橋本治の軽挙妄動

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 「まちがいをなおすには、ゆきすぎをやらなければならない。ゆきすぎをやらなければ、まちがいはなおせるものではない」と言ったのは誰だったか、もう忘れた。とりあえず、何かとほうもないものを動かそうとする時の心意気として、今でもかなり含蓄のある言葉ではある。しかし、だからと言って、その「ゆきすぎ」が単なる軽挙妄動であっても構わない、というわけではないだろう。

 またぞろ、橋本治がうわつき始めている。別に今始まったことではないけれども、この人、間違いなくありあまってはいるその才能をうまく自制し、狙ったところに集中砲火として浴びせかけるすべを、若い頃はもちろん、四十路半ばにさしかかった今になってもまだうまく身につけていない。「じゃあね、もう手を引くから」と、一旦は時事的な発言から撤退を宣言した過去もどこへやら、今さら何を勘違いしたのか、『ぼくらの政治』などという本を準備しているという。悲しいかな、やっぱり“永遠の若気の至り”なのだ。

 確かに、時事的な発言をする橋本治は凄味があった。あの自制不能な饒舌を野放しにする感覚はともかく、品切れのまま再版されない『89』などは今でもいい本だと思う。だが、もういけない。ズレ始めている。たとえば、この夏の政変についてこう言うのだ。

「こういう時に、『その流れの外に身をおいて、もう少し情勢を見極めてから』というのは、無意味だと思う。『政治というのは国民のもので、紛れもなく自分もその国民の一人なんだ』という前提に立って、流れの中に入っちゃうしかないと思うね。」

 あの土井たか子の「やるっきゃない」とどこが違うのだろう。頭でっかちで腰の上がらぬニヒリズムを嫌う「原っぱの論理」はわかるが、しかし、今そうやってあおったところでどんなに軽挙妄動しか宿らないか、彼には本当に見えなくなっているのだろうか。(鳳)



*1:産経新聞の匿名批評欄「斜断機」原稿。橋本治を諫めてはいるんだよね、この時点でバカ正直にも。……221125

*2:てか、あの橋本治でさえも、この時点ではこれくらい浮き足立ってうわつくくらいになっていた、ってことは、忘れないようにしたい、良し悪し別にしてとりあえずの「歴史」として。