浅草イサミ堂 聞書

 街がさびれる、という。だが、それは実はそう単純なプロセスでもない。さびれてゆくその途中で街もまたさまざまなかたちをとり、さまざまな経験をはらんでゆく。それは、有機物がゆっくりと分解し、かたちを変えながら最後また土に還ってゆくのにも似ている。

 店をたたみどこかへ移ってゆく人が増えるだけではない。まず夜が早くなる。七時にはちらほらシャッターを閉め始め、八時をまわればほぼ一通りが絶える。それに老人が増える。いや、実際に増えるというよりも目に立つようになる。表通りに華やかさがなくなる。色がくすむ。忘れられたようなパチンコ屋の光り具合だけが、場違いのわびしさでそこにある。それも閉じると、あとは自動販売機と点滅する信号だけが黒く沈んだ建物の波をところどころにふちどるばかり。

 浅草もまた、そういう“さびれる”過程を少しずつ確実に踏んできた。ロックスだ何だと若者を当て込んだビルを作って少しは流れに棹さそうとやっきになってはいるが、なにせ交通のアクセスが最悪。西方向にふくれ上がった今の東京の光の部分とつながる路線が地下鉄以外にない。その昔、盛り場としての全盛時に鉄道の駅を作ることを拒否したことのツケはこういう形で回ってきている。

 その浅草の中心、雷門や吾妻橋のあたりからややはずれた馬道の並び、トラックやバスが排気ガスばらまきながら走り去る片側二車線の脇に、ひっそりとレコード屋が一軒ある。名前はイサミ堂。間口三間足らずの鉛筆ビルにありふれた歌手やバンドのポスターがこともなげに貼られていて、店先には中古のシングルやレコードがひと山いくらの棚ざらし。特に商売熱心という印象でもない。どこにでもありそうな街の小さなレコード屋ではある。

だが、この店はその道では知る人ぞ知る、戦前のSP盤の一大コレクションを持っているのだ。

「私よりもむしろオヤジが好きだったものでね。オヤジが好きなものを集めてたんです。もともとは歌舞伎が好きだったらしいんですが歌舞伎だけじゃなくて、ほら浪曲でしょ、義太夫に映画説明、琵琶とかね。あと浅草のものとか、いろんな名所案内とか、とにかくなんでもあるんですよ。ただ、これはみんな戦後集めたんです。空襲で全部焼いちゃったんですよ。戦争前だと変わったものがもっとあったらしいんですけどねぇ」

 それでもビルの四階、六畳あまりの部屋一杯、きちんとラベルが貼られて分類された四隅の戸棚はもちろんのこと、いずれ時代もののキャビネットや箱の中までさまざまなSP盤レコードが山のように積まれている。浪曲が多いのは時代の必然だろうが、講談や新内、演説なども混じる。とにかく掛け値なしに壮観だ。

「数ですか? そうだなぁ、ざっと一万二、三千はあるんじゃないかなぁ」

 十年ほど前、コレクションの主であるお父さんが亡くなった時、いっそ売っちゃおうかとも思ったという。

「こんなものはなきゃないで構わないようなものでしょ。そりゃあたしだって好きですけど、どうしてもなきゃいけないってもんじゃないですしね。あっちこっちから売ってくれ譲ってくれって言われてたし、どうしようかって言ってたん」

 それを聞きつけた浪曲研究家の芝清之さんが後見人のような形になって、なんとか保存することにしたという。偉いッ、と思わず声をかけてしまいたくなるくらいの大英断だったと思う。僕は浪曲関係しかわからないが、なにせこのコレクション、今ではまずお目にかかれない初代桃中軒雲右衛門のレコードの各ヴァージョンを始め、さまざまな珍品を含めた浪曲黄金時代の吹き込みがきれいに揃えられてある。

 日本のレコード産業の基盤は大正から昭和にかけての浪曲レコードが作ったと言われる。それほど売れたのだ。戦後になって戦前の反動もあって貼りつけられた浪曲=封建的という図式のせいか、ともすれば浪曲とはやたらめったら古いもののように考えがちだが、それは間違いだ。浪曲とはレコードという複製技術と同調しながら大きくなっていった正しく近代の民衆芸能なのだ。アメリカでは黒人ブルースの初期吹き込みをこのようにコレクションし研究の便宜を図るのが民俗資料館の仕事だったりするのだが、そのレイスレーベルにも等しい初期民族音楽の貴重な記録がここにはある。NHKを始め放送関係も必要があればこれら古い盤を丁重に借りにくる。本当ならどこかの民俗資料館か博物館あたりがきちんと保存しなければならないような、この国の近代をつづる第一級の歴史文化資料だ。

