安田里美=人間ポンプ 聞書

 関東平野の広さというのは、実は東京に住んでいる者にとってもあまりよく実感できないものだったりする。

 山が見えない。川も伏流している。目標となるような建物も少ない。だから方向感覚が狂う。どっちへ行ってもただ広いだけ。同じような道が同じように連なり、かなり身体になじんだはずの土地であっても、うっかりしているとどこにいるのかわからなくなる。

 タクシーの運転手などに聞いても、嘘か本当か、千葉の茂原のあたりには未だに追いはぎが出るし、埼玉でもちょっと町中を外れると未だに道に迷うことがあるのだという。

「どっち向かって走ってんのか、フッとわかんなくなってさ。でもまぁ、地続きだからいいか、ってなもんでそのまま転がしてくと、そのうちなんとなく標識に見覚えのある地名が出てくるから、そしたらあわててアタマん中の地図をもういっぺん繰り直したりしてさ。なんのこたァない、シロウトと同じだよな」

 だから、怪談話めいたエピソードも多い。いかにも怪しい、何かあっても不思議のない場所でなく、ただ広いだけのなんでもない風景にこそ、そういう魔は宿るものらしい。


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 埼玉県坂戸市。古くは八王子往還の宿場町。野狐三次や赤尾林蔵や岩殿菊次郎といった、講談・浪曲でおなじみの侠客の名産地。国定忠治が泊まった旅館や、大前田栄五郎の滞在した家、なんてのもある。高崎や前橋や桐生や渋川あたり、北関東にまで平然と連なるある歴史の堆積の仕方をした町だな、という雰囲気が、僕の五感にビンビン響く。

 この町の商工祭に出ていると聞いた「人間ポンプ」安田里美さんを訪ねて、慣れぬ関東平野、そんなどこか間伸びした風景の中をを行きつ戻りつ、ようやくその場所にたどりついた時は、軽い小雨のぱらつく天気の土曜日も昼近くになっていた。

 タコ焼きいか焼き焼きそば氷は言うに及ばず、金魚すくいに射的に当てもの、おもちゃに綿菓子ひよこに銭亀、果てはむき身のバナナにチョコレートをぶっかけたものまで、駅前通りからずらり露店が並んだ先にある大きな寺の境内、本堂の真正面にテント小屋がデンと建っていた。

 たかだかと掲げられた、もううれしくなるくらいそれっぽい絵看板。娘姿の化け猫が赤い舌を出し、唐傘と提灯とろくろッ首と人魂とが三日月夜の墓場に入り乱れる。赤と黄色の電球に飾られた入り口。向かって左、赤い手摺の向こう側では山賊のような顔をしたろくろっ首がゆっくりと上下している。右側は芝居の一場面のようなあんばい。座敷とおぼしきセットの上で、子供を抱えた男女の人形が、これまた何やら書き連ねられた口上書きの奥で愁嘆場を形づくっている。

 その真中、赤い橋がかりがこちらから向こう側にむかってかかっている。その脇で、粋なハンチングをかぶった目指す安田さんは、風よけに白いハンカチをかぶせたマイクを握り、眼の前を行き交う縁日気分の人たちを手慣れた語りで呼び込んでいた。

「……お笑いは健康のもと、笑わなければ通れない、笑って抜けれるお化け村の会場でございます、昼の日中にお化けが出るから面白い、こわくないこわくないの、ほらほらほらほらまた出るよまた出るよまた出るよ、いかなるお化けが飛び出してくるか、いかなる妖怪が飛び出してくるか、それは中に入られましてのお楽しみでございます、はい入り口はこちら、本日をもちましてお別れですよ、また見よう今度見よう明日見ようか夢を見ようでは間に合わない、せっかくお出かけの皆様方は、お化け村でお笑いのひとときをお過ごしいただきましょう、どなたもどなたもさぁいらっしゃい、本日は雨天のために割り引きです、小学校子供さんは三百円、中学生は四百円、大人さんは五百円のお遊びでございますよ、去年も見たよおととしも来たというお化け屋敷とは違います、今年のお化けはおもしろいの、日本列島北から南、西から東へと、たくさんなる笑いと幸福を運んでまいりました、さぁ楽しさいっぱい笑いがいっぱいのお化け大会でございます、お父さん面白かったよ、お母さん今年のお化けは実に楽しかったと、ほらほらほらほらお家へ帰られましたらお土産話、のちのちまでの話の種、はいいついつまでの語り草にも、このお化け村の雰囲気を味わって下さい、大人が見ても子供が見ても面白いという娯楽の殿堂、お笑いお化け大会でございます、はいどうぞはいこちらからはいいらっしゃい……」

