対談 ・キンタマのない奴はものを言うな!

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大月 最近、JRの駅の構内にきれいな喫茶店ができてますね。多角経営って奴なんでしょうが、あそこで、この間まで車輪を磨いたり、機関車の整備やってたようないい顔したオッサンまでが、蝶ネクタイして「いらっしゃいませ」ってウエイターやらされてる。

 国鉄マンというのは、かつて「ザ・マン」と呼ばれたような「男らしさ」の意識の中で自分の仕事を意味づけてきたと思うんですが、それが突然、ああいう「いらっしゃいませ」をやらなきゃならなくなる。彼らにとっては、それまで自分を支えてきた言葉がガラガラ音を立てて崩れてゆくような経験だと思うんですよ。そして、ここ二、三十年の間、高度経済成長以降の過程でそういう不幸が、何も国鉄に限らずあらゆる仕事の局面で起こってきているような気がします。

 でも、それを「男らしさ」の喪失、という物言いにだけ引き寄せちゃうと、男対女という図式にからめとられちゃうわけで、そうじゃなくて、実はそこで言われている「男らしさ」というのは、よく見ると近代的な労働の質に重ね合わされて出てくるあるエートスだったりするわけですよ。そのあたりの文脈までもが見えなくなってきたがゆえに、今「男らしさ」という言い方もリアルじゃなくなってきたというところがあるんじゃないか。

 たとえば、アメリカだとジョン・ヘンリーなんてのがいますよね。蒸気削岩機と勝負した黒人トンネル工夫のフォークロアですけど、それが競走馬の名前にまでなっていて、また彼が走るとダイムだのクォーターだのを握り締めた貧乏人たちが熱狂するという。また、機関車の機関士だったらケイシー・ジョーンズなんてのもいる。日本にはああいう近代労働の場に宿った英雄譚が少ないと言われてて、それはラッダイト運動(工業機械に対する打ち毀し)が本格的に起こらなかったことともからんでいると思うんですが、それでも、明治期の女工の話なんか読んでいると、そういう近代初期の労働現場での英雄像というか、仕事の場におけるあるべき人間像というのは、男とか女というのをひとまず超えたところでスカッと出てきますよ。


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 近代的労働の場で削り出されてくる意識とか人間類型というのは、本質的に性差をも超越してゆくようなとんでもない貫通力というか、ある種の普遍性を持つものだと思うんです。なのに、どういうわけかそれに対して「男らしさ」という、男の側にのみ引き寄せられた表象がまつわってきて、イデオロギーになってきた。そういう印象を僕は持っているんです。

平岡 ジョン・ヘンリーのあのイメージというのは、アメリカの黒人社会、いわゆる「ザ・マン」というやつが完全に生きている社会があって成り立つものだと思います。

 で、機械と競走して、掘って掘ってまた掘って、それで終わった時に、機械には勝ったけれども彼はがっくりと死んでしまった。しかし、その英雄譚がアンダーグラウンドレイルウエイという黒人奴隷の逃亡ルートに託されることもあったし、もう少しカリカチュアライズされたような格好だと、ジャリのセックスマシーン、性交機械とか、あるいはトミー・ウィングラーという漫画家で、これは機械フェティシズムなんですが、拷問機械を描くような人なんかも出たりする。


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 実存主義で言うとね、男性的というのはどんな時かというと、チンポコが立ってく時でしょ。ググググッて充血していく。レーニンだったら「われに党を与えよ、しからば世界を動かさん」と言うはずだ(笑)。ああいう非常に能動的な世界像というものは、オレはどうもキンタマだっていう気がする。

 で、これは自分でちょいちょい使ってて、あまりに自分のものになってしまったので出典も忘れたんだけど、「すべて偉大な思想には陽根崇拝の傾向がある」というのが、大好きなんです。

大月 いいですねえ。

平岡 ほんと、好きなんだ、それが。

 僕は女性の論客と論争したくてしょうがなくて、こんなこと言っても誰も信じてくれないから、まだ誰ともそういう機会はないんですがね。もしもそんなチャンスがあったら、ぜひ言ってみたいのが「てめえ、キンタマついてんのか?」(笑)。

大月 キンタマない奴はものを言うな(笑)。そこまで言えば、まず議論にはなりませんよね。

平岡 ならない。「そりゃないわよ」ってことになると思うんだな。そしたら次は「じゃあ、あるかないか証拠を見せろ」(笑)。

 俺、女性は最終的には自分の性器に関しては劣等感を抱いてると思うんだ。肉体に関しては彼女らは自信がある。だから、露出症ですよね。でも、性器そのものに関しては劣等感があるんだと思う。というのは、男の露出症というのはキンタマだけ出す。でも、あそこだけ出した女の露出症というのは見たことない。

大月 なるほど。

平岡 だろ。呑むと脱ぐ女ってのもいるけど、たいてい胸だよね。あれが下だったら非常にグロだと思うな。

大月 うわ、そりゃ見たくない。

平岡 だから、こと性器に関しては、男は自信を持ってるんじゃないかという気がするわけです。たとえ粗チンであろうとも。

 ある男はカネを持っている。ある男は才能を持っている。ある男は色男である。しかし、「おまえ、小さいな」と言われると、男はそれだけで存在感が萎えるという気がする。逆に、どんなバカでも「立派なものをお持ちで」と言うと「ウム」という気持ちになる。

大月 女っていうのはわかりにくいじゃないですか、外からは。それに男との関係の中でしか性器の善し悪しが評価されてきてないでしょ。男は見せてでかいとなると「お、すごい」って話になるけど、女はオマンコ見て、これがいいオマンコがどうかというのは、彼女ら自身ではよくわからないわけですからね。だから、女の語彙の中には、自分たちの性器を評価する言葉って、かなり少ないと思うんですよ。

平岡 俺もそう思う。

大月 色がいいとか悪いとか、その程度でしょ。でも、そういう問題じゃないですからね、あれは。

平岡 たとえばね、ろうたけたオマンコ、可憐なオマンコ、いたいけなオマンコ……と並べていっても何かしっくりこないでしょ。健気なオマンコっていうと、何か毛のないパイパンかと思うしさ。それから、思想的に正しいオマンコ、これもまずないと思う(笑)。でも、思想的に正しいキンタマというのはあるような気がするんだな。今、あなたが言ったようにオマンコっていうのはこれといって確かな格好がないわけでしょ。だから、女ってのは常に自分がどういう格好をしているか不安な心理にあると思うんだな。

