「言葉狩り」をする立場、とは?

 『マルコポーロ』一二月号に『「言葉狩り」徹底追及』と称した特集が掲載された。てんかん協会との「合意」の後、目立つ場所でまとまった発言のなかった筒井康隆のインタヴューを中心に、解放出版社事務局長へのインタヴューなども交えた力の入った企画。だが、全体を通じて、マスコミの自主規制を全ての問題の元凶に仕立てようとする傾向が感じられ、その点に違和感が残った。

 これまで差別的表現に対して過剰な自主規制をしてきたのは、確かにマスコミである。しかし、なぜそのような自主規制がまかり通るようになったのか。マスコミの人間たちが勝手に「解放同盟は怖い」と言いつのり、虚像を作り上げていったということなのか。

 そうではないだろう。たとえ虚像でも、それが脹らんでゆくのには何か理由があるはずだ。「解放同盟は怖い」というイメージが形成されていった過程についての開かれた議論こそが今、求めらていれる。これまで具体的にどのような「糾弾」がなされてきたのかはもとより、なぜそのような「糾弾」が当時必要だったのか、という歴史的背景についての反省など、今後なすべき作業はまだたくさん残されている。我々は昔から論争をするべきだと言ってきた、と解放同盟が主張するのはいいが、無謬の神話の中に自らを置いておこうとする限り、かつての「党」と同じ硬直が繰り返されるばかりだ。

 その意味で、筒井の「解放同盟にはやはり、エセ同和対策を論じてもらわないと、彼らのためにいつまでも、解放同盟イコール怖いというイメージがつきまとうのではないか、そう思います」という発言は、なお吟味するに値する。イメージは確かにイメージではあるけれども、イメージとしてのリアリティは常に存在する。そして、そのリアリティは誰かの胸の内、頭の奥でひとり勝手に作り上げられるものでもない。 (光)