「学問」する身の信頼性

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 人の書いたものを読む。その書いたものに対して、あるいはその達成の上に、また何か新たな言葉をある条理に沿って書きつづってゆく。紙の上の文字を介したそのようなやりとりの辛気臭い蓄積の中に、何かのっぴきならないものが宿り始め、関係が、場が発熱し始める。「学問的真実」などとは今やこっぱずかしくて言えないまでも、それでも共有すべき理解の水準、共に凝視せねばならない現実の輪郭が、ゆっくりと明らかになってゆく。

 生身の対話とは速度も効率もまた違うにせよ、印刷技術の土台の上に出現する「書かれたもの」を媒介にしたそのような知的営みの実効性に対して基本的な信心を持てるかどうか。持てる、と無理にでも自覚できることが、最もゆるやかな意味での「学問」に参与するべき人間の最低限の条件だと、僕は思ってきたし、それはもう少しずらして「言論」だの「思想」だの、いずれどこかで通底してゆくはずの文字の知性の営みを指し示すその他のもの言いと置き換えても、基本的に変わらないものだとも思ってきた。

 だが、「言論」や「思想」はひとまずおいておくにせよ、こと民俗学という「学問」(ということになっている)のまわりの知性(のようなもの)の最大公約数に関して言えば、そのような信心以前にその最も根本のところ、人の書いたものをそこに内在しているはずの条理に従いながら静かに読む、という最低限の能力そのものにあらかじめ問題がある連中ばかりらしい。

 たとえば、僕がこれまで民俗学について書いたものをまとめた『民俗学という不幸』(青弓社)という本がある。二年前の春に出てこのかた増刷含めて都合六千部ぐらいしか出回っていない本だし、何よりそんなもの民俗学を専門としていない人たちにとってはしちめんどくさいことしか書いていない本ではある。あるが、しかし民俗学に関わっているという自覚のある人間ならば、そこに書かれていることがまるで理解できないというものではないはずだ。でなければわざわざこんな本、世に出すもんかい。

 「都市民俗学」というもの言いによって表現されようとしている本質的な問題というのはこの国の民俗学自身が抱え込んでいる“眼前の事実”、つまり「現在」からの疎外である。だから、何か民俗学という大枠の中にある分野としての都市民俗学というのがありますぜ、というような「都市民俗学」論はその本質的な問題を直視していない百害あって一益なしのもの言いであり、その意味でひところ言われた「都市民俗学」など実は存在しない。思いきり大ざっぱに言っちまえばそういうことを論じたつもりだった。そういう「〇〇学」の看板を自分勝手におっ立てたところで、それだけで「学」を下支えする情報流通システム、つまりある制約の下に成立しているメディアを介した「論文」という形式に収められた「書かれたもの」のやりとりに乗っかることはないわけで、だとしたらその「〇〇学」に何の意味があるってんだ。

 で、どんなにレフェリーのシステムがこわれていようが一応は「学会誌」、ないしはそれに準じるメディアに「論文」という形式で当初それを提示し、その積み重ねでこちらがものを言ってきている以上は、それを読んでその上でものを言うというのが「学問」の当たり前の作法だろう。だが、今に至るまでこと民俗学方面でこの本で示した論点について正面から対応した仕事はほぼ皆無。この「学問」共同体の「書かれたもの」の流通の信頼性に絶望したら最後、学者としての自分の職業意識のかなりの部分を野ざらしにするしかないから、だからたとえタテマエにせよ極力そうはしまいと思って踏ん張っているのだが、しかしあまりにひどすぎる。書いたものを読む、という能力について根本的な欠損をもたらすような仕掛けが、民俗学という言語空間のまわりにプログラムされているようだ。

 なのに、あれはどういう自意識によるものだか、そんな制度としての「学問」のスカから自由な立場のはずの大塚英志ですら未だ肩書に「民俗学専攻」と刷り込んでやがる。あるいは、あれは武田徹だったか、やはりケツに「言語学専攻」などと一言くっつける。そんなものてめェで選んだ自己提示なのだから自由っちゃ自由だが、それでもその一言の向こう側にあからさまに透けて見える身構え方、痩せた自意識の懸命な保持の手くせのいじましさに心萎える。評論家でありライターであり、何でもいいけどそれぞれの現場でそんなものくっつけなくたって平気ないい仕事をガンガンやりゃいい、ひとまずそれだけのことじゃねぇか。わかってんだかわかってないんだか、今どきの「学問」のスカに好んでハマろうと身すり寄せるそのもの欲しさ、みっともねぇよ。これは忠告だぜ、本当に。

 

*1:初出or掲載誌を失念、例によって(´;ω;`) もしかしたら個人的なニュースレター『俄』だったかも。ああ、『俄』のデータ原稿も発掘&サルベージしないといけないんだが……当時のワープロ専用機フォーマットのFDだからなあ……