うまや、にて――あるベットウのはなし

 競馬ブームということもわざわざ言われないくらいに、もはや競馬は暮らしの中で“あたりまえ”のものになってしまった。

 電車の中、若い女の子が競馬新聞を読む。あるいは、Jリーグのスタンドにでもたむろしてそうな「若者」たちが、カズやラモスやジーコや中山を語るのと同じ調子で、メジロマックイーンライスシャワーシンコウラブリイヤマニンゼファーを語る。ふだんから熱中するわけじゃなくてもいい。「G くらいは」という節目節目のつきあい馬券ならば、今どきの「若者」のたしなみとして完全に定着している。

 彼らのほとんどは実際に馬をさわったことのない人間たちだ。農家ですら働く馬がいなくなったこの国では、生きた馬を身近に知ることのできる場所など、牧場や競馬場以外にまずあり得ない。どこにも生きた馬がいなくなったのに、「競馬」はますます盛んになり、誰もが馬の名前を口にし、調教や体調や血統を云々する。

 それでも、こんな例もある。先日、京都競馬場で行なわれたエリザベス女王杯で二着に入った馬、ノースフライトの担当厩務員は、なんと京都大学卒の女性だった。なんでも、北海道の大きな牧場に住み込んで修行した女性だと報道されていた。

「時代も変わったもんだよ。京都の帝大出た女の子が馬やらせてくれって押しかけてくる時代になったんだから。ゆくゆくは中央の厩務員になりたいんだとさ。まぁ、いろんな世間があるから少し働きながらゆっくり考えてみろ、って置いてやったんだけど」

 その牧場の老社長が数年前、苦笑しながらそう語るのを聞いたことがある。だとすると、今、スポーツ紙に大きく報道されているノースフライトの担当厩務員の彼女とは、その時耳にした彼女と同じ人物かも知れない。もちろん、まだ確かめてはいない。けれども、何にせよそのような人生もありなんだと認められる程度には、誰からも見向きもされなかった馬の世界もまた、少しずつ変わりつつあることだけは確からしい。

「昔はほんとにベットウ(厩務員)なんて馬鹿にされててな、嫁も貰えなかったもんなんだけどな」

 そんな「時代」の変わりようを敏感に察知して彼女を牧場に置いてやった老社長も、しかし今はもうこの世の人ではない。


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「俺、どうしてもな、やりたいことがうまく行かなければまた馬に帰ってもええと思うとる。けど、今度はうまくいくはずなんだけどな。明日にでも雇うと言われてんだな」

 ある競馬場の厩舎の隅、働くみなが朝の仕事をおおむね片づけ終わった頃、ふらりとやってきた初老の男は、思い思いに一服する男たちを前にせわしなく煙草をふかしてそうまくしたてた。

 新聞やテレビに報道される「競馬」とは、まず九割以上が中央競馬のことだ。昔は国営競馬と呼んでいた。今でも古い競馬師たちはある独特の気分を込めて「コクエイ」と呼ぶ。

 以前に比べてはるかに華やかな観客席と、そこにひしめく大観衆と、割れるような歓声とに包まれて走る馬。そして、芸能人並みの身のこなしを自分のものにしたスター騎手たち。

 だが、そういう「競馬」以外の競馬もまた、この国にあたりまえにある。

 俗に、地方競馬と呼ばれる競馬がそうだ。それは中央競馬一色に埋めつくされたかに見える現実の中、ひそかに息づく“もうひとつの競馬”である。

 主催者は地方自治体、ないしはそれに準じる競馬組合など。中央競馬と同じ競馬法の規制の下で開催されているけれども、調教師や騎手の免許の管轄がまるで違う。そして、厩舎で働く厩務員に対する資格や待遇もまた違う。専門に設けられた騎手学校の厩務員課程を卒業しないことには採用されない中央競馬に比べて、地方競馬の厩舎で働くためには基本的に何の資格もいらない。だから、いろんな人生をたどってきた人間たちが、いろんな道筋で競馬場にやってきてはまた去ってゆく。

