予備校の教員室から

 予備校の教員室には専任の教員だけでなく、非常勤の教員として「食えない」大学院生がたまっていた。博士課程の単位だけは取ってしまって職がないので籍だけ残している、俗にOD(オーバードクター)と呼ばれる連中がほとんどだったが、日常の教務の大部分は彼ら非常勤の教員によって支えられてもいた。だから、彼らも平然と生徒たちから「せんせい」と呼ばれていたし、またその呼ばれることにも平然と慣れていくように見えた。

 そんな彼らの口癖は「食えない」だった。

 だが、この「食えない」というもの言いは、彼らに限って言えばかなり微妙な内実をはらんでいる。それは世間一般で言う「食えない」と異なり、単に生活してゆけないというだけでなく、それ以上に、勉強や研究のための「自由」な時間が保証されるかどうか、という部分が常にはらまれている。純粋に「食う」ためだけならば何をしたっていいはずなのに、多くの場合、彼ら彼女らはそこまで開き直ることはなかった。いつかは研究職に、つまりどこかの大学の先生になりたい、という希望を持つ以上、そのための「業績」をあげねばならない。だから勉強の時間が必要だ。ということは、なるべく単位時間での稼ぎ高の多い仕事につくしかない。だから、家庭教師や予備校の教師といった「教育」まわりの現場に流れるのはことの必然。時給いくらのウエイトレスをやるよりも「自由」な時間が確保できるという一点において、彼ら彼女らは予備校に身を置いていた。

 それはわかる。僕自身もそうだった。けれども、何かやりたいことをやるための「自由」を確保する手段としてという以上に、予備校のような敢えて「せんせい」と呼ばれ得るような場所に身を置くことで獲得できるおのがプライドの癒され方について、彼らはかなり執着していた。だから、「食えない」というもの言いでひとくくりにごまかしながら、その「せんせい」と呼ばれることに対する違和感や居心地の悪さについての鈍感さをどんどん堆積させてゆく。そのからくりは僕には不愉快なものだった。

 いや、「せんせい」どころではない。後にその小さな予備校だけでなく、全国規模の大手予備校でも仕事をし始めた頃、ものすごいものを見た。小論文の採点現場で、そこは東大駒場科学史を専攻する大学院生連中が牛耳っているところだったのだが、彼らは互いのことを「○○教官」と呼びあっていた。しかも、実にうっとりと。それは教員同士が慣例的に「○○先生」と呼び合うのとまた違う、俺たちは大学の教師に当然なるような立場の人間なんだけど、たまたま今こういう仕事をしてるだけなんだよな、という、悲しくひねくれたプライドのさまがふありありとにじみ出しているもの言いだった。