「変革」を語ることば

 声高に「転換」や「変革」を語る季節がまた、訪れているらしい。

 田原総一郎や、大前研一や、あるいはその他自民党の「若手議員」と称する人々などの顔つきを見ていると、いずれそれなりに誠実であることは最低限認めるにせよ、どこか二・二六の青年将校めいた眼の吊り上がり方をしているか、でなければバブル最盛期のイケイケの高級地上げ屋といった風情。たとえば「平成維新」というネーミングからして救い難く“オヤジ“で、少なくとも大文字の現状認識についてはかなりの程度冷静なはずの大前研一をもってしてもこうか、と、深く嘆息せざるを得ない。

 何かが変わらなければならないらしい、ということは、なるほど、今やこの国に住む人々に相当程度に浸透している“気分”ではある。だが、その「変わる」ということの内実について、つぶさに描き出せる人間もいなければ、そのための言葉も見失われたままだ。

 ぶっちゃけた話、自民党であれ何であれ「若手議員」などどうでもいい、と思う。国会議員などいくらいたところで彼らが現実を変えてゆくわけではない、ということは、これまでにも口が酸っぱくなるほど言われてきた“この国の政治の特質”ではなかったか。むしろ、官僚が何を考えているか、とりわけ「団塊の世代」以下の若手高級官僚たちが今、どのように現実を見、何を考え、この先何をしようとしているのか、少なくとも僕はそれをこそ最も知りたい。たとえば、大前研一がそのような若手官僚層とどのような関係を持ち、どのような利害を共有し、どのような「未来」を構想しようとしているのかについて、信頼できる冷静な報道があまりになさすぎやしないか。

 どうした、ジャーナリズム。相変わらず“現場の事情”ってやつはここからはよく見えないけれども、外資系リサーチ会社の頭目ってのは今のこの国ではそんなにコワいのか?