ジャーナリスト・柳田國男の志

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 世には「柳田学者」とでもいうしかない奇妙な代物がすでに存在していて、かの『定本柳田國男集』をひと揃い座右に置き、あるいは昨今ならばその上になお高価な『柳田國男研究資料集成』なども箔付けに本棚に並べ奉って、全く重箱の隅をせせるようなご苦労な
訓詁沙汰の原稿をひとつふたつものすればひとまずなんとか恰好がつき、それを十年も続けていれば細々としたうだつくらいは上げられる、という現実もどうやらあるような次第。もっとも、由緒正しいこの国の学問の世界ではマルクスやウエーバーのまわりがもっと早くからそのような状態になっていたようですが、それよりは歴史も浅くまた規模も小さなものではあっても、柳田國男についてもそのような学問市場が形成されてゆき、その形成されるに従って「研究」が蓄積されてきたこともまた確かなようです。

 ただし、その「柳田学者」の中にいわゆる「民俗学者」は含まれないのが常です。今、世間にどれだけ自称他称の民俗学者が存在するのか知りませんし知りたくもありませんが、少なくとも僕の眼に触れ耳に響いてくる限り、肩書を「民俗学者」としてものを書き、あるいはどのような水準にせよおのが考えを世間に向かって発言する人たちの間には、柳田國男について正面から語ることを潔しとしない雰囲気が未だ濃厚に漂っています。

 もちろん、それには理由があります。民俗学者という看板をあげて世渡りする者の多くは程度や流儀は異なってもいずれ「地道」という民間信仰の信者であって、あるいはそうでなくてもそのような信仰の周辺で自分の居場所を辛うじて与えてもらうのがやっととい
う良く言えば堅実、悪く言えば凡庸で了見の狭い人々であることが多いために、ご本尊の柳田國男とその仕事について世間に向かって世間が腑に落ちるようにきちんと語る言葉を獲得しようという余力を持てなかったという事情があります。もちろん、余力を持てない
ことそのものは彼らの責任というだけでもなく、まさにこの国の民俗学という業界そのものの形成過程にまつわった構造的不幸だったりもするのですが、けれどもその構造的不幸を自らふりほどこうともできないていたらくはまた彼ら自身の責に帰すべきものでしょう。かくて彼らのご本尊は常に沈黙の共同性の内側にうやうやしく祭られるだけで、ご開帳すらとうの昔に忘れてしまったかのような有様です。

 一方、非-民俗学者の柳田学者の訓詁の作法にもまた別の不幸が胚胎しています。柳田の読み方そのものにもある定番の脈絡が作られてしまっていて、それ以外の「読み」の可能性を自ら狭めてしまっていることが、しかも情けないことに比較的若い世代の人たちの
間にこそ色濃く見られます。たとえば「山人」や「固有信仰」や「常民」といった“お約束”のキーワードのまわりに浮遊し、時に凝集すらするもの言いたちをおぼつかぬ手つきですくい上げてはおずおずと足もとに並べてみるだけで、それらのキーワードが柳田自身
にとって、さらには柳田自身が生身のものとして生きてそこにあった同時代の空気にとってどのような電圧や熱量をはらみ得るものであったかについての同情ある考察の潤いというのは、彼らのしなびた脳髄から到底滲み出すべくもないようです。

 結局のところ、民俗学者でもなく、といって正面から柳田学者というわけでもない、それ以外の自分の足場をそれまで何らかのかたちで確保できてきた人たちがそのそれぞれの足場から柳田國男に言及してゆく、そのアプローチこそがこれまでも、そして今日もなお、一番豊かな柳田國男の「読み」を引き出し得るものになっているようです。たとえば、かつてなら益田勝実や神島二郎、昨今では岩本由輝や村井紀といった人々の仕事は、いわゆる柳田國男を語るもの言いの伝統的作法からはおのずとずれてゆくような傾きを内包しているものですし、まただからこそ〈それ以外〉の領域とも充分に交通可能な言葉の水準を獲得してゆけるものにもなっています。敢えて教訓めいたもの言いを引き出しておけば、おのれの足場も確保できず、その分「自分」の輪郭もあやしいままに柳田に接近すれば、あっという間にその強大な引力圏に巻き込まれてばらばらに引き裂かれるのが落ち、ということになるでしょうか。とすれば、杓子定規な訓詁学の間尺でしか柳田とつきあえない柳田学者などはたかだかその程度の足場しか持ち得ない、そういう器の人間でしかないということなのでしょう。