 さびれてゆく過程で、街はこんなとんでもないものをはらんでしまう。「ナウ」からはるか遠ざかって久しい浅草も、そう一概には馬鹿にできないのだぞ。


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 店の創業は昭和八年。根っからの浅草っ子だったお父さんが始めた。

「オヤジはね、もともと都電の車庫に勤めてたんですよ。運転手じゃありませんよ。整備の方です。これがレコードが好きでねぇ。都電、当時は市電ですか、なんか芝浦に工場があったらしいんですが、そこへレコード屋が売りにきてたらしいんですよ。ほら、職員相手に売りにくるっての今でもあるでしょ。そこでうちのオヤジがあんまりレコードにイレこんで給料そっくりレコードにはたいたりするもんでね、その売りにくる人が、そんなに好きならレコード屋になったらどうです、ってんでレコード屋になっちゃったんですよ」

 レコード屋になれば仕入れができる。仕入れをすればあまり市場に出回らないような珍しい盤を確実にとらえることができる。コレクションを充実させたいという欲望と一石二鳥。文字通り趣味と実益を兼ねた決断だった。

「今みたいにこんだけ商売があっちゃうとレコード屋だって難しくなっちゃうし、昔はみんな商売なんて年季が入ったものだけど、こんなものは当時はまだ珍しい商売だから年季もヘチマもないからね。かえって本屋なんかの方が始めるのは大変だったんじゃないかなぁ。で、オフクロにレコード屋やらせてオヤジはそのままずっと勤めてたん。そしたらね、戦後すぐ二十一年から二年くらいですかねぇ、針やゼンマイとかそういうレコードのものがうんと儲かった時代があったらしいんですよ。十条にその頃住んでたんですが、オヤジの言うには修理やって一ヵ月の給料一日で儲かるような時代だったんだそうです。それが会社に見つかってクビになっちゃった」

 その先代、普段は浪曲を好んで聞いていたという。それも木村派。関東節の本流だ。

「重松とかをよく唸ってましたよ。その頃うちはレコードの卸しやってて儲かってたし、僕はまた一人っ子だったんでセールスマンの人が工場連れてって見せてくれたんですよ。東京で二、三番くらいには売ってましたよ。あのね、SP時代のレコード工場ってね、ちょうど鯛焼きみたいなのが並んでてガチャーンガチャーンってやってたの。鶴見の工場へ行ったんだけど、材料はベークライトでしょ、四角い餡こみたいなのポンと入れてね。中に芯がある場合は紙入れてね。そうそう、割れないように紙の芯入れるんですよ」

 時代としても、レコードがひとつの商売になり始めた頃だった。

「あれは昭和の始め頃かなぁ。戦争前にね、「露営の歌」とか流行ったでしょ。オヤジが言ってたけど、ああいうのを二百枚ずつ仕入れてくるんですって。それで置いとくとみんなその「露営の歌」なら「露営の歌」ばっかし買いにくるらしいんだな。宣伝力がないから口コミでしょ。で、売れ始めるととにかくそればかりムチャクチャに売れたんですって。大正くらいまではSPレコードも一枚ものなんですよ。昭和になると二枚ものが出てきたんです。今度は戦争中から戦後にかけて浪花節なんかは四枚ものになってきた。レコードなんて最初はすごく高いものでしたからね。四枚ものなんか買う人いなかったんだけど、そういうのが出始めたってことは安くなったんでしょう。戦後だって二十五、六年頃でも一枚二百五十円くらいしたでしょう。確かEPが初めてできた時にやっぱり同じくらい。LPなんか二千円くらいしたんだから。今の値段に直したら大変ですよ。あの頃だとLP一枚頼まれると僕ら池袋の先の方まで届けても結構商売なったんだから。当時はみんな配達ってのやったもんですよ。今でも古い店はみんなやってるでしょ。売り込みにも行きましたよ。喫茶店とか蕎麦屋とかね。針も結構儲かったんですよ。電車乗っかって届けてやってくっつけてやって、それで儲かったんだから」

 その“儲かった”記憶からすれば今はもう商売の楽しさはないのかも知れない。

「今は安くなり過ぎたんだね。うんと売らないと商売ならないし在庫もうんと置いておかないとダメだからね」


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 昭和初期、何の蓄積もないところから新しく始める商売としては魅力的だった、というレコード屋。だが、CD全盛の今日、それはかつてのような魅力はなくなってしまった。小さい頃から見よう見真似で家の商売であるレコード屋を手伝ってきた浅草イサミ堂主人梅若裕司さんは、その転変の風景を楽しそうに語ってくれる。