大月 まあ、おそらく巨大な空虚として自覚されているんでしょうね、女性にとっての股間というのは。

平岡 だと思うな。男根というのは普段は実に情けない格好をしているけれども、いざという時には実に毅然として美しいでしょ。あの反りといい、艶といいさ、グググクッと上を向いていく時の能動性といいさ。これはやっぱヨーロッパ文法だと思うんだよね。

大月 主体的ではありますよね、とりあえず。

平岡 男は、述語なしで主語として、毅然として宇宙に存在しているわけだ。立った時には言葉はいらない。「余はマラである。見ての通り」って言ってるわけだよね、存在自体で(笑)。

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大月 この間、民俗学者赤松啓介さんと上野千鶴子さんに対談してもらったんですよ。(赤松啓介上野千鶴子大月隆寛『猥談』現代書館 九一年)で、そこで面白かったのは、昔の夜這いではピストン運動なんかやらなかった、と。だから、ピストン運動をどれだけ激しくやれるかが価値か、みたいな考え方は、ありゃ嘘やで、という話なんですけどね。考えてみりゃ、ピストン運動のあの動き自体が非常に近代的なもので(笑)。あれは機機械の動きとリズムじゃないですか。しかも、「抜か六」とか言って長い間やるのがいい、なんて、そんなわけないですよね。ということは、あれが価値であるという変なイデオロギーの不幸に、あわれ男は苦しんできた、と。

 神戸から別府に行く汽船の三等客室がその当時、やり放題の何でもありだった、という話も出ましたね。まるで新島行きの東海汽船みたいなもんだ。昼間、明るいうちに目をつけといて、暗くなるとそれぞれ目当ての女とくっつくって言うんだけど、なにせ大部屋の船室だから、やるったってピストン運動なんかできない、と。だから、女の中に入ってじっとしてるっていうんですね。ただじっとして、ひたすらその微妙な感じを味わう、と(笑)。

平岡 うん、俺もそっちの方が官能的には正しいと思うな。

大月 そうやって考えてみると、突っ込んで、とにかくこすりまくって、壊してやる、みたいな、そんな動きというのは近代に過剰に作り上げられてきたものかも知れない。

 ほら、ストリップでまな板ショウがあるじゃないですか。客が「ハイッ」って手をあげて出てゆくでしょ。で、舞台に上って、わずか数十秒の間でも、イカさずにおくものか、って意気込みの奴がいたりする。そんなもん、向こうは商売なんだからそうそうイクわけないんだよね。でも、とにかくあらゆる可能性を駆使して、俺はイカすぞ、って腕まくりして出てゆく奴って、いますよね。

平岡 うん、英雄が(笑)。

大月 そうそう。あの神経って言うか、あの感覚というのが何とも「男らしい」というか、馬鹿というか(笑)。あるいは、パチンコでもって、たとえわずか十分しか時間なくても、俺は打ち止めにせずにはおくものか、っていう前向きな思想というのもあるし。

平岡 うん、あるある。そういった思想がジョン・ヘンリーってことでしょ。

大月 そうそう、そうなんです。

平岡 掘って掘ってまた掘って。

大月 機械と勝負して、そんでもって死んじゃった(笑)。バカですよね。

平岡 でも、少なくともパチンコの中にあるエロティシズムというのは、俺、好きなんだ。今の機械じゃ十分じゃとても打ち止めにできないけど、千両箱に片足かけて、昔は流し込み、今は自動式だけど、何か機械のエクスタシーを求めてるって感じがあるでしょ。

大月 ああ、なるほど。

平岡 やたらにチューリップが脚を広げてるわけ。、パッパカパッパカ。で、昔の機械って、最後に「アアアーッ」っていう感じでポッと赤いランプがつくんだよね(笑)。あの時、俺はジョン・ヘンリーになるんだ。

大月 パチンコという機械に対する対峙の仕方ですら、そういうエロティシズムというか、ジョン・ヘンリー的近代キンタマ主義バカの精神が活きていたというか。まあ、僕は敢えてそれをこそ「男らしさ」、あるいは正しく「主体」と言いたいんですが。そういう感じって、確かにありますよね。

平岡 ありますね。

大月 そういう近代的なマッチョの思想が、この国の近代のどのへんでどう成熟してきて、で、まあ結局のところダメになったと思うんですが、そのあたりの経緯と来歴とが気になって仕方がない。たとえば、侠気とかね。日常ではそういう物言いで引き出されてくるある意識の類型だと思うんですよ。それがどういう局面でどのように立ち上がってきて、どういう経緯をたどってどのへんでおかしくなったかということは、正しく「歴史」の問題だと思ってるんです。こういう問題は今までほんとに等閑視されてますからね。少なくとも、戦後民主主義的言語空間では一律に否定的価値でしかないじゃないですか。

平岡 そうみたいです。

大月 ね。そういう日常的なバカの効用というか、キンタマ主義主体思想の可能性みたいなものを、ここらでもういっぺん方法として確認しておかなければいけない、と真剣に思ってるんですけどね。

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平岡 僕が清水次郎長を研究しているのはご存知ですか。

大月 ええ、よく読ませてもらっています。

平岡 あの次郎長伝の中に、いかにバカをうまく描いたか、っていうのに俺は感動するんだけどね。たとえば、棺桶背負って喧嘩に行くでしょ。

大月 桶屋の鬼吉ですね。確かにバカだ(笑)。

平岡 それから何と言っても森の石松ね。閻魔堂のくだりでさ、ボロボロになった石松が隠れてるでしょ。で、追っ手がやってきてその石松の隠れてる閻魔堂の前で「石松という奴は弱いなあ、あんなに強そうなこと言ってたって逃げちまったじゃねえか」って悪口言ってるのを聞くと、もうズダボロになってるくせに「何をッ 俺が弱いってぇ?!」って飛び出してって斬り死にしちゃう(笑)。実際、次郎長伝にはとんでもないバカがこれでもかってずっと出てくる。

 で、僕はあれは、次郎長伝をやった三代目広澤虎造の戦地の現地慰問を通じての、帝国陸軍二等兵に対する同情心があったゆえだと思うんですよ。

大月 あの次郎長伝に出てくる石松以下にバカ像ってのは、講釈師の神田伯山が作り出した類型じゃないんですか。むしろ虎造の方がオリジナル、と。

平岡 まあ、半々でしょうね。先日、神田伯山を手に入れることができてようやく聞くことができたんだ。虎造が伯山を下敷きにした、ってよく言われているけれども、少なくとも石松ものに関してはディテールは案外違うんですよ。大筋はあの通りですが、虎造は神田伯山の描き出した人物像に、太平洋戦争の中で磨き直しをかけたんだと俺は思う。つまり、現実に石松みたいなバカな死に方をした奴がいっぱいいたんだろうと思うんだな。

