夢の分け前――吉田善哉という人

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 アメリカってなんですか?

 自身の持ち馬で欧米の重賞をいくつもかっさらい、イギリスやケンタッキーに牧場さえ経営していたこともある世界的ホースマン、ゼンヤ・ヨシダに対して、かなり間の抜けた質問だとは思った。でも、意地でもこれだけは尋ねてみたかったのだ。

 生身の吉田善哉とは、ひとことで言って全方位全開放の男だった。言いたいことを言いたいように語る。これだけは今確かに言わねばならないことだ、というように、確信を持って語る。その瞬間が延々と折り重なり続けることで加速される迫力の前に、ありがちな思惑や生半可な理屈などは、呆けそこねた薄のように吹き飛ばされる。

 六月に心臓の手術をし、ペースメーカーを埋めたと聞いていた。足先が冷えるため電熱式のブーツを持って歩いている。もともと病弱ではあった。大正十年生まれという世代には珍しく兵隊にも行っていない。胸を患っていたという。だから、病気とのつきあいは長い。持参の薬袋もひとつやふたつじゃない。

 「親方、ちょっと小さくなったんじゃないか?」

 折り畳み椅子に腰掛けて馬を見るその背中に、事務所の職員たちが小声でささやき合う。 それでも、生気に溢れている。カメラに敏感に反応する。レンズのちょっとした気配も察して正面を向いて居住まいをただす。粋なテンガロンハットをかぶり直し、表情を整える。スナップをものにするため敢えて長玉で狙わねばならなかった中村カメラマンがそっと耳打ちした。

 「馬見てる時がやっぱりいい表情されますね」

 確かにそうだ。馬に向かう時の吉田善哉はやはりすてきだった。色気があった。

 「おぉ、名前がいいねぇ。オオツキか。競馬の仕事するために生まれてきたようなもんだな。ツキが大きい。うん、こりゃいいぞ」

 事前に資料を固め、眼を通し、レジュメまで作って緊張していた取材だったが、この最初の遭遇で僕は僕の目論見をきれいさっぱり放り出すことにした。しゃあねぇじゃねぇか。そんな手もちの道具じゃ太刀打ちできないことがわかるのだ。

 「話はもういいよ。いままでたくさん書かれてるし、それにもうウチは宣伝しなくてもいい時期なんだよな」

 競馬サークル内のメディアは別にして、一般の雑誌に吉田善哉の記事が出るようになったのは、彼と彼の社台ファームの馬たちが上げ潮の中央競馬の舞台でとりわけ華々しい活躍をするようになった八〇年代前半に集中している。確固たる地位を築いてしまった今ではそこまで宣伝することもない、敢えて週刊誌に話を繰り返す必要もないというわけか。そう、ならなおさらのこと言うしかない。しゃあねぇじゃねぇか、と。そして、一発だけきちんと尋ねるしかない。

 アメリカってなんですか?

 思いもしなかった素朴な問いだったのだろう。えっ、という感じで横を向いてくしゃっと苦笑した彼は、少しの間、照れるような困ったような表情でことばを探し、そしてそれまでとはちょっと違った確かさと強さとで口を開いた。

 「偉大な国です」

 きっぱりと言った。言いきった。

 「自由で偉大な国家。そう、ビジネスはやはりアメリカですよ」

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 昭和三十一年十月。三十五歳の吉田善哉アメリカに渡った。父善助の土地の一部、一度は農地法で取り上げられたのを当局との数年の交渉の後に取り戻したという千葉県富里の牧場を根城として、独立間もない頃だ。広さ四十町歩。繁殖牝馬はわずか八頭だった。

 もともとは南部藩士族の血を引く屯田兵の末裔。胆振の吉田と言えば開拓以来の名家だという。父善助はホルスタインの輸入・繁殖で著名だった。昭和三年、安田伊左衛門から近い将来ダービーが始まると耳打ちされてサラブレッドにも手を広げた。三男の善哉がそれを受け持った。すでに一族の吉田権太郎もサラブレッドをやっていた。戦前からサラブレッド生産を手がけていた民間資本の牧場はほとんどない。サラブレッドとはそれほどまでに高価で、国家とつながった場所で養われていた生きものだった。その数少ない民間資本の馬産家が吉田家だった。民間の活力という意味では筋金入りの一族なのだ。

 イギリスやヨーロッパの競馬を範とする気風の強かったこの国の競馬界で、彼が早くからアメリカに眼を向けていたのは事実だ。父の仕事の関係もあった。それにしても、なぜアメリカだったのか。そのあたり、彼はこう韜晦してみせる。

