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薄紙をほぐして水に溶かしたような、淡い雲がかるく流れていた。
金沢競馬場は河北潟の近く、まわりに何もない埋め立て地のようなところにぽつんと建っている。のんびりした秋の日、まだスタンドは人影もまばらだ。
五回目になる地方競馬の秋の名物、インターナショナル・クイーン・ジョッキー・シリーズ。今年は第一、二戦が笠松、第三、四戦が金沢、そして第五、六戦が大井という日程。およそ二十日ばかりの旅興行だ。
見知らぬ土地の初めての競馬場。まわりはみな黄色い顔に黒い髪、黒い瞳のわけのわからぬモンゴリアンばかり。見世物に等しい面も拭えはしない。おいワンダフルッ、こっち向けッ、スタンド前の騎手紹介ではまじりっ気なし、純粋ニッポンオヤジの声が飛ぶ。そのもの珍しさの中を、馬に乗るのが稼業の、いずれ寝藁の匂いのおねえちゃんたちが動く。
何も特別なものじゃない。馬に乗る、競馬をする、そんな仕事の流れの中に、たまたまこういう極東の島国での仕事が組み込まれただけ、馬具を整え、手入れをし、競馬が終われば泥だらけであがってくる彼女たちの息づかいはそう語っていた。装鞍所で自分の乗り馬と対面しては一喜一憂し、なんでもない誘導馬の鼻面に無邪気に群がる、そのあたりまえの具合に、かえって馬と織り上げてきた底知れない歴史の力を感じる。
中でもアメリカのふたり、テレス・パワーズとキャシー・ライアンが抜けて達者な印象だ。パワーズなど馬に恵まれないところもあったのに、確実に前へ持ってくる。どだい勝ち鞍の数が違う。パワーズが通算七七六勝、ライアンが四二四勝。旅慣れてもいる。営業もぬかりない。正真正銘、ムチ一本で世渡りする仕事師、なのだ。
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だが、見知らぬ国の旅興行の最後、疲れも出てきた身体に大井の直線はゆるくなかったようだ。
「ゴールが遠いのよね」
みんな肩を息をし、グッタリした顔で上がってくる。
最終戦は1,700m戦。大井の1,700m外回りをハナ切って逃げ切るのは至難の技だが、派手めのオージーねえちゃん、ダニエル・エレットの乗った鉄砲玉セブンステップスは見事二着に逃げ粘った。モータウン・デトロイトの「職人」テレス・パワーズの腕に初距離克服を期待した上がり馬インターサンクスは二番手追走も馬群に沈み、このシリーズ三連覇の益田の女傑、吉岡牧子を引いた大井得意の遠征馬ソアリングも伸びない。勝ったのはなんと人気薄、笠松の大福娘、中島広美のイサオラップ。大井じゃおなじみ、早来は吉田権三郎牧場生産のビッグディザイアー産駒。今年六歳になる彼の生涯五勝目は、あっと驚くゴール前強襲だった。いつもはずっと鷹見が引っ張ったまま、直線だけの競馬しかできない不器用な馬が、今日は三角あたりからグイグイあがっていったもんな。ほんと、気持ち良さげだったな。
こりゃいい、やっぱり当たりが柔らかいんだ、おい、うちにもひとりおネエちゃんがいたな、緑ですか、そう緑だ、あれをこれから乗せてみよう、なに、調教師と同じでオンナ好きなんだあの馬は。そう上機嫌で話す調教師の言葉に助手は、あいつ去年浦和の招待競走も勝ってるんですよ、とささやいた。そうか、ほんとにオンナ好きの馬なんだな。
二着は外さないと見ていた中央下がりのキョウシンルドルフは、果敢な三角まくりを打ったものの直線伸びず四着。ただ、シリーズ通じていまひとつ精彩のなかったイギリス、アレックス・グリーヴスのウォーパーティーがようやく三着に突っ込み、彼女についていた通訳の女性は「よかったー」と心底ほっとした嘆声をもらした。彼女、日本に来てから調教にも乗れないから、運動不足で太りっぱなしなのよね。
逆に、やせっぽちのナタリー・モニーは日本の食べ物が合わず、ロクにのどを通らない。胃袋が受けつけず食べては吐いてしまう。馬主から電話がかかってきて、日本でいいもの食ってもっと太って帰れ、と言われ、やせた、と答えて叱られたという。
「フランスじゃこんなことはなかったのに……」
最終戦、人気の一角リョウショウコーに乗ったけれども、見せ場も作れなかった。リヨン郊外の競馬場育ちで、パスポートを取ったのも生まれて初めて。ほんとか嘘か、記載は最初男になっていたとも聞いた。こちらのプログラムに通算十六勝と記されているのを知り、「あれから五つ勝ったから本当は二十一勝なのよ」と、フランス人の誇り高さで懸命にツッパり続けた彼女は、レース後、「これでフランスに帰れるね」の声に、血の気の引いた顔で懸命に「イエスッ」と笑ってくれた。
結局、シリーズ優勝は道営の安田歩。これで昨年以来、このシリーズ十四戦して着外は一回だけ。馬を選べないことを考えればこれは立派だ。二位がライアンで、ここまではどちらも笠松から飛ばしたふたりだったが、三位には、最終戦を勝った中島が二着のエレットを上回って入った。中島にかわされたエレットが実にくやしそうな顔で引き上げてきたのは、ポイント差を知っていたせいだろう。金沢の第三戦で人気馬オーロラハヤテに乗って惨敗したのが響いたよな。ハヤテミグのかかったアラブでいい馬だったけど、堅くなってるのがパドックでもわかった。うん、きっと気のいいおねえちゃんなのだ。
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後検量の終わったマリー・リチャーズが自分の鞍を引き上げにくる。検量室の横でその鞍の手入れをしていた地元大井のアンちゃんは、まだイガグリ頭の騎手見習。つい数分前まで馬の背中にあった鞍からきれいに砂を落とし、汚れを拭ってノリヤクに返す、それが彼の仕事だ。上気した顔でやってくる彼女の前で直立不動、緊張した面持ちで待ち構える。
ありがとう、ほんとうは何かプレゼントしたいんだけど、あたし何も持ち合わせてないし、このステッキあげたいけどこれはゲンのいいステッキだからダメなのよ。
敗戦後の闇市の、それこそギブ・ミー・チョコレートの顔で戸惑うように固まっていた彼は、しかし、かすかな関西なまりでこう言った。
あの、来年四月にデビューします。そのうちきっと有名になります。
まわりを取り囲む、いずれ似たような歳恰好の厩舎の仲間たちに冷かされながら、彼はちょっと照れて胸を張った。通訳が彼の言葉を伝えると、三度目の日本を働いた彼女は、ほんとうにいい顔で笑った。
やはり野に置け、だ。馬のいる場所、草の匂いのするあたりにこそ、彼女たちはふさわしい。