 微妙に西日本の訛りがまじるダミ声の口上に、近所の友だちなのか数人ずつにかたまって歩く子供たちが足を止める。正面の入り口の前、笑いながらもどこかこわごわといった様子で中をうかがう彼らに軽く手招きしながら、なおも安田さんはしゃべり続ける。時折寺の鐘がびっくりするほど近くで鳴るのだが、質実剛健丸出し、でこぼこになった灰色のラッパ型拡声器をくぐって飛び出してくるその声は、鐘の音くらいに負けてはいない。

「最近はね、お祭りにはポンプやらないのよ。これ(お化け屋敷)が忙しいからね」

 開口一番、安田さんはそう言った。

「私はお化け屋敷を三本持ってるんです。そっちが稼業です。それぞれに責任者つけて回してます。そやから今はテレビとか特別な時以外にはポンプやってない。それに、ポンプやると身体がえらい(辛い)んですわ」

 大正十二年、大阪は富田林の生まれ。四歳の時に大垣で仮設興行をやっている安田家にもらわれる。生まれつきの白い肌に白い髪。眼も不自由なのでサングラスは欠かせない。歳から言えばまだ七十前なのだが、眼の前の安田さんは、実際以上にお歳をとって見える。この道六十数年。とにかく筋金入りだ。

 華々しい表街道の芸ではない。サーカスや見世物といった仮設興行の世界で、ひっそりと世間の暗がりに宿ってきた。

 実際それまでも、ある時期からこっち「人間ポンプ」の芸はあまりやれなくなっていたという。ところが、五年ばかり前から安田さんの話を聞きに通っている若手の大衆芸能研究者、鵜飼正樹氏が侠気を出し、彼自らの肝煎りで一昨年、京都の小劇場を借りて安田さんの「人間ポンプ」を紹介する催しをやった。「まぁ、昔はこういう芸もあったんだと紹介するくらいの軽い気持ちだった」(鵜飼氏)のだが、予想に反して劇場に入り切れないほどのお客さんが詰めかけ、ちょっとした事件となった。それに安田さんも気を良くして去年も再演、秋には浅草の木馬亭で東京公演まで果たした。

 その時の様子は週刊誌などでも大きく取り上げられたから、記憶にある方もおいでだろう。碁石を飲んで、お客の指示通りに、はい白、次は黒と出しわける。金魚を飲んで、釣り針で釣り上げる。極めつけはガソリンを飲んで口から火を吹く。最後には太鼓を持ち出し河内音頭のさわりまでやってのける大サービスで、若い人も多かった客席もやんやの喝采。「人間ポンプ」安田さんの名前は一躍全国区になった。おかげでそれ以降、テレビにも何度か出演する売れっ子ぶり。自分の芸が一番喜ばれたのはいつの時代か、という質問にも「今やね」と即答するほどだ。

「それがっちゅうのは、みなポンプを見る眼がわかってきたの。五、六年前までは、だいたいポンプちゅうのはなんやろな、ちゅう感じやった。十人おったら八人まで知らん。それが私がどんどんテレビに出るようになってから、ああポンプちゅうのは金魚や碁石飲んだり、火ィ吹いたりする芸なんやな、とみな知ってきた。そのかわり、私もどんどん勉強せんならんのやけどね」

 今年もすでに二回ほどテレビに出ているという。

「こないだ、日本テレビ行くことになっとったんやけど、テレビのスタジオで火が吹けないと言うんよ。そやからテレビの連中、大垣の私の家まで来よったんや。大垣の大きなデパートにドームがでけとったんやけど、テント張っとるだけでバックもステージもなんもないんよ。ほんでしゃあないから家にある幕持ってってやったんやけど、そしたらあんた二日間、朝の九時から夜の九時まで引っ張られたんよ。