大月 ああ、それはおそらくそうなんでしょうね。次郎長伝にしても、戦前のバージョンと戦後のバージョンとではエピソードに対する解釈が微妙に違ってたりして、たとえば、石松みたいなバカに対して「こういう奴は人にいいように使われて早いところ死んじまいます」なんて批評的な解釈を虎造自身が補足してたりする。このへんなんかは「戦後」の影が色濃く落ちていると思いますね。

 で、その虎造に憑依したような形である種のバカ像が洗練されていったとすると、きっと浪曲だけじゃない、その他の民衆表現のジャンルにも、そういうバカ像、信頼すべき愛すべき主体像っていうのはやっぱりあるはずですよね。

平岡 うん、あるはずだ。でもね、やっぱり浪曲が戦地の塹壕の中で一番まっすぐに二等兵と向き合ったんだと思うね。

 虎造が戦地に慰問に行くと、将校が、石松の話なんかやめろ、って言うんですよね。もっと忠君愛国、明治大帝がどうした、とかそういう話をやれ、って言うんだけども、明日死ぬかも知れない兵隊には、そんなのつまんないわけでさ。頼むよ、石松やってくれよ、石松をよ、って兵隊たちに懇願されて、仕方なく虎造は連日石松ばっかりやらされる羽目になる。で、将校たちはそれに文句が言えない。そういう風に虎造は兵隊たちと向き合ってたんだと思うんだ。だから、後の『兵隊やくざ』みたいな、塹壕の虎造主義とでも言うべきものが戦線にいっぱい出てきてたと思うんだよ。

大月 『兵隊やくざ』の主人公大宮喜三郎は元浪曲師のテキヤって設定でしたしね。映画だと、物干場でカツシンの唸ってみせる『紺屋高尾』のさわりがカッコいいんだ、これが。

「バカは死ななきゃ治らない」っていうのを聞いたら、よし、もうこれで明日死んでもいい、って思えたんだろうなあ。そういう芸能って、今はもうありませんからねえ。

平岡 ね。そういうところから考えて、石松的なものというのは日本の民衆の間にかなり普遍的にあったと僕は思う。でも、美術における石松主義、教育現場における石松主義ってのはないよね。それに、獄中十八年森の石松、非転向の記、なんてのもないわけでしょ(笑)。

大月 それは聞いたことない(笑)。

平岡 ということは、あの森の石松に代表されるバカの物語は、兵隊、それも二等兵のレヴェルでね、戦争中に男の美学みたいなものをある程度磨かせたのかな、って気はしますね。

 男が磨かれてきた場合ね、発揮できるのは、まず女がいるってことなんですね。やっぱりかわいそうに、あの人たち(女)は毅然としたものがないから、毅然としたものと対応した時に初めて瞬間的に毅然とする。たとえば、「荒神山の決闘」前段(蛤屋の喧嘩)の神戸の長吉のおふくろ、おしまの、夫がやくざで息子もやくざだった母親の嘆きなんてのは、まさに銃後の母のイメージだったと思うんですよ。ここで危機に臨んでのババアの艶気みたいなものと哀切感とが実にうまく出ていると思う。これは虎造の美学の領域でね。背景にあった第二次世界大戦ということを考えれば、命の捨て方を含んだ美学として民衆にとらえられていたと思うね。

大月 なるほど。近代化のもみくちゃの中でいかに主体化してゆくかというテーマに対して、浪曲の石松主義がひとつの民俗的応答をしていた、と。敢えて浪曲以外のジャンルで言えば、たとえば無法松なんかも、その石松主義というか、ある種のバカの典型として語られてきてますよね。

平岡 そうだね。春陽堂文庫、岩下俊作『富島松五郎伝』ね。

大月 あれ、今なかなか読めないんですよ。中公文庫に一応入ってはいるんですけど。やはり差別の問題とかがからんでるんですかねえ。

平岡 無法松の栄光でしょう。彼は人力車夫だ。船頭、馬喰、船曳といった交通労働者の反乱が水滸伝になったわけですしね。でも、話の直接性においてはそういう匂いはほとんど出てこない、教訓小説になってたりするんですよ。

 無法松は、吉岡大尉夫人の未亡人に恋心を持っていて、ついにそれを打ち明けられないまま死んでゆく。それも叶わぬ恋どころか、告げられぬ恋ですよね。伊丹万作シナリオ、板東妻三郎主演のあの映画では、その苦しさを込めて祇園太鼓を打つところで終わってて、これはこれで確かにカッコいい。

 でも、僕が無法松で一番好きなのは、松五郎が吉岡大尉の遺児に自分の少年時代の話を聞かせるシーンだな。大尉は演習中の肺炎がもとで病死している。無法松は未亡人に秘めた恋をしてるが故に、そのボンボンに父親以上の愛情を注ぐわけだね。

 おいちゃんがな、いちどだけ泣いた話をしよう。おいちゃんは、継母じゃったけん、おっ母さんがこわう手、ある日、山を三つ越えて父親の働く飯場まで逃げた。朝出て、夕方になった。着くと、父親は黙ってひしと抱いてくれた。そんときおいちゃんは初めて泣いた――そういう話をね、炉端で、強い歯で銀杏をカリッと噛みながらボンに話すんだよね。さあ、ボン、食え。ただあんまり食うなよ。精が強いけ。

 この炉端でね、上流階級の息子に明治の下層階級である自分自身の生い立ちを語ることによって、民族の魂のありかたみたいなものを継承させてゆく。いいシーンです。

大月 とても啓蒙的ですね。人が経験に対してまっすぐに立ってる。

平岡 僕は、日本のハードボイルドっていうのは、あれだと思うのね。

大月 わかりますね。うん、いいな。


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平岡 これら若いあなたなんかに聞いてみたいんだけど、「あなたが殺気を感じる色は何か」って言うと、「赤」って答えるのが戦後の常道じゃないかという気がする。でも、僕は日本の殺気の色は「青」だと思ってるのね。それは、岩下俊作と同じように九州の作家ですけど、火野葦平の『花と龍』で、主人公の玉井金五郎が敵襲に備えて高張提灯を立てる。大きな盥に水を満々と張って、畳一畳を持ち出してどっかと座る。それで日本刀を何本もその畳に刺して、高張提灯の光の下で盥で刀を洗ってね、で、じーっと見て、グサッとまた刺す。ただそれだけで相手が脅えてしまって襲って来なかった、って記述があるんですが、その時の殺気の青さね。全体がもう寒々としてるんですよ。


