馬主のパンク


 『厩舎物語』を出した頃、よく尋ねられたのは、厩舎の人の馬券って当たるんじゃないですか、という質問だった。

 毎日馬に触っているのだから調子もわかるだろうし、それに何より玄人だ。きっと馬券の方だって、と考えるのは別に不自然ではない。

 だが、厩舎における馬券というのは、なんというか、まず当たらない、というのが正解なのだ。

 こんなことを言うと、馬鹿言え、新聞やテレビはいざ知らず、引っ張ったりおさえたりなんて厩舎情報があれだけ競馬場に流れてて、それでなおそんな厩舎の連中の馬券が当たらないなんてことあるか、偉そうに言ったっておまえは全然現実を見ていない、なんて叱られるかも知れない。

 ならばもう少し正確に言おう。厩舎にとっての馬券というのは一律に語られるものではなくて、いくつかの水準があるのだ。

 馬主の馬券、調教師の馬券、厩務員の馬券、騎手の馬券、それぞれ違う。さらに言えば、獣医の馬券、装蹄師の馬券というのもあったりする。新聞屋の馬券とかガードマンの馬券というのももちろんありだ。で、これら全部がそれぞれ微妙にその意味と目的と熱の入る具合とが違っているのだ。

 馬主の馬券は、これはひとまず厩舎では嫌われる。馬券好きの馬主は自分の持ち馬の使い方、勝負の仕方などについて、いちいち口うるさく言ってくるのが普通だ。馬券一般が好き、というのもいるにはいるが、そういうのはかわいい方。彼らの多くはそうではなく、馬券で確実に儲けるのが好きなわけで、となれば、伊達や酔狂で月々高い預託料を払って厩舎に馬を預けているわけでもないから、馬主であることで特権的に接触できる何らかの事前工作や厩舎情報を優先的に欲しがるのは理の当然。とは言え、騎手にせよ調教師にせよ、免許をもらって商売している以上、そんな“ヤバい”馬主の相手になるのもやはり限界はあるわけで、それがいくら“太いダンナ”であったとしても、あまり馬券に執着してうるさく言う馬主はおおむねけむたがられることになっている。

 調教師の馬券というのは、これは多くの場合、愛敬のようなものだ。本気になって自分の管理馬で馬券勝負しようという調教師も皆無とは言わないけれども、しかしそんな調教師はこれまた遅かれ早かれ何らかのトラブルに巻き込まれ、厩舎社会から脱落してゆくのが常。馬券に本気で熱くなるよりも、ダンナの財布のヒモをゆるめることに真剣になるか、でなければ、手だれの馬喰さんとでも組んで自分の管理馬の売買をうまくやり、その“アンコ”をポッポする方が小遣い稼ぎとしてははるかに手っとり早い。余裕があれば、その中から中古の競馬馬でも買ってきて、なじみのダンナの名義を借りて競馬させ、賞金のあがりを取った方が楽しみだし仕事の励みにもなる。というわけで、調教師で馬券にハマるのは、金バッジ方面がらみでもない限り、あまり賢い渡世とは言えない。

