戦争が「とにかくよくないもの」のままであることの危険性

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 「戦争」というもの言いが、ずっと気にかかっている。

 単語としての「戦争」というのは、それが活字のかたちで目に触れる場合であれ、あるいはもの言いとして耳に入る場合であれ、今やこの国ではとにかくよくないもの、ひたすらに悪いもの、無条件に忌み嫌うべき禍々しいもの、あってはならないもの、といった意味の方向に解釈されるようになっている。だから、そのようなとにかくネガティヴな意味を伴わされた「戦争」に対して、人はその「とにかくよくないもの」という以上のほどき方をしなくてもいいようになっている。どんな文脈のどんな背景によって引き起こされた戦争状態であれ、それが「戦争」と名づけられる限りにおいて即座に「とにかくよくないもの」になってゆく。その「とにかくよくないもの」という解釈が発動されたが最後、その戦争状態についてつぶさにほどき、原因や文脈や背景についてさまざまな角度から考えてみようとする作業はたとえ可能性としても想定されなくなってゆく。

 これは相当に危ないことだと僕は思う。なぜなら、それが「とにかくよくないもの」であるという漠然とした前提を認識としてひとまず認めるにせよ、じゃあその「とにかくよくないもの」を現実にこの先なるべく存在しないようにしてゆくためには、現実に起こった、あるいは起こりつつあるその「とにかくよくないもの」である戦争状態についてきちんとことばにし、共有すべき知識としてファイルしておかねばならない。人は体験したことをことばにしてとどめておくことによって、その体験を知識として保存し活用することができる。きちんとファイルされていればいるほど、それをまた再び引用し、参照する可能性も広がる。社会の経験というのはそういうことだし、ことば本来の意味での歴史とはそのような作業を介して立ち上がるはずのものだ。それらが保証されていれば、「とにかくよくないもの」がまた現実に起こりそうになった時に、その歴史というファイルを利用してその起こりそうになった「とにかくよくないもの」を回避する手立てだって立てることができるかも知れない。しかし、それが「とにかくよくないもの」のままにとどまっている限り、確かにこの国この社会が経験したこととしての戦争はこの先を生きてゆくための社会的知恵につながってゆかないし、その意味において本当の歴史も存在しない。

 人と人とが住むこの世の中に、あらゆる文脈において葛藤は存在する。もちろん、個人同士の葛藤と組織同士の葛藤とは本質的に違うものだ、ということはある意味で正しい。だが、個人と個人の葛藤を前提として組織と組織、あるいはもっと大きなまとまりである国と国といった葛藤も規定される、というのも近代社会の約束ごとである。いずれそんな葛藤はなるべく存在しないことが理想であることは間違いないにしても、現実に常にそれは存在する。だとすれば、そのような現実について正面から向き合い、ことばにしておくことなしに、そのような現実を乗り越えることもできるはずがない。

 ことばにされない、ということは、今のこの国では「戦争」は存在しないことになっている、ということだ。だが、今さら言うのも馬鹿馬鹿しいくらいに当たり前のことだが、ひとりこの国の事情だけで世界の現実が成り立っているわけではない。この国では存在しないことになっている「戦争」であっても、この国以外の現実においては立派に成り立っていたりする。それは、戦争状態が現実に存在するかしないか、という次元のことではない。「戦争」を語ることばがそのようになかったことにされずにあり、そのように「戦争」を織り込んだことばのありようを共有した人々の現実があるということだ。

 日常のことばやもの言いから人々の意識のありようををほぐしてゆき、「書かれたもの」に偏って決定されてきた「歴史」をあるべきかたちに回復しようとする民俗学の立場からすれば、この違いは、現実に戦争状態が存在するかしないか、ということ以上に大きい。たとえば今、現実に戦争状態が起こったとしても、今のこの国にはその経験をきちんとことばにしておく仕掛けがないままにされているわけだから、それはただの災難、ただの不運としてしか理解されないことになる。なんのことはない、これでは戦争はたとえば台風や地震、はたまたゴジラあたりと大して変わりのない、社会の内側で、人間の手もと足もとで確実にコントロールできない「どうしようもない天災」になってしまう。人間個人にとっての戦争は常にそのような「どうしようもない天災」でしかないというのは事実だが、しかしそのことと、戦争という「とにかくよくないもの」をコントロールしようという知恵を宿す意志までも放り出してしまうこととは別のことのはずだ。まして、その意志を一億二千万人全部がまるごと放り出してしまっていいということでは断じてない。


