熊たちのもたらした言葉――大量生産、大量消費の“もの”に宿る「文化」の凄味

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 小さい頃、初めて持たされたぬいぐるみは犬と熊だった。ただし、熊は四本足で四つんばいになっていて平べったい顔をしていた。

 書店に並ぶテディベアについての本をめくっていると、一九五〇年代に作られたテディベアの中にちょっとした仕掛けで動くようになっていたものがあって、それらに日本製が多かった、という記述を眼にした。そこに付された古ぼけた“メイド・イン・ジャパン”のぬいぐるみの写真を見た時、記憶の底、始まりの場所からそこにいて、そしていつの間にかいなくなったあの熊の平べったい顔つきを思い出した。

 確かに、テディベアをめぐる最近の状況はブームというにふさわしいのだろう。ファンシーグッズやぬいぐるみの店はあっという間に熊だらけになったし、その他、絵葉書やポスターなどにもそれらテディベアをモティーフにしたものがあふれ、コーナーになっていたりする。

 テオドア・ルーズベルトがハンティングの最中に小熊を助けた、というエピソードから彼のニックネームを付されることになったとも言われるこの熊は、一九〇三年生まれ。数年後には爆発的なブームを招き、ルーズベルトの大統領選に利用されるまでになる。大量生産、大量消費の“もの”としてはご先祖様。今世紀を生き続けるヒット商品の先駆だ。

 ただ、僕が改めて感嘆するのは海の向こう、テディベアを生んだ本家本元には、彼ら自身だけでなく、そんな彼らについての文献が充実しているらしいことだ。

 テディベアに限らず、ぬいぐるみについて日本語で読めるきちんとした文献というのは少なかった。少し前、作家の新井素子が『ぬいぐるみさんとの暮らし方』という翻訳本を出したことがある。クレジットによればもとの著者はグレン・ネイプという男性だったが、こちらがへそ曲がりのせいか、どうも半ば冗談で出された本のような印象もあった。

 しかし、どうやらその印象は間違いだったらしい。最近たてつづけに紹介されている翻訳も含めたそれら“テディベア本”をめくると、テディベア以下のぬいぐるみをめぐる海の向こうの「文化」の蓄積は冗談どころではない、まるで本気だということがわかる。

 中でも、ポーリン・コックリル(むらかみゆうこ訳)の『テディベア大百科』(日本ヴォーグ社)などは造りもカラフルで楽しい本だった。また、翻訳されていないものでも、商品としてのテディベアを作って広めることに貢献した婦人マルガレーテ・シュタイフの設立した会社シュタイフ社を中心に書かれたマーガレット・マンデルの労作『テディベアーズ・アンド・シュタイフアニマルズ』がいい感じだったし、大判で写真のきれいなジュディ・スパローの『テディベアーズ』(マグナブックス)も悪くない。いずれも、これまで大量生産されてきたテディベアがどのような材料で、どの会社で、どのような経緯で売られていたのかについて、写真などの資料と共にていねいにおさえて、しかも、ここが肝心なのだが、肩の凝らない読みものとして楽しませてくれるものになっている。


 こういう〈あちらさん〉の、市井の知性の持つ性癖の凄味は、たとえばピンボールマシンについての同様の研究書を眼にした時や、あるいはまた電気ギターのカタログなどについても同様にある。自動車などは実にさまざまな研究書がある。手もとにあるものを拾うだけでも、数年前にMITから刊行されたジェームス・フリンクの『自動車の時代』などは四〇〇ページを超える大冊ながらよくまとめられた力作だし、ミシガン大学の出版局から出ていた『自動車とアメリカ文化』(デビッド・ルイス&ローレンス・ゴールドスタイン・編)も肩の凝らないちょっと知的なエッセイといった文章によって編まれた楽しいオムニバスだ。大量生産、大量消費される工業製品についての信心というのが、それこそ身体的な水準も含めてかなり異なった角度で、確実に宿っているように思うのだ。


 もちろん、海のこっちのでも、そういう“もの”をめぐる領域は専門の研究者よりもまず市井の趣味人に任せられているところはある。数年前、パチンコの盤面のデザインについて写真集のような体裁で出された本があった。デコトラと呼ばれるあのトラックアートなども、北米あたりの民俗学者ならば真っ先に関心を示すもののはずだ。このような何でもない“もの”についての執着のありようが言葉を喚起して文字通りの学問の方へと連なってゆき、そして言葉本来の意味での「文化」の創造につながる。そういう知的な愉快がこの国の「文化」の内側では未だあまりうまく保証されていないらしい。実に口惜しい。

 それでも、と言うか、その一方で、と言うか、“もの”としてのテディベアは安く、いいものが手に入るようになっている。近所の駅の売店などでも小さなテディベアが売られるようになっていて、それは中国製で値段も五百円ほど。本当に安いのだ。まして、ちょっとした店に行けば古びた味わいをうまく複製して仕上げたテディベアが、そんなに無理しなくても手に入る値段で並べられている。彼らはそのようにしてこの国の若い娘たちの部屋に棲みついてゆくのだろう。そして、こういう“昔ながら”をそれっぽく大量生産して安く仕上げる、なんて方向にはこの国の人間たちはいくらでも知恵を絞ってきたし、ここは前向きに言うのだが、それこそがこの国の「文化」なのだろう。

 にしても、やはり“もの”との関わりを言葉にし、その言葉にすることで初めて「文化」にまで昇華させてゆくのだ、という共通理解の底力に、何か質の違いはありそうだ。

 実は去年、アメリカの友人の母親から小包が届いた。なんだか奇妙なふくらみ方をしているので中身が品物であることはわかったのだが、あけてみるとこれが手作りのテディベアだった。

 手編みの毛糸。決して垢抜けしていない顔つき。それでも、耳につけられたタグにはその作り手である母親の名前が、まさに“伝統的な”テディベアの作法通りに縫い込まれている。もとは手芸教室か何かのキットなのかも知れない。けれども、そういう“型”を尊重してゆくことが、たとえぬいぐるみひとつを媒介にしてでも日常の中にあり得るということを、皮相で軽薄な比較文化論などではなく、言葉本来の意味での「文化」の問題として足もとからゆっくり考えてゆく、その余地はまだ充分にあるはずだ。
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*1:これらそのものではないのだが、ざっくりこんな感じで、目玉がガラス、鼻はプラスチックのと、この画像のような糸でかがったのとがあったような。色は黒いのと茶色いの。ただ、クマと思っていたのは勝手な思い込みで実はイヌだったのかもしれない、というのがその後ずっと拭えないままなのでこういう言い方になっている。

*2:これもそのものではないのだが、こういう感じのボタンが活用されている「あみぐるみ」だった。