「趣味」は独裁ではない

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 昔、この国に柳田國男という名前の、とびっきり性格の悪いジイさんがいました。明治の始めに生まれ、八十八年生きて、今からちょうど三十年前の夏にくたばりました。もともとは国のお役人だったのですが、四十何歳かの時に上役と喧嘩して辞めてからは、死ぬまで今風に言えば評論家でありライターでした。

 このジイさんが、こんなことを言っています。

「私のやうな(手当たり次第に本を読むようになった)人が明治から昭和にわたる時代には非常に多い。これは確にあの時代の風習で、同時に今日の通弊と言ってもよい。折角他にこれといふ長所がなくて、読書と理解だけには調練を経てゐる人間を、言はゞ反古にしてしまったのが明治の文化である。専門をやってゐる人は、却ってどちらかと言えば鈍い人である。鈍いから横目をふらない。然るにこちらは盛にいろいろのことに気がつく。英語でいふvivacious な人間である。そのヴィヴァシアスな人は皆おかしな人になってゐる。もうこれからは此弊をくりかへしてはならない。又そんなものを博覧強記などといってよいことのやうに思ふのは止めねばならぬ。それにはやたらに本の出るのもいかぬが、読書術といふものを学課のひとつに加へねばならぬ。」柳田國男「読書懺悔」)

 昭和の始め、今から六十年以上前のことです。ジイさんの言いたいことをかみくだいて言えばおよそこういうことです。

 明治維新このかた本というものがそれまでとは比べものにならないくらいに増えた。とりわけ大正時代からこっちの増え方は前代未聞だった。そのせいで、それまでならばごく限られた人間だけが自分のものにしていた本を読んだり文字に関わったりするということが、ほぼ誰にでも、それこそもともとそんなつもりのない人間にでも簡単にできるようになった。同時にまた本の読み方も大きく変わってしまった。分野を限らず目的も明らかにせずただ手当たり次第に本を読むなどということがあたりまえになってきた。そのために、なんでもよく知っているけれども、それまであたりまえだったような本の読み方とそれを前提にして成り立っていた 学問のあり方からすればただ雑然とした知識を自分でも始末のつけられないほど抱え込んじまっただけのような「おかしな人」をたくさん生み出してしまい、またまわりもそれをもの知りだとしてほめそやすような雰囲気も作っちまった。しかし、それは学問の進歩ということからすればとても不幸なことなのだ。この増え過ぎた本というものに対するつきあい方というのをもっときちんと考えないと、この国はたいへんなことになる。

「兎に角に昔から名家の一属性の如く見做されていた博覧強記といふ事は、ほとんど無用の物だと考へ出した。当てもなく片端から記憶して行かねばならぬやうでは、読書は最も苦しい牢獄である。」柳田國男「書物が多過ぎる」)

 本というのはそれほどに人の意識を変えてしまうものだということを、このジイさんはずっと思い知り続けていたようです。本を読むことによって好むと好まざるとに関わらず作られてゆく「自分」という意識について、他の国はともかくこの国ではどう扱ってゆけばいいのかを考え続けていたようです。そして、そんな本など読まなくても人はずっと生きてきたのだし、今でもきっと生きてゆくことができるのだということを、たまたま本を切実なものとして読むような癖を身につけてしまった自分の場所から真剣に見つめ続けていたようです。

 そんな彼にとって、それまでに比べればもう比べものにならないほどさまざまな本がごく安く手に入るようになり、誰もがさまざまな想いを抱いてそれらを読むようになることは、ただ脳天気に喜んでばかりいていいようなことではありませんでした。そのような時代だからこそどんな本をどのように読むかということが重要になってくるのだ。興味をひいたから、好きだから、なんていう理由にもならない理由だけで手当たり次第に手をつけむさぼり読んでいっていいわけではない。そんな状態を野放しのままにしておけば、いつかそこに作られてゆく「自分」という意識はそれまで世間であたりまえだとされてきたような「自分」の幅からどこかでずれた「自分」になってゆき、収拾のつかないものになってゆくに違いない。だから、本を読むということもまたある範囲の中に収めてコントロールしてゆくことを考えねばならない。

 何のために?

