どこかの誰かと“デキる”力を宿せる場


*1
 民俗学者という看板を出して世渡りしている以上、これはもう避けられないこととあきらめているが、こいつは絶対にこの「祭り」というやつに何かひとくさり能書きを言えるはずだ、という世間の視線に遭遇することが多い。これが実に困る。

 専門的には「民俗芸能」てなことを言う。神と人との交感、てな聞いた風なことぬかす手合いもひと山いくらでいる。だが、その交感とやらの場には、今やどこの祭に行っても警察のロープが張りめぐらされ、オートフォーカスカメラを構えホームビデオを抱えたお祭りファンがひしめき、茫洋とした表情の白人観光客がたたずみ、そしてそれらの間をノート片手の「研究者」(自称から他称まで)が背中丸めてうろつき回る。そのくせ、彼らが書きとめる「祭り」には、それら神と人との間に厖大に横たわっているはずの「いま・ここ」に足つけた“もの”や“こと”は絶対に登場することはない。「民俗芸能」としての「祭り」を語るもの言いには、未だテキヤさんの屋台ひとつ存在しないのだ。人間と社会を、そして存在するものならば神を、ここまでナメきった学問など許されていいものではない。

 おそらくは一九二〇年代あたり、年号にしたら大正から昭和にかけての時期に、主として浪曲によって全国的に整備されていったはずのこの国の「興行=ショウビジネス」の仕掛けは、充分にそれぞれの「祭り」の足もとを浸してゆき、しかしまた戦後の歌謡曲やプロレスあたりにまで充分応用可能なものだった。それは別の角度から見れば、さまざまなクロウトが未だクロウトとして世間に居場所を保証されていた時代でもある。かつての草競馬などはそういう地元の顔役の声がかりで馬が集められ、番組が組まれ、何もない河原に仮設の馬場がしつらえられて、あっという間に「祭り」の状態になったという。あるいは、今でも女子プロレスなどはそれぞれ地元の興行師=プロモーターがいて、スーパーの駐車場だの青果市場だのといった公演場所をブッキングしてゆくと聞く。年間二百試合を超えるその「ドサ回り=ツアー」の点と線は、たとえばかつての浪曲師たちの残した旅日記に記された地名の連なりにかなりきれいに重なってゆくものだったりする。滅多にこういうもの言いをしない僕でも、「伝統」てなことをそっとつぶやいてみたくなるだけの、歴史に根ざしたある記憶の気配がそこにはある。

 だが、民俗学者の語ってきた「祭り」とは、そういう「興行=ショウビジネス」の仕掛けをあらかじめなかったことにした上で成り立ってきたものに過ぎない。やれ共同体のナントカだの、先祖の魂がどうしたの、てな能書きは、確かに全くの事実無根というわけでもなく、それなりの根拠ってやつもあったりするのだが、しかしそれは他でもないその地元で「祭り」を支えねばならない立場の者たちにとってどうでもいいことであることには変わりがない。そういう能書きに寄りかかり、かたちだけはいくらうまく「祭り」のふりをしていても、そんなものもはやデパートの屋上の遊園地程度の愉快すら与えてくれないものだったりすることだってある。

 じゃあ、今、この国の「祭り」とはどこにあるのか、と尋ねられたら、アンちゃんたちネエちゃんたちがそれを機会に何かうまいことやろうとできる、そういう場であることがその最低限の条件だと思う、と僕は答える。開き直りではない。本気でそう思うのだ。盆踊りなんてのはもともとそういう場だったのだし、今でも正しくあろうとする祭りの場は、必ずそういうふくらみを宿しているだろう。その場にいたことで何かある官能の部分を刺激され、その結果どこかの誰かとデキてしまったりもできる、それだけの力を獲得できないような「場」など、ロクなもんじゃねぇ、だ。

 オレたち、上々颱風が村にやって来た夜にデキたんだよな、という語りをこの国の風景にしみこませてゆくこと。そして、そうやって語られる経験をまたその子供たちの耳にもまっすぐに響かせてゆくこと。これだけやせてしまったこの国の「祭り」に、また新たな「場」の官能を立ち上げゆくというのは、おそらくそういう気の長い作業だ。


*1:上上颱風のツアーパンフレット掲載原稿。なんで依頼があったのか当時もわからなかった。未だにわからんままである。