 誤解のないように言い添えておけば、僕はそのような「ご苦労な訓詁沙汰」本来の効用を疑うものではありません。いや、むしろその重要性についてならば人一倍身にしみているつもりですらあります。ただ、いかに誠実で地道な訓詁学であったとしても、その仕事
を可能にする場のありようそのものが、他でもないその訓詁学の対象になっているテキストに内在する可能性を制限することも現実には充分にあり得るし、また難儀なことにそのような制限は制限をもたらす仕掛けの内側からはなかなかうまく言葉にできないものだっ
たりもしますから、誠実さ地道さとは即座にそのまま自らをがんじがらめに縛り上げる手伽足伽にどんどん姿を変えてゆきます。

 僕はこの先もそれら柳田訓詁学の成果についてはその内容に応じて存分に利用させてもらうつもりですが、その訓詁学をめぐる場の成り立ちや雰囲気については機会あるごとに批評し、解きほどく努力をしてゆこうと思っています。たとえば、君はこちらの一反、ま
た君はそちらの一反五町といったまるで先祖伝来の田畑の相続分割の如き態度をもってまわりの若い衆に接し、自分はというとすでにできの悪い祭壇に自らよじ登って双六のあがりを決め込むような先達が未だこの分野には君臨しているのを目の当たりにすると、さす
がにそのような猿芝居の場に積極的に身を置くことなどはしたくなくなるのが健康な人情というものでしょう。むしろ、そのような不自由な訓詁学の身の丈でしか語られなくなった柳田國男というものをこそ、ならばもう一度腰据えてさらにその外側から語り直してや
ろうという心意気こそがまっとうなものだとさえ思います。従順は確かに徳ではありますけれども、それがどのような場のどのような関係の中に置かれるかによっては、知性の正しい涵養を疎外する要因になります。ただ従順なだけというのでは、それは怯懦や憶病の
別名に過ぎないことだってありますし、ならばそれは一転すれば、さらに後から続く者たちに対して一層の抑圧を与える側に回ることすらあります。そのような「伝承」の現われは、少なくとも柳田國男が構想したような意味での民俗学の志に反するものと言っていい
でしょう。

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 というようなわけで、ここ数年、僕が柳田國男の仕事を読む時には、それら由緒正しい柳田訓詁学の立場からすればまるで外道の関心ではあるのでしょうが、民俗学者でも農政学者でも明治国家の高級官僚でもなく、大正デモクラシーの時代に壮年期を迎えたジャー
ナリストとしての柳田國男、という部分がどうしても気になって仕方がありません。

 これは機会あるごとに言い続けていることでもあるのですが、柳田の何から読んだら今を生きる僕たちの身にしみるでしょうか、という多少は鋭敏な学生たちからの真摯な質問に対しては、『定本柳田國男集』の別巻に収められている彼の新聞論説にゆったり眼を通
してみることからまず始めるのもひとつの手かも知れないよ、と答えることにしています。もちろん新聞論説に限ったことではありませんが、官を辞し、朝日新聞の禄を食みながら言わばフリーのジャーナリストとしての執筆活動をするようになっていた時期の彼の、まさに日々生起する「眼前の事実」に対する運動神経、反射神経を自ら鍛えてゆくかのような単発の文章の連鎖は、いわゆる学者というもの言いにまつわってくる文字の知性の硬直や屈託や無責任や腑甲斐なさを敏感に察知し、そこからなんとか身を遠ざけようとする一個の近代知識人の浩然とした気力が感じられて、何にせよなかなかいいものです。

 ざっと眺めたところ、この時期の柳田のこれらの文章に繰り返し現われるモティーフは、ひとまず「普通選挙」と「国際化」と「都市問題」とに要約できるように思えます。さらにそれらのモティーフの背景に流れている時代相について何かひとつもの言いを擁するならば、他でもない、急激な大衆社会化の現実ということになるのでしょう。そう、ジャーナリストとしての柳田國男は、あれよあれよという間に変わってゆく大衆社会化の流れとそれを可能にした情報環境の変貌とに対して、真正面から提言し、未来に相渉る身の処し方を説こうとした社会改良家でした。

 ものは試し、ひとつ選挙について見てみましょう。普選必至という当時の情勢の中、柳田は選挙に対して「傍観して冷笑」することを言葉を極めて否定し、誰もが当事者として政治の現実に参加することを鼓舞しています。