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大月 そうでしょうね。殺気の質なんてものも、戦前と戦後とではかなり違ってきてるんでしょうね。だから、刀に斬られるってことは、映像なり何なりとしてはわかっても、その刃物で刺されたり、あるいはそういう身体的な苦痛を具体的に与えられるかも知れないという、本当に関係の絶対性みたいな局面に対峙しないですむような装置というのが戦後、特に高度経済成長以降、ものの見事に作り上げられてしまっているじゃないですか。だから、おそらく今おっしゃったような「青」の殺気みたいなものが、今のところはほとんど継承されていないか、くぐもってひからびたまんまじゃないかって気がしますね。どだい、刃物の意味からして違ってますし。

平岡 刃物を人に向けた時の基本的な心理的構成というのは、心中でしょう。刺し違えるというか、それでなくちゃちょっとやれないと思うんだ。武器の優位性によって、言わば戦わずに相手を威圧するというのは、これはヨーロッパ流だと思うのね。

大月 そうかも知れないですね。相手の懐に飛び込まないと刃物は駄目ですからね。

 だから、人に怪我させるなり、殺すなりっていうことに向かうまでに、かつては相当いろんな段階があったと思うんですよ。いろんな葛藤があって、ボルテージが上がっていって、それでやむにやまれぬ感字で飛び込んでゆく。そのプロセスがあるからこそ、刃物なんて決定的な道具も使えたと思うんですよ。手元にたまたま包丁があったから刺しちゃった、っていうんじゃこれはしょうがないんで、第一、美しくない(笑)。でも、今はみんなそういう対峙の仕方がそういうプロセス抜きになってしまってます。

 やっぱりこわいんですよ。人間、生きものですからね。他人と向かい合うってのは男同士でも怖いことだし、まして女となんてもっと怖い。ヴァギナ・デンタータ(神話などに登場する歯のあるオマンコ)じゃないけど、どこから何が出てくるかわからないじゃないですか。

平岡 いよいよ今日のテーマに近づいてきた(笑)。

 刃物っていうのはさ、あなたがさっき言ったような段階があるでしょ。それを使うまでの段階ね。抜き放ってしまった、抜いちゃったという場合、まあ武士だったら自動的に斬らねばならないというバッジシステムもあったんだろうけど、でも実際、武士だって年がら年中人を斬ってたわけじゃ全然ないんでね。まず刀を抜いてしまって、和解が成立する時の抜いた側のオトシマエというのはあったと思うんですよ。これはね、抜いてしまった方が圧倒的に下位に立ちますよ、心理的に。

大月 そうですね。

平岡 だって、抜いちゃうほど動揺したってことだから。振り上げた剣をおろしようがない、っていうのは、これは実感としてリアルだと思うのね。そして、そういう場合にはどういう風に仲裁するか、っていう知恵、これも昔は案外そういうのがあった。

大月 絶対あったと思いますよ。でないと、始末がつけられないもの。ただ、その場合に、仲裁する方に当事者以上に貫禄がないと止められませんよね。にらみ合ってるところにチンケなのが下手に飛び込んだら、そいつが先に斬られちゃう。

平岡 そうね。「そこまでッ」って言ってさ、両方を一応立てる。しかし、刀を抜いて振りかぶってしまった方が七の割合で心理的な負担を負い、三の、刀を振りかぶられても悠然としていた方が得する、というような配分の心理学、ないしは哲学とでもいうようなものがあったと思うんだ。

大月 知恵ですよね。

平岡 そう、知恵だ。今、俺たちにはそれがないからね。

大月 ないですよねえ。だから、やるかやらないか、プラスかマイナスか、しかない。

平岡 やっぱり、思考法が0/1になっちゃってるんだよ。また刃物と違ってピストルなんてのは、引き金引いちゃうとあとは弾丸に聞いてくれってところがあるからね。

大月 しかも、遠くから狙えるというのがいけない。相手の懐に飛び込まなくてもすむというのはよくないですね。フェアじゃない。

平岡 やくざなんかだと、致命傷にならないように太腿を刺す、という知恵があったよね。それから刃物を上向きにして刺していたか、それとも下向きだったか、あるいはわしづかみにしていたか、逆手に持ったか、というような事でも、全部始末のつけ方が違ってきた。必殺というのは刃物を上向きに持って、脇に添えて身体ごと相手に叩きつける。山口二矢流だね。これはもう絶対攻撃だった。でも、その絶対攻撃に向かう前はね、ちょっと抜いて見せたというところから、振り回した、本当に刺した、殺した、というところまでさまざまなレヴェルがあって、またそれを判定しながら裁く知恵もあったわけだ。

大月 結局、貫禄とか器量とか、そういう言葉がなくなったってことが象徴的ですよね。

平岡 そうそう。

大月 いい言葉ですよね。「貫禄を見せる」って言い方、大好きなんですけどね。あと「器量がある」とか、ああいうのは決して具体的なものじゃないけど、やっぱりその場と関係性とで認められているものがあるわけでしょ。あの人が出てきたらこれは引かなきゃしょうがない、とか。ただ、これは外国語には実に翻訳しにくい微妙な感覚だったりする。

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平岡 喧嘩には必ず止め男ってのがいたよね。その止める際の言葉とか身振りとかがまたひとつの型になってた。

大月 あ、子母澤寛がそういう止め男の話を書いてますよ。必ず入れ墨をしているというんですよ。で、ここという時に、諸肌を脱いでそれを見せる。見せることで、わっと場の気を呑んだら、そこでうまく仲裁のタイミングをはかれるんだ、みたいなことを書いてました。ある種のハッタリなんだけど、実に演劇的ですよね。

 ところが、この入れ墨のない奴がいたらしいんですよ。なのに、喧嘩の場に飛び出して行ったら、やくざたちが一触即発でにらみ合ってる。これはどうしようもないんで、飛び出したものの、そいつ、はたと困ってね。で、どうしたかっていうと、たまたまそこに野良犬が一匹迷い込んできたらしいんですよ。よし、こいつだ、ってわけで、刀でパッとそれを斬っちゃった。キャンってひっくり返ったのをわしづかみにして、頭から血をかぶって血だるまになりながら、待った待った、その喧嘩待った、ってやってようやく止めた、って話なんですが。

平岡 ワハハハハ、それで止まったの?