 もちろん、誰もがそれぞれの道すじをたどりながらきちんとこの世間に足をつけて生きてゆくことのできる人間になるために。

 どうして?

 人はいずれそのような人間になるという最大公約数の約束ごとがあって初めてこの世間というものもあり続けてきたのだし、これからも間違いなくそうだから。

 誰がそんなこと決めたの?

 これまで生きてきた人たちがこれまで生きてきたその時その時の経験をもとに決めてきたこと。

 そんなのいやだと言ったら?

 いやだと思うのは自由だし、思えばこれから先いやでないようにしてゆく自由だってもちろんあなたたちにはあるけれども、でもそんな自由と全く同じだけの重さと大きさとで、そういう最大公約数の約束ごとというのも確かにある。そして、その重さと大きさとをきちんと考えるだけの技術も経験も身につかないままでは、たとえどんな人であれそんな自由は許されやしない。自由を口にすることは誰にでもできるけれども、それに見合った「自分」を作ってゆくというしんどい作業とかったるい時間とをまるでなかったことにしたままでは、どんなにいやな最大公約数の約束ごともいやでない約束ごとにしてゆくことなんかできやしないのだから。

 その約束ごとからは逃げられないの?

 だから、逃げるとか逃げないとかじゃない。そういう世間というものがあって初めてあなたたちもいるのだし、その先どのような未来を選ぶにせよ誰もがそこから出発するしかないのだから。

 まだそういう世間のよく見えないうちは逃げられると思い、事実ちょっとの間ならば逃げられたように思えることだってたまにはあったとしても、時間は必ずあなたたちをとらえる。絶対にとらえる。そうなれば今よりもっと辛いだけだ。なぜなら、そういう時間とそういう世間の中で生きていながらなおそういう時間があってそういう世間というものがあるということを知ろうとしないまま逃げられると思い続けているということは、そこであなたたちにとっての「時間」というのは止まったままなわけで、なのにそれでもあなたたちの身体はきちんと「時間」に従って変わってゆくという事実だけはあって、その事実と逃げられると思い続けていることとの間の落差がどんどん開いてゆけばゆくほど、そのことに気づいて落差を埋め合わせなければならなくなった時には余計に力が必要になってくるから。

 

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 最近、コミケに何年も通っているという女の子たち何人かに、少しゆっくり話を聞く機会がありました。ここ数年でコミケのほとんどが女の子によって占められるようになってしまったと聞き、僕が少しは知っていたような頃とまた違っているのかも知れないと思いいつかこういう作業をしなければと思っていたので、僕にすれば良い機会でした。

 現われ方の違いこそあれいずれ最初は小さな棘のついた草の実のように構え、そしてほどいてみればおよそ信じられないくらいやわな内面のままの彼女たちの話を聞いてゆくうち、それまで僕の中にすっきりした形で整理しきれてなかった問題がようやくはっきりと姿を現わしてくれました。

 問題はごくおおざっぱに言ってふたつあります。

 まず、今のようにとんでもない量と速度とで本が生産され、流通し、なおかつそこには文字だけでなくさまざまな写真、図像、イラストが含まれているという状況で本を読むということについて。もうひとつは、あなたたちどころではない、あなたたちの親からしてまず親になれないまま放ったらかされてきたかも知れないということについて。ですが、この後の方はきちんと語るにはもっと厄介な仕掛けをした上でなければいけないのでひとまず棚上げしておきます。

 あなたたちの多くはおそらく本が好きでしょう。少なくとも、本を読むということについて死ぬほどいやだという人はまずいないでしょう。おそらく小学校に入るか入らないかくらいの時から、あなたたちは本を読んできたはずです。親が買ってきてくれたり、あるいは自分でねだったり、あなたたちは早くから本というものになじんできたはずです。

 本を読んでいれば親はあまり怒らなかったはずです。漫画であればまた別でしょうが、少なくとも字の書いてある本を開いている分には、親はあなたたちが何をどのように読んでいるのかということにあまり干渉しようとはしなかったはずです。

