「感性」まみれの「地域づくり」の無惨

 熊本へ行った。仕事だった。

 仕事であれその他の所用であれ、東京以外のどこかへ出かけるような仕事の場合、事情が許す限りできるだけその周辺の土地にも足を伸ばすようにしている。が、そうもいかない場合もある。今回は余裕がなくて、一泊だけのあわただしい日程だった。

 仕事先が用意してくれたホテルに泊まったところ、ちょっと体調を崩していたせいもあるのかどうも寝つかれないので、ちょっとジャンパーをひっかけて散歩に出る。しんとした街並みを二十分ばかりぶらぶら歩いて戻ってきて、それでもまだ寝つかれないので部屋に備えつけてある机の引き出しをあけたら、一冊の本が聖書や経典と一緒に入っていた。

 題して『Big Talk』。副題には「地域づくり強化書――「明日へのシナリオ」から「二一世紀のシナリオ」へ」とある。定価一五〇〇円。へぇ、なんなんだろ、と寝つかれないついでに何気なくめくっているうちに、内容があんまり馬鹿馬鹿しいんでどんどん寝られなくなった。

 すごかった。

 どういう本かというと、細川の殿サマが熊本県知事時代にやらかした例の「日本一づくり運動」にまつわって、熊本県内で「地域づくりに活躍中の市町村長や民間のリーダーにインタヴュー下ものをもとに編集した」という代物。もともとは地元のFM放送で連続的に放送された番組の一部らしい。

 本を作っている主体は「熊本21世紀研究会」。なんだか政治家が政治資金づくりのために作ったトンネル会社みたいな名前だが、それはまぁいい。奥付を見ると出たのが1991年3月31日。ははぁ、何か90年度予算の期限内で消化しなけりゃまずいようなカネの援助でも受けてたのかな、と勘ぐったりしたのはこっちの性格の悪さで、これもまぁどうってことはない。

 問題はその中味だ。

 全部で二九例、三一人が登場する。町長や市長の他に、県の企画開発部長や地域振興課長、その他「熊本市南部市民の会」だの「熊本県青年塾」だのといった市民組織らしい団体の人間も混じる。インタヴュアーが福田征四郎という経営コンサルタント。元はブリタニカにいて「全国トップセールスマン」になったこともある御人らしい。今は地元熊本で仕事をしていて「その異業種・多業種のコンサルティングは実践型指導と人間味あるコーティングで定評がある」由。この御人がマーケティング系タイコモチの性癖丸出しに「地域づくりリーダー」たちをヨイショしまくり、上滑ってゆくさまはちょっと見ものだ。

 能書きもすごい。

「地域づくりは人づくり」とは「そこに住む人々の活力の総和が増大しつづけることである」とした上で、「現代はBe-1の流行でわかるように感性の時代です。地域に、より高い感性を持った人々が数多くいるほど地域の感性が高くなります。」

 Be-1ってのは、確か以前日産から出ていたコロンとしたクルマのことだよな。あれが売れたことと「感性」とがどうつながるのかよくわからないが、そういうわけのわからない説明がマーケティング広告業界方面じゃされていたのかも知れない。でも、そもそもこの「高い感性を持った人々」ってのは具体的にどういう連中のことなんだろう。「高い感性」? うーむ。

「「地域づくり」を仕事なり趣味にして、これからの自分の住む町をよくするために何かアクションを起こそうとしている人は、他の地域の事例の勉強も大切ですが、それ以上に、芸術家であるとか、宗教家であるとか、地域づくりとはまったく関係ないと思わせる人たちと数多く交流することをおすすめします。時代・環境などが自然になんとなくイメージレベルで体感できるようになるでしょう。」

 「地域づくりとはまったく関係ないと思わせる人たち」とつきあうことで、どうして「時代・環境などが」体感できるようになるのか。そんなつきあいで体感できる「時代」や「環境」ってのはどういうものなのか、ってこともあるよな。しかもその例としてあげられるのが「芸術家」とか「宗教家」だろ。橋の欄干に金ピカの彫刻がくっついたり、駅前広場にドーンと壮大な前衛芸術風モニュメントがおったったりするのは、そういう連中とつきあうからじゃないんだろうか。それに以前から思っていたのだが、こういう「運動」の中で作られたホールとか建物とか橋とかに、なんか知らないけど、日本土木学会とか日本建築学会とか建設大臣とか、そこらへんの「エラい」方面からの賞が乱発されてるような印象があるんだよなぁ。こういうスカも、そういう「地域づくりとはまったく関係ないと思わせる人たち」とつきあうことと、なんか関わりがあったりするんだろうか。