 ただガソリン飲んで火ィ吹くだけならまだええんやけど、あっち側にバーッと紙張ってあるんよ。こっちからパーッと火を吹いてその紙が燃えるはずやったんやけど、模造紙よりまだ厚いこんな紙でなかなか燃えよらへんのよ。リハーサルだけで四十六回やらされた。ほんでね、テレビっちゅうのもガメついと思たけど、あんた、お昼御飯手銭手弁当だよ。最後は衣類に火ィまでついたんだけど、その代金も出ェへんし。ほんで未だにギャラ来ないんだよ。テレビ出過ぎるとわたし眼ェが悪なるんですよ。そやから、ほんまはテレビもあんまり出とうないとこもあるんよ」

 テレビだけではない。最近はどういうわけか学校から呼ばれることも多い。つい先日も東京の、とある私立高校の新入生歓迎の催しものの一環として「人間ポンプ」をやってくれと頼まれ、舞台に立ってきたのだという。たまたまミッション系の高校だったので、清楚な西洋館で衣装を着替え、チャペルの中で人間ポンプを上演したというから、そのとりあわせがなんともおかしい。とは言え、事前にちゃんと出演契約を交わし、ギャラも即日現金払い。「そのへん学校は堅いからね」と、そういう時の安田さんはまさに芸人の顔で実に嬉しそうに笑う。

「私、だいたい漫才とか芝居とか剣劇とかが得意だったんです。ただ、いつまでも人に使われとったらいかんなと思て、自分が人を使う身になろというわけで、それから自分で考えてポンプをやったわけです。サーカスもやったしね、上へ上がってブランコまでやったんよ。今のうちの家内はあんた、針金渡っとったんや」

 ただし、今は岐阜の大垣に住み、このお化け屋敷を仮設興行で見せてまわるのが本業。奥さんとマルチーズのナナちゃんと若い衆たちと共に、トラックとバンとであちこちを回る。現地へ着いたら小屋を組み立て、興行の間は仮設テント住まい。終わればまたバラして次の土地へ。文字通りの旅芸人だ。

「お化け屋敷は今、つらつら勘定すると国内に二十何本あります。東京では藤井ランドと大寅がお化けやってるでしょ、千葉へ入って三井、水戸の八郎さんもお化け持っとるし、北海道は多田、黒川がお化け、本州戻ったらうちでしょ、ダンゴ屋、早川、和歌山、大阪、九州に入ったら前田があるし、山本、大崎……そらもう沢山ありますよ。

ちなみにサーカスは五つあります。木下、キグレ、矢野、カキヌマ、東京と五つ。昔あった関根ちゅうのは金城になって、それからまたゴールドになって、荷がツブれたんだ。今ね、昔みたいに仮設でやってないというのはストリップだけですね」

 普通の露店と違って大がかりだから、一度小屋を組んでしまったら客足が鈍いからといっておいそれと移動するわけにもいかない。この日も、空模様のせいか早々と店をたたんで東京都内の神田の祭に転戦していった人がいたが、安田さんのお化け屋敷はここで頑張るしかない。

「そやから、なかなかお化け屋敷もむつかしいですよ。先手先手を考えんとね。去年ここでやったからいうておんなじもんをやってもあかんからね。中に入ればとどのつまり一緒なんやけど、表の背景とか人形とかが変わらんとね。で、その趣向は常に変えてくんです。大垣の家の倉庫の中にこういう小屋が三本入るようになってます。それに今度は変わったものを人形屋とかに作らせて補給してくわけです。

そらね、時代によって受けるものが違いますよ。こういう大きな町でもないような土地へ来て、それもここみたいにお寺だと、見に来るお客さんにおじいさんおばあさんが多い。そういう時にはね、子育ての幽霊とかいったものがピンとくるわけや。ところが、今の若いもんたちや子供たちにはカチカチ山とか金太郎とかやったり、いま流行りのマンガを使ったりね。そやから、絶えず私、本屋ずっと回ってお化けの本があったら買うてくるんです。その中の絵とかを参考にして看板やら描かすんですわ」

