拝復、『噂の真相』賛江

 筆の勢いというのはある。また、勢いで書きつけねばならぬ仕事の立場というのもある。だが、それも長年やっているとその立場も自覚できぬままの、言わば考えなしの自動筆記と化してくる。ひとり正義ヅラしたメディアの無責任はそんなところに胚胎する。

 *月*日付の本欄で「『噂の真相』の15年目」という一文を草したところ、さっそく同誌5月号の「編集長日誌」に応答あり。創刊15周年記念号は「おおむね大好評」だったのに、「斜断機」のように「古めかしい正義漢(ママ)」とか「下卑た商業主義」「つくづく品がない」といったバトウを匿名で加えることに屈折した喜びを感じる新保守系吉本隆明主義者もどきもいた」とごていねいにも誤植混じりでご紹介いただく光栄に浴した。新保守系の吉本主義者、か。まさか沈思黙考の末の文章とも思わないが、にしても、やはりこの程度の脳味噌が裁量しているメディアだったのか、と落胆と失笑を禁じ得ない。

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 改めて確認しておく。小子は『噂の真相』に対して、品がない、と文句をつけたのではない。どんなにとりつくろったところで暴露メディアのこと、いや、そもそもジャーナリズム自体そのような下卑た部分を含み込んでしか成り立たないものかも知れない、という感覚くらいは、多少なりともこの世界で仕事をしてきている人間ならば当然持ち合わせているものだ。だからこそ、その品のなさ、下卑た商業主義の上で仕事をする自覚が求められるのだし、少なくともそれが健康な職業人の倫理だろう。わが斜断機にしたところで全く同様。だから、その品のなさをもう少しきちんと自覚したらいかが、と苦言を呈したまでのこと。なのに、その文脈も読解できず、「本誌が93年11月号で「斜断機」の匿名筆者あばきをやった意趣返し」としか解釈できない狭量さは、本気だとしたらかの本多勝一級。第一、あれだけ当たらぬ筆者あばきに対して意趣返しもヘチマもなかろう。 (鳳)