 騎手の馬券。これが一番デリケートかも知れない。まず、騎手が自分の利益を考えて馬券勝負する場合。これは、仲間の誰かと共謀して競馬を“作り”、誰かに頼んで馬券を買ってもらうことになる。自分自身の小遣い稼ぎを考えてのことだけれども、しかし、これも調教師と同じく、何かコトがバレた時のリスクの大きさを考えれば、小遣い稼ぎとしてはあまりいい方法とは言えない。では、同じ騎手が自分自身のためでなく、自分の関係のある馬主やその他のダンナたちのために何らかの仕掛けをする場合。これならばまだ現実味が増す。これを一律に「八百長」と呼ぶことには僕はかなり留保条件をつけたいのだが、メディアの舞台に「八百長」として報道されてしまうケースというのは、得手してこの種の場合が多い。近いところでは川崎の本間茂騎手の事件や、詳細は知らないけれども金沢の某騎手が刺されたりした事件も、おそらくこのような場合の仕掛けがこじれたケースのはずだ。ただ、強調しておきたいのは、見返りが具体的な金銭としてあるかどうかは必ずしも疑問だということだ。それは、あるダンナならダンナとの関係の中でのあるサービスなのであり、そのいちいちに対していくら、というような杓子定規な契約でもないはずだ。そして、その仕掛けが失敗したとしても、通常、ダンナはダンナとして笑ってすませてくれるし、そこらへんを鷹揚に構えられないような馬主は「ケツの穴が小さい」「器量のない」ダンナとして厩舎では嫌われる。で、そのような仕掛けの成功率というのは、おおむね三割程度。それも、重賞などはもっての他、必ず下級条件の目立たないレースに限られる。でないと、主催者も見て見ぬふりはできなくなるし、それ以上に、マル暴方面とのからみを徹底的に洗う競馬保安協会、一名KCIAが黙っちゃいない。やはり仕事の場、それなりに約束ごとというのはあるのだ。

 厩務員の馬券、というのもある。これはおおむねかわいいものだ。厩務員同士でノミ屋のようなことをやっている場合もあるし、厩務員席でおおっぴらに人を集めてテラ銭の帳面をつける剛の者もいるが、それでもその額は知れたものだし、何より、管理馬の最終的な責任者ではない分、それほど大がかりな勝負にできるはずもない。ただし、調教師に権限がなく、事実上そんなベテラン厩務員の持ち乗りのような形になっていて、また、馬主関係もその厩務員がらみのところで引っ張ってきているような場合だとちょっとややこしい。書類上はともかくとして、調教師の役割をその厩務員が事実上代行しているような具合になるのだから、ことがバレた時には厄介な問題になる。ただ、主催者もめくらではないわけで、書類上の名義はともかくとして、その馬の実質の権限というのは馬主にあるのか、調教師にあるのか、厩務員にあるのか、騎手にあるのか、それともそれ以外の馬喰さんなどにあるのか、といった“事情”は、下級条件馬はいざ知らず、一定程度以上のクラスに属する馬についてならば大体のところは知っているはずだ。


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 厩舎のおもしろいところは、その馬主がどんな商売をしているか、ということについて誰もほとんど気にしていないことだ。

 もちろん、ひと口で言えないような商売も世の中にはある。馬主にはそんな商売の人がまた結構いる。名詞をもらってわからず、説明してもらってわからず、少しつきあってみてなおさら何なのかわからず、ということも珍しくない。会うたびに商売の変わっている人もいる。けれども、厩舎の仕事にとってはそのダンナの羽振りがいいか悪いか、ということが一番肝心なわけで、その羽振りの良さがどのような過程を背景に伴っているか、ということはひとまず関係ない。カネはカネ、どんな稼業で稼いだものかは基本的に厩舎の知ったこっちゃない。

 「あのダンナにはもうビル二本食わせたなぁ」
 「だったら、もうそろそろ手ェ引いたほうがいいべさ」
 「そだな、そろそろ××にでも押しつけっべ」

 こんな会話がざらにある。最後に貧乏くじを引いた人間がスカなのだ。だから、パンクした馬主に対するミもフタもなくドライな感覚というのも、当たり前に共有されている。

 また、馬主という人たちも、およそ信じられないようなパンクの仕方をしてゆくものだ。 こんな馬主がいた。府中の地主だった。畑を切り売りしては馬に注ぎ込んでいた。高速道路や宅地造成がらみで、持っている土地の値段がみるみるうちに上がっていった。別にここ数年のバブル騒動のこっちゃない。そんなもの、もう三十年このかた、この国の常態になっていったことだ。土地の値段は上がるもの、公共事業の拡大と共に飛行機のように上昇してゆくものと相場は決まっていた。

