ってしまう。まして、「松任谷由実の企業戦略は九〇年代のビジネスヒントを提供している」とばかりに、彼女の歌詞から「消費者」の意識を分析し、ひいてはマーケットリサーチの効果を期待する、といった物欲し気な企画は、どれもが「作り手と歌い手の角逐のなかに聴衆という巨大な第三者を吸引」し「大衆の欲望と誤解の総体を乱反射させて、歌手や作曲家を超えて勝手に一人歩きする」(平岡正明『山口百恵は菩薩である』)流行り唄の 妖艶 をおよそハナッからナメきっていて、そのナメた分だけ自分の影を後生大事にトレーシングペーパーでも当ててなぞり書きしているような醜態をさらしている。「ユーミン」の誠実な消費者の間で「ユーミンが深夜の甲州街道沿いのファミリーレストランに出没してネタ拾いをしている」というフォークロアがまことしやかに語られるのは、そのような「のぞき見」や「立ち聞き」をしていると考えなければ合理的説明ができないほどに、消費者のそれぞれの場にとって「ユーミン」という商品は「まるでわたしのことを歌ってるみたい」と思えてしまうからだ。そのすさまじいイメージ喚起力の謎を解く鍵は、形に現われた情報の表層をいくら精密になでまわしてみても、明確な像を結びはしない。
何かが違う。その違和感をうまくことばにできなくてモヤモヤしていた時、とある焼肉屋、カルビの脂煙の向こうから朝倉喬司兄ィが言ってくれた。
「それって、資本主義そのものを相手にすんのに手もとの万札眺めまわしてさ、いやぁこの図柄がきれいですねぇ、とか、よく刷れてますねぇ、スカシがいいですねぇ、ってやってるようなもんじゃない」
さすが兄ィ、うまいことを言う。
そうなのだ。歌詞の字面だけをその「消費」される場の文脈から引きはがしてひねくりまわし、適当に切り貼りしてできあがる「分析」など、歌やマンガや小説や、そんなあらゆるサブカルチュアをつむぎ出す側の仕掛けに今やあらかじめ埋め込まれてしまっている。「作品」を提示する側と「分析」をする側とが、どちらも同じ身体を無意識に共有しているのだから始末が悪い。いかにももっともらしい「分析」がきれいにできあがってしまうのは当たり前だ。その限りで、サブカルチュアの現われを糸口にして「若者」の意識、時代の意識を探ろう、という企画は、今やその意図が素朴であればあるだけ、資本の運動に囲い込まれた無自覚の八百長に等しいところから逃れられないジレンマに陥る。それは、「ユーミン」を商品として仕立てあげ、瞬時に消費する意識すべてがそれぞれの場で共犯者であるような、高度経済成長期以降のこの国の資本主義が準備した壮大な八百長に他ならない。
●●
その八百長の作動する現場を検証してみよう。彼女の作品をモティーフに短編小説を書いて欲しい、という『月刊カドカワ』の注文に応じた時の泉麻人の言葉だ。
「ユーミンの詞を題材にして一つの“短編”を創作する作業というのは、簡単そうに思えてけっこう頭をつかう。字数にして、約八百字程度の詩自体が、既に完成度の高いショートサブジェクトの集約になっているケースが多く、作家としてはその世界を甚だ崩すことなく、さらに詩以外の+αをストーリーを提出しなくてはならないわけで、これはなかなかシンドイ作業である、ということに途中で気がついた。……(中略)……ラストの描写を読みおえた瞬間から曲のイントロをインすると、カットバックシーンに乗せてキャストのスーパー文字が上にあがっていくノリが味わえれば幸いです。」
ここで「作家」泉がどんな「作品」を書いたのか、はひとまず棚上げしておく。松任谷由実の「歌詞」が消費者の意識に喚起する風景とは、実は時代の意識にあらかじめ薄く共有されている虚構の風景に他ならないことが語られている、そのことに注目して欲しい。
それは例えば、同じ時期、片岡義男のある種の作品が期せずして喚起した風景が時代の中で持ち得た効果とよく似ている。
