ラチの向こうの「世界」――JC十一年、公営競馬から見たニッポン競馬の激動期


 ジャパンカップが開催されるようになってから、目立って変わったことがひとつある。

 たとえば、競馬場の厩舎はもちろんのこと、小さな育成牧場やちょっとした生産牧場に働く人たちの間にまで、あのジャパンカップのロゴの入ったキャップやウインドブレーカー、トレーナーなどを誇らしげに着る姿が増えた。失礼ながら色使いにせよデザインにせよ正直言ってあまり品が良いとは言えないあのキャップを、まるで自分が競馬に関わり、生きた馬のいる場に日々身を置いていることについての誇りを託すことのできるたったひとつの“もの”のように、汗と土ぼこりと寝藁屑とで黒ずんでくたくたになるまで肌身離さない、そんな風情の馬稼業人たちが八〇年代、少しずつ目に立つようになった。     
  
 とりわけ、若い世代はそうだ。彼らは昔ながらの乗馬ズボンではなくジーンズで攻め馬に乗る。まずは中央競馬のまわりに限ったことではあっても、そんな洒落た姿があたりまえになっていったのも、やはりここ十年あまり、ジャパンカップこのかたのことだ。そして、尻に小粋にステッキを差した姿で馬の背にまたがる彼らは、「JAPAN CUP」と記されたウインドブレーカーをさりげなく羽織ることのできるだけの、自分の仕事についてのある誇りをかたちづくっているように見える。

 それは、同じ生きた馬にまつわる仕事をしながら、ある局面でいつも中央競馬を上目遣いに眺めるしかない公営競馬の人々にとってはより切実なものだった。ほとんど報道もされず、限られた範囲での競馬の現実に日々追われる彼らにとって、いきなり天から降って湧いたようなジャパンカップは、ほとんど信じられない夢のようなものになった。

 今でもよく覚えている。桑島孝春を背にしたロッキータイガーシンボリルドルフの大外から冷たい泥をはね上げ猛然と突っ込んできて二着になった、あの一九八五年のジャパンカップの後、まるで生まれて初めて海外旅行に行った子供のように瞳を輝かせながら、ちッくしょう、おいジャパンカップだぜ、ったく一度でいいからあんな馬をやりてぇなぁ、と熱っぽく語る厩務員や調教師の姿がそこここにあった。いつも一緒に遊んだり喧嘩したりしていた隣のナントカちゃんがいきなりオリンピックに呼ばれて銀メダルを獲った、そんな身のふくらむような昂揚があった。おそらく、公営競馬場の厩舎では、程度の差はあれ、どこでも似たような光景が見られたはずだ。晩秋の府中、緑の芝馬場、いつか話には聞いていた「上流階級の社交の場」としての競馬場の雰囲気、国際会議のようにパリッとした正装に身をかためた紳士やご婦人たちがおだやかに談笑するその晴れの場所で、灰色の湾岸高速が視界を切り裂く潮っぽい船橋の、斜めにかしいだような厩舎に棲むあの小さな馬でさえ一発キメたんだ、いつかは俺の馬だって……静かに考えれば腹立たしいことばかりの日々の満たされなさを一気に裏返すある強烈な「夢」の具体像として、彼らの意識に「ジャパンカップ」が定着されていったとして何の不思議もない。

 第一回からすでに十一年。所期の目的を十二分に達成し、ひとめぐりしたジャパンカップを一番切実に、何らかの昂揚感と共に引き受けていったのは、おそらく日々馬に接し、競馬という巨大産業を最も末端で支えるそんな現場の人たちだった。それはラチのこちら側にひしめく「僕たち」ではなかった。ジャパンカップを介して、眼の前を駆け抜ける馬たちの向こうに束の間見たつもりの「世界」があったとしても、それはいつもラチの向こう側にゆらり揺れるたよりないものであり、なんとかしてあそこまで行きたい、と歯ぎしりするような想いをおのが生と切り結ぶところで抱え込み、その確かな手ざわりに背筋伸ばしてまた馬に向かい合う現場の人たちにとっての「世界」ではなかった。