大月 見事止まったそうです(笑)。

平岡 うーん、つくづく洗練された民族だなあ(笑)。

大月 あいつはなかなか度胸がある、ってことになったそうですけどね。そりゃびっくりしますよね、犬の血を頭からかぶって真っ赤になったのが横から飛び出してくれば。

平岡 これで今日のテーマとつながった。男同士はそういう演劇的な約束事、ないしはコードを知ってる。女がこわいのはそのコードがねえからなんだ。

大月 女の喧嘩って終わらないじゃないですか。その分、なんかとても根が深い。なんというか、垂れ流しのまんまなんですよね。ここまで、っていう区切りもないし。また、根にもって恨むっていうのもありますし。

平岡 ロミオとジュリエットじゃないけどさ、中学の時に喧嘩別れしたまま、未だに悪口言い合ってる、とかさ(笑)。同じ理由で外国人と喧嘩するのは恐ろしいよ。俺、やったことあるんだ。これは怖いよ。

大月 ああ、対峙のコードが違うから。ここで一歩踏み込んだらどうなるんだろう、とか、想像すればするほどどんどん怖い考えになってゆく。各民族によって危険信号の鳴るレヴェルが違うわけで、身体的な距離感というか、安全圏も全部違いますし。だから、そのコードが共有できてないと、何をやったらいいのかいけないのか、まるでわからない、というのがありますよね。今の若い世代の男たちは、そういう喧嘩のダイナミズムをよく知らないから、やったら最後、殺してしまうところまで行っちゃう。

平岡 なるほど。

大月 だから、本来伝統的にあったはずの安全保障の知恵さえ、もう効いてなかったりするんですよね。日常にそういう場がないから、渋谷にたむろしてる連中なんかたまに流血騒ぎやったりしてますけど、僕に言わせりゃあんなのただのはずみで、実は喧嘩でも何でもなかったりする。

平岡 わが民族は一応、そういう安全保障は一千年かけて作ったと思うんです。日本人同士のは。

大月 それは良くも悪くもすごいと思いますね。

平岡 相手をなるべく殺さないですむような知恵だったんだよね、それは。たとえば、竹槍ってのは竹を斜めに切ってその先を焼くって言われるでしょ。そうすると硬くもなるし、殺菌効果もあるらしいんだな。生竹が入ると傷がなかなか治らなかったらしい。そういう巷の学習っていうのは、別にやくざだけじゃなくて、みんなやってたわけですよ。こういうのは親からは教わらなかったかもしれないけど、仲間うちとか先輩後輩の関係で継承されてきたりしたんだと思うね。

大月 そうですね。先輩後輩の場で学んでゆくものですね。

平岡 だから『けんかえれじい』なんてのは、すごくいい教養小説なんです。


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大月 僕は去年の秋から暮れにかけて、喧嘩らしき場に約三回ぐらい遭遇する羽目になったんですが、実際きちんと気持ちよく殴らせてもらえたことがいっぺんもなかったですね。

平岡 相手は女ですか。

大月 いや、ぜんぶとりあえず男の形したヤツなんですけどね。ひょっとしたら女だったかも知れない(笑)。

 でも、結果としてそういう場で暴力が発動される可能性が出てきた場合、今の「市民」ってのはどういう言葉や物言いを持ち出して抑え込みにかかり、差別してくるか、というシミュレーションを結果としてやったことになりましたね。あのね、「みんなの気持ちも考えろ」これがまず出ますね。あるいは「みんなの迷惑も考えろ」。必ずこの「みんな」ってのが出てくる。コン畜生、どこのみんななんだ、って言いたくなるんだけど。

平岡 それは憲法で保障されてる国民でしょう(笑)。

大月 そんな国民、認めねえぞ、あたしゃ。それで、その「みんな」という物言いで暴力に向かうやる気が制動されるというのがどうもあるんですね。悔しいけど、自分の中にもある。正直、一瞬たじろぐもの、「みんな」って言われると。あれは非常に健康によくない。

 こういう不健康さって、かつてはなかったと思うんですよ。たとえば、さあ、いてまえーって状態になった森の石松に、口先だけでそんなこと言っても止まるわけないでしょ。むしろ逆効果、かえって猛り狂うのがオチです。一発殴りゃ気がすむところを、かえってタコ殴りにしちゃったりして(笑)。

 ところが、石松ならざるわれわれはそれで萎えちゃう。これはやっぱり戦後教育の申し子なんだな、と改めて痛感したんですが、その「みんなの迷惑」って物言いに対して、ウッと制動されちゃう何かを、どうも学校で叩き込まれた戦後民主主義ってやつが、身体のどこかにプログラムしちまってやがるんだな、と。

平岡 そうか。パブロフの犬みたいにさ、「民主主義」って言うと、条件反射で一瞬止まる(笑)。

大月 そう。それもかなり早い段階でその殺し文句が出てくるんですよ。実際、殴るどころの騒ぎじゃない。この野郎、って席を蹴って立ち上がった瞬間に出ます。

平岡 ほんと? そんなに「みんな」の出方が早くなったのか。

大月 早いですよ。実際取っ組み合って一発二発ブンなぐって、それで「待て」というならわかりますよ。立ち上がった瞬間にもう「みんなの迷惑も考えろ」ですからね。まだ迷惑にもなってない、これから本格的に迷惑かけるんだから待ってろ、っての(笑)。でも、これはつらつら考えて、面白い現象だと思った。

平岡 うーん、「みんな」の出方がそんなに早くなってるとは思わなかった。電撃的日和見主義だね。

大月 そう、瞬間的江川ですよ(笑)。それと同じく、瞬間的に寝るヤツが何割か確実にいます。

平岡 タヌキだ、そりゃ。

大月 ほんとにその場で固まったまま寝るんですよ。「わたしはここにいません」っていう一種の擬態なんだろうけど、人間追い詰められたらここまでやるか、という、生態学的感動はあります(笑)。

 あと、やたらめったら「警察呼んで」「被害届を出して」とわめくバカね。これも結構いますよ。いじめられるとすぐにセン公ヤ親に泣きつくのと同じ。そんなことするから余計にいじめられるのにさ。とにかく「学校」感覚なんです。またそういうのに限って、普段は字ヅラだけ進歩的で民主的な能書きこいてやがったりするからムカッ腹が立つ。ニッポンの警察はさぞや毎日お忙しいことだと思いますよ。