 今、まくしたてているこの男も、以前は厩務員だった。名前を、仮りに岩田さんとしておこう。

 岩田さんは今年五十九歳。去年の夏までは競馬場で働いていたのだが、何か思うところがあって飛び出した。理由は定かではない。その後、有線放送の集金をやっているとも聞いていたし、健康器具の販売員になったという噂も耳にした。今は何を仕事としているのか、正確なところはわからない。ただ、たまに厩舎に顔を出しては以前の仲間たちとバカ話をして帰ってゆく。

 厩舎を飛び出すまで、馬の仕事は十五年ほどやってきたという。仕事の方は、この競馬場の中でまずは評判の腕達者だった。とりわけ、牝馬を担当させれば一、二を争う腕前というのが衆目の一致した見解だった。事実、いくつか大きなレースもとっていた。厩務員としてはやはり一流と言っていい。

「やめた時は、この競馬場に来てからもう五年になってたな。その前は北海道にいたんだ。北海道の前は川崎。その前は園田。中央(競馬)に行ったら年齢でひっかかってダメだったんだよ。だったら点々と歩いて腕を磨いてやろうと思ったんだわ」

 ざっと計算すると、四十歳過ぎてから飛び込む新しい世界だったことになる。それまで何をしてどのように世の中を渡ってきたのか。いや、そういう立ち入った話にさしかかる前に、少し彼の話を聞こう。

「……園田の外で喫茶店入ったんだよ。競馬場の真正面の喫茶店だ。競馬場で働いとるもんは、帽子(ヘルメット)かぶったんがくるからすぐわかる。そこで、最初は馬というのはどういうもんか、いやというほど聞いたんだな。そしたらこうこうこういうもんだと教えてくれた。俺、働きたいけど入れるとこないかな、言うたら、ある厩舎を教えてくれた。そこに行って三年おったんだよ。で、はぁ大体わかった、ってパーンと川崎へ飛んだんだ。川崎で二年三ヵ月くらいおったんかな。そこでも大体わかったから、北海道へ行った。五月に北海道行ったんだけど、一シーズンだけですよ、って最初から言うんだ。あそこは十一月で競馬が終わるから」

 北の地方競馬は冬の間はシーズンオフのところが多い。十一月とか十二月で競馬が終わると、翌年の春まで馬も人も冬ごもりになる。その間、他の地方競馬の厩舎に出稼ぎに行く馬や人もいる。もちろん、冬ごもりさせる価値のある馬だけを置いておくわけで、翌年も走らせるつもりのない馬、それだけの価値のない馬は他の競馬場に売り払われるか、牧場に連れ戻されるか、さもなければ肉値で馬喰たちに払い下げられる。

「その時担当した馬は走ったんだよ。北海道優駿をメス馬で三着だよ。ほんとは勝っとったんだわ。一ワク引き当ててスタートでハナとっとったのに、騎手が乗れない騎手でこわいもんだからケツにつけてしもうた。向こう正面なんかみんなから離れてドンケツからくる。それを三コーナーの手前から一気にまくってきたんだ。競馬新聞に「立ち木をかわすような」って書かれたんだから。ほんとだよ。その時勝った馬がその後名古屋へ行ってオープンなった。四着の馬が川崎へ行ってこれもオープンだ」

 だから、三着だった俺の馬も一流の競走馬だったんだ、ということが話の眼目である。自分のキャリアは常に自分の関わった馬の出世譚として語られる。そして、その馬の価値を語るものさしとして、その馬と戦った他の馬たちの出世譚もまた縦糸としてからんでゆく。馬と馬との出世譚の織りなす綾の中に「自分」のなけなしのキャリアも地模様のように織り出されてゆく。

「それまでは馬のウの字も知らん、ほんとのドシロウトよ。けど、この仕事なら俺でもでけるやろな、と思ったから競馬場やってきたんだ。別に一ヵ所に腰落ち着けようなんて考えてなかった。最初っから“盗み”に入ったんだから。盗るもんがなくなりゃ出てゆく。人間、ひととこにおって威張っとってもダメよ。いろんなとこで勉強して歩かないと」