「ニッポノホンの音譜目録ってのを見てると、これは大正六年の本なんだけど、もうほんとにいろんなレコードが出てるのね。だから、その頃にはもうレコード屋ってのも結構商売になったんじゃないかと思いますよ」

 奥の方から出してきてくれた小さな本。煤けた色をした見るからに古本然としたものだが、これはなかなか見ものだった。当時のニッポノホンレーベルのカタログなのだが、このカタログ、今の写真のものと違ってそれぞれのレコードの中味、つまり浪曲なら浪曲の歌詞というか語りの部分が全部載っているのだ。つまり、今で言うところの歌詞カードが一冊のカタログとして本になっているようなもの。中味が一覧できるようになっているわけで、そういう意味では当時の人たちは歌手の名前や歌のタイトルでなくその録音されている歌詞や語りという中味を問題にしていたということになる。

「同じレコードでもクラシックは高かったね。流行歌が十二インチで二百五十円くらいの時にクラシックは三百円以上したんですよ。戦争前でもセットもんなんかあったんだから。『カルメン』なんか十二枚ものでね。今で言えば二十万か三十万くらいの値打ちでしょう。あんなの一つ売れればひと月ラクに食える。戦後、昭和三十年くらいでも一日に一万円か一万五千円売れれば食ってけたんじゃないかな」

 SPレコード全盛の頃は、店の風景も今とは違っていた。

「当時はね、今みたいに全部レコードを並べとくんじゃないん。一枚ずつ見本として並べといて、それを見てお客さんはこれがいいって言うわけ。で、こっちは奥からそれを出してくる。奥は二十枚ずつの引き出しになっててね。そうそう、ちょうどこんなの」

 言われて指さされ、初めてそうかと思ったのだが、部屋のぐるりに並んでいるレコード棚やキャビネットは別に特別誂えのものでもなく、それはそのまま昔のレコード屋の商品棚だったものなのだ。なるほど、道理でよく整理されているわけだ。

 SPレコード二十枚程度が重ねて入るくらいの木製の引き出しがあって、それが何段にも重なってひとつの棚を作っている。豪華盤や愛蔵盤のためにはそれにさらに観音開きの扉がついてたりする。引き出しにはそれぞれインデックスラベルがついていて、それは親父さんの字なのか、「講談」だの「歌舞伎」だの「浪曲木村若衛」だのと毛筆で書かれている。ちょっと見ると呉服屋か何かの倉のようでもある。ある程度以上重ねるとすぐに割れたというSP盤ならではの整理法だという。ちなみに、レコードを立てて整理するようになったのはLP盤が出回るようになってかららしい。

「店だけじゃないですよ。店からお客さんが持って帰るのも今みたいな袋じゃなくて折りたたみの紙があってね。これをタトウってんです。どうしてタトウってんだかわからないんだけど、それで紙ひもで結わえてぶらさげるようにするわけ。で、そのタトウはメーカーから買ってくるわけ。裏に新譜の情報なんか入っててね。宣伝になったもんです。えーと……ほれ、これだこれだ」

 部屋の隅の方に下敷きになっていたそのタトウが眼の前に引っ張り出される。レコード会社の宣伝文が刷り込まれた薄茶色の紙。そのタトウを使った梱包の手順を梅若さんは器用にやってみせてくれた。大きな煎餅か何かを新聞紙のようなものではさんでもらった状態を想像していただきたい。それを紙ひもで十字にゆわえ、手でぶら下げられるようにする。客はぶらぶらとレコードを下げて家へ持ち帰ったのだという。宴会帰りのオヤジたちが約束ごとのように折詰を手にぶら下げていた時代、レコードたちもまたそのようにぶら下げられて運ばれていた。少し調べてみれば、同じような運搬法をする“もの”は他にもあったかも知れないと思う。割れやすくて、ある程度重くて、というような“もの”。たとえば、瀬戸物の皿とか。第一、ラジオじゃレコードを「お皿」(ディスク)と言ってきたじゃないか。

「アルバムだってね、もともとは写真というよりレコード用のものだったんですよ」

 確かに、LPレコードをアルバムという言い方は今もある。写真のアルバムというのともの言いは同じだが、そのアルバムももとはレコード用のものだったというのだ。これも即座に部屋の隅から見本を出してきてくれる。なにせ実物だ。文句のつけようがない。

「このアルバムにも材料が木を使ったものとか革のとか、またいろんな種類があったんですよ。そういうレコードを保存するための道具も当時はまた結構売れたんです。全部CDになっちゃうまではそういうレコードまわりの部品とか道具屋ってのがいっぱいあったんですよ。シャワー(レコードスプレー)の専門のとことかね。あとクリーナーだとか、アダプターに針、油ね。そういうのがCDになってから全部ダメになっちゃった。だから、針だけがなくなってる分にはまだよかったん。そうじゃなくてレコードに関するものが全部ダメになった。それにCDはレコードみたいに一回かけるたびに拭いて、なんてことしないでしょ。それらまわりの品物も一度になくなっちゃったん」