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 「世界」との第一次遭遇は強烈だった。

 アメリカからやってきた体重450キロの小さな牝馬にいきなりレコードでぶっちぎられた。名前はメアジードーツ。府中の芝2,400mを2分25秒3。今でこそ、へぇ、そんなもんなの、で済ますこともできるけれども、当時のコースレコードグリーングラスの2分26秒3だ。出会い頭に時計ふたつ。この「違い」は絶望的だった。しかも、逃げたサクラシンゲキのテンの5Fが57秒8というムチャクチャなハイペースを四角九番手から上がり36秒台の脚で差し切るという凄まじい破壊力。坂を駈け上がってからのさらなる伸びはまさしく怒涛のようだった。見てくれだけに限ればどう見ても良い馬とは思われない、パドックではそれこそ「牛みてぇだな」と冷笑した馬たちにもみくちゃに蹂躙されたのだ。馬券の痛みだけが確かなもののラチの「こちら側」ですら、あまりのできごとにぽかんと口あけるしかなかった。現場の人たちのショックは推測するにあまりある。

 異論が山ほど出ることを承知で敢えて言えば、ジャパンカップの始まったこの八〇年代始めの時期というのは、中央競馬の馬たちがあるひとつの完成に達していた時期だった。

 説明しよう。ジャパンカップを提唱し、すぐ後には距離別重賞体系を整え、それまであったこの国の競馬のあり方を根こそぎ変えてゆくガイドラインを結果として提示することになる馬事振興研究会の発足が一九七九年五月。その答申は八一年の二月に出ている。これを受けて軽種馬生産振興対策協議会が組織され、そこで「強い馬づくり」のための七本柱が提示される。これによって、生産地に対する生産対策が積極的に施されるようになってゆく。競馬場の華やかな光景だけを「競馬」と見るしかない「ファン」にとってはいつもどこか他人事でしかない競走馬生産の側面にも、この時期、「国際化」へ向けての大きなうねりが具体的に襲いかかり始める。戦前の軍馬改良という国策の下の競馬はひとまず別にしても、少なくとも戦後、戦災復興資金の調達という目的で作られた新競馬法の下、国営競馬を引き継ぐかたちで設立された日本中央競馬会(現JRA)を中心とした仕組みが高度経済成長をくぐった大幅な大衆化路線の果てに到達させたこの国の競馬のひとつのあり方とは、この時期の一流馬に体現されていた。それは、馬の素質とその素質がある程度ゆっくりと成熟してゆくことを待てるだけの仕掛けとがある微妙な均衡をもって安定していた、ささやかな幸福の時期だったのかも知れない。日々の調教の中でゆっくりと鍛えられ、成熟していった馬の“強さ”。大風呂敷を広げることを許してもらうならば、それは確かに、この国の競馬の「旧制度」最後の輝きだった。

 実際、それほどこの時の日本代表馬は充実していた。少なくとも、「こちら側」はそう思っていた。

 いや、おそらく、現場の人たちの多くも当時そう思っていたはずだ。まさに「古馬」というもの言いにふさわしい円熟を見せていたホウヨウボーイがいた。五歳を迎えた若武者モンテプリンスがいた。野戦慣れした鬼軍曹のようなメジロファントムもいたし、頑固一徹の鉄砲玉サクラシンゲキだっていた。牝馬にはカミソリの切れ味を誇るラフォンテースがいたし、元気娘のジュウジアローもいた。“外車”タクラマカンも戦列に加わっていた。浦和から中央に移籍して頑張っていたゴールドスペンサーもいた。