そこで描かれる風景すべては「映像」になる。この「映像」とは何か。それはどこかのブラウン管か、スクリーンか、あるいは雑誌のグラビア、もしくはクルマのフロントグラスごしに見たことのあるような、まるごとの直接性から一枚へだてられた意識の銀幕にゆらゆらと映しだされる漂白された風景、言い換えれば、あらかじめ「商品」へとシフトされた風景のことだ。
風景がもとある場所から一歩引きはがされたところで「消費」しやすいようにくるみこまれ、変形された結果のリアリティの糖衣錠。人が未だ自分自身で経験していない現実を自分のものにしてゆく時、何らかのメディアを介して情報を手もとに引き寄せる作業を必ず行なうものだとしても、今世紀半ば以降の映像メディアの爆発的な伸長は、人が自ら住む世界を作ってゆくその手続きをどこかあらかじめ奪われたものにしてしまうまでに、経験と現実の質を変えてしまったらしい。
king-biscuit.hatenadiary.jp
king-biscuit.hatenablog.com
八〇年代、カーオーディオとカーエアコンの普及が、単なる空間移動のための道具から、風景を商品として消費するための装置へと、クルマの担う意味を大きくひんまげていったことを想起してもらってもいい。「ユーミン」を語るほとんどの人間たちは「ユーミン」を消費する場として「自動車(クルマ)」をあげることを忘れない。このことを漠然と見過ごしてはまずい。身のまわりのすべてを「映像」へと収斂させる一連の仕掛けという意味で、クルマと「ユーミン」は同じ位相で消費されている。だから、末尾に記された「……というノリが味わえれば幸いです」という泉のコメントには、松任谷由実が創った「歌詞」の向う側に想定されている風景を、彼も、そして彼の「短編」を読む同時代の読者もまた同じように想定できるはずだ、というこの八百長の仕掛けに対する居丈高なテーゼが無言のうちに込められている、と読まねばならない。
これは別に泉麻人でなくても結果は似たようなものだったろう。ここはあからさまな偏見込みで断言しちまうが、秋元康であれ中森明夫であれ、あるいは適当に「ギョーカイ」に寄生して法外な小遣い銭かっぱらう新人類系ライターの誰それであれ、彼らがテレビドラマの台本や歌詞やちょっとした企画書なんかをでっちあげる時は、大なり小なりこのような「創作」の過程を踏んでいるはずだ。なるほど、「イメージ」や「コンセプト」ってのは、その八百長を直視しないですむつくづく便利な呪文だ。
「ユーミンの曲作りは、ほとんどがまず曲から入り、オケを取り、それから詞を作り始める。実際にレポート用紙にコンテや絵を描いて、それにフレーズを書き込む作業も多い。スケッチの視点は、真上から見る俯観だったり、カメラを何台も置いてあらゆる角度から覗き込むのだったりいろいろあるが、書き込まれたレポート用紙がぐしょぐしょになっていく。ファンタジーをやろうと、スポーツものやろうと、SFものやろうと、このエディティングを終えた頃は、すべて普通の風景のなかでの詞に仕上がっている。そうすることが、彼女にとって音楽的にいちばん意味のあることなのである。そして、この一見シンプルにみえるユーミンのポリシーが、あなたの詞を作り続けているのである。そのエネルギーが本人曰く“オーラ”なのであろう。 (松木直也「なぜ、ユーミンの詞は、あなたのものなのか」)
松任谷由実当人を含めた「ユーミン」という商品を作り出すチームは、時代の意識の内側にあらかじめ記憶されている「映像」という商品化された風景を確実に喚起してゆくための手続きをていねいに、本気でやり続けている。「音楽」という、この国の資本主義にとって今かなりの飛び道具たり得る表現において。その誠実さは、確かに、彼女がことあるごとに言いつのる「トップを走り続けるということは、ものすごい努力が必要なのよ」という真正面からのアジテーションに見合うくらい充分なものだ。