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 そんな岩田さんが、またぞろ元いた厩舎に遊びに来るようになったのは、どうやら今やっている仕事がまた行き詰まって、新たに仕事を探しているかららしい。「やりたいこと」があるのだが、それがうまくゆくかどうかまだわからない。だから、言わば保険のような形で、元いた職場である厩舎にまた雇ってもらえるかどうか、なんとなく雰囲気を探りに来た。まぁ、ありていに言ってそのような事情がからんでいるらしかった。

 どうやら、厩舎を飛び出してからこれまでもいくつか仕事を転々としているらしい。一念発起で「やりたいこと」をやるためだったはずの競馬場からの転職は、うまくいってないようだ。

「俺、すごい数の面接しとるんだよ。いや、履歴書がなんだとかいうのはないよ。俺は借金踏み倒したわけでもないから。けど、このトシだろ。年齢にひっかからんようなとこばっかり選って行っとるんだけど、なかなか会社もウンと言わん。面接の時にはええ話になっとるのに、翌日の朝になるとダメちゅうんはなんなんかね。競馬場におったいうのを知っとって、ちゃんと競馬の話もしてやぞ、昔はそら競馬場逃げ込んだらどうなっとるかわからないいう世の中やったけど、今の競馬は昔と違いますよ、言うてちゃんと説明してやな、向こうも、そうやな、言うてんだよ。それがダメなんだよ」

 俺の人相が悪いんかな、と岩田さんは笑わせてみせる。かつての仲間たちも苦笑する。「差別」とまでははっきり言葉にして言わなくても、そこにいた誰もがそのようにないがしろにされ、微妙に疎まれた経験を身体の内から引き起こす。ボロ(馬糞)の臭い。小便に汚れた寝藁の臭い。あるいは馬そのもののけものの臭い。そんなさまざまな臭いが身につきまとい、街へ遊びに行った時にも、ふとした瞬間、自分の「臭い」が気にかかったりするのだという。

「……だって今から二十何年前、昭和三十八年のことよ、その当時の二千何百万のアナあけたんだよ。それがまだ三十なるならんくらいの若造がだよ。こう見えても俺は、とんでもないことしてきとんだよ」

 気がつくと、それまで競馬場にいる時もほとんどそんなことを言わなかった岩田さんが、何のはずみか、自分が馬の仕事をするようになる前のことを話し始めている。どうやら、相場師のようなことをしていたらしい。

 仕事でしくじったり、何か借金を抱え込んでにっちもさっちもいかなくなったり、何にせよそういう“ワケあり”のまま逃げ込んだ先の競馬場は、そんな世間でからみついてきたさまざまな過去など問わないで「まぁ、しばらくいてみろや」と雇ってくれる場所だった。相場師のようなことをやっていて数千万の穴をあけたという岩田さんも、最終的に競馬場の厩舎にもぐり込もうと思った時には、どこかでそういう「これまでの自分でない自分」になることへの渇望があったはずだ。

「最初はなんもわからんからね。また教えてもくれんのだよ。馬引っ張ってみろ、って言われて、はぁそうか、と思って引っ張ったんだけどね、それがあんた、引き手を握って馬のケツからホイホイついてったんだもん。知らないっていうのは恐ろしいもんだよなぁ」

 人間との関係のありようがまた違う外国の馬はともかく、日本の、それも現役の競走馬の場合は、蹴られたりひっかけられたりという事故を避けるためにうっかり後に回ったりしないのが普通だ。競馬場でもよく見ていると、尻尾のところに赤い毛糸や布を洗濯ばさみでちょいと止めた馬がいるけれども、あれは「この馬、蹴る癖あり」の注意信号みたいなもの。旧軍の騎兵部隊以来の習慣らしい。そんな馬の歩くすぐ後から引き手を持ってついて歩くなど、いくら知らなかったとは言え、危ないことこの上ない。