 勝てる、と思っていた。少なくともそんな期待は充分過ぎるほどだった。これだけのメンバーを揃えたのだ、招待馬にはヨーロッパの馬はいないし、ザベリワンは別にしてもみな文句なしの一流とは言い難い。なにしろ初めての試みだ、右も左もわからない東洋の島国の招待競走に来てくれるというだけでありがたいくらいだ。それに対してこっちは走り慣れた府中の馬場のこと、勝てて不思議はない。よしんば勝てないにせよそんなにひどいレースはしないはずだ……オッズは正直だった。一番人気は招待馬の中で実績が抜けていたザベリワンだったが、すぐその後にはモンテプリンス、続いてホウヨウボーイという人気。だが、結果は惨敗。それまで海外に向かっては事実上の鎖国状態に等しかった「旧制度」に対する「黒船」の効果は充分過ぎるほどだった。

 「強い馬を」と誰もが言った。

 「外国馬に負けないだけの力を持った強い馬を作らねばならない」

 ひとまず反対する理由は何もなかった。確かにそうだ。招待競走と肩張っていても小さな牝馬にあんな時計で走られてしまう、その距離を少しでも埋めることのできる馬を作らねばいけない。「世界」は遠いのだ。「世界」というもっと大きな目標に向かって、少しずつ力をつけてゆかねばならないのだ。

 当初は、「国際競走ではあっても、規模はあまり大きくせず、北米、南米、オセアニア、アジア競馬会議加盟国の中で生産をやっているインド、トルコを加えた、環太平洋国際レースというイメージ」(JRA国際室伊藤弘氏)だったジャパンカップは、いざ始めてみると内外に予想以上の反響を生んだ。のちに一九八四年からは、ほぼ同じ時期の十一月初めにブリーダーズカップシリーズがアメリカに創設されて、超一流馬たちを呼びにくくなったという事情が出てきたものの、その高額賞金とあいまって、良くも悪くも「旧制度」の中でまどろんできたこの東洋の島国の競馬の現実が、「世界」の視線の前にベールを脱ぎ始めた。それは、「世界」の側にとってもまたひとつの驚きだったはずであり、そしてまた次の瞬間には、この先きっちりと自らの論理に組み込んでゆくべき「未開」の沃野として認識されてもいったはずだ。

 二年目。なんとジョンヘンリーが来た。生身ひとつで蒸気窄岩機と勝負して、勝ったはいいが心臓が破裂して死んだ、という裸一貫の下層労働者たちの英雄に名を借りた彼は、その名に恥じぬアメリカ競馬の伝説的な英雄になっていた。さらにヨーロッパからオールアロングが来た。エイプリルランもいた。前年と比べて招待馬の質は明らかにケタ違い。興行の目玉は揃っていた。ただ、日本の馬は買えない、というので売り上げがガックリ減った。日本代表馬はスイートネイティブトドロキヒホウ以外全てマル地で、ヒカリデュール、カズシゲ、カツアールの“三匹の侍”。第一線のオープン馬を並べた昨年から一転した腰の引け具合は明らかだ。勝ったのはアメリカのハーフアイスト。そして、“三匹の侍”は日本代表馬の中で上位を占めた。ヒカリデュール四着、カズシゲ五着、カツアール七着。中でもヒカリデュールの健闘は光った。一ヵ月後、泥んこの有馬記念を後方一気、当時絶好調のアンバーシャダイを並ぶ間もなく差し切ることになるこのサラ系の英雄は、大井から東海に転戦した後の中央入りだったし、後のダービー馬ダイナガリバーの半兄カズシゲも同じような戦歴だった。共に橋本善吉氏の服色での出走。大井から殴り込んで天皇賞二着の後、宝塚記念をもぎとっていたカツアールも存分にその底力を見せつけた。後にオグリキャップイナリワンの活躍で「マル地旋風」が取りざたされるようになるが、それ以前、この時期の公営馬の“強さ”というのも、先の「旧制度」のある達成に他ならない。彼らの多くが今、種牡馬として不遇なのも、その後のこの国の競馬の急激な変貌とどこかで関わっているはずだ。