平岡 うーん、まるで筒井康隆の世界だなあ。

大月 みんな「民主主義」のビョーキだと思いますね。ただね、気になったのは、いざ「いてまえー」ってなる瞬間の場のダイナミズムに、いまどきの「市民」ってのはとことん鈍感になってるってことなんですよ。これじゃあ、革命もクーデターもできゃしない。

 売り言葉に買い言葉ってありますよね。そういう、言葉に主体が乗り移っちゃって、当人の意志とは別に「引っ込みがつかない」という状況ができるってやつ。その機微がどうにもわからなくなってるんですよ、普通の人たちって。そういう場のダイナミズムを感知する感度がものすごく鈍くなってる。これって文化の痴呆化だと真剣に思います。

平岡 みんな、間違えてるんだ。迷惑って観念が一般的に一斉に流行ったのは、国労のスト権ストの時からなんだよ。国鉄がストをやると国民が迷惑する、ってわけだな。でも、当たり前じゃないか。ストライキってのは迷惑をかけるためにやるんだからさ。

大月 全くそうです。

平岡 喧嘩だって、迷惑をかけるためにやるわけでしょ。

大月 そうです。どんな喧嘩でも必ずどこかではた迷惑なんです。だから、ストにしても、順法闘争とか言ってむやみに鎮静させてしまおうとするのは逆効果もいいところですよ。もっとガンガン正面からさわやかに迷惑をかけようとするべきなんです。そうしたら「市民」の方々にももうちょっとさわやかに問題を考えてもらえるようになる。それくらいの気概もなくて確信犯で迷惑かけられなくなってる腰の引け方こそが、「民主主義」にとっての大問題だと思いますよ。

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大月 最近、女を犯す、という意識が男の側に薄くなってきているでしょ。今の女性は若い男が暴力的じゃなくなった、って歓迎してるみたいだけど、でも、それは女にとってもまた不幸なことでもあるんですよね。犯す、ためにはまず正面から対峙しなきゃいけないわけだけど、それができない。ただ物理的に対象を愛玩しようとして実は壊しているだけで、かつてあり得た犯すことで隠された可能性まで互いに引き出す、とかいうのとは全然違う。たとえば、猛然とピストン運動やりまくって摩擦でオマンコすり減らすとか、そういうバカバカしいなりに切実な「ああ、これぞ近代」っていう感じがどこにもなくなってしまった。

平岡 うん、使っても減るもんじゃない、ってよく言うけど、それこそ、減らしてみせたい、っていう意志がなくなってるよね。

大月 そりゃ確かに自分自身にもそんなバカバカしい欲望はもうないんだけど、でも、そういう「いかにも近代」の破壊衝動というか、制御のきかない危うい何ものか、というのがこの時代、どういう風にごまかされたり、はぐらかされたりしているのか、っていうのは真面目に考えなきゃ、と思うんですよ。いかにポストモダンだ、情報化社会だって言ったところで、こちとら近代もロクにちゃんとやってこなかったんだから、そうそう簡単に痕跡がなくなるわけなくてね。むしろどこかでちょろまかされてる分、それはくぐもって難儀なものになってる可能性の方が大きいんじゃないかと思うんですよ。そっちの方がよっぽどこわい。

平岡 破壊衝動というのは、全部短絡回路だと俺は思うんだよ。手近なところへ気持ちよくスパークしちゃってそれでおしまい。かつて朝倉喬司が書いた論文で非常にいいなと思ったのは、幽霊ってのは私有財産領域、および家族領域には出るけれども、国家という抽象的なレヴェルには決してとりつけない、ってやつね。したがって、お岩さんと赤穂浪士が共闘して、お岩・義士統一戦線による倒幕運動ってのはあり得なかった(笑)。

大月 ああ、そうだ。決して国家とか、そういう抽象度のあがったところの大文字の幻想にはいきなり行かない。まずもって関係のつけ方がわからないし。

平岡 だろ。とすると、そういう怨念とか暴力とかが国家に向かう時は何かっていうと、公的領域を私闘として貫徹させてゆけそうな時には、これは案外いけそうなわけだ。内ゲバってやつも、ある心理的な情感のもとに案外たやすく貫徹されるっていうのは、それが本質的に私闘領域だからだと思うんだな。

大月 私闘が国家にまで貫徹できる、っていうその想像力の飛び方がね、かつてはおそらく可能だったわけですよ、たとえ勘違いにせよ。ところが、今はそのゼロポイントであるはずの私闘そのものが見えなくなっちゃってるところがあるわけで、非常に困るわけですよね。どこに足を置いて闘争のイメージを膨らませたらいいのか、まるでわからなくなってる。冗談じゃなくて、これはイデオロギーとか以前に、本来の「民主主義」をドライブする環境の本質的な危機だと思うんですよ。

 あいつは憎たらしい、これは壊したい、あるいは叩き潰したい、といった欲望がまず「私」の領域であってね。具体的に憎たらしい奴の顔がグーッとせりあがってきて、その果てにそいつの属する組織があり、背景があり、権力が見えてきて、そんなこんなで政府があり国家があり、っていう具合に「公」に至るパースペクティヴのはっきりした光景が広がっていれば、これはイメージとしてもかなり元気が出るじゃないですか。あるべき「民主主義」の「主体」ってのは、そういう見取り図を共有できて初めて宿るものだと思うけど、でも、今みたいに私的領域での具体的な葛藤や政治ってのがまず身の丈でわからなくなってると、そんなもの社会改造も革命もヘチマもありゃしないってことになりますよね。あるのは電圧の低い漠然としたジトーッとした妬みの視線ばかりで、これじゃ身体も志もなまりますよ。

平岡 私闘として公闘を貫徹させる一番の名人ってのは、福岡玄洋社だったと思うんだ。つまり明治政権がもともとはわれわれと同じところから始まったものだったはずなのに、途中で妙な方向に曲がりやがった、って観点がまずあるのね。それを改造するためにはとことん喧嘩をやってけばいい、っていう風に奴らは発想したろ?

