社会のことを考えるな

 ごくたまにだけれども、学生主催の講演会で話をしてくれと言われる。

 とは言え、人を呼んで話を聞くという作法自体がすたれてきているご時世。主催者側には何の目算もない場合が多く、そうするものだ、という程度のこと。ひどい時には「いまどきの大学生にひとつカツを入れて下さい」なんて人ごとのもの言い。俺ァ大仁田厚か、と皮肉ってももちろん通じず、通じないどころかキャッキャと喜ぶ。で、それもまあいい。どんないい加減な依頼でも、それを仕事として引き受けるかどうかはこっちの問題だ。

 事情は何であれ僕を呼ぼうというような連中だから、おおむね自治会か新聞会、せいぜいが社会問題研究会とかジャーナリズム研究会といった類の文化団体。たいていは会員が激減し存続の危機に見舞われている。だが、どうしてそうなってるのか自分たち自身まるでわかっていず、また積極的にわかろうともしないあたりがなんとも凄まじい。

 あんたらどうして俺を呼ぼうってことになったんだ、と尋ねる。要領を得ない。仕方ないから、これまでどんな人を呼んでたんだ、と聞くと、えーと去年は松井やよりさんを呼んでぇ、その前はODA問題の専門家でぇ……あああ、未だこういう世界観なのか。本当にそういう脈絡でしか、あんたら「社会」を考えられないんだな。貧しいよなぁ。

 少しは社会のことも考えなきゃいけないのかも知れない、という不安に苛まれることは学生として悪くない。しかし、その“社会のことを考える”もの言いや身ぶりがある方向にだけ凝り固まってきたことの不自由に気づかず、振りほどこうともしないままじゃ、もはや何の役にもたたない。考えようとすればするほどクラく窮屈になってくなんて、それはそんな「社会」の考え方語り方の方がどこか間違ってんだ。考えてもそんな「社会」にしかならないのなら、なまじ中途半端に考えようとしない方がずっと健康的ってもんだ。