 「そりゃあ、みんなが向いている方を向いてちゃ、おもしろくないからな」

 当時、日本の競馬はようやく戦後復興を始めた時期である。サラブレッド自体がまだ少なかった。プロペラ機に乗り込み、カリフォルニア経由でケンタッキーにわたった。日本人移民の家に泊まり、馬と牧場を見てまわった。土地の広さ、発想の違い、潤沢な資金……驚くことの連続だった。「世界中から集められた良血馬が、青々とした牧草の繁茂する広大な敷地を気持よさそうに走っていた」(吉田自身の文章より)勝てないと思った。

 「実際、十年くらい仕事が手ェつかなかったね。なまじ見ちゃったから。かえってアメリカ行かなかった方がもっといろんなこと早くやってたかも知れんね」

 アメリカの馬産自体いい時期だった。大戦を避けてやってきたイギリス、ヨーロッパの名血が豊かな資本力によって花開き始めていた。とてつもないものを見た男は、しかし気を取り直し、おのれの居場所であるこの国に戻り、やれることをみんなやった。北海道にできる限り土地を買い、夏場は涼しい北海道に馬を移す。火山灰の層を全部堀り返し、はがし、客土する。牧草地を改良する。タブーに近かった昼夜放牧もやる。これまでの吉田善哉一代記の語り口としても、ここらへんのエピソードは定番の山場になっている。

 戦後一代で一家をなした企業家は土地がらみの資本形成過程をくぐっていると言われる。吉田善哉も例外ではない。「吉田の買った土地は必ず値上がりする」と言われ、「空港やコンビナートの開発がらみで太っていった」と陰口も叩かれる。現象としては確かにそうかも知れない。だが、彼はそこからが違っていた。土地の値上がりによって転がりこんだカネを全部、徹底的に馬と牧場に注ぎ込んだ。ちょっとあぶく銭が入れば守りに入る小金持ちしかいないこの国で、彼は珍しく筋の通った旦那気質を持った資本家だった。

 七〇年代初め、アメリカで良血の二歳馬を買うのにシンジケートを組んだ。種牡馬繁殖牝馬ならともかく、まだ海のものとも山のものともつかない二歳馬にそこまで投資するというのは当時まだ考えられなかった。ひとりでだめなら手をつなぐ、という発想は、もっとも良い意味での戦後民主主義の申し子、市場競争の原理と民間資本の活力を信じる明るくまっすぐな資本家の彼ならでは、と思う。この馬はワジマと名づけられ、大活躍した。

 アメリカの夢をハレーション気味に焼き付けられた彼の社台ファームは、当初から大規模大量生産を前提にしてきた。ことばのもっとも健康な意味でビジネスなのだ。小規模経営の良くも悪くも職人的な馬産家が中心となってきた戦後のこの国の馬づくりにとって、この経営思想は異質だった。早くからリーディングブリーダーの上位に顔を出してきたとは言え、中堅級の活躍馬を多く出す商売人の牧場、それが当時の社台ファームに対するおおかたの評価だった。少なくとも八〇年代、ひと皮むけたかのように、社台の馬たちがダービー、オークス天皇賞など国内の大レースを軒並み席捲し始めるまではそうだった。

 だが、牧場総面積七五〇haあまり、繁殖牝馬二八〇頭、一九八二年以来九年連続リーディングサイアーの座を守り続ける奇跡の種牡馬ノーザンテースト以下、種牡馬一五頭を擁し、中央競馬の年間賞金の五%弱にあたる四〇億円以上をかっさらう今の社台ファームの馬たちには、公営競馬の「その他おおぜい」の馬たちを見慣れた僕などの眼からすれば、「あぁ、こりゃどうしたって勝てないわ」とため息つくしかないような、そんな「違い」を思い知らされる。厩舎に入り、レースを覚えて身につくような種類の世なれた違いではない。もって生まれたものについてのどうしようもない「違い」。僕の場所からは、彼らはすでに別の舞台を走るための馬になってしまっているとさえ思える。この圧倒的な落差の感覚、「違い」についての距離感は、三十五年前、吉田善哉がケンタッキーで感じたものとどこかでつながっているのだろうか。


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 「アメリカはね、上と下がはっきりしてんですよ。金持ちとそうでないのとがはっきりしてる。日本は違うでしょ。補助金だってなんだって下の方にばらまいて平等にしてく。だから、下の方がいいくらいのもんだ。でもね、馬はそれじゃいいものできませんよ。ワンマンでもなんでも、よくわかってる人が上に立ってぐいぐい引っ張ってかないと。他のことは知りませんよ。でも、馬だけはそういうやり方しないと絶対だめなんだ」