しかし、その「努力」の効果とは別に、ここで語られているその「創作」の現場での手続きは、おそらく、テレビのCFやヴィデオクリップ、あるいは吉本ばななに代表される気まぐれに「映像」をばらまいただけとも思える「物語なき小説」など、いずれある雰囲気と共に大量に流布されてゆくための「商品」を作り出してゆく場のそれと、とてもよく似ているはずだ、という思いを禁じることはできない。
「ユーミン」が、八〇年代後半に至って二百万枚ものアルバムセールスを記録する「商品」となっていった過程は、個々の現場の「努力」のベクトルとずれたところにうごめく、時代が準備したこの巧妙な無自覚の八百長を可能にした仕掛けと深く関わっている。そして、そんな「ユーミン」を可能にした八〇年代とは、あらゆる「商品」を立ち上がらせ、売り捌く「戦略」を持っているとされてきた電通・博報堂的世界観の側からですら「市場」の見通しがきかなくなってきた時期であったこと、言い換えれば、資本の運動が個々の人間や企業の意志を超えた高度の自律性を持ち、猿のセンズリと化していった時期だったこと、このことをまず頭に叩き込んでおく必要がある。
●●●
手もとに山とファイルされている断片を重ねあわせて松任谷由実の生活史をプロットしてゆくと、「八王子の老舗の呉服商」という生家のことに必ずぶちあたる。その生活史的背景はこれまで、その「お嬢さん志向を推し進める上で強力な武器になった」(泉麻人)といった次元でさらりと解釈されてきている。だが、「八王子の老舗の呉服商」の何が、どのように「武器になった」のか、「お嬢さん志向」とは何か、未だ突っ込んだ説明はされていない。
しかし、昭和二九年生まれという彼女の生活史を貫いているはずの時間軸を、例えば「三多摩」の高度経済成長期と交差させることで、この「八王子の老舗の呉服商」という断片はより粒立ちよくその意味を立ち上がらせることになるはずだ。
「多摩は紛れもなく東京である。れっきとした東京都の構成員であり、都全体の面積のおよそ二分の一、人口の三分の一を占める一大圏域をなしている。にもかかわらず、かつて神奈川県から、東京府へ移管したという歴史的経緯も作用して、いわゆる二三区とは異なる位置づけがなされてきた。行政上の取り扱いも区部と多摩地域では、特異な差が認められるし、多摩地域に居住する人々自身もまた、区部との違いを自覚してきた。」((財)東京市町村自治調査会『TAMA――もうひとつの東京』)
中学時代の彼女が、GS全盛期、都心のディスコの常連だった、というのはすでに有名になったエピソードだ。
当時、都心へ夜遊びに出撃してゆく時の意識をふりかえり、彼女は「川ふたつ越える間に気分を変えたのよね」と述懐している。最終電車に乗って東京へ行き、遊びあきた明け方、始発で帰ってきて家のベッドにもぐり込む。初期の佳作「コバルトアワー」はその頃の経験をイメージしてできた曲だと言われる。
「中二くらいから夜中に六本木に行った。終電くらいで出かけていって、最寄りの駅からタクシーって感じ。帰りは、始発で帰ってきて、寝てたふりして、そのまま学校へ行く」
八王子から新宿まで、中央線に乗っておよそ一時間。麻布・六本木界隈に出没するなら、渋谷あたりからタクシーを拾ったのだろう。夜ふけ、浅川と多摩川を渡って東京へ出かけてゆく経験が、ませた女子中学生にとってそれほどまでに「ある一線を越える」感覚でとらえられていたというこの距離感は、昭和四〇年代前半、高度経済成長がその最も輝かしいステージを迎えつつあった頃の東京と三多摩の関係を考える上で興味深い。
八王子、立川あたりは、米軍キャンプを控えていることでキャンプ経由の「アメリカ」の匂いにすばやく染まっている。アメリカンスクールが身近にあり、ミドルティーンにもなればみるみるあからさまに色気づく毛唐の娘ッコに混じって、薄められない「アメリカ」を呼吸する連中も出る。戦後の音楽がキャンプ経由の「アメリカ」をたっぷり吸い込んだ場所から始まったとすれば、彼女もまた、その系譜の中に位置づけることができるだろう。ジェファーソンエアプレイン、モヴィグレープ……ハーフの友だちのつてでキャンプに入り込んで手に入れた本場モンのロックアルバムを手土産に、「ぬいぐるみやペロペロキャンデーをプレゼントに殺到する同世代のオンナのコたち」を尻目にGSの小さなマスコットとなっていったという経験は、同世代に対するあからさまな違和感を植えつけるに充分だったはずだ。
