無法松の影

 

 夏の小倉に太鼓が響いた。西瓜だろうか、何かやわらかな食べものが舗道に落ちて赤黒いしみになり、有機物が腐ってゆく甘酸っぱい匂いを往来に放っていた。きれいに整えられた山車にはどれも冷たい飲みものを積んだ小さな車がクーラーボックスよろしくくくりつけられ、太鼓を打ち疲れた若い衆や汗まみれの地元の世話役、あるいは発情した顔のとりまきのおねぇちゃんたちがそのまわりに寄り添う。企業と商店会とであらかじめしつらえられた「おまつり」の文法にちゃんぎり(鉦)の音も行儀よく、川のように理にかなった方へ流れてゆく喧噪のかたまりは警官さえいらないほどだ。

 「富島松五郎伝」、俗に「無法松の一生」と呼ばれる短い小説が気になって、暇と金を工面しては小倉通いをしている。

 岩下俊作の手によるこの小説、実際にテキストを眼にしたのは昨年、評論家の平岡正明さんから春陽堂文庫版を貸してもらった時が初めてだった。なんのことはない、中公文庫にちゃんと収められていることをあとで知っておのれの眼配りの悪さを深く恥じ入ったのだが、しかしそれまでは読みたくてもなかなか手に入らなかったのだ。

 一読して驚いた。おそらくは歌謡曲や映画、ちょっとした読みものはしばしなど、いずれもとのテキストの場所から引きはがされ編み直された語りの断片によってそれまで漠然と僕の意識に刷り込まれていた「無法松」についてのイメージとまるで違う水準のことばがそこにあった。

 一般に、「無法松の一生」とは小倉育ちの男らしい男がかなわぬ恋に身を焦がしながらその純情を貫く物語、という方向にイメージがまとめられ、共有されている。ところが、少なくとも僕が静かに読んでみた結果の「富島松五郎伝」とは、そんな泥絵具の書き割りめいたあからさまなキンタマ男のおはなしなどではなかった。それは、先走りして言えば、「近代」に襲われた都市単身労働者=流民・雑民の孤独の物語であり、そこに収斂すべき「老い」の物語だった。さらに突っ込めば、この国の「近代」がある到達点で半ば必然として削り出してきた核家族幻想のある典型が、ゾッとするくらい冷徹に「おはなし」の水準に焼きつけられていた。ええい、もうはっきり言っちまおう。そこには、高度経済成長以降のこの国の「父親」の不幸がミもフタもなく「おはなし」として提示されていたのだ。

 実際、あらかじめ持っていたイメージとテキストのディテールのずれにとまどう個所がいくつもあった。ひとつだけあげよう。映画や舞台などでもクライマックスとして描かれる運動会の場面。無法松が恋慕する吉岡未亡人のひとり息子敏夫のの父代わりとして共に運動会に行き、徒競走に飛び入りして勝ってしまうという、なかなかおいしい場面だ。僕は、人力車夫の無法松がその脚力にものを言わせて他の飛び入り連中をぶっちぎって勝ったものとばかり思っていた。いや、僕だけではない。友人や同僚、親戚に至るまで、およそ尋ねられる限りの人々に尋ねてみても、誰もがおおむねそのような印象を持っていた。

 だが、もとのテキストは全く違っていた。無法松は最初から最後まで全く淡々としたペースで走り続け、功にはやって無茶なせり合いをやる他の飛び入り衆がバテて脱落してゆくのを尻目に淡々と、ほんとうに淡々と勝ってしまうのだ。このような落差は他にいくつも発見できる。

 じゃあ、と破れ看板背負った民俗学者は考える。僕のそのような読みがテキストに対するもっとも素直なものだと仮定して、なぜ「無法松の一生」はそのようなキンタマ男の恋の物語として語り直され、広く世間に流布されていったのだろう。それはどのような時代のどのような想像力の舞台に乗せられ、どのようにもうひとつの大文字の物語として別なものになっていったのだろう。違う言い方をすれば、そのような物語として読んでゆくことを欲していた世間の想像力とはいったいどのような方向のどのような力を宿していたものだったのだろう。

 橋本治長谷川伸の「瞼の母」を解釈した文章がある。ここで彼は、お浜がなぜ番場の忠太郎に会おうとしなかったのか、というところから一点突破で「お浜は娘との関係ですでに安定しており、その意味で男嫌いであった」という空恐ろしい結論を出し、瞼をつぶることでその現実を直視しないですむようにしてきたこの国の「近代」の男の勘違いを論じている。「富島松五郎伝」はこの「瞼の母」の裏返しとして解釈できないだろうか、と僕はまた無謀なことを、しかし本気で考え始めている。