 ただ、意外なことにこのお化け屋敷、ここ何年かでずっと増えているのだという。

「なぜ増えたか言うたらね、結局、昔で言うたら“子もの”やね、つまり『かわいそうなはこの子でござい』ちゅう、あれね、あれが今はもうでけなくなったもんやさかい。と言うて、ああいう人たちがやめてもやね、こんなこと言うたら失礼やけども料理屋やるわけにいかん旅館やるわけにいかん。手っとり早いのは山へ行って笹を切って来て小屋へいけたらそのままお化けになるんやから、お化け屋敷が増えたん。そやから今、お化け屋敷やっとる人で、蛇食いやとかああいう見世物やっとらん人はひとりもおらんよ」

 どのようにしても、人は生きて行かねばならない。たとえ、それがその時その時の法律や制度や、あるいはその時代の多くの人々のあたりまえからすれば、眉ひそめるしかないようななりわいであったとしても、だ。

「昔からやっとったのは九州・田主丸の轟小太郎、それから香田のお化け、姫路の多田京五郎という人のお化け、東京の岩沼さんのお化け、大体それくらい。昔は四本から五本くらいしかなかったもんです。で、そういう昔からの人はその前、本当の昔にはみなからくり眼鏡ね、のぞきからくりちゅうやつ、あれをやっとった人たちなんです。ただ、のぞきは紙芝居に押されて駄目になっていった。姫路の多田さんなんかは多田サーカス団ちゅうのを組んで、その後今度は福祉の網にかかって子供を使ったらいかん、ちゅうて言われて、しゃあないからお化けでもやろか、ちゅうてお化け屋敷を組み出したんだ。今はもうその多田さんも亡くなったけど、家族の方は姫路の総社町で大きな風呂屋と旅館やってますよ」

 ちょっと視線をずらせば、ろくろッ首のうしろは小さなモーターにつながっているし、電飾やテープ、マイク類の配線も最低限必要な程度にきちんとしている。よく見れば小屋のつくりにも、そのような「現在」があたりまえにしみこんでいる。

「昔はね、見世物小屋でも電気なんて使わなんだんや。そやから、土地の親分に“安田さん、ひとつここで見世物で商売して下さい”言われて乗り込んでくと、まずそこの土地の人が石炭箱にいっぱいローソクを持ってくる。それを表の丸太にズラーッと並べてね、今度はその係がおって、消えかけると一本足してまたつけるという風にやっとった。ローソクからその次には、今度はだんだんカーバイトになっていったんだ。

昔は小屋もみな丸太を荒繩でくくったんですが、今はみなバン線(ビニール被覆の針金)でしょ。それに、今は“子もの”でもお化けでも間口七間も八間もとるわね、昔は間口七間ちゅうたらサーカスしかとらなんだんや。蛇食いなんかでも間口三間くらいでやってましたよ。なんで大きくなったかというと、お客さんがようけ集まるようになったということと、それとハッタリやね。もろちん拡声器なんてものもなかったしね。ただ、メガホンは使っておったよ。自分とこで厚紙で作るんだ。マイクやら拡声器使うと口上変わるし、それに……」

 と、ここで安田さんは一瞬、なんとも淋しそうな表情を走らせる。で、こう続けた。

「……あんまりデタラメしゃべれなくなるわねぇ」


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 先の鵜飼正樹氏によれば、今、「人間ポンプ」を自称する芸人は、全国で少なくとも三人はいるという。安田さんの他に、茨城県にひとり、兵庫県にひとりいるとか。

「どの方も俺が元祖や、俺が最初の人間ポンプや、とおっしゃってますけど、正直まだよくわかりません。まぁ、ある時代「人間ポンプ」という名前をつけるような芸が流行したということだけは確かです。ただ、今でも現役で演じられるという意味では安田さんが一番でしょう」

 もちろん、安田さんにもその自負はある。「碁石飲んだり火ィ吹いたりはともかく、金魚飲んで釣るのは今ではもう私だけです」と胸を張る。

その金魚釣りの「人間ポンプ」、最初は夢で見たのがきっかけだったという。

「もちろん碁石はそれまでも飲んどったんや。けど、もっと新しいことせなあかんというので、金魚飲んだらどうやろ、と思た。でも、自分が金魚飲んでただ出すだけでは碁石と変わりがない。出す時になんかないかと思て考えてたんやな。考えもって寝たから夢見たんや。釣り針と釣り糸飲んで腹の中の金魚を釣る、その釣れるとこまでの夢を見た。あ、これや、っちゅうんで起きてすぐうちの家内に釣り針と糸買いにやらせてね、あんた何すんのん、腹の中の金魚釣るんや、ンなアホなことできるかいな、言われたけど三時間稽古してやってみたら、あんた、それが見事にでけたんやなぁ」

