未来を選ぶ「学問」


 およそ態良くまるめられた同時代、少しは鋭角に突き刺さることを志しつむいだなけなしのことばはことごとくメディアの大空に吸い取られ、柄にもなく心弱くなった日、柳田國男朝日新聞論説委員を勤めていた時期、新聞に書きつづった社説や論説をめくる。
あのジイさんのことばには希望がある。理想がある。未来に顔向けて生きることの責任を思い知らせてくれる立ち木の明るさがある。それがいったい何に裏打ちされているのか、正直その全貌はまだわからないながらも、文字読み書くことからしか世に棲む糸口の見つけられない自分の背筋を伸ばしてくれる何かがある。たとえば、こうだ。

 「今日の国家があらゆる犠牲を忍んでも、優秀なる次代国民を養成しつつある本旨は、一言をもってこれを表するならば、学問知恵以外に、到底日本をより幸福ならしむる途は無いといふことを信ぜしめたいばかりである。陰邪どん欲は正理と公明の前に、逃避し去るべきものなることを、学ばしめたいからである。不幸にして進路に故障多く、過去五十年の功程は、いまだ誇るべき何物をも彼等に引継ぎ得ないのは事実であるが、さればとて強ひてその不手際を弁疏せんが為に、実社会は永久のかくの如きものなりと、力説せんとするのは愚の極である。果たしてその通りに学問も役に立たず、理論が三文の値も無いものならば、国に高い学校を設けて、有為の秀才を永く実際から遠ざけて置く必要は無かったのである。」「学生と社会制度」『朝日新聞』T15.7.17)

 いやはや、なんとまぁ前向きなジイさんだろう、と苦笑しながら感嘆する。感嘆し、首をめぐらし、そしてその次には「よしわかった、元気出すぞ」と背伸びして立ち上がる。立ち上がればその先は前を見るしかない。前を見て、そしてまたことばをつむぐ構えをとる。ことばを確かに最も必要としている場所へ届かせるためのありとあらゆる手練手管を身につけ、呑み込み、発動することを、また同時代の速度で歩きながら試みる。

 講義を持ち学生に向き合うことを一様に「雑務」と称して恥じず、また少しは律儀に講義の準備などしていようものなら「教師なんですね」と冷笑されるのが関の山という昨今の大学の有様では、この「教育」ということばにここまで多大なる想いを寄せた柳田の心
情はたとえ百年たってもわかるまい。まして、その心情が単なる心情でなくある一定の方法意識に支えられた冷徹な政治と張り合わされていたこと、だからこそそれは等身大のルサンチマンに全て解消されてしまう不幸から少なくとも再晩年を除いて逃れられていたこ
と、などなど、未だ存分に読み尽くされしゃぶり尽くされたとは言えないその可能性のとんでもなさなど、なおさらのことわかるまい。少なくとも、その志を最も直接に受け継いでいるはずと世間から思われ、どうかすると自分たちも厚かましくそう思い込んできたような「民俗学」の肩書背負った人間たちには、今、この国の現在の切羽でその構想をもう一度引き受けようという姿勢など、断言してもいいが皆無である。

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 柳田國男は一九二〇年代から三〇年代が一番おいしい。滋養たっぷり、腹持ち最高、消化は少し悪いかも知れないが、それもよく噛んでしまえばどうということはない。何より、こちら側の手続きさえ間違わねばほぼ半永久的に常温保存ができるのだ。

 だが、柳田と言えば『遠野物語』であり、『先祖の話』であり、あるいは『木綿以前の事』であるといった定食の如き解釈の道すじがすでにしつらえられている。“良識的”で、そしてその“良識的”な分もはや手もと足もとの役に立たず、その立たないことについて恥じる責任感さえ忘れた大多数の文字読む人々の痩せた書斎のこやしとしての役割を別にすれば、どこか高圧的な『定本柳田國男集』も、そこからまたちくま文庫のために編まれた最近の『柳田國男集』も、このような定食の解釈メニューから外れた独自の読みなどまず絶対にされていないはずだ。このような不自由からまずカッコにくくらねばいけない。

 たとえば、後藤総一郎氏に代表される柳田研究者の群れは、確かに実証的に柳田の評伝を編むことはできた。しかし、同時に彼らと彼らのことばは不幸な神話化にも大きな片棒を担いでしまった。生きた柳田だけを唯一の正解としたところから逆算される「評伝」の
“おもただしさ”は、同時にそれを生きた道具として使い回すための磁場の組み立てを切り捨てる窮屈も伴っていた。それはそのままでは、じゃあこれから先どうしたらいいの?というそれぞれの素朴な問いの前に、悪い意味でのカルチャーセンターと選ぶところない
かも知れない「常民大学」くらいしか具体的に提示できない。当事者たちがいかに誠実であれ、その装置の効果はまた別なことばの批判力にさらされるべきである。だが、その可能性は閉ざされたまま、そのような幸薄い誠実を組織した勧進元だけが、今のこの国の大
学なり論壇という世間離れした場の中で虚しい立身出世に舞い上がるばかりだ。