 今、この国の競馬は自由化の荒波に見舞われている。天皇賞など最も大きなG?の重賞競走について外国産馬に対しても門戸を開くという方針がすでに出されているし、数年後をめどに完全自由化というプランも出されていると聞く。だが、この国で最も国際的視野を持っているホースマンのひとりである彼が、強硬な自由化反対の論陣を張っている。

 「僕は国際派だから反対しないと思ってたんだろうな。けども、それは考え違いだよ。競馬会の役人たちは、日本のカネが強いとこへ持ってきてクルマとかが世界一になってるから、高いタネ馬を買ってくれば日本の馬で勝てる、自由化してもなんとかなると思ってる。うちの息子の中にもひとりくらいはそういうのいるかも知れないけど、でも、馬と工業製品とではあまりに条件が違いすぎる。そんなもんは個人がやらなきゃしょうがないんだ。日本の競馬の賞金が高いのも、ひとつには高くしなきゃ人件費やら何やらで馬作りが維持できないからだよ。もともと馬に適さないところで馬やってんだから、維持費高いのも当たり前だ。このへんのことわかってる人間は、おそらく日本に何人かしかいないよ」

 熱弁を奮って彼が自由化に反対する根拠は、おおむね次の数点に集約できる。

  1. 外国産馬にはファンがつかない日本の競馬ファン気質の問題。
  2. 土地の悪さ、気候風土はもちろん、馬についての文化総体の違いの問題。
  3. 馬を一個所に集めて数を制限し、それ以外の厩舎を認めない現在の厩舎制度の問題。
  4. 馬のために大規模な土地を取得しにくい土地制度の問題。
  5. ケタはずれの資本家も、また純朴な労働力もいない「一億総中流」の大衆社会の問題。

 「生きものやってて週に二日休ませろ、なんてのがおかしい。そりゃ休まなきゃ人間ももたないだろうけど、それなら厩舎全体で責任持って交代にするべきだよ。牧夫ってのはほんと大変な仕事でね、理屈じゃできませんよ。寝藁あげたりなんだり毎日毎日おんなじことやるんだからね。保育園の先生みたいなもんだ。だからわたしはうちの者に言うんです。看護婦のつもりでやれ、と。でもそんな、ただ馬が好きというだけで仕事してくれる人なんかこの国にはいなくなっちゃった。だから、うちは人づくりからやってるんですよ」

 もちろん、世の中にはいろいろな立場がある。立場が違えば意見も違う。意見が違えば同じ人間についての語られ方もさまざまに形を獲得してゆく。たとえば、こうだ。

 「外国の繁殖牝馬に自分の牧場のタネ馬つけて売る。早い話、国際馬喰ですよ。我々日高の牧場はここのところずっと社台さんのエサになってるようなもんです」

 「自由化反対? もうそういう時代じゃない。善哉さんも世界の流れを直視するべきですよ。それに、日本の馬だって、今ならそんなに食われないと思いますよ。こっちの馬場でこっちの競馬やってる限りね」

 なにしろ敵の多いことでは人後に落ちない。「馬やってる人間はみんな流通に携わるんだから馬喰なんです」と言い、敢えて自ら馬喰と名乗る。中央競馬会が先に手をつけて輸入することになっていた種牡馬を「民間をつぶす気か」とどなり込んでむりやり手に入れた、という武勇伝すらある。それでも、日高あたりの若手の牧場経営者たちが社台ファームに見学にきたりすると、できるだけノウハウを教え、ていねいにアドバイスをするという。だから、日高にも社台派とでも言うようなシンパができる。繁殖牝馬も売る。社台ファームの血は確実に広まってゆく。是非はともかく、豊かな資力と優れた経営能力を持った牧場経由で輸入される外国の血が、日本の馬を確かに変え始めている。


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 ここ十年あまり、吉田善哉社台ファームは一頭の馬を二十人で出資し合う仕掛けを武器にしてきている。ダイナースクラブと組んで始めたクラブ法人システムがそれだ。実は今回の取材もその会員の牧場ツアーに同行させてもらうことから始まった。観光バス六台に分乗した二十分の一会員たちが北海道を走る。病み上がりの吉田善哉も陣頭指揮。すでに名物となっているというバスガイドそこのけの名調子で会員たちをなごませる。