大月 ええ、所詮あいつら裏切り者の成り上がりだ、と思ってたはずですよね。

平岡 思ってた。谷川雁なんかその系譜を引いてるからね。左翼で、しかも玄洋社の系譜を引いてるという実に憎たらしい人なんだけどさ。

大月 頭山満の語られ方なんか見ていると、そういう玄洋社系というか、豪傑型のナラティヴの典型ですよね。実にさまざまな“おはなし”が残されているんだけど、でも、冷静に考えてみたら本人はそう大したことやってるわけでもない。なのに、こんなにすごい人なんだ、っていう物語を補強するディテールとエピソードだけがどんどん産み出されてって、ある磁場を作っちゃう。

平岡 しかも、それが案外トリックスター的なところがあるわけでしょ。ケツからサナダムシを出して火鉢の縁に並べながら相手と対談する、とか(笑)。

大月 ああ、あれは福岡県知事に談判に行った時でしたっけ。あまりにひどい匂いがするんでふと見たら、火鉢の縁に白い切れっぱしが並んでた、よく見たらサナダムシだった、っていう。なんかとんでもない話ですけど(苦笑)。

平岡 でも、それは普遍性のある話だと思うんだよ。つまりね、正義の思想が行動に転化するためにはどこかでそういうエンターテインメント状態を経過しなくちゃならないというところが絶対あるんだな。つまり、エンターテインメントがあればそれはどこかで勃起状態にあるわけだ。ところが、現在のトリックスターっていうのは単なるうすらバカになってて、本当のトリックスターの凄みっていうのはわからなくなってる。

大月 「異人」とか「異形」ってコピーだけが流通してて、その実体はスカスカだったりね。また、ホンモノのバカが現実にいたらそれは即座に排除されます。それもとことん「民主主義的」に。

 社会っていうのは、根本的に見る見られる関係の網の目じゃないですか。そうすると、そのエンターテインメントによる状況の転回が現実に可能だというのは、合理的な目算とかとはひとまず別に、その視線の関係性の中に敢えて戦略的に飛び込んでゆく、そういう決意と身振りに何かが宿り得るということだと思うんですよ。その決意をどう見せてゆくか、それを意識した時に身振りが変わる、言葉が変わる、まわりに対する集中の仕方も変われば、関係性も変わってくる。人を動かして何かをやる、ってのはそういうダイナミズムをコントロールできる技術がまずおのれの身にないことには成り立たなかったってことですよね。ところが、それを戦略として使えなくなったというところが今はあるわけで、本来すぐれて等身大だったはずの、世界とギリギリのところで対峙する場にある者たちの特権的技術だったものが、あらかじめメディアのレヴェルに吸収されて情報環境にインストールされちゃってる。だから、身ひとつで状況を転回できるなけなしの芸能的・演劇的技術さえも、今やわれわれの手にはなくなってるわけです。

平岡 全くそうだ。ということは、暴力の領域、エンターテインメントや芸能の領域、全ての領域においてポテンシャルが落ちてるってことだな。これは全部パラレルに進行している現象でしょ。

 それともうひとつ、エンターテインメントというのは弁証法なわけだよ。正・反・GOなわけで、これも谷川理論になるけど、人間における動詞の原形というのもこの「GO」つまり「やる」ということなんだよな。ところが、日本人の場合はどうもこの対立物の横転というのがあって、対立がどこまでもいった場合、さっき言ったような一メートル近づいたらどうの、刀を抜いたらどうの、っていう段階ごとの安全保障のモラルができちゃってるでしょ。その演劇的なバリアーを超えてゆけるものがあるとしたら、冗談における横転だったりすると思うんだな。とすると、笑いの、あるいは娯楽の超常的契機っていうかな、ある瞬間リアリズムをポーンと飛び越えてしまう空白の恐ろしさ、みたいなもの、それがきっと芸能とかエンターテインメントにはあったと俺、思うんだよ。

大月 それがおそらく、さっき出てきた「バカ」の志ですね。

平岡 そうだ、まさにそれがバカ。だから、誰が見てもメチャクチャで、しかも割の合わないバカがいて初めて状況がひっくり返されてきたという、それがまさに革命時代なわけでしょ。論理的に政治の土俵でだけ推してゆけば、そりゃあ国家を買収することだってできるかも知れないよ。でも、そうじゃなくてやっぱり革命でなくちゃならないんだ、それも暴力革命でなきゃおもしろくねえ、これこそ余の最高の趣味である、という、こういう迷惑な人だって世の中にはいるわけだからさ(笑)。六〇年代っていうのはさ、ここはブント芸人として言わせてもらうけど、ある空白があったんだよ。敵味方共に方針がなかったんだな、実は。だから、軽々と転向した奴が出てきてさ。自慢じゃないけど、わがブントなんかは裏切り者の巣窟だ。

大月 バカも出てこれなくなった民主主義なんざ、ロクなもんじゃないですよね。あるいは、バカの底力を利用できなくなった革命なんかやらない方がましくらいのもんで、そんなものの結果は前より悪くなるに決まってます。


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平岡 最近、ああそうなのか、って思ったのはね、六〇年代の若松(孝二)映画を見た若い映画評論家の発言なのね。こんなこと書いてんだ。「脅威であった。前戯もなしにいきなり突っ込むとは」(爆笑)。で、「何でそれを六〇年代の人々は喜んで見ていたのでせうか」って、そこだけ旧仮名遣いで「せうか」になってやがんの。

 俺は思ったね。若い人で、女よりはいくらか人類に近いはずの男性がだよ(笑)、それが今どんなことを考えてるか、その一端がわかったような気がした。

 こういうことなんだな。ヴァン・デ・ヴェルデの性感曲線の民主主義的理解というのがあって、女のエクスタシーはこうゆるいのです、と。男というのそれに対して早いのです、と。それで男が先にイッて女がイカないのは不平等です、と。従って、女がこう盛り上がるところで男がこう合わせればいい、と。なるほど、理屈としては確かにそうだ。しかし、だったら男がどうすればいいかというと、このあたりまで我慢しなさい、ってことでしょ。

大月 女が盛り上がるまで辛抱しなさい、と。

平岡 ということは、男が女に一方的にサーヴィスしなさいということで……

大月 これは断固不平等である、と(笑)。

平岡 そう、明らかに不平等であるということになるよな。そうすると、ヴァン・デ・ヴェルデ的なもっとも民主的なセックスのあり方は何かというと、こりゃSMである、と(笑)。徹底的に傷めつけておいて、女がこう来た時にこっちは〇・二秒でイってやる。

大月 なんかニワトリですね、それは。

平岡 ニワトリです。抜き打ちのジョーと覇を競う。これがいいんじゃないか。これこそが民主主義的真実である、と。

 これがね、五年前だったら冗談ですまされたんだ。でも、今は現実になっちゃってるんだな。つまり、女の方がMを演じてて、男がそのMを演じる女に応じて、やっとつかの間の男にさせてもらっている、というケースがものすごく多いのね。で、それを市民的で健全なSMプレイ、と言ってるんだよ。「プレイ」だぜ。

