「歴史」という不自由

 「歴史」はもういらない。「歴史」というもの言いにまつわっているあのカビ臭さが、今やまず絶望的にまで不自由だ。

 たとえば、書店のコーナー、積み上げられる「歴史」書の類。そこにたむろするアスコットタイのオヤジたち。あのたたずまいが今のこの国の言葉のあり方の中での「歴史」の位置を実に象徴的に表わしている。あるいは、ちょっとした文化講演会。昨今流行りの社会史や古代史といった分野のものでもいい。そこに集まるのはやはりそのような文化オヤジに教養ババアたち。本当にものの見事に会場がある一定の色調に染め上げられる。

 どこかでこの雰囲気見たことあるなぁ、と思って記憶の引き出しをまさぐっていたら、そうか、なんのことはない、組合の集会と政治家の演説会、それとこれは身内の恥になるから言いたかないのだが、わが民俗学まわりの地方の研究会の陰惨な光景、いずれそのような場に共通するあからさまな硬直のあらわれだった。それは、新聞の投書欄や教育テレビの教養番組、あるいは岩波書店の今や誰がどう読んでいるのかもわからないような『世界』だの『思想』だのという雑誌のたたずまいにも通じる硬直ではある。これまで無条件に当たり前とされてきたような「知性」がすでにもうその当たり前を保証する条件が決定的に危うくなっちまってるにも関わらずそのことに気づかず居直っている無惨。こう言えば少しはわかってもらえるだろうか。そう、無惨の質から言えばそんなもん、テレビに映る国会議員のオヤジたちと大して変わりゃしないのだ、これが。

 認めようが認めまいが、今や「歴史」に関心を持つということはそれほどまでにある硬直と不自由とをあからさまに身にまつわらせた知性の、特殊な性癖に過ぎなくなってしまっている。少なくとも、学生を中心としたいくらかは考え深い若い世代のほとんどにとっての「歴史」とは、そのような不自由の中に敢えて求めるものでしかない。個人的なものなのだろうか、僕自身これまでの経験で本当に「歴史」学者とは相性が良くないもので、大学の中でも「歴史」学方面とのつきあいがほとんどないままやってきているのだが、ひとつ心底心配していることがある。たとえば、昨今の「歴史」学志望という学生たちの中に、古代の神話に関心があります、だの、中世の男色文化のことを知りたいんです、だのと言いながら「歴史」にすり寄ってくる一見誠実そうな学生が増えてはいないだろうか。おそらくは女子学生が多いはずだ。そして、本もひと通りよく読んではいるだろう。うっかり見ている分には「学問に静かな情熱を燃やす今どきの学生にしては珍しい真面目な子」と見えなくもない。だが、彼ら彼女らが言う「歴史」とはどのような種類の教養がどのような編成をされることで立ち上がってきたものか、「歴史」を学ぼうと志すことがそのままで何か民衆の抵抗だの社会の変革だのにつながることだ、といったひと昔前の世界観のまま未だ眼前の学生に対峙しようとしている大学のセンセイたちの純朴さの前では、そんな深刻なズレなど問題にならないのだろう。同じその“レキシ”という発音の向こうの内実を問わない限り、ズレは決して眼前の解決すべき問題の方へとつながってゆかない。

 そんな「歴史」の不自由の一方で、言葉本来の意味での歴史はどんどん蒸発してゆく。今、ここにいる自分の足もとに直接連なってゆくような意味での歴史は、本当にあきれるほどにない。で、ないままでも困らないかというと、人間そうそううまくはできていないもので、自分の経験してきたこととそれがもっと大きな世界なり歴史なりの文脈とどう交錯しているのか、ということの欠落に対する不安は当たり前に存在する。政治も経済も何 もない、けれども、ゴジラとアニメと漫画と音楽と、少なくともそのような“それ以外”=サブカルチュアの蓄積だけはある、だからそれらを素材にしてしか語られることのない歴史、というのもすでにある種の教養として存在し始めてはいるのだ。だが、それが本来あるべき十全な歴史の側へきちんと回収されてゆく手立ては、今のところまだほとんど考慮されていない。

 学問世界の住所で言えばこちとら民俗学などというほとんど川向こうの、それも今や根太板まで腐って傾ききったあばら屋で、とうの昔にガス・電気・水道まで止められ、それでも今さら他に行くあてもなく雨露をしのぎつつ細々と寝起きするしかない身。「歴史」なんて由緒正しいお屋敷に住まいするご一族の方々に意見するなんて身のほど知らずのことではあるけれど、でも、お屋敷住まいだからこそしっかり要求されるものってのもあるはずだ。ほらほら「歴史」学の旦那衆、世間が見てますぜ、あんまりみっともないことしないで下さいよ、とたしなめながら、あのサンチョ・パンサのようにつきもせず離れもせず歩いてゆくのが宿命なのだろうと腹くくっている。