差別用語について

 

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 まず、確認しておきたいのは、僕は表現に際してどんな用語も無条件に許されるべきだとは思っていない、ということです。

 少なくとも、それを活字ないしは活字に準じた記録性を持つメディアに乗せ、社会的に流布してゆくことを考える時、その時空を超えた影響力についても誠実に計測しようとするような言葉本来の意味での“良識”、最も健全な意味での“常識”は、表現しようとする知性の間に最大限共有されるべきだし、そのように努力されるべきだろうと思っています。「自主規制」というもの言いが今あるような貧しい響きでない前向きな意味をはらめるとしたらこのような文脈においてでしょうし、そのような「自主規制」の最大公約数とは今どのあたりに存在するのかを共に凝視しようとする努力は、今のような「差別用語」狩りが横行する状況においてさえも、安易に放棄されたり忘れられたりしていいものではないはずです。なぜなら、そのような努力を棚上げしたままの「差別用語」狩りに対する“闘い”は、たやすくその「差別用語」狩りに狂奔する人たちが乗っているのと同じ構造にからめとられてしまうと思うからです。個人としての「表現の自由」はもちろん守らねばならないことですが、それがそのまま無条件に社会的な文脈での「表現の自由」に拡大延長されていいものかどうかは、まだまだこの先、お互い静かに考えてみる必要のあることだと思います。

 で、それらの前提の上に立ってようやく言えることですが、昨今の「差別用語」狩りのありようの異様さについてはもちろんつくづく腹立たしい想いを抱いています。個人的な経験について語ることは避けますが、それは個々の用語の問題にとどまらず、それら「差別用語」狩りに狂奔する人たちの背後に共有されている悪い意味での「良識」のありようのグロテスクさや、そのグロテスクさを穏やかにほぐし、癒してゆくような関係や場の欠如について考えることを必然的に要求するものです。

 たとえば、それは今のこの国での“投書したい欲望”のありようを考えることにもなります。新聞にせよ雑誌にせよ、昨今の投書のもの言いの不自由や硬直についてはメディアの現場で仕事をしている人なら誰しも日常的に感じていることのはずです。

 彼らは常に「組織」に対して仕掛けてきます。日常的にめんどくさい、やっかいなことには関わりあいたくない、というのは人間誰しも同じでしょうが、そのような「組織」ならば個人以上に濃厚に抱えこむそれらの“弱点”について、彼ら“投書したい欲望”たちは徹底的についてきます。で、最大限譲ったとして戦術としてそういうやり口も十分にありだと僕は思っていますが、と同時に、そのようなやり口を選択する立場はそれによってまた別に引き受けねばならなくなるものがあるとも思います。彼ら“投書したい欲望”を宿した側が抱え込んだと思うその理不尽や葛藤や不満は、そのようなやり口を選択しなければ解消できないようなものであるかどうかについてもなお静かに自ら考慮し、省みてゆくだけの余裕や知恵や可能性も与えられないようでは、われわれのこの社会も、そしてその社会の鉄筋としてのメディアも、残念ながら大したものではないということになるのでしょう。

 社会的文脈での表現に関わってゆく、関わろうとする立場の責任というのがあるとしたら、そのような余裕や知恵や可能性についてもつむぎ出そうとする姿勢においてだと思います。理不尽についてほどいてゆくための言葉の不自由や硬直は、その理不尽をさらに屈託させてしまうことにつながるという認識を、それこそ社会の当たり前にしてゆくこと。それは「人それぞれ」などという今どき耳タコのもの言いで横着に耳ふさがれ、かわされてしまっていいものではない、社会で本当に「それぞれ」として暮らしてゆく上で誰もが最低限身につけておくべき知恵であり、その上で守られようとせねばならない最大公約数の約束ごとだとさえ僕は思っています。

*1:当時、筒井康隆の「断筆宣言」に至る過程で、「差別用語」と「言葉狩り」の問題がにわかに前景化していた。のちの「ポリコレ」に至る地ならしの一里塚、ではあったわけだが……為念。