その違和感を、彼女は音楽や、絵や、そのような表現にまつわる「センス」の方へと開いて自分自身に説明しようとしていったフシがある。事実、よく知られているように、その後彼女は日本画を志し、東京芸大は落ちたものの多摩美大の日本画科に入っている。小学生くらいの時、すでに絵も音楽もハーモニーであり、調律という意味では同じと言うことに気づいていた、という彼女の言葉は、感覚をそのように統御してゆく生活条件が先の違和感との緊張のうちに準備されていたことをうかがわせる。
さすが、林真理子はただのブスではない。おそらくはぬいぐるみやペロペロキャンデーを手にアホ面下げて楽屋口に押しかけることさえできなくて、それでも心根だけは同じ「ミーハー」だったはずの彼女は、自身の「ユーミン」体験をこう語っている。
「(「ルージュの伝言」が流行った七〇年代)車や六本木というのは、ごく一部の人たちのものであり、私たちふつうの学生は誰かの下宿かアパートに集まり、こうしてギターを爪弾くのだった。その前の年の大ヒット曲は確か「神田川」ではなかったかと思う。……(中略)……そんな時、ユーミンの「ルージュの伝言」は、ただただまぶしかった。私はこの歌は、日本で初めて現われた、屈託のないブルジョアの娘だと考える。それなのに私はこの歌が好きだった」
三多摩の呉服屋と山梨の本屋の違い、とは言うまい。日芸と多摩美の違い、とも言うまい。今や日芸だって吉本ばななくらいは生むご時世だ。だが、それにしても、「それなのに私はこの歌が好きだった」の「それなのに」には、同じ時代の空気を呼吸し、高度経済成長の恩恵に浴しながら、決して「ユーミン」にはなれなかった「ふつうの学生」林真理子の生活史的怨念、いや生理的階級意識と言ってもいいが、そんな横眼の視線がこもっていてなかなかいい。
こういうことだ。松任谷由実が即自的に身につけ、そして林真理子はそこから永遠に疎外され続けるだろうこの「センス」とは、昭和二九年に生を享け、高度経済成長と足並み揃えて社会化していった彼女の生活史的背景の中で、「八王子の老舗の呉服商」の資力に裏打ちされた「趣味」である。それは、この国の近代化の過程で生成され、有為転変の後、おそらく高度情報資本主義下の八〇年代に至ってほぼ最終的に窒息させられるに至った、新興ブルジョアジーの生活意識を貫くある美意識のことである。ひとことで言うなら、「街の子」のダンディズムだ。
重要なのは、その「趣味」がほぼ半世紀、その中に即自的に育まれた意識が立ち上がるライフサイクルとしておよそ親子二代の時間をはさんだ後、八〇年代に至ってそのままで大量に流通する「商品」へとシフトしてしまえるような仕掛けができてしまったことだ。そして、先に触れた無自覚の八百長とは、そのような「趣味」を足もとでつなぎとめておける時間の堆積も、その中で結晶してゆく何らかの共同性も何も足もとになくても、早上がりに、「平等」に、その「趣味」にまつわる甘皮だけを食い散らすことが誰にも可能になった状況に根を張っている。
●●●●
彼女の実家『荒井呉服店』は「三代続いた老舗」だという。「三代」という時間の深度が「老舗」という名に値するかどうかはさておき、この『荒井呉服店』三代の時間に僕はとても興味がある。大正初年に創業した呉服屋が敗戦から戦後の混乱期を乗り越えてなお生き残るためには、その背後に波瀾万丈の物語がつむがれていて不思議はない。それを、この国の「中産階級」の近代史としてほぐしてゆく必要がある。この、間口に比べて奥行きがべらぼうに長い妙なたたずまいの『荒井呉服店』の繁盛記は、いつか誰かが、例えば「ユーミン」自身などがきっちりつづってくれることを期待するとして、ここはこれまでに報道されている限りの情報で先を急ごう。