「第一に家庭において、親ことに母親が、書物の価値には非常の差等のあることを知らねばならぬ。単に客観的に書物に善悪のあるばかりでなく、少年青年の境遇や将来に応じて、良書もたちまち有害の書となることを知らねばならぬ。文字は即ち尊いといふ数世紀前の考へから脱却せねばならない。この頃のやうにばかばかしく本の出る時代に、本で生活しようとする時代に、その本の選択力のないのは野蛮国に普選を布いたやうなものであるから、文化の悪くなるのは分かってゐる。」柳田國男「読書懺悔」)

 こういう言い方をしましょう。では、あなたたちは本を読んでいるからといって本当に本を読んでいるのかどうか。今や心のある領域にだけいきなり突き刺さるような刺激をもたらすものが本しかなかったような時代に本を読むというのではありません。本以外にもうっかりと心奪われ、わけもなく興奮し、どうかすると自分もそのようなものを書いてみよう作ってみようとまで思ってしまうような刺激をもたらすものは実にたくさんあります。漫画もビデオも音楽も、みんな本と同じ意味でそのような刺激をもたらすものであり、しかも本などよりもずっと刺激の度合いの強いものです。そのことがいいか悪いかは別にして、事実としてそうです。

 そんな環境の中であなたたちは本を読むことを身につけてきた。その「本を読む」ということが、たとえば五十年前の人間と同じ「本を読む」ではなくなっていたとしても全く不思議ではないでしょう。あなたたちは漫画を読むように文字を読む。CDを聴く速度で文字を読む。ビデオを眺める角度で文字を読む。しかも、手当たり次第に「好きなもの」を読む。そういう読み方で「自分」を作ってゆく。でも一方で、そういう「自分」なんか誰もわかってくれるわけがない、ということだけは頑なに思い込んでいる。世間に一人前としてわかってもらうための「自分」などまだできていないだけかも知れないのに、思い込んでいる。そして、「話が通じる」関係を探し求めてさまざまな場所に、たとえば同人誌の文通欄に、コミケに、漠然と集まってくる。

 趣味なんだからいいじゃない、とあなたたちは言います。誰にも迷惑をかけていないじゃない、とあなたたちは訴えます。違う。全く逆です。それがたかだかきちんと迷惑もかけられない程度のままだから、あなたたちはいつまでもそんなあなたたちのままなのです。世界中を敵に回しても自分の作ってきた内面がかわいい、自分の描いたものが大切だ、とまで言えないからこそ、簡単に迷惑すらかけていない状態に移行できるのです。「趣味」というのはそこまで獰猛になり得るし、だからこそとてつもなく豊かなのだと僕は思っています。

 描きたいものを描く、という論理もよく持ち出されます。好きだから描く。描きたいから描く。なるほど、それ自体とても明快でわかりやすい。描きたいものを描く。大いに結構。

 しかしそれは一方で、カネになりそれを仕事にしてゆくというある意味でリアルな関係との衝突を避けるということでもあります。もっとわかりやすく言えば、ことば本来の意味での批評を受けること避けるということでもあります。コミケの倫理綱領のようなものの中には「悪口は言わない」なんて項目があったように記憶しますが、まずこれからして論外です。

 悪口大いに結構。きちんとおかしなものはおかしいと言いなさい。気に入らないものは気に入らないと言いなさい。自分の中に何らかのものさしがあって悪口も言えるのだから、悪口も言えないようじゃ表現なんて成り立ちゃしない。悪口を言い、ののしり合い、時につかみ合いくらいやってみなさい。もしも本当にあなたたちがそこまでやれるものなら。そこまでやれるだけの「自分」と、その「自分」の「趣味」に自信があるのなら。

 それは単なる好き嫌いでまずはいいのです。なんか完全無欠、誰にも文句をつけられない論理でみごとに組み立てられた完成品でなければ批評じゃないとあなたたちは思い込んでいるようですが、とんでもない話です。論理とはひとりで積み木を積み上げてゆくような作業で作られるものではありません。それはやりとりの中で編み上げられてゆくものです。ひとりであっても自分の中の異なることばの水準同士をぶつけあい、相互にチェックし合って初めて論理が生まれてきます。対話抜きの論理などこの世にあり得ないのです。完成品を出して文句をつけられなかったらああよかったと胸をなでおろす。そんなものが批評のわけがありませんし、そんな構えでおずおずと放り出されたことばが対話につながってゆく可能性などありはしません。