 当時はレコード屋だからとレコードだけを売っていたわけではない。レコードまわりのそんな道具はもちろん、レコードを再生する肝心の蓄音器、その蓄音器の販売もやれば修理までやったという。レコードというそれまでこの世に存在してなかった新しい“もの”のまわりに少しずつ結晶していった新たな商売の領域。ひとつの“もの”がどれだけの暮らしの広がりを支えるようになってきたかを思う。

「それまでの蓄音機はゼンマイだから、これの修理はもともと時計屋の領分だったわけ。それが電蓄になってからラジオ屋が修理するようになったわけね。それも今みたいにオーディオなんとかってんじゃないんだから。配線なんかと一緒にやってたところもあったね。とにかく電気まわりはみんな電気屋。お客さんの方も見当つけて持ち込むからね。電気屋か時計屋か。ところが蓄音機ったってネジあけりゃ中味は簡単な機械だから、我々でもちょっといじって直せたんですよ。で、簡単に直せない場合は専門の修理屋へ持ってゆく。それに時計屋が多かったってわけね。部品は部品でまた別に売ってて、歯車なら歯車で歯の数が二十何枚から四十枚くらいまであったかなぁ、ゼンマイでも“コロンビアの八分”とか“インチ”とか“ひっかけ”とか、いろんな種類があるんです。振り子もある。こっちが作れないのはサウンドボックスくらいのものでね。今は部品がないから大変だけど、部品さえあれば今でもすぐ直せます。吉原とか菊屋橋とか向島のあたりとか、そういう修理屋ってのはうんとあった。みんな普通の家でね。ちょっと小器用な人が自分でやっちゃう。勝手に部品買ってきて直しちゃう」

 こういういい加減で情熱的な使い回しの発想が、僕は大好きだ。そう、できそうなことは自分でやっちゃう。要はまたちゃんと動くようになりゃいい。だったら、専門店に頼ることもない。また専門店の方も今のようにサービスセンターなんてものもない時代。暮らしの中に自然にそういう新しい“もの”を支えてメンテナンスしてゆく仕掛けができあがってゆく。結果オーライ。それで困らない領域ってのは別にそれでもいいのだ。

「針もやったよ。自分で作ってセロハン巻いて箱に詰めてね。そうそう、缶入りのもあった。リズム蓄針ならこういう音符のマーク、ビクターなら犬のマークって具合にブリキで缶を作らせるんですよ。二百本入りとか千本入りとか。材料は鉄ですよ。医者とか薬屋の天びんみたいなので計ってね。針の材料はバネとかネジ、クギなんてものを扱ってた人が作ってたんですね。西新井によくつきあった人がいたけど今どうしてるかなあ」

 出口があれば入り口がある。割れたりして売れなくなったレコードもまた、新たな商売の領域を作っていった。もう無限連鎖、こういう商売の論理にはきりがない。

「中古のレコードはレコードでまた仕事があるん。大塚の方へ行くとそんなレコードをつぶして印鑑の印肉の器にする商売があったんですよ。ほら、朱肉の台の黒いのあるでしょ。あれですよ。レコードの割れたのとかみんなそこへ持ってったんですよ。ものはベークライトでしょ。溶かしてまたさっきの鯛焼きみたいなのでガチャーンとやれば別のものになるんですよ。それも芯に紙の入ってないのがよくてね。割れにくいようにボール紙が入ってるのがあったんだな。僕ら見れば大体見当つきます。またハンコ屋の方にもいろいろ事情があってね、ポリドールはものがいいからガワにそのまま使えるけど、トンボとかそういう国産のは材質が悪いからそのままじゃ使えないとかね。だから他のメーカーのは同じ割れレコードでも二円だけどポリドールとかビクターの黒盤は十円だったなぁ。それを二百枚、最高で三百枚くらい自転車に積んで持ってったことあったよ。それで大塚まで行って三千円ですよ。それでもって一日食えちゃったんだから」

 街がさびれてゆくということは、街の商売を支えていたこういう「食える」に収斂するある世渡りの感覚もまた少しずつさびれてゆくということだ。「あのね、レコード屋ったって中にはずいぶんハンパなのがいたんだから」と笑いながら昔話をしてくれる梅若さんの、その「ハンパ」というもの言いが、今の浅草にはもうきれいに響かなくなっていることくらいは、CDに慣らされた僕の耳にもよくわかるのだ。