大月 道具を使って対象から何か潜在的可能性を引っ張り出す、というあたり、SMもまた近代の生産至上主義的想像力に規定されている(笑)。でもねえ、SMまで民主主義やってちゃしょうがないですよねえ。

平岡 俺、またブント芸人として言うけどさ、階級闘争は性生活を豊かにする(笑)。俺たちはさ、恥ずかしくって女の子の手を握れないという時代だったんですよ。その反動が若松映画になったと思うところはあるな。とにかく怒涛のごとく犯す。ベルリンに殺到するスターリン戦車のように断固として犯す。おのれ、ベルリン、って感じで踏み潰して蹂躪してさ、エルベのほとりで歌わん、っていうんでワーッていっちゃう(笑)。

大月 『馬鹿がタンクでやってくる』(笑)。

平岡 そうそう。ほんとそういう状態だったんだよ。つまり男は殴る、女は犯す、ということが等量であるというね。一回の性交イコール一回の暴力、ってさ。

大月 今はみんながみんな「女の気持ち」とかって言い出しましたからね。女をどうやって気持ちよくさせるか、という、誰もがそういうことだけ一生懸命考えさせられるようになってる。他でもないてめえのチンポコが気持ちいいのはどう始末してくれるってことになるわけでね。

平岡 そうです。俺のチンポコはそんな民主的なものじゃない。

大月 寝たら最後、とにかく一緒にイカねばならない、っていう変な民主主義が氾濫してるわけですよ。そんなことは全くないと思うんだけど。

平岡 あんなもの、一緒にイッたら男は損するだけだと思うよ。その間、じっと我慢してなきゃいけないのはどうしてくれる。イキたい時にはすぐイキたいっていう、てめえの生理に対する切実な主体性がないよね。

大月 でも、そういう切羽詰まった状態って、生きものなんだから若い時には必ずあるじゃないですか。それは今だって変わらないと思いますよ。かつて「若い衆」という言い方に想定されていたのはひとつ、そういう状態でしょ。針でポンとつついたら、とにかくスペルマを怒涛のごとく噴き上げて突進し、手あたり次第にのしかかるんじゃないか、っていう状態。女と接してないと腰のあたりが重たくなって困る、という記述が確か富士正晴の小説にありましたけど、今や見えなくくなってるそういうあやしい生理ってのも、しかし間違いなくあるわけですよね。で、そのエネルギーが必ず女にだけ向かうかどうかというのはまた別の要因があると思うんですけど、でも、とにかくそういう無方向の生命力というか、何かがパンパンに張り詰めた状態というのが人間にはある。そして、それをある程度容認してコントロールする懐の深い場というのも、世間にはやはりあったわけですよ。「若いんだからしょうがねえ」とか。今のものさしからの善し悪しは別にしても、少なくともそういう人間理解とそれに対応するいなし方の民衆的知恵というのが確実にあったということですよね。

平岡 それをさっきの若松映画に引き戻すとさ、やりたい、というギラギラした欲望の強いものが、知力、金力、経験、社会的地位などに優先する、っていう思想だったんだよな。だから、若者は必ず性的なパワー、つまり「やりたや心」によって老人社会を揺るがすということを当時は誰も疑ってなかった。それが若松孝二におけるプロレタリアートの位置だったわけだ。そうすると、今の若い人たちに対する、若松映画を見てどういう印象を持ちましたか、っていう質問は、プロレタリアートの現実が果たして変わったか変わらないか、という意味も含んでくるんだよ。俺たちはエロティシズムなんか求めない。ただ男根の満足を求める。エロティシズムなんてものは西欧のインテリゲンチャのもので、俺たちは射精願望をいかに満たすか、それだけだ、と。

大月 かつての「男」というのは概ねそういう理解の上に成り立っていたのは間違いないですね。とにかく出せばいい、と。

平岡 そう、出せばいい。ものすごく単純で明快な思想性だった。

大月 そう思われていたし、男自身もそう思ってましたしね。でも今は、自分が出さなくても女が喜べばいい、ってところまできてますよ。

平岡 ほんとか? だとしたら、女はもうひとつの技を持ったんだ。フェラチオ文化ってやつだよ。俺たちの時代はフェラチオってのは尺八と言って娼婦の技で、堅気の子女のやるもんじゃなかったんだな。

大月 尺八芸者、ってのは芸者仲間でも最悪の蔑称だったそうです。

平岡 フェラチオってのはライト感覚の疑似セックスでしょ。それが普及し始めた頃から、急に酒も薄いもの、タバコも軽いもの、音楽も低音域を抜いた高音域にずれあがったものと、大体そういう疑似セックスに近いものに五感の全部が向けられてきたような気がする。

大月 風俗産業でも「射精」が金銭をカウントするものさしになってきたわけですよ。第一、客の数え方自体「一本」ってことになってきた。かつての遊郭での「一本」は時間を管理する線香の一本だったんだけど、今の風俗だとまるでチンポコが服着てるみたいに言われてる。「射精」が男の「遊び」の最終単位になったってのは、戦時中の動員された工員相手とか兵隊相手の慰安婦なんかと同じ論理になったってことですよね。シャバにいようが背広着てネクタイしめてようが「遊び」の場では兵隊扱い、そんな男性観が風俗の現場に浸透していった過程というのもすでにあるわけですよ。 
平岡 ただ俺ね、幕末から明治にかけての女には、ずいぶん可能性があったと思うんだよ。その当時の女はね、不定形ながらも毅然としようとする意識があったと思うんだ。

大月 ああ、わかるなあ。キンタマないながらもキンタマ持とうとした、というか。持たざるを得ないような社会変動の真っ只中に男女共に放り込まれたわけですからね。

平岡 うん。月岡芳年の浮世絵みたいに、淫女が烈女に転化する。その時代は男と女がまだ磨きあってたような気がする。だから、まず隗より始めよ、なんで、男が男を磨かないで女に要求したって、これはしょうがないんだよ。

大月 賛成ですね。輪郭確かな主体というのはとりあえずキンタマ持った人間として認める、と。そういう意味で「男らしさ」というのをとらえなおす視点がないといけない。

平岡 ただねえ、俺はキンタマのない種族というのは何を考えてるのか、やっぱり最終的にはわからないな(笑)。

*2

*1:もちろん、お相手は平岡正明御大である

*2:ある意味化石&伝説的セッション……ただ、問いとしての本質はその後27年たってなお色褪せていないとおも……070708