 そして、どんな論理であっても前提となるのはおのれの感情であり、ありていに言って好き嫌いです。好き嫌いにすぎないものであれまずそれをぶつけて喧嘩を作ってみれば、そこから後というのもあります。喧嘩という言い方がなじめないならば、関係を持つことと言い換えてもいい。そうすれば、自分のそのものさしがどこまで説得力を持つのか、どこまで自分たち以外にも受け入れられるものなのか、まわりとの関係の中で確かめることをしなければならなくなります。そうすれば恥をかくこともある。誰も本当にあなたのものさしを受け入れない場合だってある。批評とはそういうことです。でもそれは、あなたの説明が悪いだけかも知れないし、ことばが足りないだけかも知れないということだって同じようにある。だから話す。だからことばを使う。それはとても面倒臭いしこわいこともあるわけですが、それを最初っから避けるために「人それぞれだから」と言う。「人それぞれだから」と言いながらその「人それぞれ」のまま表面だけでことばを交わし、適当に盛り上がり、おびえた小動物のように群れ集う。

 そうじゃない。「人それぞれ」というのは行き着く先などではなく全ての出発点です。その「それぞれ」の人間たちが「それぞれ」のものさしを持ちながら、なおどのような条件において同じ場を共有し、協力してゆけるか。そのためにこそ知恵は発動されるべきですし、ことばは使われるべきものです。いくら喧嘩をしたからといって、一生顔を見ないですむ関係なんて実はこの世にはそうそうありはしないものです。どこかで顔を合わせることになる。その後をどう処理してゆくかというのも貴重な経験です。でも、今のあなたたちにはそれはできないでしょう。「だいたいあなたそんなこと言える資格あるの」「どうしてあなたにそんなこと言われなきゃならないの」などと言われ返すのが何よりもこわいのでしょう。こういうもの言いをぶつけられることは、あなたたちに限らずどうやら今の若い人たち一般にとって一番こたえることらしいですし。

 資格は立派にあります。本当に「趣味」というものに足をつけているならば。足をつけているという自覚を持った「自分」というものがあるならば。そしてもっと言えば、その「趣味」という場を共有している関係に互いがある限りにおいて。

 

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 でも、あなたたちは「やらなくてもわかる」と言います。「言わなくてもわかる」と言います。「先が見える」と言います。

 でも、その「先が見える」っていったい何なんだろう。

 さらに、あなたたちは「どんな反応が返ってくるかわかる」と言います。「どんなこと考えてるかわかる」と言います。

 でも、そういう場合の「わかる」って、いったい何なんだろう。

 少し前、爆風スランプが歌っていた「ハイランダー」という曲があります。社会のこと、世界のことになど何も目を開かないまま生きている人間に対するちょっとはすに構えたマニフェストといった印象の曲なのですが、その中にこんな一節がありました。

「君は机の上で何を学んで/君はいつか立派な会社に入る/そして死ぬ」


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 そんな馬鹿なことがあるかよ、と僕は思った。立派かどうか知らないけど学校を出てある会社に入る。それは確かにあるひとつのあきらめを必要とすることかも知れない。しかしそこから先、まず突然死など考えない限り三十数年はあるはずのその会社の中での時間というものがそこには全く見事に抜け落ちている。でも、うっかり聞いていればそれはうなずけてしまいそうなくらいの「ほんとうらしさ」があるし、少なくともそのようなものだろうな、と思ってしまうようなこちら側の感覚というのもある。あなたたちが口とがらせて「先が見える」と言う時も、おそらくそのような「ほんとうらしさ」を「わかる」ということについて言っているのでしょう。

 しかし、それば本当に「わかる」ことになるのかどうか、という問題はまた別に厳然としてあります。たかだか二十年やそこら生きた程度の人間が、どのようにたくさんの本を読み、情報を身にまつわらせたとしても、たかだかその程度の範囲でしかわかれないものってのもあるかも知れない、という謙虚さがどうして宿らないのでしょう。そして、人間は変わってゆくものでありその変わってゆく中で「わかる」もまた変わってゆくかも知れない、ということがどうして推測すらできないのでしょう。