「でもね、馬っていうのはね、俺なんで今でもこんなに魅力持っとるかというとな、自分で工夫したらいくらでもよくなるっていう、そこのところなんだな」


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 厩務員の担当する馬は基本的に馬主から預かった馬だ。しかも、制度としては自分が直接に預かるわけではなく、自分を雇ってくれている調教師が馬主と預託契約を結んでいるという形に過ぎない。だから、毎日引いて歩いたり身体をこすったりしている馬は、他人の馬だ。もちろん、その馬が走っていい成績をあげれば賞金の5%は自分のものにはなる。

 しかし、そういう仕事としての枠組みとはちょっと別に厩務員たちの楽しみというのがあるとしたら、その馬と自分との関係の中で、ちょっとした工夫やアイデアを試してみる、そんなところにある。事故があれば調教師の責任になるからそうそう勝手なこともできないのだが、それでもそんな大層なものでなければ、馬とささやかな秘密を共有するような感じで、できる範囲での工夫を凝らす。

 岩田さんも、そういう工夫については情熱を傾けていた。市販の薬やその他漢方薬などを調合して、自分の馬に使っていた。競馬場を辞めてからも、その「特別の薬」をもとの仲間たちにすすめにきていた。

「おまえら、俺が開発した薬使えっていうのになんで使わんのよ」

「あの酢みたいなやつかい。見た目が水みたいなんだよ、なんかわけわかんないんだよなぁ」

「あれ、大丈夫なんだよ。俺、競馬場辞めてからいろいろ考えて開発したもんなんだから」

「今、禁止薬物増えてんの、知ってる?」

「ああ、そんなもん関係ない」

「関係ないって、薬やれやれって言う方はいいけど、つかまんの僕ですからね」

「おまえ、ワシだってそれくらい考えてるよ。そんなもん理化学研究所で検査してもらえばええやないか。簡単な話だよ。ちゃんと検査して大丈夫って言われたものを持ってきてんだから」

「でもね、オッチャン、使う方の身にもなってくれっつんだよ。絶対(ドーピング検査で禁止薬物が)出ないって言うけど、そんなもんね、出てしまったらおわりだからね。それに、副作用とかなんとかの方が心配じゃない」

「なんもないよ」

「なんもなかったら効くわけないっしょ。やっぱり効く薬っつうのはね、足もときたり、なんかあるんだから」

 まだ若い、盛り上がった腕の筋肉の印象的な厩務員が軽く笑いながらなじる。ほんの少し塗ったり飲ませたりしただけで馬が見違えるように走るようになる、そんな能書きを伴ったわけのわからない薬は、別に岩田さんの手によるものだけでなく、競馬場の厩舎ならば結構当たり前に眼の前にやってくる。

「いいや、あれを使うと、ガタガタなった馬が走るって俺、自信持ってんだ」

「だったらどんな薬かね、漢方とか他のものかとか、中味をちょっと言ってくれたらこっちも信用するっつーの。それをオッチャン、なんも言わんもんね。それじゃ僕だって気持ち悪くて使う気なんないよぉ」

洗い場にしゃがんだり、ビール箱に腰掛けたりしていたかつての仲間たちは口々に同調の声をあげる。

「前のあの黄色い薬はよかったよ。でも、今度の水みたいなのはちょっとなぁ。俺が飲んでも具合悪そうなものだもん。またオッチャン、入れてくる容器が悪かったよ。ドンブリに入れてあるの」

「ドンブリじゃないよ。ナベだよ」

「もっと悪いよ。ベコベコにへっこんでて、なんかご飯粒がこびりついたナベに入れてくるんだもの。俺、一瞬考えたよ、ほんとに。大丈夫かなぁ、って。で、成分言ってくれって言ったら、いいから黙ってやれ、って。そんなのなおさら二の足踏んじゃうよ」

「だからッ、あれはデンカイの代わりになるような性格のものだ、っていうんだ」

プライドを傷つけられたのか、岩田さんが語気を強める。デンカイというのは電解質のこと。体質改善のために馬に与える薬剤である。ポカリスエットのもう少し上等なものと思ってもらえばいいかも知れない。