大正初年に店をおこした初代創業者を継ぐべき二代目は早く世を去ったので、その妹が見合いで婿をとり、跡を継いだ。由実の母親、荒井芳枝である。年齢から逆算すると大正八、九年の生まれ。米騒動の直後だ。八王子第一小学校から西多摩高等女学校へ進み、家政学院の被服専科に進んだ。
これは当時としてはかなりナウい、ハイカラな経歴である。女学校時代は「学校から帰ると、自分の部屋に閉じこもって田山花袋、二葉亭四迷、菊池寛と、なんでも手当たり次第に読んでた」という。さらに芝居に映画にレヴュー。「宝塚もSKDも、帝劇の初日を見ないと気がすまなくてね」というから筋金入りだ。
この母親から大きな影響を受けたことを由実自身、あちこちでしゃべっている。小さい頃からあちこち劇場を連れて歩かれたり、洋画漬けにされたりしたらしい。一時期、他人に曲を書く時に「呉田軽穂」という膝から力が抜けるようなペンネームを使っていたのも、この母親がグレタ・ガルボの熱狂的ファンだった影響のようだ。
音楽に関しても、由実は幼稚園からピアノを習わされている。彼女の世代で幼稚園の頃からピアノを習っていたというのは、未だ少数派のはずだ。さらに、教会の聖歌隊に自発的に参加し、音楽に対する感覚を開いた後に、小学校あたりで接触することになる洋物ポップスを耳にして「与えられたスコアを再現することがばからしくなった」という経緯をたどっている。
少しピアノにこだわってみよう。七〇年代に登場したいわゆるニューミュージック系シンガーソングライターのうち、女性の多くは、オルガンやピアノといった鍵盤楽器を習うことで音楽を自己表現の手段として獲得することになった最初の世代にあたる。その背後には、習字、算盤といった従来の「習いごと」の地盤に、市民意識のちょっとした高級志向をくすぐるような戦後民主主義的幻想をうまくブレンドして市場を掘り起こしていったヤマハ音楽教室の全国ネットワークの整備過程がある。
ヤマハ音楽教室の前身は昭和二九年五月、銀座で始まった実験教室である。当時、「音楽は情操教育にいい」というのでやたらオルガンが売れていた。にも関わらず街にオルガンの音が響かないことに気づいたヤマハ社長川上源一が、アフターサービスの意味も込めて始めたものだ。当時は生徒百五十名。だが二年後、昭和三一年には十会場で生徒千名を数えるようになり、さらに昭和三四年には七百会場に生徒二万人を集めるようになった。これが昭和三八年までに生徒二十万人、五千会場と急速にふくれあがってゆく。すさまじい高度成長だ。後の、せせこましい団地に月賦で買ったアップライトピアノをむりやり押し込んで、親子ともども猿回し並みの「発表会」に血道をあげる光景の普遍化は、習字、算盤といったミもフタもなく実用的な「習いごと」がその効力を失ってゆく過程と裏返しに重なっている。鍵盤楽器に向かう小さな娘、というイメージは、応接セットとステレオの置かれた応接間、毛糸のほつれたような犬の走る芝生つきの一戸建て、などと共に、あるあこがれと共に時代の意識に刷り込まれていったはずだ。
この国の近代において、楽器を個の表現のための道具として解き放ったのは、やはりギターとピアノだろう。個人的には、三味線がどのような普及過程をたどり、どのように中古市場が形成されていったのか、浪曲が民衆表現として爆発してゆく過程とのからみなどからとても興味を持っているのだが、しかし、邦楽と呼ばれる領域を含めて不可欠の楽器だったとは言え、三味線はギターのようにそれ自体として個の表現のための道具たり得たとは言い難い。ハモニカからギター、ピアノという楽器の「大衆化」は、音楽を自己表現として西欧的に整形してゆく過程に対応している。
だが、それにしてもギターとピアノの間には、どこかしらラーメンとカレーの違いのような微妙な匂いのずれがつきまとう。鍵盤楽器にまつわったどこかスカシた感じは、流しのギター弾きは生んでも、流しのピアノ弾きを生まなかった。西部劇などではホンキートンクピアノを弾くピアノ弾きが必ずと言っていいほどのつきものだが、この国の酒場は土地が狭いせいか、せいぜい折に触れてご入来のギター弾きしか許容できなかった。
