予備校と学校の間

 ともあれ予備校とは、同じ「学校」でもそのようにちょっとズレた空間ではあった。

 「センセイ」の側には、いわゆる「学校」とは違う輝かしさを勝手に当て込んだ無防備が、そして生徒の側にも、その通常の「学校」との距離感によって保証される何か奇妙な「学校のようで学校でない」〈自由〉や〈個性〉、あるいは〈ホンモノ〉といった感覚の昂揚が、それぞれ予備校という場ならではの特殊性に覆われて共有され、そのことを前提にして、「学校」にはらまれる幻想が、通常の「学校」ではちょっとあり得ないような形で純粋に立ち現われるようになっていた。「センセイ」と生徒との間が、すでに通常の「学校」では難しくなっていたような異様な親密さによって埋められ得ることも、このような仕掛けが介在する予備校だからこそ初めて可能だった。

 だがそれでも、どのように勘違いが組織され得る素地があったにせよ、「センセイ」と名づけられる存在に向かって平然と近寄ってゆくことについての何か釈然としない気持ちというのも、すでに生徒の側に刷り込まれていたりする。その違和感の温度差というのは、単に“人それぞれ”で片づけられるものでもない。

 「センセイ」に近寄ってくることに違和感が少ない生徒というのは、何か独特の、スッポンポンの人の良さとでもいうような部分を持っている。僕が男であるという条件の上で敢えて言うと、むしろそれは女生徒の方により顕著な属性だったように思う。たとえば、自分が知らなかったことや、これまでの自分が当たり前だと思っていたことが相対化されることについて、いとも簡単に目を輝かせてしまえるような、そんなタチなのだ。

 「学校」への違和感が少ない、というわけではない。むしろ逆だ。そのような違和感は人並み以上に持ってはいる。だから、その違和感の量に比例して、“予備校的関節はずし”が輝かしいものにもなる。そして、世界との関係において「自分」というものが無条件に第一に置かれる。その程度に「自分」に対する信頼がかなり脳天気に前向き、はっきり言えばお手軽である。といって、今の自分に確かな自信があるわけでもないのだが、でも自分がこう思う、こう感じる、ということを表明することについての後ろめたさやくすぐったさは、あまり感じないですんでいる。親や兄弟との関係は総じて良好で、何か問題があるにしても、家族関係とは逃れられないものである、という引き受け方をする程度に濃密である……

 こういう生徒を評するに、たとえば「活発で前向きな子」てなもの言いしかしない、できない「センセイ」の側の問題というのは、たとえ予備校でも「学校」と全く同様に存在するのだ。