 「我々の愛する国家は、目下真に多事であります。所謂金力候補が如何にも愚劣に其財を放散しながら、漸く当選すれば乃ち「衆望の帰する所」などと公言する滑稽劇を、傍観して冷笑し得る時節ではありませぬ。外を観ても内を顧みても、一日も早く多数が擁護する堂々たる内閣を作らせ、少なくとも問題の数と種類とを明白にして、次では此が対策の提示を其為政者に迫らねばならぬ。実に気ぜはしない時代であります。又一期を無意味に過して、国内真の有識階級を退屈せしめぬやうに、今度こそは一人でも多く、確かな政治家を見出だすことに努力したいものと思ひます。」(「政治生活更新の期」大正十四年)

 「政治は現実である、即ち実力の問題である。斯う云ふ分ったやうな分らぬやうな御説も、亦我々は度々承って居る。是は多分空論をしてもだめだと云ふ意味かと思ふ。併しさうは容易に推論しにくからう。政治が現実であって、同時に空論であったらどうする。実際に政治を動かし得る力が、金でも養ひ得れば門地でも養ひ得ると同時に、浪のうねうね何処にも根の無い任期などと謂ふものから、支へられて居るのであったらどうするか。而して其が又近世何十年間の、此国の史実であったでは無いか。如何に口の達者な人、床屋湯屋見たやうな処に矢鱈に出入する人でも、自分で独立して物を考へ得ないとすれば、其空論は作ることが出来ぬ。精々は上手な受売をして出処を匿す位なものである。老人連の多数は気の毒ながら此組で、何の某の高名とは成らぬ迄も、空論の大きな製造元は、どうしても議員以前の諸秀才であったらしく見える。」(「古臭い未来」大正九年


 「選挙に際して殊に深く我々の感ずるのは、総国民の利他心の熟睡して居ることである。国家の為などと言へば漠然に失するかも知らぬが、少なくとも物を知らぬ田舎の人たちが、無意味に其大事な権利を浪費しようとする状態を、我が為に利用しようとする人は沢山有っても、彼等の為に警醒するだけの努力をした者が、公私新聞を通じて殆ど無かった。利益で投票を誘ふ者は法の罪人とあるが、利益で誘ふ様な奴は大ていは外に根拠の無い者だと云ふ注意、又は選挙の際にした約束などは、履行されたためしがないから無用だと云ふ注意の如きは、私心なき人が簡単に説明して遺ったなら、随分有効であったらうが其面倒を見た者は無い。(…)若干悪癖の夙に生じて居る国としては、此の如き心有る人々の棄権思想ほど、危険なる状勢は先ず無いのである。此次は早くから斯んな用意を民間でしたいものである。」(同前)

 「世の中が如何に進んでも、選挙権は赤ん坊に及ぶわけには行かぬ。夫人や植民地の住民に迄及ぶのも、事実において近い内とは予想しにくい。我々が別人の為にも幸福安寧を図らねばならぬと云ふ大事業を忘れ、選挙人が自分たちの仲間の利害のみを標準として、代議士の甲乙を決するに止まるならば、程度の差こそあれ、我等も亦一の特権階級でありまして、いつかは外からやっつけられる時ありと覚悟をせねばならず、それが怖しくて而も改めることを知らず、只防衛に汲々として日を送るやうであるならば、仮令普選で一線万人に増加しても、尚且つ一千万人の寡頭政治であります。」(「特権階級の名」大正十三年)

 啓蒙というのはこれだ、と言ってもいいような、すこぶるつきの高調子ではあります。

 この発言する身分の確保に未来を支える主体を模索しようとする柳田の姿からほとばしるのは、「公民」という概念に骨を通し肉を与えることに邁進する社会改良家の情熱そのものです。そして、ここ十年足らずの間、いわゆる学問以外という意味でのジャーナリズムまわりの現場で多少は仕事をし、日々の多忙をかいくぐりながらの観察傾聴もしてきた身にすれば、このような柳田の情熱はかなり切実に響いてくるものです。

 これら「選挙」について積極的に発言する時の柳田の想定する「良き有権者」とは、論理的な構成、ロジックに依拠する知性の育成を主眼として立ち上がってくるものであるようです。「逸話」や「短評」によって構築される批判力は確かに近世以来の“伝統”であるかも知れないけれども、それは来たるべき普通選挙の時代における国民主体としては不充分なものである、というのが彼の立場のようです。それは、ものに感じやすく、動じやすいこの国の「その他おおぜい」たちの付和雷同の気質についてそろそろ知り尽くすよう
になった上での深い違和感と絶望感に根ざしたものでしょう。