 おそらく、なのだが、辛いのでしょう。そのような謙虚さを持ってしまったが最後、そのような本の読み方、言い換えれば情報処理作業によってしか世界と関わってこれなかった自分が全く救われなくなるという気分というのもある。そんなの、辛過ぎる、ってわけでしょう。

 でも、ここまでくれば思いっきりずさんに言いっ放しますが、それがどうした、ってなもんです。そういう辛いことをなんとかしながら、人は「自分」になってゆけるわけです。そういうものですし、ただそれだけのようなものです。別に大騒ぎするほどのこっちゃない。なのに、それをことさらに大騒ぎするようになってしまった世間の側というのもあったりします。

 

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 中島梓は『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)のいちばん最後で、「必要なのは勇気なのだ」と言っています。確かにそうです。全くその通りなのですが、しかしこれだけでは伝達としては不十分なのです。その勇気もまた、自分ひとりではほとんど宿りなどしないということ。ある関係の中で支えられ、支えながらようやく駆り立てられることのできる勇気というのもあるということが、きちんととらえられていなければならない。「勇気」なんてもの言い一発では、その中に込めた彼女の想いはどうしたってうまく伝わりはしないはずです。

 だからひとまず「勇気」ではない。「勇気」というもの言いひとつでどれだけのわがままが正当化されてきたかを思う時、そこに加えるべきもうひとつの絵具は「あきらめ」だと僕は思います。それは決してネガティヴな響きでため息まじりに発音し解釈していいものではありません。もっと言いましょうか。「分を知る」ということです。たかだかその程度でしかない自分。いかにそのように思っていても、思った方がラクだと知っていても、たかだかあんたなんか世間の誰もきちんとそのままじゃ見てもくれないんだぜ、ということ。それはもちろんあたりまえに辛いことで、あたりまえにさびしくて、あたりまえに認めたくないことだけれども、しかしそれでもそのあたりまえからしか何も「それから先」の存在しないこの世の中というのもあるのです。その世の中がどれだけ不快なものであり、辛いものであり、そのままでは到底受け入れ難いものであったとしても、そのような場所からその不快を違ったものにしてゆくしかないのです。

 もちろんそれは「勇気」でもあるかも知れない。しかし「勇気」だけでは、ここ二十年ばかりの間のこの国に生きてきたという事実を抱えて今、ここに立っているあなたたちにとってほとんど役に立たないということも間違いありません。身にしみる「あきらめ」。前向きな「あきらめ」が必要だと、僕は大きな字でつけ加えておきたいのです。

 自分は万能ではない。自分は特別ではない。自分は他人と違ってはいないし、同じ程度に凡庸である。少なくともそのような他人の中に横並びに埋もれてしまうような自分である。いかにそのことが嫌なことであり受け入れ難いことであろうとも、ひとまずそうであるような世間というのはあります。

 でも、だからといって自分と全く同じ人間なんてのもいやしない。あなたたちが時に夢見る「めんどうな手続き抜きで話が通じる」人間なんて、たとえ友だちという範疇に限ってみても絶対にありはしないし、あってはいけないものだとさえ僕は思います。今「自分は特別ではない」と言ったその「特別ではない」とは、そのような自分と同じ人間が膨大に横並びに連なっているという意味で言ったのではなく、同じようなキャパシティと同じような身体的能力の幅と、同じような大きさの肉体を抱えた種としての同じようなもの、という意味です。

 そしてそのような世間の制限の中で、「個性」というのはそれぞれに違っているものではあります。そのような制限との関係があるからこそ、「個性」もまたいとおしいものにもなる。けれども、また逆に言い返せば、その「個性」はたかだか文字通りに「個性」なのであって、その「個性」が身体の限界や肉体の大きさをあつかましく超えてゆけるようなものでは絶対にない。超えてゆけると思うのは勝手だし、そのように思うことでまた別の効果もあったりすることもあるでしょうが、しかしそれでも、あなたはどこまでもそのような人間として「時間」の中を流れてゆくしかない。そういうものです。そういうもの、というもの言いはこういう時にこそきっちり言われるべきものです。あなたという「個性」を抱えた人間というのも、所詮そういうものなのです。

