川の記憶

*1

 育った土地に小さな川があった。

 たいした川じゃない。六甲山系からいく筋も流れ出る小さな流れの、もう少し下流へ行けばいくつか他の流れを集めてちっとは川らしい川になってゆくという、そのまさに「川らしい川」になる前の川だ。

 だから、特に意識はしなかった。ありがたいものとも思わなかったし、怖いものとも思わなかった。子供のこと、春から秋にかけては河床に降りて遊び場にしていたけれども、仲間が溺れたり流されたりといった事故もなかった。もちろん、増水して暴れるなど考えたこともなかった。すでに護岸工事がきっちりなされ、不便でない程度に小さな橋がかかり、身のまわりあたりまえにそこにある風景のひとつとして、わざわざ視線を向けるほどではないものになっていた川だった。まして、仕事の場として考えられるようなものではなかった。かつて「治水」というもの言いに込められたはずの、底知れぬ畏怖の感覚がどれだけ切実なものだったか、たいていの日本人にはもうわからなくなっているけれども、他でもない自分自身の経験としても、それほどまでに怖い「水」のありさまというのはうまく身にしみない。

 ただ、こんな経験もある。

 もうずいぶん前、まだ行儀のよかった大学院生の頃、お定まりの民俗調査で和歌山県竜神村に行った時のこと。山から伐採した木材を川を利用して流す仕事をする「カワカリ」と呼ばれる人たちの記憶を聞き書きした。まるで花電車のように川岸から眺める村人たちの視線に向かって自分の身振りをコントロールする、その昂揚感を語って弾む言葉。深く谷をえぐって流れる急流日高川に沿って集落ができた文字通りの山村で、川自体これまで何度も増水してそのたびに大きな被害をもたらしている。「治水」というもの言いはこのような土地の人々にとってこそ切実だったはずだが、それでも、仕事を介した畏怖すべき川との関わりの中にこそそのような愉快も宿る、そのことが印象深かった。ことさらに護岸工事を施し、柵をはりめぐらせて「安全」で縛り上げた川に、きっとそういう種類の愉快は宿らない。もちろん、怪談も生まれないし、河童も出ない。それが果たしてこの国の将来の経験にとって幸せなことかどうか。僕はやっぱり口ごもってしまうのだ。

*1:掲載誌は『ジャパンランドスケープ』という雑誌だった、と片隅に記してあったけれども、どこから出されていたどんな雑誌だったのか、は記憶の彼方……。