 「今若し日本の青年にして、昔のやうに諷刺を愛し逸話の類を好み、恰も江戸時代の落手文学や秀句文学の如き短評に随喜してゐる間は、到底沢山の政治生活の新材料を新聞から収穫することは六つかしからうと信じます。流言飛語に由って新しい政治の前途を妨げられざらんが為には、理由を附した落付いた意見を公の機会に提供し、且つ留保無く勇気を以て互に之を批判せねばなりませぬ。」(「政治生活更新の期」大正十四年)

 論説委員という責任ある立場から新聞の現場に携わる者としての矜持も含めて、「読者」の主体化による国民の中堅の創出への意志は、彼の内側でこのように旺盛なものだったようです。新聞を「読む」こと。活字を「読む」こと。批判力を伴って「読む」こと。それによって自分の内面に渦巻く未だ名づけられていないままの部分に正面から対峙し、言葉を与え、いつか世間に投げ返してゆくことができるようになること。そのやりとりの中に輪郭が新たになってくるはずの「自分」こそが、普通選挙の時代の新たな国民主体として、彼のもの言いを借りれば「良き選挙民」として、この先当たり前のものになってゆかねばならないという確信は、たかだかやせた書斎の学者といったたたずまいに押し込めてしまうにはあまりに脂っこく、また野放図なものだったに違いありません。

 「我々はいつの頃よりか、愛国者は不平家でなければならぬと考へさせられました。国を愛すると謂ふは即ち国を憂ふることだと信ぜしめられました。勿論今日の如き政治に満足をして居られるものでは無い。がその同じ不平不満足といふ中にも、地位を失った役人などの只それが癪に障るといふ類の、個人的な小規模な不平もうんとまじって居る。気に入らぬといへば我が子のすることも時には気に入りませぬ。胃などの悪い人は矢鱈に気六つかしくなります。それを不平家だから志士だらうと思はせる人は、甚だずるい人だと存じます。国を憂ふるといふ中にも、贋物がまぎれ込みやすい。「天下の憂に先だちて憂ふ」といふのは尤も貴い言葉ではありますが、如何なる理由が有って、何々の点を憂ふるかといふことは、必ず説明せられねばなりませぬ。人生には誠に無限の不安がある。殊に我邦の如きは、天然の原因から、且つは現在の社会組織から、多くの人が神経過敏になる原因もあれば、外部の小さな衝動も絶える時がないのです。斯る薄靄を透して未来を望むのは、恰も黄昏時に野路を行くやうなものであります。この取止めもない心細さを理由として、矢鱈に人魂や見越入道などの話をして聴かせるのは、心有ってするならば憎いやつ、或は自分も亦少々は不安な為に、うかうかそんなことを謂ふのならば、是は未練者と申さねばなりませぬ。」(「政治生活更新の期」大正十四年)

 しかし、なにしろ七十年も前のこと、今とはまるで状況が違うということだってあります。テレビはもちろんなく、活字以外の新しいマス・メディアとしては辛うじてラジオが実用に供せられ始めた程度。電話の普及も都市部を中心にようやく始まったかな、という
くらいで、新聞社の配信システムにしたところで今と比べればはるかに牧歌的なものだった時代です。なるほど、そのような情報環境の下で形成される「社会」の手ざわりを前提にするならば、当時はこのようなもの言いを擁することが公民教育として効果的だったか
も知れない。

 けれども、他でもない彼自身がこれまた常に言明していたように「未来は選択できる」のであり、その選択の果てに積算された「歴史」は、彼が直面していた「現在」に内在していたまた別の道筋を我々の前に横たえることになりました。七十年前とは比べものにな
らない情報環境の変貌がもたらしたかりそめの当事者意識の厖大な広がりは、今や彼の想像もしなかったようなある微妙な批判力をこの国の社会に宿すことにもなったかも知れません。今回の衆院選投票率の低さについてきちんとした納得のゆく説明をしてくれた評
論家や学者が未だ見当たらないことを思えば、ジャーナリストとしての柳田國男がある確信の下に獅子奮迅の活躍をしていた当時の「現在」は、問いの培養基という水準において正しく〈いま・ここ〉に生きる僕たちの手もと足もとにまっすぐに連なっているもののはずです。

 だって、こういう外道の関心からの「読み」だってもういくらだってありなんだぞ、ということにしてゆけないことには、いつまでたっても柳田は「日本を知り尽くそうとした偉いおじいさん」という碑銘のくっついたあの常被りの老年の面影のまま、乾きものとし
てしか記憶されなくなってしまいますからね。

*1:『コンステラツィオーン』という雑誌の依頼原稿。編集は、日本経営開発センター。