 老いるのだ。あなたたちのものさしで言えば、醜くなるのだ。「時間」があなたたちの足もとにからみつくようになるのだ。そしてそれは遠い未来などではなく、もうすぐ明日のこと、いや今すぐ手もと足もとで起こっている、起こり続けていることなのだ。何やら広瀬隆めいたもの言いになってしまいましたが、こういうタチの悪い脅迫というのはこういう時にこそ使うものです。原発や地球環境なんてとんでもない代物にいきなり使っていい手口じゃありません。

 これまで膨大な人間たちがあたりまえに繰り返してきた営みというのを変えてゆくためには、たかだか一個の個体でしかないあなたひとりでねじ曲げ変えてしまえるようなものなど、ほとんど何もありません。変えてゆくためには「時間」を味方につけ、「時間」を信じる姿勢が必要なのです。そして、それを最低限の条件として微細なうっとうしいことをうっとうしいことのままに続けてゆくことで、あなた以外との関係を抱え込んでゆくしかないのです。

 「先が見える」あなたたちにとってそれはとてもいやなことだろう。そりゃもちろんそうだ。全力疾走の息づかいでそうだ。あなたたちに言われるまでもなく僕だって、いや、あなたたちなど到底足もとにも及ばないくらいにとんでもなくいやだ。いやだけれども、しかしそこにまっすぐ向かい合うことからしか何も始まらないし、違った「先の見え方」もまた生まれてこないということだけは、あなたたちよりいくらか先に生まれた分、僕は思い知っているつもりです。

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 これもよく言われるもの言いですが、世の中にはやっていいことと悪いことがあります。

 たとえそれが同人誌であれ、それが紙の上に定着されてしまった瞬間から、それは保存状態さえよければその作者が死んでしまった後も残されてしまうものです。そのことについて、あなたたちはどれだけ確かな畏れを持っているのでしょう。「夢がある」とかいうもの言い一発で、タイムカプセルか何かを作って埋めるようなずさんさであなたたちはあなたたちの「作品」をまた喜んで作り続けるのでしょうか。

 誤解を恐れずに言います。世に流通させてよい本と悪い本、未来に向けて残してよい本と悪い本、というのは明確に区別されるべきです。じゃ、そのものさしは誰がどのように決めるのだ、というその次に必ず出てくる問いについては、それこそ、そういう場合こそ声はげまして「みんなで決めてゆくのだ」と言わねばならない。言い添えると、その「みんなで決めてゆく」という時の決めるやり方とは絶対に学校的な多数決などではないし、いくら手間をかけ回数を積み重ねても何がどう変わってゆくのか誰も想定せず考えてもいないそこらの「運動」のやり方でもない。まして、本当に一票を支えられるかどうか、どうやって支えられるだけの選択力ある「自分」を作ってゆくのかというところが知らぬ間に穴だらけになったまま遂行される「選挙」などでもないと僕は思っています。

 勇気にはそれをきちんと役に立つ勇気にしてゆく学問が必要です。自分以外と共有してゆく勇気にしてゆく知恵が必要です。きちんと考えるだけの技術も経験も反射神経さえも必要です。そのことがわからない、わかろうともしないままだというのならそれはそれでいい。それでも人間は生きてゆけます。立派に生きてゆけます。本当にそんなものわからないままでもわからないままで世間というものは幸せに生きることを保証してくれます。そして、今もなおそのような幸せを生きることが最大公約数の幸せですし、そのことを僕はある意味で圧倒的に正しい考え方だと思います。

