園井恵子、三十三年の夢。ただし、その他おおぜいの。

*1

 

 大正の始め、夏空の広がる八月六日の昼下がり、岩手県はなだらかに広がる岩手山のふもと、松尾村というところにひとりの女の子が生まれた。名前は袴田トミ。父清吉はもともと養蚕をやっていたが、彼女が生まれた時の稼業は和菓子屋。母カメは時の村長の長女だった。

 それからちょうど三十三年と半月の後、昭和二十年八月二十一日、彼女は神戸の、とある家の座敷で亡くなる。髪の毛はごっそりと抜け、全身に内出血が広がり、四十度を超える高熱にうなされながら悶え苦しんだ、と眼をふせる人もあれば、いや違う、最後まで彼女の仕事だった女優らしく静かに、毅然としていた、と気色ばんで語る人もいる。そのどちらもが、その人の記憶の中では真実としてすでに確かな居場所を獲得している。だから、「書かれたもの」の向こう側に広がる未だ書きとめられぬ記憶の領域も含めて“あるべき歴史”の側へ引き寄せるのが仕事の民俗学者のできることは、ひとまず黙ってうなずきながら耳傾けることでしかない。

 三十三歳の誕生日を彼女は広島で迎えた。その日、星のマークをつけた四発の重爆撃機から落とされた小さな落下傘には、ひとりの小僧っ子が吊り下げられていた。遠い故郷のアメリカ、見渡す限り地平線の広がる風景のもと進められた実験で確認された通りの精確さで彼は炸裂し、彼の仕事を終えた。

 彼女は、軍需工場などの慰問のため動員された移動演劇隊の仲間たちと共にいた。誕生日を祝ってくれるという仲間たちに、宿舎でなけなしの甘いものをご馳走しようと準備していた。最初の一瞬で宿舎が倒壊、火に包まれたが、庭に吹き飛ばされた彼女は奇蹟的に無傷だった。もうひとり、これも奇蹟的に命があった仲間のひとりと助け合い、山陽本線の上り復旧第一号列車に乗り込んで神戸の、彼女がずっと“お母さん”と呼んで頼りにしていた人の家へと向かい、二日後にたどりついた。それから十二日の後、一緒に逃げてきた仲間が亡くなり、そして翌日、彼女も同じ運命をたどった。

 彼女は当時、世間には園井恵子という名前で知られていた。昭和の始め、宝塚少女歌劇の舞台で人気を博した。岩手の片田舎で夢見た宝塚に家出同然、十七で飛び込み、一人前になり、三十で退団してからは新劇に傾いた。そして、映画『無法松の一生』のヒロイン吉岡良子役で全国的に有名に。今は色褪せたもの言いだけれども、文字通りに正しく“スター”だった。

 宝塚が当時、彼女も含めたこの国の“ある夢見がちな気分”を共有した少年少女たちの意識にどのような刻印を残していったかについて、そんなとほうもない広がりを獲得していった“その他おおぜいの想い”の歴史について、この国の学問は未だちゃんと言葉にしていない。

*1:月刊カドカワ』連載「昨日生きてた野郎ども」原稿