日本の馬は強いぞ

 どうも最近、日本の競走馬の能力がいきなり高くなっている。

 何かまるで進化の段階をいきなり無視したようなとんでもない「強さ」を感じる時すらある。たとえばこの秋、ビワハヤヒデ菊花賞。さらに、その半弟ナリタブライアンの朝日杯。いずれも内容が常識破り、とても三歳や四歳の競馬ではない。「強さ」というのは相対的なもので、相手が弱ければその「強さ」が際立つこともある。しかし、彼らの勝ちっぷりはそれまでの若馬とはまるで違う。たとえは陳腐だが、まるでレプリカントのような化物じみた「強さ」なのだ。

 思えば、競馬の世界でそういうレプリカント的な「強さ」を感じたのは、アイネスフウジンあたりからだった。脚もとが危なっかしい馬ですぐ引退したけれども、ダービーの逃げ切りはそれまでの馬とちょっと違う鮮烈な印象だった。その後、その感じはミホノブルボンでさらに強まった。

 そして今、八〇年代のこの国の「豊かさ」を背景に余ったカネを競馬まわりに惜しみなく投下し続けたその結果が、競走馬のかたちを借りて目の当たりになり始めているらしい。誰もが「バブル」とひとくくりにしてきたあの時代。しかしゼニカネがらみの現象にはやはり必ず具体的な現実が伴うし、具体的な分それはかたちになるまで時間もかかる。そう、やっぱりゼニカネの現実はなめちゃいけないのだ。

 となると、僕が思うのは人間サマの方で八〇年代初めに「新人類」と呼ばれた世代のことだ。あれは、高度経済成長の「豊かさ」を背景に立ち上がってきた彼らの世代のある種の鋭敏さ、能力の高さを感知した上での名づけられ方だった。もしもこの最近の「強い」馬たちが馬の世界の「新人類」だとしたら、その弱点も人間と同じく、最初から完成されてはいるが成長とか成熟は計算しにくいこと、一旦調子を崩したら立て直しがきかないこと、などになるはずだ。しかしこの仮説、果たして馬券の役に立つのだろうか…