「あれと理屈は同じだから間違いないから。でも、デンカイはひと袋四千円も五千円もするだろ。俺のはあんな高いもんじゃない、タダみたいなもんだから」

「だったら、なおさら効かないじゃないかよ」

 話の輪がドッと沸く。岩田さんもつられて表情を和らげる。

「これが自分の馬だったらいいよ。やっぱりテキ(調教師)が預かってる馬だもん。これ、電解質だとしたらオッチャン、成分は一体なんなんだよ」

「俺が競馬場辞めてからこっち、初めて使いたいと思った薬だ。俺、実は故郷の自分とこの田んぼの隅っこででも休養馬を養ってやってみたいと思ったんだけど、テキ(調教師)に聞いたらそんなのは今どき経営が難しいからダメだって言うし。馬が食うか食わんかだけでもやって欲しいいうんだ」

「わかったッ、あれオッチャンの故郷の温泉かなんか、あっちの方から持ってきたもんと違うか」

「なんでもええやんかッ」

 ちょっとうろたえた風で岩田さんは顔の前で手を振る。まわりの人間がそれを見てはやし立てる。

「オッチャンの薬、悪いもんじゃないってのはわかってるけど、元がただみたいって言われると、不思議なもんでなおさら使いにくくなるんだよなぁ」

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 以前、別の厩舎でのことだが、ある厩務員の担当する馬から集中的に禁止薬物が検出されたことがあった。それも何種類もの薬品が一度に出たから、主催者の方も首をひねった。少し様子を見ようということになったが、次の開催でもまた出る。あんまりだから調教師に事情を調べさせると、その厩務員、自分の馬にスタミナドリンクを飲ませていたというお粗末。

「バカだよあんなのは。俺はちゃんと何がひっかかんのか調べてからやっとるんだから。専門家にある筋から聞いてあるんだから。俺、そんなバカじゃないよ、心配せんとけよ。医者に聞いとんだから」

 日本の競馬の禁止薬物についての規制の厳しさは、おそらく世界一だ。岩田さんは、どんな薬でも全部自分の身体で実験してから馬に使うのだという。

「みんな馬は馬、人間は人間なんて思うとるけどとんでもない間違いだよ。俺、自分の身体からヒントを得てはこうやっとるんだ。シンボリ牧場の和田さんは必ず人間で実験してから馬にやるっていうけど、正しいんだよ。俺は自分の身体が実験台なんだから」

 自分の身体にいいものだったら、馬にとってもいいものに決まっている。素朴と言えば素朴だが、同じ生きものというところへの信頼感の強さに支えられたこういう考え方は、時に意外な成功を収めることがある。

「俺なんかさ、この前オッチャンに薬代一万円もとられたんだよ、バカみたいだよ。これ魔法の秘薬だから、って」

「でも、効いただろうがね」

「そりゃ目がさめるように効いたってことはないけど……でも、あれは効くには効いたと思うよ」

 問い詰められた三十代そこそこの厩務員は、真面目な顔をしてそう言った。

「ほらみれ、俺はあの薬、北海道おった時から使っとったよ。効くんだもんしゃあないじゃないか。その俺が、もっといい薬開発したから使ってくれ、って言ってんだよ。これはあくまでも体調がガタガタになった馬にきくはずなの。お腹からきちゃうような馬だ。普通の馬じゃきかんよ、きっと。あと、脚もとの悪いやつもダメだな」

 薬効が認められた岩田さんは機嫌がいい。自分の経験からなのか、漢方の知識を若い仲間たちに披露し始める。それまで茶化していた若い衆も、真剣に耳を傾ける。

「ガタガタになった馬には天然の素材が入ってるやつがいいんだ。たとえば、ヘビイチゴドクダミ草を調合した奴。あれはすごく効くんだから。解熱剤とか肝臓関係ね。ドクダミって毒消しでしょ。オオバコってのも効く。馬は血統だけじゃないよ。調教と厩務員とで決まるんだから。その三拍子が揃わなダメだよ」

 再就職の方がうまくいかなかったらどうするのか。話が一段落して、厩舎の裏で立ち小便する岩田さんに尋ねてみた。

「そうやなぁ……相場の株の方か、休養牧場やるか、もういっぺん薬品試すために競馬場戻るか。何にしてももうひと花咲かせてからじゃないと、まだあきらめられんよ」