拝復
昨年秋以来、ちょっと油断して不摂生したり、あるいはおのれで気づかぬながら些細な心労ため込んでゆくがごとき日々続けばたちどころに下血する潰瘍性大腸炎の身の上、つくづくボケるまで生きる自信はなく、いや自分に限らずわが世代のかなりの部分は予測されているよりはるかに短い生しか全うできないはず、と勝手に決めているのですが、それでも、もしも小生、前回大兄が言われたようにその「生の最もリアルな部分」しか残らないようになるまで生きながらえてめでたくボケるとして、さて、その「最もリアルな」領域として一体何が残るかと考えると、これはなかなか難しい問いです。
柳田國男が最晩年、ボケてしまってからのエピソードとして、自分の回りにやってくる弟子たちの顔と名前が一致せず、その不一致を回復しようとするのに自分の中にある日本地図と名前とを照合させながらその出身地に戻ろうとして「ああ、キミはタカボコでしたね」と繰り返していた、というのがあり、そのエピソードから彼の記憶の構造を逆照射してみせたのは、『読書空間の近代』の佐藤健二でした。最近、世代もほぼ同じで名前が同音のおたく太りの小賢しいのが出てきてますが、同じ東大出とは言え、この無名のサトウケンジの方が時計がふたつみっつ上なことは大兄もご存じのはず。そのデンでゆくと、さて、ボケた大月隆寛は、おそらく人間関係の記憶にしか生きられないのではないか、という予感がします。人間関係とはもちろん抽象的なものでなく、ある顔つきやあの時あのように言ったというシーンの記憶がばらまかれたように散乱して、その散乱の中に断片をなでさすり回るようなボケ方。こう書いてく端からどんどん心萎える話ではありますが、おそらくそうだろう、ともはや確信があります。
ごくたまにですが、夢の中味を起きてから反芻してみると、その夢の中では中学校かせいぜい高校ぐらいの時期の空間認知によって生きていることに気づきます。教室から教室をめぐってゆく時の感覚や、体験の濃淡や意味づけのありようによって組み立てられた“場所”に対する感情、あるいは家から学校へというふたつの焦点を往復する中で織り上げられる“現実”の地図の立体感など、確かにそういう種類の“リアル”の内側に自分は棲んでいた、ということを改めて思い出させるような夢。「学校」が人の記憶の中に棲み込む過程の歴史性は、この夏からずっと悪戦苦闘している書き下ろしの中でも考察しようとしているのですが、その程度には小生も「学校」で刷り込まれた認知の構造を原体験のようなかたちで抱え込んでいるようです。
それでも、夢の中での空間認知は「学校」でも、そこに生きる人間関係のありようは必ずしも「学校」の範疇に閉じられません。その後の過程も含めてさまざまに遭遇してきた人間関係の上に浮き彫られた風景(シーン)たちが、「学校」を地模様としてせめぎあいます。大兄がいつぞや論じていたような、たまの歌に象徴されるような「学校」体験への自閉は、小生の場合、どうもこのように不完全なもののようです。
その意味でゆくと、われながら自閉しおおせない宿痾のようなものを感じます。笑わないで下さい。人には自閉できる能力というか、閉じたままでいられる才能という領域もあるものだ、とつくづく思います。それは、きっといわゆる「学者」の人たちに対する引け目と違和感と嫌悪感とがないまぜになった原体験にもどこかで関連しているのかも知れません。調べものをしていても、たかだか自分のやっていることがどのような意味を持つのか、という問いがじきに頭もたげ、好奇心の拡散に心千々に乱れ、結局腰据えて何もなし遂げられないのではないか、という不安だけが募ったりします。「おたく」たちの相貌に間違いなく嫌悪を感じながら、そこまで自閉できる才能に小生、うっかり瞠目もしてしまうのです。
とは言え、人は自閉を自閉のまま才能とすることはできないでしょう。大兄が指摘するように、まごうかたなく自閉であることを自覚し、認めないからこそ、それは社会的な病いにとどまっているのですから。自分のあずかり知らぬ外側の仕掛けによって、今そのままのおまえで大丈夫なのだから、という甘いささやきだけを投げかけてもらえる状態というのはいくらでもあり得ます。たとえば、コンピューター関連の企業などにそのような、言わば「才能」のパーシャル冷凍状態はよくあるようです。いや、この春からつきあうことになったNHKの現場でも、似たような事態は散見しています。おそらく自閉そのものにとってはそれはかなり安楽な状態なのでしょうが、しかし、自ら確実に統制し、管理できる能力という意味で言えば、それは何も自己回復につながり得ないかりそめの「自立」に過ぎないことは必定。自閉が自閉と自ら気づくことのできる関係と場は、さて、それこそかつて橋本治が『青空人生相談所』で開陳したような、強引かつ酷薄無比なサイコセラピー的説教の場以外にはやはりあり得ないのでしょうか。