「夏」の風景、「海」と「青春」

 「ああ、海に行きてぇなぁ」

 誰かがそうつぶやいた。赤坂は寿司詰めの六畳ひと間、何人もの若い衆が男女混成、仕事もないまま真夏の暑さの下、あぶられるような日々を下宿に送っていた。石井獏、内山惣十郎、小松三樹三、岩間百合子、沢モリノといった面々。その頃浅草のまわりにたむろしていたオペラ志望、いずれ劣らぬ芸術かぶれの若い衆。まぁ、今で言うところのアートバカだ。今から七〇年ばかり前、おぼろにかすむ文字の歴史の向こうに遠くたたずむ、暑さはしかし同じ夏だ。

 もちろん、海へ行くカネなどない。どうするか。えい、ダメでもともと、一座をでっちあげて鎌倉の劇場へ売り込んだら、何の間違いか買い手がついた。ありがてえ、好きな舞台をやりながら海水浴ができる。勇んだ彼らの演しものは題して「納涼音楽舞踊大会」。これが当たった。彼らのその後、浅草界隈で〈海水浴組〉と呼ばれたという。

 それからおよそ半世紀の後、同じように「海へ行きたい」とつぶやく若い衆たちがいた。

 こちらは阿佐ヶ谷の三畳ひと間。芸術家を夢見る六人の男所帯が「海」を夢見た。なけなしのカネを出し合い、即席ラーメンと缶詰を買い込み、知り合いからテントを借りて、行きつけの喫茶店からは餞別までせしめて、さて行く先は湘南江の島。浜辺で騒いでいるところを地元のチンピラにアヤつけられ、抵抗したものの身ぐるみはがされてしまい、結局、自家用車が走り始めた真新しい黒さの国道沿いにとぼとぼ歩いて帰ることになる始末。けれども、六〇年代末を生きていたこの彼らもまた、夏に「海」へ行くことを何か過剰な熱っぽさで夢見ていた。

 前者は今東光『十二階崩壊』に、後者は永島慎二黄色い涙』に、それぞれ描かれ、語られた「海」にまつわる風景である。

 別に特別な例じゃない。想像力の水準でイメージされ、描かれ、語られる「海」は、なぜかどこかよく似た風情になってくる。それは「若さ」とか「青春」と重ね合わされ、「恋」や「情熱」てな筋違いの断片とまで勝手の結びつき、果ては同じ夏という季節を縛る「夏休み」の印象さえ併走させながら、この国の人々の記憶の中、ある一定の風景を喚起する決まりごとの文法を織り上げていった。

 なにせ「海水浴」というくらいのもの。目的の第一は泳ぐことでも日焼けすることでもなく、文字通りの「浴」、つまり海水に浸って病気を直す、それこそ温泉場の湯治と似たり寄ったりのものとしてとらえられていた。ものの本によれば、明治初年にフランス人が江の島へ泳ぎに行き電気クラゲに刺されて大騒ぎになった、てな間抜けな話も残っているが、それを見たこの国の住人たち、毛唐は肉を食うから虫がわく、その虫を退治しに海に入るんだろう、とささやきあっていた由。水着で海に入る人々と、それこそフンドシ一丁、あるいはフリチンで泳ぐ連中とが隣合わせにいた時期は結構長かったはずだ。学校のカリキュラムに「水泳」が公然と組み込まれていった過程や水着の普及率、浜茶屋や海の家と呼ばれる施設の形成、「浜辺」に地回りの論理が導入されてゆく経緯、などなど、カーステレオから流れるチューブやサザンの音楽に末梢神経の「海」を増幅する今どきの若い衆の熱っぽさにまで連なるはずの、「海」にまつわる未だ明らかにされていない“歴史”は、民俗学者の眼からすればかように山積。ええい、ひとりじゃとても手が回らねぇ。今年もまた、ゆったりと海へ出かける休暇など夢のまた夢。古本と書きつけの海にはほとんどおぼれそうなのに。

 ああ、かくて記録的猛暑の夏はゆるゆると過ぎてゆく。