 うれしくてうれしくて、その日いきなり舞台にかけた。場所は下関の新富座。当時興行の世界で力のあった籠寅興行の持つ劇場だった。

「お客が千五百人くらい入っとったかなぁ。それが一斉にバリバリバリーッて手ェ鳴らしてくれて、はぁ、これやったらいけるなぁ、と思たわ」

 その芸を持ってすぐ門司に渡った。同じ籠寅の青松座という劇場。またまたバカ受け。だが、ひとつ問題が起きた。一日目はよかったのだが、二日目から金魚がないのだ。

「なんぼ小屋主さんが探してくれても金魚がないのや。けど舞台やらんわけにもいかんし、それやったらドジョウ買うてきて、言うて小指ほどのドジョウ飲んでやったんや。うまいこと釣れるかどうかわからんかったけど、こう横腹んところに針がひっかかってうまいこと釣れてくれてね。けど、あれはほんまに辛かったなぁ」

 もちろん、いい時ばかりではない。そのような世間の暗がりに宿ってきた芸。身体ごとぶつかるしかなかった時代のことだけに、悲惨なできごともそこここに転がっている。

「私に斎藤ちゅう弟子がおったんですわ。四国の人間でね。そいつが胃の変わった奴なんでポンプを教えてやったんだ。で、もっと変わったのをしたいちゅうんで、昔のレコードの針ね、あれを飲んで出すのも教えたんだ。お客に食パンとレコードの針を缶ごと渡して、針をパンに刺してくれ、ちゅうんです。そして、そのパンを針ごと全部飲んで、次に素通しのコップで牛乳を一杯飲んで、それから三分間にひと箱分、針だけを出して見せるというポンプです。

 その斎藤が一本立ちして、満鉄の慰問に行きよったんだ。そこでいきなりその針のポンプをやりおったんだな。あれはあらかじめ楽屋で針がひと箱になんぼ入っとるか勘定せなあかんのや。だいたいひとつの缶に百本から百二十本くらい入っとったんですけどね。そうせんことには、あとで針が腹に残っとるかどうかわからんでしょ。残っとったらまた出す方法もあるんです。ところが、奴さん、買うてきた新品の缶のまま、中味を勘定せんと客に渡しよったらしい。で、その夜、旅館に帰ってきてから痛い痛いと苦しむらしいんやね。医者呼んだけど原因がわからん。病院入院させたけど悪くなる一方で、岐阜におった私のとこに電報が来たもんで、私それから満州まで一生懸命行ったんや。

 私が着くのと息引き取るのとが、ちょうど同じくらいやったなぁ。医者が解剖すると言うんで、こいつにはふた親おらんので私が親がわり、どうぞ、と言うて解剖したら、あんた、針が腹のここのとこへ六本、グサーッと刺さっとった」

 講談顔負けの真に迫った描写。すでにそれ自体芸となったかのような語りに思わず膝を乗り出した僕に、ほんの少し、絶妙の間をおいて、安田さんはしみじみとこうつぶやいた。

「……そやからねぇ、レコードの針だけはほんと恐ろしいよ」

 いや、その、別に針じゃなくても碁石だろうが金魚だろうが、食べ物以外のものを飲み込むのは普通の人間にとって何にせよとんでもなく恐ろしいんですけど。

 どうもあるひとつの方向に修練をしていった芸人や職人といった人たちは、こういうちょっとしたところの基準が僕たち凡人と違っていることがままあって、それが本当にあっけらかんと馬鹿馬鹿しいまでに乾いたズレの感覚を引っ張り出す。そのどこか本末転倒してしまった感覚に、僕はやっぱり笑ってしまう。あっという間に関節を外されたような、いきなりとんでもないことに出くわした時のような、そんな笑いだ。

「今年はなんか関東の仕事が多いんですわ。秩父も行くし、夏は神奈川の方とかよう回ることになってますから、また遊びに来て下さい」

 そう言う安田さんは、またゆらゆらとあの手つきで、小屋の前に足をとめる子供たちをあやしく誘い続けていた。