 「うちのこのクラブがどれだけ新しい馬主層を育てね、ファンの底辺を拡大させたかってことですよ。教育効果という意味じゃ大変なもんです。それをやれ、ひとりの馬主が一二〇頭以上馬を厩舎に入れちゃだめだとか、競馬会はいろいろ規制するんだよね。でもね、日本みたいな国で、ひとりの馬主さんで続けていい馬を買える人、まずいませんよ。しかし、日本はみんながまんべんなく金を持ってる。それに、一頭より二頭、三頭に分散したほうが走る馬にめぐり会う可能性もある。だったら共同で出資してもらうのが理にかなったやり方でしょ」

 確かに、社台ファームの生産馬はもしもセリに出したらそれだけで数千万円の値になる馬ばかりだ。それを割安に、しかも一人が二十分の一ずつの値段で共同出資できる。どっしりと重い美術書のようなフルカラーのカタログには、リアルシャダイやスリルショー、そして最近輸入したサンデーサイレンス(一九八九年アメリ年度代表馬)といったよだれの出そうな良血種牡馬とその子供たちが絵のように並ぶ。さぁみなさん、この夢にどんどん相乗りしていいよ、そのカタログは吉田善哉の声でそう語りかけていた。会員のほとんどは二十年前なら馬に金を出すなんて考えもしなかった人たちのはずだ。手をつなぐ夢。共に見る未来。社台ファームの成功は、馬車馬よりもあくせく駆け続けてきたこの国の近代のある到達点に見合った、かなりの程度幸せな、夢の分け前なのだと思う。

 「いいね、大丈夫だよ。うん、いい馬だ。よくなった」

 「病気をして以来あまり見ていないんだ」と言いながら、厩舎から引き出されるどの馬を前にしてもおよそ悪い言葉は出てこない。経営者としての顔と、世界的ホースマンとしての顔が二重に見え隠れする。割り切ったビジネスのようにも見える。だが、どんな素人に対しても乞われれば馬についての知識を惜し気もなく教えるその身ぶりの作る磁場には、善哉ファンクラブといったなごやかな風情があった。馬を媒介にした孫や子供や親戚がたくさんいるようなものだ。彼らクラブ会員に囲まれる吉田善哉は本当に楽しそうで、そして満足そうだった。その顔に、僕はリベラルなナショナリストの表情を見てとった。

 「世界一でやろうと思ったら、外国でやるか、外国の馬を買うかしかないんだよ。でもね、それじゃおもしろくないし、そんな趣味のないこともうしたくない。僕はだから、世界一でやってても最後は日本に馬を持ってくると思いますね。そして日本の馬にするんだ」

 日本の馬。日本の競馬。「趣味のないことをしたくない」というひとことの豊かさ。

 ツアーに作家の吉川良さんがいた。北海道に住み込むまでして社台ファームとつきあい続けている人だ。会員パーティーのテーブルに肘をつき、ゆらり斜めになりながら言った。

 「いくつかの出版社から、善哉さんのこと本にしないか、って話はあったんだ。でも、みんな断った。書けないよ。きれいごとじゃないんだから。あの人、馬ももちろん好きだけど、そりゃカネも好きだよ。経営者としても一流なんだから」

 くたびれた白い帽子に手をやりながら、ひと呼吸おいた彼はこうキメてくれた。

 「つまりさ、この世のこと、みんな大好きなんじゃないかな」

 ツアーの行程の最後、バスが牧場を出発する時、ずらり並んだ従業員が手を振る。吉田善哉もまたその列に加わり、最後までゆっくり帽子を振る。日高の生産者たちの良くも悪くも頑なな印象に比べると、この社台ファームの人々の物腰はやはり驚くほどにこなれている。そのこなれ具合は、おそらく個々の人々の性格や、あるいは教育の成果というよりも、むしろ社台ファームという場の文脈に置かれた時に必然として宿ってしまうものといった印象があった。リベラルで、風通しの良いスケールの大きさ。社台ファームとはそういう牧場であり、そして、そういう牧場に仕立てていった吉田善哉本人が、おそらく戦後の空気をもっとも深く、もっともよく呼吸してきた、そういう日本人なのだ。

*1:当時の『サンデー毎日』の人物ノンフィクションは、故鈴木俊平さんの肝煎り企画だった。この吉田善哉さんの原稿、善哉さん自身も気に入ってくれたらしく、掲載後わざわざ呼び出されてメシをご馳走していただいたあげく、帰りにはその時していたネクタイも「おい、これやろう」ともらってしまった。その後、ノーザンホースパークの展示室にもこの原稿の最後の一節、「リベラルで、風通しの良いスケールの大きさ。社台ファームとはそういう牧場であり、そして、そういう牧場に仕立てていった吉田善哉本人が、おそらく戦後の空気をもっとも深く、もっともよく呼吸してきた、そういう日本人なのだ。」が掲示されていたのは、ひそかに自慢だった。