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 実りのない誤解はほぐしておかねばならない。

 柳田があれだけ声高に説き、アジり、旗振っていた「民俗学」とは、大学の研究室にのみ閉じ込められ「○○学」と表札つけられることを至高の目的とした乾きものの学問などではなかった。少なくとも、「調査」と称して無駄な予算を食いつぶし、組み立てだけは
もっともらしい世間のことばから遊離した論文を垂れ流し、「学会」の名の下に何ら見通しのないロンパールームをやり続けて恥じないような醜態を「学問」と呼ぶ苦痛に、あの癇性病みのジイさんが耐えられたはずがない。

 この国の近代が一定のかたちを整え、本格的な大衆社会が立ち上がり始めた時期、次から次へと立ち現われ、視野にきちんと捉えることすらできないまま眼前に山と積まれてゆくさまざまな疑問や悩みや難儀、それらに対する答えを見つけてゆくための、この社会の
誰もがアクセスできるようなデータベースを彼は作ろうとしていた。彼にとっての「民俗学」とはそのための具体的な運動だった。関係をつむぎ、そのつむいだ関係の作る場に宿る情報=知識の批判力に賭けたダイナミックな公民教育運動であり、その意味で正しく社
会改造運動だった。彼が「経世済民」と言い、「我々は学問が実用の僕になることを恥じてはいない」と宣言する時、そこに想定されていた「学問」とは果たしてどのような初速と射程距離を持つものであったのかを、卑しくも「民俗学」と口にするほどの知性は等し
く思い知らねばならない。

 今、たとえばコメの自由化の問題についてさえひとことも発することのできないような民俗学など、柳田ならば一顧だにしなかっただろうことは絶対の確信を持って断言できる。彼にとって問題とは常に眼前のものだったし、その眼前の事実に含み込まれた問いからしか学問を構想しようとはしなかった。そのような実践的な、ことば本来の意味で“役に立つ”公民教育の仕掛けをほぼひとりで編み上げようと終生ジタバタし続け、そして結果それがかなわぬ夢であったことを再晩年に至っておそらく思い知ったのだが、しかしそのよ
うな想いだけは変わらず持ち続けていた、柳田國男とはそんなジイさんであった。

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 しかし、同じ「眼前の事実」とは言いながら、なんでもかんでも拾い食いして咀嚼もせずに吐き散らす昨今の評論家稼業のばらまくゴミと一緒にしてはまずい。柳田の卓抜な文明批評の例としてよく持ち上げられる『明治大正史・世相篇』にしても、それが一見いか
に軽やかで眼先の興味を引くものであろうとも、柳田にとって「眼前の事実」を語ることが常に強烈な方法意識に裏打ちされていた、そのことまで見失うのはあまりにずさんだ。

 昭和初年、当時の“田園都市”の一画である砧に新築した自邸の書斎をひとつのデータベースと化し、そこから発して自らの組織の、そしてこの国の世間の場の中にその効果を織り込んでゆこうとするたくらみ。社会のシステムとしてそのような情報体系が整備されてこなかったこの国では、志ある民間人が汗水たらしてそのような自前のアーカイヴスを構築するしかなかった。その事情は今もほとんど変わらない。たとえば大宅壮一を思い起こしてもらってもいい。これは先後が逆転した比喩だが、柳田が自邸を開放して構築した民俗学研究所とは、近世から近代にかけてのこの国の民俗社会についての大宅文庫めいたデータベースを構想したものに他ならなかった。

 だが情けないことに、現在成城大学にある柳田文庫はそのような機能を全く自覚しておらず、およそ外部の人間には検索困難なインデックスで柳田の蔵書を管理し、カードに至っては公開すらしない。運動としての民俗学をもう一度組み立て直すには、まず残されて
いる柳田のカードを全部起こし、復元した上で、彼が書き綴った膨大な原稿を生んだその母体である彼のデータベースと情報処理装置についてきちんと考察する作業がまず必要だ。この国の企業がフィランソロフィーと言い、メセナと言うからには、わけのわからぬコンサートホールや頭も足腰も弱い自称“総研”にゼニを使う前に、このような企てにこそ出資する貫禄を示すべきではないだろうか。

 民俗学の歴史とは、この国の民間学問システムの歴史に他ならない。それはそのまま、この国の民間人たちがどのような世界観で学問を構想していったのか、というまた違った近代史の範疇にある。民俗学の歴史とは実はそのような“方法の歴史”であり、その方法を立ち上がらせた時代の文脈の歴史であり、その意味においてまごうかたなく知識の社会史につながるものである。そして敢えて言えば、ほぼそれしかない。人文科学、社会科学の領域から常に「使えない」と言われるこれまでの民俗学のデータをもう一度使えるよう
にリストアし、バックアップする方向もあり得るが、個人的には労多くして実り少なしだろう、という予感が強い。百歩譲って実りがあるとしても、そのデータを可能にした方法の次元をあわせて見つめる視線抜きでは絶対にない。

 渋沢敬三のアチックミューゼアムはある部分で国立民族学博物館となった。常民文化研究所は網野善彦氏が悪戦苦闘の末、神奈川大学に再生した。残るは、数年前空中分解した観光文化研究所と、名前だけ残って立ち腐れている柳田文庫だ。このふたつの民俗学出自
のデータベースは今後どうにかしてリストアし、バックアップの手立てを講じておく必要があると思う。広義のデータベースもまたこのような復元の対象として考え、歴史を背負った存在であると考える視線がなければ、民俗学の再興など夢のまた夢だ。

 未来は選択できる――あのジイさんは、確かにこう言っていたのだ。