乱暴に図式化するならば、四畳半フォークの多くがギターから生まれ、ニューミュージック系女性シンガーソングライターの多くがピアノを操ったというのは、そこから生みだされるべき音楽の匂いの違いにまで影響している。七〇年代初め、荒井由実が登場した時に、半ば驚きとあこがれを込めて「和製キャロルキング」と呼ばれていたのを覚えている。それは、ピアノを自分の手足のように操って自己表現を可能にする世代が現われた、という衝撃を確かに伴っていたし、さらに言えば、そこまでこの国が「豊か」になったのか、という感慨をその底に敷き込んでもいた。
しかしそれでも、松任谷由実と多くのピアノを操る女性シンガーソングライターたちとの間には、その「趣味」において違いがあった、と言わざるを得ない。確かめたわけではないが、おそらく松任谷由実はピアノの手ほどきをヤマハ音楽教室で受けてはいないだろう。また、こっちの方は確信を持って言えるのだが、彼女の親はピアノを習わせることを何かメシの種として役立つ「習いごと」として考えていたわけでもないだろう。あらゆる直接的有用性から離れたところで、ある営みをその直接的有用性のなさにおいて掘り下げてゆくことのできる意志を可能にするのが「趣味」であり、だからこそそれは時にとんでもない徹底性を帯びた創造性を発揮するのだとしたら、彼女がピアノを習い、音楽の手ほどきを早くから受けていたことは決して唯一無二の必然などではなく、一方で母親に連れられてレヴューや洋画を見ていたことと、その「趣味」を内在的なものに転化させてゆくための経験としては等しいものである。たまたまピアノであり、たまたま音楽だったのだ。技芸は、個々のものとしてでなく、ある連続的な経験を可能にする暮らしの全域を背骨に立ち上がる。「一芸に秀でる」というのは、実は徒手空拳の「貧乏人」たちの幻想なのかも知れない。
ひらたく言えばこうなる。彼女はカネ持ちの家に生まれたのであり、家がカネ持ちだったがゆえに、そのカネを背景にカネ持ちの「趣味」にまっすぐ忠実になることができた。いずれ筋金入りの「遊び人」の二階建てと言うべきこの荒井家の母子関係を貫くモティーフはこれだ。
誤解のないようつけ加えると、この「カネ持ち」とは言葉本来の意味での「中産階級」ということだ。つまり、ただ単にカネを持っている、というのでなく、ある程度の「趣味」を支えうるだけのある程度のカネを持てる生活基盤を持ち、またそのカネを正しく「趣味」の分際を守ってゆく程度に使ってゆく、そんな生活上の価値観がぶれることのないある階級である。そして、松任谷由実の生まれ育った時代とは、彼ら「中産階級」が「中産階級」として世間の中に正しく居場所を保証されていた、おそらくは最後の時代だった。実体としての「中産階級」は、高度経済成長とその後の情報資本主義の暴風雨にもみくちゃになめされ、その「趣味」は西武や丸井でのべたらに、カネのあるなしに関わらず、クレジットでさえも入手可能な「商品」と化していった。
●●●●●
この「趣味」に徹底できる条件を備えた「中産階級」の家に生まれ、そして事実その「趣味」を鍛えあげる経験をくぐってきた意識が、八〇年代サブカルチュアの旗手として飛び出してくる、という構図は、かなり普遍的に有効なはずだ。これは半分以上本気で言うのだが、少し本腰を入れて綿密に検証してみれば、渡辺和博が『金魂巻』で提示し、見事に誤読されたあの「マル金/マルビ」という図式にある程度の時間軸を与えて再生させることができるかも知れない。
例えば、松任谷由実とほぼ同世代の人気作家、中島梓が、よく似た生活背景を語っている。
彼女の母方の祖父は上野「精養軒」のエラい人で、その前は宮内庁にいたという腕っこきの料理人。小さい頃には、この祖父が毎週サントリーの角瓶に詰めた「精養軒」のポタージュをおみやげに家にやってきていたという。この「サントリーの「角」につめたあのポタージュ」が「私には、すべての味覚の原点であった」と言えるのは、そのような味覚の「趣味」を刷り込んでゆくある知識と経験の体系が同時にその暮らしの場に保持されていたからに他ならない。
