大学という場所のいまどき (往復書簡)①

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前略

 ごぶさたしています。お元気でしょうか。

 風の噂に聞くところでは、早稲田の雄弁会の学生たちにかつぎ出され、大隈講堂で高野孟や何とかいう社会党シリウスの代議士などを集めたシンポジウムの司会をやり、その場の学生たちをバッサバッサとなで切りにしてまわったとか。まぁ、学生時代から半ば好んでそのような修羅場を組織し、くぐり抜ける体験をしてきた大兄のこと、いまさらヘタを打つこともないでしょうが、それにしても、その種の情熱というか精力というのは三十路過ぎてもそうそう失われるものではないことを改めて痛感した次第ではあります。

 さて、往復書簡ということですが、お互い改まって天下国家を論ずる柄でもなし。最近、小生の少し気になっていることなどからお話ししてみましょうか。どう話せばうまく伝わるのかちょっと心もとないのですが、まぁ、気楽に聞いて下さい。

 おおむね二十代半ばくらいの、それも女性について見られる現象です。

 まず最初は僕のゼミの三年生の話。

 今年のゼミは「駄菓子、および甘いものの社会史」といったテーマで調べものをさせていて、日暮里駅前に七軒残っている駄菓子問屋のことから始まり、戦後闇市における水飴の魅力や、甘味材料としてのサツマイモのこと、今も「名古屋もの」と呼ばれるそれら駄菓子供給の中心だった名古屋の駅裏闇市のことなど、学生たちそれぞれが断片資料を持ってきたりあるいは話を聞いてきたりと、それなりに面白い展開にはなってきています。

 その中のひとりが、ある日突然「あのぉ、あたし、こんなもの集めてるんですけど」と持ってきたものがあります。何かと思えば、市販のカップアイスについてくる木製のスプーン。机の上にザラザラッと出されたものを見るとかなりな量。「実家にはもっとあります」というから何にせよ尋常ではありません。もともとアイス好きがこうじて中学生の頃から集め始めたとのこと。ただ、「形の違い、木の材質の違いなどが気になって」と言うわりに、それ以上具体的に調べるという気にはならなかったし、その方法もわからなかった由。「こんなもの集めてるなんて、人に話すことじゃないような気がして」と、これまでもあまりおおっぴらにしたことはないそうです。ゼミの場に持ってきたのは「ここならわかってくれるかも」と感じたせいらしく、それはそれで名誉なことではありますが、それにしても、別に彼女は見るからにマニア系のたたずまいの子でもなし、その彼女の中にどういう経緯でこういう欲望が宿ってきたのだろう、という感慨を抱いてしまった次第。

 もうひとり、これは一応民俗学を専攻する某大学の大学院生の話。

 彼女は郷土玩具関係の文献について、これまた中学生の頃から集めていて、その知識たるや、まだ二十代半ばなのに、あちこちの古書展に出没する手練れの古書蒐集家のような見識で、小生など舌を巻くすさまじさ。バイト代や仕送りもかなりの部分それらに注ぎ込み、先日などはある郷土玩具関係の雑誌一括二十数万という品物を買ったおかげでひと月ほど夕食を牛丼ですまさねばならなくなった由。

 ただし、彼女はそれらの本を綿密に「読む」ということはしないらしいのです。並べて、分類し、その外観を見ることでおおむね自足してしまう由。そういう興味があることをまわりの先生や院生たちに話してもまずわかってもらえず、多少は親切気のある教師が「フーコーなんか読んでみたら」などと言っても、いざ買い込んで読み始めると決して比喩などでなく頭が痛くなるとのこと。といって、日常的な人間関係を損なうような性格でもなく、人並みの「若者」として、あるいは大学院生として、ひと通りのつきあいは立派にやっているのですが、それでもそういう趣味というか性癖の部分について棚上げにされたままであることの葛藤はじわりとあるようです。

 他にもこのような例はいくつもあげられますが、キリがないのでひとまずこのへんにしておきましょう。

 ただ、こういうある種マニアックな、ある種おたく的な玩物志向が、もしかしたら今の二十代半ばあたりの女性たちから濃厚に宿り始めているのでは、という気が、小生少しし始めています。いわゆる「やおい」というのが女性のおたく的存在の仕方として表現されてきていますが、少なくとも小生の見る限り、これらの彼女たちは「やおい」の定型の中には入らないように思います。共通項は、と尋ねられれば、ひとまず焦点のはっきりしないどこか茫洋とした印象の表情をしている、という点は指摘できるかも知れません。これらの現象について、大兄、果たしてどのようにお考えでしょうか。

*1:教員養成セミナー』という雑誌の連載原稿。

*2:浅羽通明との間の「往復書簡」という形式だった。担当編集は、確か時事通信社の出版部にいた御仁が、辞めて移った先で、共に担当だった自分と浅羽御大とをかけあわせる企画を持ち込んできたような記憶がある。この御仁、その後筑摩書房に移ったはずで、それ以後、自分との接触はきれいに絶ってきたあたり、いろいろ感慨深いものがあった。