 その最初の時期に馬を覚えた。やはり不動産売買の関係で知り合った人間に手引きされたという。わけのわからぬままに一頭持った。その人間と調教師とがあてがったなんでもない馬だった。適当に勝ったり負けたりしながら、それでも競馬場につながりができ、厩舎の人間とまじわるようになった。請われるままに次の馬、そのまた次の馬と手を広げていった。血統も勉強した。耳学問の血統が主だったけれども、馬主としてはその方が役に立った。以前、闘犬を少しやっていたこともあって、その時の経験をものさしにしてみると少しはわかりやすかった。牝馬を手もとに残して繁殖にし、北海道の牧場に仔分けとして預けた。できた仔は引き上げて、また競馬を使う。手もとが不如意ならば賞金の中から預託料を払うことも覚えたし、牧場の支払いも口約束で馬だけ先に“積んでくる”ことも見知っていった。

 一時は牧場を持ちたいとも思ったらしい。だが、それはあまりにリスクが大きかったし、またそこまでの事業を手助けしてくれるほどの人間たちに相手にされるということでもなかった。けれども、育成と休養を主に扱う知り合いの牧場は千葉や茨城あたりにできた。そこでは、少し前までは牛をやっていたようなオヤジと組んで、自分の肌馬にそこらの種牡馬をつけて地元の競馬を使うことも覚えた。入厩馬に困っている小さな厩舎ならば、そんな馬と馬主に対してでも「ダンナ、ダンナ」と立ててくれたし、またそれくらいでも充分虚栄心は満足した。そうやって、広大な畑はどんどん売られてゆき、“飼い葉料の下敷き”になっていった。

 僕がその馬主と最後に会ったのは、千葉のはずれにある育成牧場でだった。デキの悪い息子を厩務員としてそこに住まわせ、働かせて預託料を少しでも浮かせていた。厩舎の横の空き地に建てたプレハブの倉庫みたいなところに寝起きするその息子は、牧場の若い衆に「若社長、若社長」と呼ばれ、しかし陰ではあからさまに馬鹿にされていた。

 仔分け馬ばかりの持ち馬は、もう三頭ばかりしかいず、しかもどの馬もいびつに痩せていた。とりたててとりえのなさそうな凡馬ばかりだった。

 中に一頭、その馬主が力を込めて、見どころがある、と言う馬がいた。馬場にしつらえられた櫓に昇って攻め馬を見た。メジロモンスニーの仔で小さい牝馬だった。中央競馬ではまずお目にかからない血統だが、リマンドの直仔ということもあって公営競馬では結構走り始めているし、それなりに成績もよかったりする。その馬も見てくれは悪かったが、動かすとなるほど少しはいい動きをしていた。少なくとも、そこにいた馬たちの中ではちょっといい感じがあった。適度にバネがあって前さばきも軽く、合わせると必死になって首を出そうとする。そこそこ走る予感はないでもなかった。レベルの下がった今の南関東の、たとえば船橋あたりならばうまくすればB級くらいまでは出世できるかも知れない。ただ、この馬主、預託料がそれまで払えるかどうかが問題だ。おそらく、ギリギリまでこの牧場で身体を作って競馬の直前に入厩させて勝負する、それしかない。外厩には違いないが、しかしそれにしても、別に馬のことを考えてじゃなく純粋にゼニ勘定の都合からだからなんとも貧乏臭い外厩ではある。それでも、特別を走るような馬など今ではもう出ようもないこの馬主にとっては、目のくらむような夢なのかも知れない。

 「あの社長の、最後のタマかも知れんな」

 上がり運動に移った馬の後ろ姿を見送りながら、顔見知りの馬喰さんはそう言った。

 「けど、どうせあの牧場のオヤジに(借金の)カタにとられちまうんさ」

 その後、その馬がどうなかったか、今年の三歳戦の出馬表を見るたび、その馬の名前を探してみるのだが、まだ競馬を使ってきた形跡はない。


 追記……今年(九六年)の初め、中央競馬の出馬表にこの馬の名前を発見した。もう八歳になっていた。地方競馬からあがってきて、平地を走らずいきなり障害を飛んでいた。今のところ成績は未勝利のままである。もちろん、馬主の名前は変わっていた。