「天ぷらやすしというのは「お好み」で、好きなものを、好きなだけたべるもんだと頭っから信じていた。これは私のせいというより、云わせてもらえば西も東もわからんガキにそういう贅沢をさせた親もわるいが、しかしそのおかげでよいこともあって、私は早くからあちらこちらと連れ歩いてもらったおかげで、どんな高級店だろうと、懐石料理だろうと、びびるとか、気おくれをした経験というのは一回もない。」(中島梓「栄光のササミ弁当」)
すし屋に来てアナゴばかりを食べる子供を憎たらしい、と書いた林真理子のエッセイを読み、「九つか十のころ」にすし屋で「エビばかしたべてカウンターにエビの尻尾をズラリと並べて、勘定したら三十尾ばかりもあったこともあった」という自分の経験を思い、「そうか、やっぱしあれは、はたから見ると相当イヤなガキに見えたのだろうな」と赤面してみせる中島梓は、まさにその「趣味」の内側で育まれた自分の意識が、実は決して普遍的なものではないということを発見し、驚いている。「私が生まれてからこのかたずっと何代がわりでお手伝いさんがいた」家でそんな「趣味」をたっぷりと身につけて育ち、それでいて極端な偏食で、最高の御馳走とは「ゴハンの上にメダマヤキをのっけ、おかずにトリのササミを焼いたのと野菜炒めを入れたササミ弁当」と宣言してはばからない。
だが、当たり前のことだが、それはそのササミ弁当しか食べられないというのとは全くわけが違う。ササミ弁当を最高の御馳走と選択し得るだけの「趣味」を、それを身につけるためにくぐってきた経験と共に、彼女は確実に持っている。ゆえに、どんなに貧しい食事をしても、どんなに下卑た言葉遣いをしても、彼女はその「趣味」を支えてきた階級に属していることの匂いを失わないはずだ。つまり、「品」がある訳だ。
しかし、この「趣味」というのは、実はかなりあぶなっかしい側面を含んでもいる。「趣味」の棲息する暮らしの場に即自的に育まれるのは、つきつめるところ、夢見がちな意識に他ならない。
先に見たように、松任谷由実の母親が、そのような夢見がちな意識をそれまでとは違った大量性の中で準備した大正モダニズムの洗礼をモロに受けたひとりだったことは、そのような自己の階級的「趣味」を自明のものとして娘にも刷り込んでゆき、親子二代にわたる夢見がちな意識の二階建てを作り上げたとも言える。
「たとえばね、渋谷あたりの路地裏にあるあんみつ屋でね、外の雨を見ているという詞を書くとするでしょう。ほかの人が書けば、そこに四畳半的なわびしさが生まれるかもしれないですけど、わたしなら、その場所がロンドンになるかもしれないんです。……(中略)……だから、わたしの歌を否定する人には、「そういう湿った生活しかできなくてお気の毒ね」っていってあげたいですね」
これは四畳半フォーク的な音楽に対する嫌悪感を表明する文脈で語られたものだが、何を見てもロンドンにしか見えない、というこの意識は、豊かな想像力のはばたきという手放しにポジティヴな意味と共に、そのような具体的、直接的有用性から遊離した「趣味」への自閉と間違いなく背中合せである。それは、宮崎勤の一件で急激に世間取りざたされるようになった意識「おたく」へのファーストステップかも知れない。
何を見ても少年愛とホモセクシュアルにしか見えない、という意識を共有した「やおい」と呼ばれる若い女性「おたく」たちが作るマンガ同人誌の世界を記述した梨本敬法は、『太陽に吠えろ!』に対してそのような読み替えを施してゆく彼女らを評して、「彼女たちが見ているのは、もはや同じ刑事ドラマ『太陽に吠えろ!』であっても『太陽に吠えろ!』ではない」と言う。眼に映るあらゆる事象をそのような自分たちが共有しているホモセクシュアルな解釈コードにあてはめて読み取っては自己増殖させ、どんどんとてつもない物語を転がしてゆく彼女たちの意識は、渋谷のあんみつ屋から眺める雨にけぶる風景がカーナビーストリートか何かに見えてしまう、という「ユーミン」の喚起する「映像」の仕掛けに極めて近いところにいる。