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 たとえば、岩下俊作という作家がいる。「無法松の一生」として知られるようになった物語のもとの小説『富島松五郎伝』の作者である。この人の書いた『青春の流域』という自伝的小説に、昭和初年、折からの恐慌に発した不景気の中、悶々とする北九州の若者たちの描写が出てくる。学校は出たもののろくな仕事もなく、志に反して製鉄所の製図工や飲み屋の主人になって口に糊する彼らが、一時の酒にその憂鬱をまぎらしながら、誰かが思わず口にした「戦争」ということばに、みな電気に撃たれたように反応する。

「戦争! いいなあ、にやけたモダンボーイが消えて了うだけで気色がいい……。」

 「戦争」というもの言いが当時どのような雰囲気の中で解釈されていたのか、もちろんこれはあるひとつのささやかなケースでしかないけれども、そしてそんな彼らですら後にその「戦争」の現実が身の上に降りかかってくればそのような反応をしたことを暗澹として思い返すことになるのだけれども、しかしそれでも、ある時代のある文脈において戦争とは、今の「とにかくよくないもの」にされてしまった「戦争」と違った内実をはらんでいたことは、ひとつの歴史として静かに考えてみなければならないことだと思う。滅多にないけれどもあればきっと輝かしいもの、日々澱のようにたまった屈託や鬱憤を一気に解決してくれるものとして、彼らの間に「戦争」はあった。いざ前線に行き、生き死にの場に自分が直面すればもちろん一気に変わってしまうはかないイメージのものであったにせよ、淡々と続く日々の暮らしの中ではそのように夢想されるようなある力を持ったことばではあった。その事実まで全部忘れて口拭ったままでいるような歴史を、僕は民俗学者として絶対に認めない。

 テレビや新聞といったメディアの舞台で典型的なのだが、「戦争でいつも犠牲になるのは弱い立場の女や子供たちです」だの、「戦争では罪もない民衆が殺されるばかりだ」だのといった定番のもの言いもある。だが、その弱い立場のはずの女と子供たちが、あるいは民衆そのものが、戦争状態を欲していた歴史だって厳然とある。ファシズムとはそういうことだ。そして、人の世にはそういうこともある、ということを含み込んだ上で未来を選択するのでなければ、同じ失敗はまた確実に訪れる。「暗い戦前の時代」というもの言いもそうだ。それが一体誰にとって、どのような立場にとって暗かったのか、という問題を全て棚上げしてしまっては危険なのだ。ファシズムは多くの民衆にとって気持ち良いものでもあった、という内実をていねいに語ってくれる近代史、現代史を当たり前のものにしない限り、いつまでたっても「戦前」は「暗い」ままで、「戦争」は「とにかくよくないもの」で、そしてだからこそ今の僕たちの手もと足もととは関係のない時代のできことのままなのだ。戦争を起こすのはいつもそういう「女と子供」や「民衆」のことを考えない「政治家」や「軍人」や「なんか知らないけどとにかく上の方の人間たち」である、というもの言いはもちろんあり得るし、歴史と社会についての一面の真実ではあるだろう。だが、それがことの半分でしかないというのは、そのように常に被害者であり、被害者であるということで常に責任を回避することのできる立場にある「ふつうの人々」が、しかし確実に一票を行使するという約束ごとの上に僕たちの近代社会は成り立っているという難儀な事実もあるからだ。

 戦争という現実を最もリアルに語ることばの作法。軍事の現場に携わる人たちの中に、そんな大文字の「戦争」の硬直をほどいてゆく作法を真剣に身につけようと志す人たちがもうそろそろ出てきてもいい頃だ。いや、今のこの国のような高度情報化社会においては軍事の現場に携わる人こそが、作家や新聞記者などの「文字のプロ」たちよりもはるかにナイーヴなことばの感覚を持つべきもののはずだ。それは、今や同じくカビの生えた大文字になってしまった「ヒューマニズム」や「人間らしさ」の内実を、もう一度活力を持ったものとして編み直してゆくことでもある、と僕はひそかに思っている。

*1:『セキュリタリアン』依頼原稿。担当というか、確か潮匡人氏が編集長というか責任者だった時代のはず。