 三年目。ハギノカムイオーが逃げた。アンバーシャダイメジロティターンもいたのに日本馬では一番人気というオッズが、まともにぶつかっては勝てるわけがない、それよりは先に行ける分なんとかなるかも知れない、という「ファン」の気持ちを現わしていた。結果は、あとさき考えずとにかくおっ放しての殿り負け。ただし、二着に全く人気薄のキョウエイプロミスが食い下がった。しかもゴール寸前に前脚を故障しての健闘。翌年からの距離別重賞体系の導入決定によって府中最後の二マイル天皇賞の勝ち馬となった彼は、「旧制度」の達成を“それから先”に持ち越す橋渡しの役割を果たした。公営競馬代表として浦和のダーリンググラスも“サブちゃん”高橋三郎を背に参戦した。結果は曳き運動だけで体調を整えたアイルランドの六歳牝馬スタネーラから遅れること1秒5の九着。レース後、あがってきた高橋三郎は、府中の芝馬場の印象を「飛行場の滑走路みたいだ」と言った。そして「一、二回(芝馬場を)使っておけばもう少しなんとかなったかも知れない」ともつけ加えた。

 四年目。ミスターシービーシンボリルドルフ、二年続けて出現した三冠馬が共に参戦するというので人気は湧いた。昨年のキョウエイプロミスに勇気づけられたこともあってか、日本代表馬ミスターシービーが堂々一番人気。そして奇跡が起こった。単なるトップ引きと目されていた伏兵カツラギエースがメンコをつけ、ぶらぶらゆるめた長ッ手綱のひとり旅での逃げ切り。あまりに下馬評の高かったミスターシービーが例によって最後方に控えていたことから、前にいる招待馬たちが牽制しあったことなどを考慮するにしても、「日本の馬でも勝てる」ことをものの見事に証明したという意味で、この勝利は大きかった。そして、その翌年には一番人気に応えてシンボリルドルフが勝ち、ロッキータイガーが二着となる。この間わずか五年。だが、その頃にはもう、この国の競馬は「旧制度」の内側からより新しい、未だ誰も知らぬ未来の方へと歩みを進め始めていた。


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 たとえば、それまで善戦を重ねていたマル地も含めた公営馬たちが軒並み惨敗するようになった。一九八四年、代表馬に選ばれたチュウオーリーガルが府中の本馬場調教で故障したあたりから、その“変化”は始まっていたのかも知れない。

 ジャパンカップに出走した公営代表馬たちの走破タイムを眺めてみる。最高は一九八六年、第六回のジュサブローの2分25秒7(七着)。一昨年一九九〇年、第十回のジョージモナークが2分25秒9(十五着…殿り負け)。いずれもその前の中山開催のオールカマーが事実上地方代表馬の選考レースになってから後の世代で、そこで共に一、二着の成績を収めてきている。それ以外の馬は、馬場状態の違いはあれ、みな軒並み2分26秒のカベに突き当たっている。シンボリルドルフの二着になったロッキータイガーは2分29秒1。不良馬場に近い重馬場だったことはもちろん斟酌すべきだが、しかし、単純比較すればこれは第三回のダーリンググラス(九着)の走破時計と同じである。

 さらにこれを出走当時中央に在籍していたマル地馬にまで広げてみても、世界レコードのホーリックスにクビ差まで肉薄した第九回オグリキャップのおそらく生涯最高のレース、2分22秒2とイナリワンの2分23秒8(十一着)を別にすると、2分26秒のカベをクリアしたのは第一回のゴールドスペンサーと第八回のオグリキャップの記録した2分25秒8だけである。そして第六回以降、ジャパンカップの勝ち時計はみるみる速くなってゆき、よほど下が悪くない限り、2分26秒台での決着など考えられなくなっていった。

 どうしようもない「速度」の壁が、ある時期以降、公営競馬の馬たちに、よりていねいに言い換えれば公営競馬の厩舎にたどりつくようなこの国の「その他大勢」の馬たちの前に立ちはだかるようになった。そしてそれは、厩舎という場と、その場に蓄積され織り込まれてある微細な経験と技術のゆりかごの中でゆったりと支えられながら、自らの「素質」や「可能性」をある確かなかたちに変えてゆく過程では、どうにもならない絶対的な「違い」の部分、よりはっきり言えばかなりの程度先天的に決定されると言われる「速度」の領域が、「旧制度」のまとまりからはがれて突出し始めていることのある現われだとは言えないだろうか。