○●
一つのエピソードがある。
十年ほど前、まだ荒井由実といっていた頃のこと、彼女がディスクジョッキーをやっているラジオの深夜番組に、とあるファンからのはがきが舞い込んだ。長崎県五島に住む一人の女子高校生からのものだった。彼女の通っていた高校は本島にある本校の分校だったため、自分たちの校歌というものを持っていなかった。そのため、自分たちの高校の校歌を作ってくれないか、という内容のはがきを彼女はラジオの向こうの「ユーミン」にあてて書いた。こうしてできたのが『瞳を閉じて』だった。
このエピソードには当時、NHKが飛びつき、『新日本紀行』で取り上げたりしている。また、それから十数年たった二年前の夏、当時の卒業生の有志が中心になってこの歌の歌碑を立てており、その際にもまたさまざまなメディアで報道されたから、覚えている人も多いことだろう。さらにつけ加えれば、この『瞳を閉じて』は今や音楽の教科書にまで採用されている。
荒井由実から松任谷由実へ、七〇年代から八〇年代へ、時代のシフトチェンジにしたがって「ユーミン」がどのようにその意味を変貌させていったかを考える時、このできごとは手作業で掘り返してみるに足る、かなり面白いケーススタディになるはずだ。だが、ここでは次のいくつかの点に注意を喚起するにとどめておこう。
この高校では、この歌を「愛唱歌」として位置づけ、卒業式はもちろん、掃除の時間などにも放送で流したり、音楽の授業においても積極的に歌わせている。しかし、曲を聞いてもらえばすぐにわかることだが、この曲は男女が声を合わせてともに「歌う」ということを想定して作られたものではない。まず、キーを男女ともにうまく合わせるということがしにくい。そして、テンポもかなりとりにくい。にも関わらず、この曲は全校生徒百数十人の高校で一つの象徴として歌い継がれている。
歌詞自体、とてもその歌が校歌として歌われる場所がその島である必然性の感じられない。もちろん、校歌とはもともとそのような現場性の薄い抽象的な歌詞を持つ種類の歌だ。しかしそれでも、「その場所」であることを立ち上がらせるための仕掛けとして、曲がりなりにも固有名詞が歌い込まれていたり、たとえそらぞらしい定型句がらみであったとしても何かその土地にまつわる具体的な名勝、景観などを指示する語句が織りこまれていたりするくらいの必要はあった。
だが、この『瞳を閉じて』は少し様子が違っている。当時放送された番組のヴィデオを見ると、「ユーミン」自身、はがき一枚にイメージをふくらませ、「念写のようにインスピレーションを飛ばして」書いたものだと言っているが、それにしても、ここで描かれている風景は、まさしく先に触れたような「何を見てもロンドンに見えてしまう」かも知れない「ユーミン」のあらかじめの「映像」喚起力によって立ち上げられた「商品」そのものである。
こだわりたいのは、少なくとも高校生になるまではその土地に生まれ育ち、十分にその場所のリアリティをその身にプログラムしてゆくことが可能だったはずの彼ら、彼女らが、ここで歌われているどこでもない漠然とした、しかしもしかしたらその分もっともらしい「映像」の方にきれいに同調してしまっているかも知れない、そのことだ。
「何か高校を出るとみんな島を出てってしまうらしかったから、そこに住んでいる人じゃなくて、そこから出てった人が歌えるようなものにしたかった」と言うのが、当初の「ユーミン」の意図らしい。この意図がかなりの程度正確に、あるイメージを立ち上がらせたのだとしたら、疾風怒涛の八〇年代をくぐってくるうちに、今や、眼の前の風景のはるかかなた、遠い「ここではないどこか」から響いてくるその「映像」の呪縛から誰ひとりとして逃れられないようになってしまったのかも知れない。