 あなたたちの全部、それこそきれいさっぱりひとり残らずの人がそのようなことをわかろうともしないままでいいと思うような人とは、僕にはしかし思えない。そうであるならば本当にそれでいいし、だとしたら僕はコミケなどに何も発言などしないだろう。そう、やりなさい。好きにやりなさい。やって、そして世間とぶつかったこともわからないままおびえた顔で自主規制するもよし。あなたたちと同じくらい世間のない、それでも世間のような顔をした大人もどきたちを味方と錯覚し、「表現の自由」でもなんでもいい、自分たちの身にもしみない呪文を掲げてあたふたしては大人もどきごっこに安心するのもいい。大人の恰好して大人と同じだけの歳を食ってたとしても、世間との関係で作り上げるべき「自分」という意味ではあなたたちと全く変わらないかも知れない人間だってこの国には今やゴマンといます。まして、コミケなんて場所にはひと山いくらでいるはずです。ものわかりの良いふりした人間が一番の敵だったりする。おためごかしに漫画を語り、なんか知らないけど口当たりの良いことばであなたたちと世間との橋渡し役のふりしながら、実のところはあなたたちをそんなあなたたちのままにしておく牢獄の看守に過ぎなかったりする程度の悪い大人もどきというのもいくらでもいます。正直言って僕の場所からはそんなからくりがよく見える。けれども、そんなことさえあなたたちにはどうでもいいことだろう。やってなさい。知ったこっちゃねぇや。僕はそう言うだけだろう。本を読み、漫画を描き、語り、季節ごとにわさわさとゴキブリのように集まってこようが、それが本当の意味で本を読むだけの「自分」など持ってもいない幸せな人たちだということで、僕は表情も変えずに眺めるだけだろう。

 けれども、です。

 非常に本当に心から心底から残念きわまりないことに、僕にはそうは思えない。

 あなたたちのもちろん全部などではない。しかし、具体的な数まではわかるはずもないけれども確かにある部分の人たちというのは、そんなままではなおのこと救われない人たちであるらしいことが僕にはもう見えてしまった。見えたから言う。やっぱり言う。

 いつまでもそのままでいいってわけじゃないだろ。

 いいというのなら、そのいいという根拠をきちんとことばにして世間に説得してみて欲しい。今は未熟だけど、とか、まだよくわからないんだけど、とかいう腰の引けた言いわけ抜きにして、このままでいいんだ、ということをまずそのままで説明しようとして欲しい。それすらできないのなら、その時点であなたたちの負けだ。あなたたちは自分でも信じられないようなことを信じられないままやっているということになります。自分でもことばにしようとできないものを後ろめたい思いでやり続けている。それは正しく無責任ということです。あなたたちを取り巻いているあなたたち以外の人間たちに対しての、そしてこれから先、あなたたちの後に生まれてあなたたちのいる場所になだれ込んでくる人間たちに対しての、無責任ということです。別に地球や宇宙に責任とれとは言わない。この国に責任持てともいきなりは言わない。けれども、あなたたちの親なり、あなたたちの兄弟なり、あなたたちのまわりの具体的に顔の見える関係での人間たちに対して、それはこの上なくいい加減で失礼でわがままで無責任なことだと、僕は言っておきます。

 漫画を含めて、そんな本の読み方しかできてこなかった時代というのはある。それはあなたたちの責任じゃない。ないけれども、しかしそんな時代の中で生きてきたということをことばにできず、できないから自分でもわからないままというのはとりあえずあなたたちの責任です。歴史を知るというのはそういう作業です。ただ知識としての歴史を詰め込むのではなく、その詰め込んだ知識それぞれがそれ以外の知識とどのようにどんな文脈に置かれてからみあってきたか。社会の広がりの中でまっすぐ知ろうとすること。そのための確かな足場を作ってゆくこと。どう間違っても「人それぞれ」でしかないような、それでいてある次元では誰もがみな似たようなものな人間たちが、わざわざことばを交わし、群れ集う意義があるとしたら、たかだかそのあたりにしかないと僕は思います。

 あなたたちの大事に抱え込みたがっている傷だらけのいびつな「自分」など、もしかしたら「自分」以前でしかない程度のものかも知れないことを思い知ること。思い知ることのできる関係を作ろうとすること。それ抜きでは、コミケは「趣味」にさえなりようがないままです。

 

 

*1:『コミックボックス』の初出時の書誌情報を失念。わかり次第、upします。