趣味は社会主義――『朝日ジャーナル』という「趣味」の雑誌

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 今も『朝日ジャーナル』を読んでいる人たち、というのがいる。

 いや、天下の朝日新聞の、それも売りものとして世間に流通している雑誌なのだから落ちぶれたりとは言え何万人かの読者はいるのはあたりまえ(かな?)なわけだし、第一そういう人たちがいらっしゃるからこそ、たかだか僕程度の小僧っ子までがこうしてありがたく連載仕事を頂戴できているわけで、おまえいきなりそんな文句を言えた義理か、と問いつめられれば、めっそうもない、と即座に平身低頭するしかないのだが、しかし、言いたいのはもちろんそういうことじゃない。

 今も『朝日ジャーナル』を半ば習慣のようにあたりまえに読んでいる人たち、と言えばもっと正確かも知れない。あるいは、今やほとんど面白くもないし信用してもいないのだけど、それでもかつて美しかった(らしいのだ、これが)日々の『朝日ジャーナル』の思い出があるものだから、未だ「昔の名前で出ています」という風情の若づくりのそれをつい手にしてしまう人たち、というのもかなりいいセンだろう。何にせよ、そういうある限られた人たちの間では『朝日ジャーナル』というのは何か特別な意味を持った雑誌だったのかも知れないし、難儀なことに今なおそうかも知れない、ということなのだ。

 本当に心底驚き、次にはう~んと考え込んでしまったのだが、たとえばこういうことがある。僕の勤め先の大学の場合、『別冊宝島』であれ『サンデー毎日』であれ『ミュージックマガジン』であれ、世間の雑誌に何を書こうがまわりから何か言われるということはまずない。ところが、こと『朝日ジャーナル』に何か書くと、ふだんはとてもことばなどかけてもらえないような年配のエラいセンセイまでが、「読みましたよ」とニコニコ顔でわざわざこっちの方へ寄ってきたりするのだ。見かけはともかく根が凡庸な小心者だからこっちは恐縮するやらどぎまぎするやら内心大汗かく騒ぎになるのだが、でもあのニコニコって一体なんなんだろう、というのはずっと気になっていた。

 なんと言えばいいのか、古い加藤茶のギャグで申しわけないが、あんたも好きねぇ、というような、なんだかんだ言ってあなたも似たようなご趣味じゃないですか、というような、そういうなんだか対応に困ってしまうような人なつっこさのニコニコなのだ。で、さらに困ったことにそれはその書いたものの中味についてニコニコしてくれている、ということではまずない。中味が何であれ、『朝日ジャーナル』から原稿を依頼されて何かを書くような人である、ということがそのニコニコ方面にとっては最も重要らしいのだ。

 大学なんて浮世離れした妙ちきりんな場所だからそうなんだ、と言われるかも知れない。でも、これによく似た雰囲気は出版業界のある種の人々にもある。地方公務員のある種の人たちにもあるし、ある種の中学や高校の先生にもある。あるいは、これは推測だが、たとえば市民運動に頑張っているある種のオバさんたちだってそうだろう。そう、『朝日ジャーナル』ってのは、なんか知らないけどそういう幅広い層のある種の人々のための“趣味”の雑誌、という印象がずっとあるのだ。もちろん、そのある種の人々はそれを“趣味”などとは絶対に思っていなかっただろうし、今もほとんど思っていないだろうけれども。

 僕が学生時代、ということは七十年代の末期ということだが、当時でもすでに『朝日ジャーナル』を読んでいるような人間というのは、ちょっとした匂いのある人間だった。どういう匂いかというと、俺は、あるいは私は「社会」に眼を開いているぞ、ということをまず第一の目的としてディスプレイするような状態にある背伸びした若いモンの持つ匂い、とでもいうようなものだ。彼らのある部分は当然のように大学院に残ったりするようなものだったが、といって、それまでくぐってきた高校までの学校の世界にいた“勉強ができる奴ら”の匂いとも、それはまた少し違っていた。

 中学や高校の優等生がそのまま大学へ来たとしても『朝日ジャーナル』を読むわけではない。だが、そこそこ勉強もできて、なお音楽や映画や漫画やスポーツといったもの、言い換えれば「学校以外」の世界につながりそうなものにそれなりの興味を持って能書き言ったり、どうかすると自分も手を出してやりたがったりするような奴ってのはかなりの確率で一度は『朝日ジャーナル』を手にしたはず、という感じだ。単なる優等生というんじゃなくて、他者指向型のそこそこ(これが曲者)高偏差値人間。彼らをある部分でまとめることのできる“趣味”を期せずして『朝日ジャーナル』が準備したってことだ。近いところでは筑紫編集長時代の『朝日ジャーナル』の売れ方など、実はその程度のものだ。

 で、僕はというと、少なくともそれは単に“趣味”かも知れないという自覚もないまま、そういう“趣味”が一致するらしいという徴候だけでニコニコしてしまうような人のよさってのは良くも悪くも持ち合わせていない。だって、はっきり言って俺、人悪いもん。“趣味”は反原発です、とか、フェミニズムです、とかにっこり笑って言えない連中に世の中好き勝手に変えられるなんて、そんなの絶対耐えられないもんね。きちんと“趣味”の自覚も準備もないまま“趣味”やってるから暗くなったりひきつったりするし、何よりいつまでたっても“趣味”以上にもなれないわけでさ。宮本顕治だって、いやぁ、あたしゃ社会主義が“趣味”なんで、って言ったらずいぶん風通しもよくなると思うんだけど。というわけで、ずいぶん長い間気がつかなかったんですけど、今や『朝日ジャーナル』は単なる“趣味”の雑誌です、って勝手に宣言するところから始めたいと思います。下村編集長、ごめんなさい。*2

*1:朝日ジャーナル』「書生の本領」連載原稿。

*2:最後の編集長は、下村満子でした。