 ごく個人的な想いを述べることを許して欲しい。僕は全盛時のテツノカチドキを一一月の府中で走らせてやりたかった。思う存分走らせてやりたかった。あの馬は厩の火事にも会った。火傷もした。再起までには辛い日々を過ごした。けれども、一九八五年六月、夏の福島開催で行なわれた地方競馬招待競走に出かけていった時のあの“強さ”を、僕は忘れることができない。平坦の良馬場と言え、マリキータ、ダイナマイン、ニットウタチバナといった牝馬ながら当時屈指の中央の快速オープン馬たちを三角ひとまくり、芝の9ハロン1分48秒フラットという時計でちぎって平然としていたあの当時の彼ならば、間違いなく府中の芝馬場でも「世界」を向こうに回していい競馬をしてくれたと思っている。


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 「世界」はさまざまに眼の前に現われる。ある意味ではそれは、「世界」を見ようと願う者のその願いのかたちに対応している。

 ここ二、三年ばかり、日本人馬主がオーナーとなった外国馬のジャパンカップ参戦が目立って増えた。中にはその後、日本に輸入され種牡馬となる馬も珍しくない。昨年の勝ち馬ゴールデンフェザントなど、売ることを前提に一部牧場関係者などにあらかじめ打診していたようだ。戦前、この国の競馬評論家たちから全く無視されていたこの馬が、ちょうど十一年前、第一回のあのメアジードーツのように、坂上からなお怒涛のような伸び脚を見せてゴールに飛び込み、そしてこれまたちょっと見には「これのどこがいい馬なんだろう」と首をひねるような小さな牝馬マジックナイトがそれに追いすがって、圧倒的一番人気に支持されていたメジロマックイーンに置いてきぼりを食わせる光景を眼の当たりにした時、もしかしたらまだ何も変わっていないのかも知れない、と、ふと思った。

 この十一年間、ジャパンカップがその身をもって示し続けた時代の比喩は、この小さな島国が育んできた競馬の現実が宿す「世界」に対する想像力の問題でもある。

 少し前まで、この国の競馬ファンに「世界」の競馬のことを気にする人間などいなかった。競馬場や場外馬券売場にひしめくその他大勢は、競馬に「世界」があることなど自分ごととして真面目に考えていなかった。サラブレッドという生きものにつきまとう海の向こうからやってくる「良血」たちの名詞は馬券のための断片として流通していても、それがどんな根拠で「良血」なのであり、どんな判断によってこの島国にやってきたのか、などまず考慮の外だった。「旧制度」が一方で温存してきた公営博奕としての競馬とはそういうことだ。そして、それを改めて「文化」と胸張って言えるようになるためには、まだまだこの先、この国の競馬にとっての“伝統”とは何か、ということについての静かな自省も含めて、微細でていねいなことばをかったるいほどの時間の積み重ねの中、少しずつつむいでゆく辛抱が必要なのだ。

 「国際化」とは、自分を外部に説明できる能力抜きには絶対にあり得ない。いかに年間を通じて休みなく競馬を円滑に開催してゆく仕掛けを整備し、売り上げが伸び続け、そのことによって海の向こうから「高い評価」を獲得しても、たとえば、きらびやかなウイナーズサークルに得意満面、口取りに出てくるのがてらてらした赤ら顔の社長であり、見るからにアブナいパンチパーマのオヤジであったりする現実に対してもなお、これが我々の競馬だ、ときちんと説明できねばならない。でなければ、何百年と暮らしの中で馬とつきあってきた「世界」と本当にサシで話せる日など永遠にくるはずがない。ジャパンカップが、そしてこの国の競馬が「お祭り」から抜け出す長い道は、ようやく始まったばかりだ。