「広報実体論とは、現実にそこにある姿をありのままに少々控え目に知らせる実体広報論とは反対に、地域イメージを先行させて売り出すことにより、地域の人々にインパクトと「がんばらないと恥をかく」というプレッシャーを与え、イメージに実情を近づけさせて行く手法です。(…)どちらかと言えば広報実体論に重きをおいて広報活動を展開し、地域の住民の潜在的な「地域に対して誇りを持ちたい、自分が住んでいる地域はすばらしいんだ、何か自分にできることがあれば手伝いたいのだが」という自己実現の欲求を、行動レベルにまで顕在化させ、その欲求を満たすように導いていったほうがよいでしょう。」

「情報受発信としてイベントを考えるとき、一番肝心なのが「感性」です。(…)「感性」に訴えるということは、簡単にいえば、かっこ悪くよりはかっこ良く、醜いよりは美しく、つまらないよりは楽しくということではないでしょうか。もう少しつっこんでいうと、人の心の不思議さに訴えることです。」

 ……もう何も言えん。実体はなくてもいい、ひとまず包装紙だけ作って脅しをかけりゃ後から中味はついてくる、ってことだろうけど、こりゃもう明快
にサギのすすめだぜ。

 この、と学会に推薦したいような本を一貫して流れるトーンをまとめると、およそ次のようなものだ。

「官庁」とか「行政」に対しては「小回りがきかない」といった視点から不信感を持つ。


同じように「市民」や「住民」といった言葉にも「顔が見えない」という視点から違和感を持つ。


「地域」の自立を説き、行政に頼らない「下からのアイデア」を重視する。


工業を前提とした「経済」を敵視し、「文化」「芸術」「自然」「こころ」「つながり」「こだわり」をやたら称揚する。


その系列で「センス」や「感性」「気持ちよさ」を価値に置く。


「情報発信」「ネットワーク」といったもの言いも何か輝かしいものとして、しかも「未来」だの「二一世紀」だのといった単語とコミで使われる。

 なんのこたあない、去年夏の衆院選で盛り上がった“気分”の最大公約数じゃねぇか。あの時取材した日本新党のボランティア連中もほとんど似たようなこと言ってたぞ。それも軒並みブッとんだ眼して。

 と思ってすっかりさえちまった眼を光らせながら読んでたら、あれれ、ところどころに松下政経塾の影もチラホラするじゃないの。語るに落ちるってこういうことじゃないのかなぁ。

 彼らは「国や県をあてにする市町村に未来はない」とも言う。地方分権論になじみそうな能書きではあるし、ある水準では全く正論でもある。

 でもさ、国や県をあてにするしかないようになるまで市町村を追い詰めてきた歴史ってのもあるぜ。経済的にはもうしゃぶり尽くしちまったから、「そろそろ自立しなさい」とおためごかしに体よく放り出し、それでまたわけわからないことを始めるのを眺めながら今度は「観光」の題目でもう一度しゃぶろうってことかよ、と毒づきたくもなる。だって、どうきれいごと言ったって、これってそこに住んでいるということだけで「観光」の「資源」になるための仕掛けづくり、地域まるごとスキー場の職員か観光ホテルの従業員みたいな意識を持たせようってことだよな。

 それにしても、マーケティング広告業界の泥棒猫連中ならいざ知らず、それぞれの地域、それぞれの場所で生きている、その限りでは「普通の人」であるはずの人たちが、どうしてこんな水準の言葉にいとも簡単にコロッと転んでしまうのか、という謎は、実は簡単にはほどけない。

 個人的な経験では、地方に住む地元の人たちの操る言葉がどこかで上滑りを始めたな、と思うようになったのは、やっぱり八〇年代の後半にさしかかったあたりからだった。その頃から、取材なり仕事なりで地方に出かけると、別にそう望んだわけでもないのに地元のそういう運動の指導者、リーダーといった人たちがどんどん出てくるようになったという印象がある。世代的には四〇代そこそこから下は三〇歳前後。昨今、どこも地方は高齢化が進んでいるから、地元に残ったこの世代の人間というのはある意味では貴重な存在でもある。「時代を担う若い世代」てなわけなのだが、彼らがパソコン通信で全国と「つながる」ことを誇り、時に「海外」へ出かけることで「国際感覚」を身につけようとジタバタし、結局はどうにもそぐわないようなわけのわからない建物や施設、子供の思いつき以下の土産物の類を作ることに加担してしまう、という構図のスカは、具体的な地域の違いはあれ、結構普遍的に見てきたような気がする。

 いや、じゃあ他にどんなやりようがあるんだ、という開き直りは痛いほどわかる。これでも民俗学者、たとえ文字にしてみれば空中楼閣のもの言いとしか読めない発言でも、地元にとっては何か希望の依代になり得る、という程度のリアリズムは他人より持ち合わせているつもりだ。だったらなおのこと、こんな言葉じゃ救われねぇよ、とタンカ切るだけの批判力を鍛えていかないことには、いつまでたっても「自立」なんてできやしない。