「読書」の変貌

*1

 履歴書の表、本籍地だの学歴だの、まずは正面切って重要なはずの情報が書き込まれる側を裏返した先、「趣味」という欄に“お約束”で書かれる「読書」という二文字が、気になる。

 履歴書そのもののあの様式がいつ頃、どのように作られ、整えられていったのか、それ自体とても興味深いことだけれども、その整っていった様式の中に敢えて「趣味」という欄が設けられ、そしてその設けられていったことで必然的にその場所に埋められるべき「趣味」もまた作られていき、という言葉本来の意味での“歴史”の経緯の中、「読書」というもの言いがほぼ万能の、どんな出自のどんな背景を抱え込んだ人間にも使い回し可能な道具として共有されていった過程は、おいそれと忘れられてはならないこの国の“歴史”の一部としてこの先、誠実に解明されるべきだと思う。

 しかし、この「読書」、静かに考えてみればみるほどその内実が見えてこない。

 文字通り「書物を読むこと」と思えば別に何の問題もないようなものだが、しかし、その「書物」が果してどのようなものか、ということを少しでも具体的に考え始めれば、その瞬間からこの「読書」というもの言いが何ひとつ具体的な内実を支えるものではないことがあからさまになる。どんな書物をどのように読むのか、そしてそれがどのようにその人の「趣味」となり得ているのか、ということについて、この履歴書の上の「読書」の二文字は何ひとつ責任をとろうとしていない。

 いわゆるベストセラーと呼ばれる現象がある。ちょっとした雑誌や週刊誌などでも、今どんな本がよく売れているか、という情報が掲載される。依拠するものが取り次ぎのデータでも版元のデータでも構わない。あるいは小売の端末のひとつである大手の書店のデータであってもいい。何にせよそこでは「よく売れている」ということが「よく読まれている」ことに重ねられてゆくことが当て込まれており、そしてその「よく読まれている」ことが何かある権威の後光を伴って二次的に流通されてゆくことも期待されている。広告やオビなどに「〇〇万部突破!」といった文字が踊るのも同じ仕掛けによるのだろうし、また、宗教がらみの書物が動員された信者たちによって大量に買われてゆくのも、そのような「よく売れている」ことにまつわる権威の後光の配当を欲しがってのことなのだろう。

 だが、それらベストセラーのランキングに入るような書物が、たとえば新聞の書評欄で積極的に取り上げられることは、案外に少ない。少なくとも「よく売れている」という現象を前提にした紹介や書評はあり得るけれども、「よく読まれるべきだ」という「べき」の前提に「質」を立ち上がらせるという手付きがしみついたそれらの書評欄の世界観においては、ベストセラーの書物が「質」を第一義とした文脈で取り上げられることは積極的に考えられないものらしい。

 同じことは、いわゆる「論壇」を支えるとされている総合雑誌の書評欄にも言える。「論壇」というもの言いも今や具体的に何を意味するのかよくわからないものになっているが、少なくともつい最近まで、そのような権威ある「言論」だと認められる言説が掲載されているメディアというのはしっかり限定されていた。その権威を前提にして、それらの書評欄もまた、何か「質」を保証するものだということになっていた。だが、ここでも「よく売れている」という事実は、「質」を作り出し保証しようとする仕掛けとどこかで肉離れを起こしているらしい。あるいは、「よく売れている」という事実から新たな「質」を立ち上がらせる努力の切実さを、生まれようとする前から蹴倒し踏み荒らしてゆく、とか。

 だから、履歴書の「読書」の二文字は、その「質」と「量」、「文化」と「経済」にまつわる数十年越しの深刻な肉離れのはざまに、今もひっそりと繁殖している。

*1:『読書人』掲載原稿。